8.アイザックとユリウス
「はぁ、はぁ、……ぁ、はぁ」
変わらず息が荒い。
「ノエル!」
誰かが、ノエルを呼んでいる。
「酷い……。一体、何があったんだ。どうして、こんなに傷付いて……」
潤んで歪んだ視界に、蒼黒い髪が揺れるのが見えた。
「ユリ、ウス……?」
いつの間にか伸びた手が、目の前の襟を摑まえて、引き寄せた。
気が付いたら、唇を貪っていた。
疼きが収まらない。唇を吸うのを、止められない。
(ユリウス、ユリウス!)
何度も叫ぶのに、声にならない。
パン、と両頬を叩かれた。顔の周りで、光魔法の粒子が弾けた。
「しっかりしろ、ノエル! 俺はユリウス先生じゃない」
やっと、目の前の霧がはれて我に返った。
目の前にいたのは、アイザックだった。
(なんで、アイザックが、ここに……。私、今、何をした? アイザックに、何を)
体にはまだ、痺れと疼きが残っている。
右腕と首筋と胸は血塗れで、口の中は血の味がする。
目の前のアイザックの口元も、血で汚れている。
「違……、私、そうじゃ、なくて、違う、違うの。アイザック、ごめ……ごめん、なさ……」
泣いて取り乱すノエルの腕を、アイザックが掴む。
背中を優しく撫でてくれた。
「わかっている。大丈夫だ。ノエルは悪くない。大丈夫だから」
ゆっくりと背中を撫でられて、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。
疼きと痺れが収まっても、心臓が強く早く脈打つのは、収まらない。呼吸は促拍なままだ。
「酷い瘴気だ。こんなに大量の瘴気、一体、どうして……。ノエル、何があったか、話せるか?」
アイザックが顔を強張らせながら、ノエルの肩に手をあてる。
浄化魔法をかけてくれているらしい。
「魔族が、いて、血を、吸われて、瘴気、と魔力を流し、込まれて」
息が苦しくて、言葉が続かない。
目の前のアイザックが息を飲んだ。
「わかった」
懐から、魔性スズランを取り出す。
蜜に口を付けて、術式を吹き込んだ。
「何、してるの? それを、私に、使っちゃ、ダメだ。マリアが、起きなくなる」
「今、この場で使うべきはノエルだ。花は他にも摘んである」
「ダメ、なんだよ。摘んだ、花、一回しか、使えな……。アイザックは、マリア、に」
力の入らない手で、アイザックを押し戻す。
「ここにいたのが俺じゃなくてマリアでも、きっと君に同じ処置をする、だろ?」
魔性スズランを手にして、アイザックがノエルの顔を上向ける。
「ダメ、ヤダ、使わないで、お願いだから」
「嫌でも、今は聞き分けろ。普通の人間なら死んでもおかしくない瘴気の量なんだ」
アイザックが蜜を含み、ノエルの口に流し込んだ。
(これじゃ、何のために森に来たのか、わからない。まるで私が、マリアとアイザックの仲を邪魔しているみたいじゃないか)
顎を上向かされて、蜜を飲み込む。
冷たい水が体に沁み込んでいくような爽快感が喉から体中に広がる。
浮かれた熱が冷めて、温かな光に包まれるような安堵が胸に落ちた。
ようやく普通に呼吸ができる。心拍も正常に戻った。
しかし、瘴気のせいなのかカルマの魔力のせいなのか、体が重くて、うまく力が入らない。
「アイザック、ノエルは、見付かった?」
木の向こうから、聞き慣れた声がした。
「ユリウス先生。見付かりましたが、重症です」
後ろを振り返ったアイザックの声は、神妙だ。
ノエルの姿を捉えたユリウスの目が、歪んだ。
ユリウスがアイザックの肩に手を置いて、前に出る。
ローブを脱いでノエルを包むと、ボロボロのノエルを抱き上げた。
「ユリウス、ユリ、ウス」
謝りたいのに、言葉が出てこない。
名前を呼ぶのが精いっぱいで、涙だけはどんどん流れる。
ユリウスがノエルの頭を抱いて顔を寄せた。
「とにかく今は、帰ろう」
ノエルの親指を、そっとなぞったユリウスの顔は険しかった。
とんでもないことをしたのだと気が付いていても、ユリウスの腕に抱かれる安堵の方が勝る。
ノエルの意識は深く深く沈んでいった。




