57.教会のあるべき姿
謁見が済み、アイラがノアを案内したのは王城からは離れた場所だった。
王城の反対側に位置する魔国との国境付近、古代遺跡を改築して建てられたバルドル聖教会は、神の加護に守られた、ノアの古巣だ。
大司教の書斎は、今はアイラの執務室として利用されていた。元の自分の部屋は驚くほどそのままに残されていた。
執務室の扉を閉じたアイラが大きく息を吐いた。
「君の立ち回りのうまさに助けられたよ。さすが、ノアだ」
そういって安堵の笑みを浮かべたアイラは、ノアの知るいつものアイラだった。
「この場所なら、メロウ様の権威も届かない。腹を割って話ができる」
アイラがノアの前に立った。
「ここは君がいるべき場所だ。どうか教会に、私の補佐として戻ってきてほしい。本来の教会のあるべき姿を熟知している君にだからこそ、頼みたい」
ノアは口を噤んだ。
今のアイラが《《どちら側》》の人間か、測りかねたからだ。
メロウに向けた心酔の表情もノアに向かう気魄も、どちらも同じくらい本物に感じられた。
「アイラ様の真意を測りかねます。教会を牛耳り意のままに動かしたいのなら、私の手など今更、不要でしょう」
ノエルに対する縛りを受けているノアが教会に戻ったところで、行動パターンは決まっている。ノエルに逆らうことができない以上、メロウの味方にはなり得ない。
教会の本来の存在意義を知っているからこそ、そう考える。
「ノエルとの繋がりを持つ君だからこそ、願い出ている。私の意識はいずれメロウ様にのまれる。その時に、正気を保っていられる人間が必要だ」
アイラの顔が引き攣る。
「メロウ様はノアを取り込みたがっている。それは私には都合が良かった。どうかアイザックとウィリアムを、守ってやってほしい。私一人では、ジャンヌすら守れなかった」
アイラが強く拳を握る。握った拳は、小刻みに震えていた。
「ジャンヌ様は、メロウ様に食われましたか」
ノアの問いに、アイラが無言で頷いた。
「アイラ様にも血族の印が刻まれていますか?」
アイラが服を手繰り上げ、左の脇腹を晒した。
「この印はフォーサイス家に婿に入るより、ずっと前から私の腹にある。メイデンバルク家の庶流であるカナミック家の次男だった私に、メロウ様は目を付けた。私は初めから、メロウ様の操り人形なんだよ」
アイラが自嘲気味に話す。
メイデンバルク家の庶氏であるカナミック家の人間であれば、遠縁ながらメロウが血族の印を使えるのは頷ける。
「操り人形の貴方が何故今更、ジャンヌ様を、アイザックやウィリアムを助けたいとお思いで? 今まで通り従順なお人形を演じていれば、楽に生きられるでしょうに」
仔細は知らないが、ジャンヌとアイラの婚姻もメロウが仕向けたのだろう。メロウにとって都合がいい子孫を作るために。
アイラはずっと、メロウに従順な血族として生きてきたのだろう。アイラに向いたメロウの表情は、アイラの裏切りなど想定しているようには見えなかった。
「意地悪な物言いをするね、ノアらしいよ。人形にも心はあるんだ。ジャンヌも息子たちも私の愛する家族だ。守りたいと願うのは当然だろう。けれど、この印がある限り、いずれ私の心はメロウ様に侵食される。私は、私ではなくなる」
血族の印は、魔族が使う呪詛に似ている。
時を掛け少しずつ意識を侵食し、術者に傾倒するよう仕向ける。印を付けられた本人も気が付かない間に精神支配が完了する。
「アイラ様が今、正気を保っていられるのは何故です? それほど昔に印を刻まれたのなら、貴方はとっくにメロウ様に侵食されているはずだ。実際、お人形だったのでしょう? フォーサイス家に婿入りしたのも、メロウ様の御意志でしょう」
今この場で話しているアイラが、アイラの意志を保っているとは限らない。この話すらも、メロウが仕向けた罠かもしれない。ノアはそう考えていた。
「逆だよ。私はジャンヌを愛していた。だから、メロウ様の印を受け入れた。印を利用して、私はジャンヌに近づいたんだ。結婚してからは、ジャンヌが印の威力を制御してくれていた。しかし、ジャンヌが眠ってしまっては、私も、もう……。きっとこの状況は、私の愚かな行動の報いなんだろうね」
なるほど、とノアは納得した。
今のアイラの話し振りからして、ジャンヌはメロウに必死に抗っていたのだろう。生まれた時から血族の印が刻まれているジャンヌが、最後までメロウに抗い続けられたのは、膨大な魔力のお陰だろう。才覚と言っていい。
(ジャンヌ様とメロウ様は敵対関係か。今のアイラ様がメロウ様に操られていたとしても、教会に戻ることはメリットになるかもしれんな)
アイラの言葉を真正面から信じる気は、始めからない。だが、メロウがノアを欲し、教会に戻ることを切望しているのなら、この状況は使い勝手がよさそうだ。
(私に縛りを施したのは、ジャンヌ様だ。今なら、それが加護になる。ノエルはメロウ様の復活を、悪魔の支配を良しとはしないだろうからな)
そこまで考えて、違和感を持った。
ノエルの手記には、メロウの名前が一つも書かれていなかった。そもそも、ノエルが予見した未来に、メロウの存在は無かった。
(どういうことだ? さすがのノエルも悪魔の存在は掴めなかったということか?)
一体どこから仕入れているのかと思うほど情報に長けたノエルが、悪魔とメロウの存在だけを見落としている。
復活が予定外の出来事だったとしても、可能性を考慮に入れないのは不自然に思えた。
「教会がアイザックに『呪い』を埋め込んだのは、悪魔がアイザックの中に巣食っていると踏んだからだろう」
唐突に投げられたアイラの言葉に、ノアは思考を止めた。
アイラが本棚の前に立つ。一冊の本を手に取り、開いた。
「教会に来て、初めて悪魔の存在を知った。古来より王家に巣食う悪魔は、数百年毎に復活を繰り返し、フォーサイス家を自滅に追いやる。王家の滅亡は精霊国の滅亡に繋がる。魔族を敵視する教会が秘密裏に行ってきた、もう一つの国防が悪魔駆除だ」
アイラの言う通り、悪魔駆除は王家を、ひいては精霊国を護るための国防の一環だ。王家が滅び国が傾けば、精霊国は魔国に乗っ取られる。魔族の侵略を許す事態に陥る。
「メロウ様を目の当たりにして、この人こそが悪魔だと実感した。彼女は魔国を滅ぼし、精霊国が大陸を掌握することを望んでいる」
「つまり、戦争がしたのですね」
アイラが頷く。
「今の魔族なら、勝てる可能性はあるだろう。だが、竜人族を敵に回しては」
「万に一つも、勝ちはない」
アイラの言葉より早く、ノアは言い切った。
諍いを好まない竜人族だが、一度戦となれば人間如きでは太刀打ちできない強さを持っている。それを知っているからこそ、精霊国は庇護という名目で竜人族を傘下に収めているのだ。
更に現在、魔国の革命軍には、竜神ミツハを同朋としたノエルがいる。今、戦争を始めたら、創世の神が率いる竜人族と全面戦争をすることになる。
「竜人族との対立、それこそが悪魔の狙いだと、私は考えているんだ。王家とこの国を滅ぼすためのシナリオなんじゃないかと」
「シナリオ……」
アイラが何気なく使った言葉が、妙に引っかかった。
「悪魔は本当に、メロウ様に巣食ったのでしょうか」
それはノアにとり、拭いきれない疑問だった。
悪魔は本来、フォーサイスの血筋に宿る。メロウは外から嫁いだ娘だ。悪魔が宿る対象には成り得ないはずだ。
だからこそノアは、メロウを悪魔と断ずることができない。
しかし、目の当たりにした禍々しく不気味な魔力は、おおよそ人のものとも思えなかった。
「私もノアに聞きたい。何故、アイザックの中に悪魔が巣食っていると、教会が判断したのかを」
答えるには、躊躇した。
悪魔の判断基準は、教会の司教に代々口伝でのみ受け継がれる秘儀だからだ。前大司教のノアは、アイラにそれを伝えていない。王家に関わる人間に漏れる事態は避けねばならないからだ。
「アイラ様にお答えすることはできません。それは悪魔が最も知りたい情報であるはずですから。王族に関わる人間へ秘するのも、神官の義務です」
アイラが口を閉ざした。
何かを考えるように目を泳がせると、納得したように頷く。
「確かに、そうだ。王家の一員である私が司教に就いた事実こそが異端であると、今ならわかる」
「アイラ様の大司教着任は、メロウ様の指示ですか?」
ノアの問いにアイラは首を振った。
「いいや。神官に就きたいというアイザックの強い思いを受けて、私が談判した。ジャンヌの後押しもあり、あの時の教会は頷くしかなかったのだろう。よく受け入れられたものだと、今なら思うけれどね」
確かに、ノアも信じ難く思っていた。
教会は、言ってみれば王族の目付役だ。王族を受け入れては役割が瓦解する。だから、消える組織なのだと腹を括っていたし、消えるべき組織だと思っていた。
(悪魔の秘密も『呪い』も元大司教《私》が堅持すれば次世代に繋げられる。目付役は別の形で再興すればいい、と考えていたが。……アイザック)
アイザックに悪魔が巣食っていると教会が判断した根拠は、確かにある。だからこそ、その身に『呪い』を付与した。そうやって教会は、何百年も繰り返し、フォーサイス家の悪魔を駆除してきたのだ。大昔の優秀な闇魔術師により生み出された『呪い』は元来、悪魔を殺すための手段だった。
「魔族への畏怖を忘れないため」というのも確かに市井に向けた大義名分だ。だが、王族が『呪い』に罹る状況へのカモフラージュと用済みの闇魔術師を葬るための方便の側面も大きかった。
(マリアが『呪い』を浄化した時点でアイザックの中の悪魔も消滅したと考えていたが。そうではなかったのかもしれんな)
『アイザックは王家に対して教会が取った人質』
悪魔の存在を口外できないが故に、苦肉の策ででっち上げたリヨンの方便だった。ノアはそれを利用して、国防を国に訴えた。少なくともあの時は、方便だと思っていた。
(リヨン。まさかリヨンは、アイザックの中に悪魔がいない状況に気が付いていたのか?)
リヨンが死んだあと、彼が使っていた部屋はそのままになっている。『呪い』を引き継いだノアが手を付けないまま封じたのだから、間違いない。
ノアの中に一つの可能性が浮かんだ。
(血族の印を利用してアイザックからメロウに悪魔が移動していたら? マリアに浄化される前に既に悪魔はメロウに巣食っていたとも考えられるが……)
どうにも、腑に落ちない。
大きな何かを見落としているような、そもそも何かを間違っているような、気持ちが悪いズレを感じる。
(まだアイザックの中に悪魔がいて、あえて洗礼を受けた。と考えるのが一番しっくりくるが)
悪魔を内包した人間が洗礼を受けて平気でいられるはずがない。
(どちらにせよ、確かめねばならんな。アイザックも、メロウ様も)
それができるのは、この精霊国にはノアしかいない。前代の司教は既に他界していて、術を引き継いでいる人間はノアだけだ。
「悪魔を殺すための手段が、呪いなのだろう? メロウ様に呪いを埋め込むことは、出来ないのか」
アイラが意を決したように、前のめりになった。
「今のメロウ様に呪いを埋め込むのは、難しいでしょう。それこそ、アイラ様が隙を付いて攻撃する以外に無いと考えますが、貴方には出来ないでしょう」
ノアの視線に、アイラは目を背けた。
「お望み通り、私が教会に戻りましょう。アイラ様の補佐として、以前と同じだけの権限を私に戻していただけるのなら、お引き受けいたします」
アイラが顔を上げた。
「勿論だ。私に次ぐ司教として戻れるよう、手配する。私の力になってくれ」
ノアの手を取り、アイラが表情を明るくする。
「もし私が、ジャンヌや子供たちに仇名す存在に成り下がったらその時は、一番に私を殺してくれないか」
ノアを真っ直ぐに見据えた目は、本気に見えた。
「それは、出来かねます。ノエルが望まないでしょうから。私はノエルの命に従う縛りを受けたままですからね」
きっとノエルなら、そういう判断をする。誰一人殺さずに、事態を収めることを望むだろう。それはあくまでもノエルの意志であり、ノアの希望ではない。
「以前の君とは随分と、印象が違った言葉だね。ノエルの意志、ということにしておくよ」
安堵して笑う顔は、やはりいつものアイラの顔だった。
(一刻も早く、ノエルに報せなければ。精霊国で起きているこの事態を、メロウと悪魔の存在を。アイザックの事実を)
ノアの中に、言い知れぬ不安と危機感が生まれていた。




