54.精霊国に蔓延る亡霊
今は落ち着いて眠っているイズンを、レイリーはベッドサイドで看病していた。
イズンの傷は思っていた以上に深かった。それでも一命を取り留めてくれたのは、高揚術でレイリーの治癒魔法とカルマの回復魔法を底上げできたからだと思う。
ウィリアムがいてくれたら、きっともっと早く治すことができただろう。
(リアムは、メロウ様に攫われた? どうして、今更)
偉大なる大御婆様ことメロウ=メイソン=フォーサイスは先代のフレイヤの剣の継承者でウィリアム達の曾祖母だ。
血縁の曾孫を攫う理由が、わからない。
(魔国にあるユグドラシルの大樹に関わっているのが気に入らなかったのかな)
ここに出向く前、ウィリアムは確かに躊躇していた。それは王族である自身の身の上からだ。メロウへの気遣いももちろん、含まれていただろう。
「亡霊の暴走、世界を滅ぼす」
イズンは確かに、そう話した。
(もしかして、ノエルが恐れていた事態って、このことなのだろうか)
何かを護るために必死に頑張っていたノエルは、ユミルとカルマの保護を提案した。魔国の王が息子たちを護るために守護者や革命軍に下した命と同じ行動をとっている。
「レイリー、交代するから、少し休め」
カルマが温かいミルクティーをレイリーに差し出した。顔色はお世辞にも良いとは言えない。
ウィリアムと一緒に攫われたノルンを心配しているのだろうが、リンリーが殺されたと聞いてから、明らかに表情が変わっていた。
「ありがとう。私は大丈夫だから、カルマこそ、もう少し休んだ方がいい」
カップを受け取ると、カルマがレイリーの隣に椅子を持ってきて座った。
「イズンおばさんはさ、母上が生きていた頃からここで魔法の実を作ってて、俺ら兄妹はよく遊びに来ていたんだよ。ガキの頃からすげー可愛がってもらってた」
カルマの声に抑揚がない。沈んだ静かな語りに、レイリーは耳を寄せた。
「母上が死んですぐ、父上が病に倒れた。前の妻、ユミルの母上と同じ病でさ。それからはユミルが国王の代理を務めためど、父上の重臣は革命軍に行っちまうし、瘴気は大量発生するしで、貴族からは不満が上がるし、平民は死んでくし、国力は著しく下がった」
窓の外で、ユグドラシルの大樹の葉が静かに揺れる。
風のない空間で葉が揺れる音は、まるで泣いているように聞こえる。
「そのうちに文句言ってた貴族もどんどん没落して、王都はゴーストタウンになった。今の魔国に真面な都市なんて、ほとんどない。だから、ノルンをここに預けて、俺は外でユミルを支えるって決めて、王城を出たんだ」
カルマの昔語りを聞くのは初めてだ。
まして身の上話など、カルマが話すなんて、思いもしなかった。
「全部、母上が死んでから変わっちまった。それまでの魔国は豊かで平和な国だった。あの頃のままだったら、俺はきっとこんな風には、ならなかっただろうなァ。人間の寿命は短いから仕方ねェ。ずっと、そう思ってた」
カルマが、膝に乗せた拳を握り締める。
「寿命だと思ってたんだよ。仕方ねェって。けど、殺されたなんて。なんで母上が。誰に殺されなきゃならなかったんだよ。精霊国を追い出されるようにして魔国に来た人間を、こんな場所まで追いかけて殺しやがったのは、どこのどいつだ」
拳の上に、透明な雫がポタポタと落ちる。
レイリーは立ち上がり、カルマの顔を抱き締めた。
「そんな奴がいるんなら、俺が殺してやりてェ」
絞り出した声は掠れて、涙がレイリーの服に沁みる。
同じくらい、カルマの気持ちが沁み込んだ。
レイリーに縋り付いて声を殺して泣くカルマを、抱き締めることしかできない。
(私が考えていたよりずっとずっと、カルマは辛い生き方をしてきたんだな)
魔国の現状やカルマの素振を見れば、楽な人生を生きてきたとは思わない。それでも、予想を遥かに上回る辛酸を舐めてきたのだろう。
「それでも私は、カルマの中に優しさがあるのを知っているよ。それが母親譲りなんだと、今は思うよ」
ノルンもカルマと同じように優しい子だ。彼女を見ていればリンリーがどんな母親だったのか、よくわかる。母親は違ってもユミルだって、カルマに似た空気を纏っている。
「……メロウ=メイソン=メイデンバルク。リンリー様を殺して魔国を壊したのは、今も精霊国で生き続ける亡霊よ」
眠っていたイズンがいつの間にか目を開けていた。
「事実など伝えずに護り切れたら、それが良かった。誰のことも恨まずに生きてほしかった。リンリー様もきっと、そうお考えになるはずだわ。けど、このままでは、総て失ってしまう。そうなってからでは、遅いの」
イズンがレイリーに弱い視線を向ける。
「貴女はきっとカルマの味方なのね、人間のお嬢さん。私が今からカルマに話すこと、許してね」
カルマから離れ、レイリーは椅子に腰かける。
隣にいるカルマの手を握った。
「フレイヤの剣の継承権を放棄させられたリンリー様は、居場所を追われるように魔国に嫁がれた。それでもリンリー様は魔国で幸せに暮らしていらした。ヘル国王に愛され、臣下にも国民にも愛された、本物の国母だったわ」
イズンの目が昔を懐かしむように細まる。
しかし、その目はすぐに、色を落とした。
「でもそれが、気に入らなかったのでしょうね。ノルンには、会ったでしょう?」
イズンがレイリーに目を向ける。
レイリーは頷いた。
「ノルンはリンリー様に瓜二つよ。あの子が笑うだけで、その場に花が咲いたように明るくなる。亡霊の魔手はノルンに伸びた」
カルマの顔が引き攣った。
「ノルンが、メロウに狙われてたってのか? だからさっきも、連れ去られて」
イズンがゆっくり首を振った。
「さっきの誘拐は、きっと関係がない。亡霊はノルンが既に死んでいると思っているはずよ。リンリー様と共に、フーガの神殿で葬ったと思っているはずだわ」
「葬ったって……」
カルマの顔から表情が抜け落ちている。
イズンがカルマに手を伸ばした。
「しっかり聞きなさい、カルマ。事実を受け止めて、それでも感情を暴走させてはいけない。貴方は王族なのよ。魔国の第二皇子として行動しなければいけないの」
カルマが顔を上げ、不安げな表情で俯いた。
レイリーは握る手に力を込めた。
「フーガの神殿は創世の神の一人、フレイが竜神ミツハを奪われた後、悲しみに暮れて過ごしたとされる古代遺跡よ。フレイが瘴気を生み出した最初の場所ともいわれる。リンリー様はあの場所で瘴気に中って亡くなったの」
「瘴気に中って? 大量の瘴気を浴びたって、ことですか?」
イズンが頷いた。
リンリーほどの光魔術師が中毒死する瘴気の量は、中途半端な量ではないはずだ。全身に怖気が走る。
「あの場所を護る竜は瘴気を吐き出して敵を追い払う。侵入者を追いやるために竜が吐いた瘴気を全身に浴びたリンリー様は、ほどなくして亡くなった。その場所にノルンを連れたメロウがいたのよ」
カルマの手に力が入ったのがわかって、咄嗟に強く握り返した。この手を今は絶対に離してはいけないと、強く思った。
「リンリー様は、自分はノルンを迎えに行っただけで、これは事故だと仰った。けれど、助けに行った私とブラギの前で、メロウはこう呟いた。忌々しい女がやっといなくなる、と」
イズンの表情が険しくなった。怒りが溢れ出している。
「リンリー様が仰る通り、本当に事故だったかもしれない。けれど、あの時のあの光景、メロウの剣がリンリー様の腹を貫いていた。そこから流れ込んだ瘴気が致命傷になった。あれを事故だというの?」
イズンが奥歯を噛む。悔しい気持ちは痛いほど伝わってくる。
「それでも、リンリー様が事故だと仰るなら、我々は従う。精霊国と対峙してはいけないと仰るなら、ヘル国王にも口を閉ざす。御言付通り、寿命で亡くなったのだと流布した。それがカルマとノルンを護る手段だと、リンリー様が仰ったから」
カルマが俯いたまま動かない。
「神殿で同じように瘴気を浴びたノルンは、一命を取り留めた。けど、あの場所に自分がいたことを、何一つ覚えていなかった。余程に恐ろしかったのね。メロウの追跡を避けるために王城からノルンを連れ出し、ここに保護したのよ」
気持ちを落ち着けたイズンが静かに話す。
「なんでメロウは、そこまでリンリーが憎い? どうしてノルンを狙う?」
カルマが消え入りそうな声で問う。
「わからない。ただ、私にはリンリー様の総てが気に入らないのだと感じたわ。リンリー様が得たもの総てを奪いたいのだと、そんな風に見えた」
「そんな、理由で?」
カルマが、ぽそりと零した。
「そんな理由で母上は殺されたのか? そんな理由で、俺たちは、いまだに狙われるのか? そんな理由で、俺たち家族は、魔国はこんなになっちまったのかよ!」
カルマが自分の膝を何度も殴る。溢れ出す怒りを吐き出しているようだ。
その手を止めることは、レイリーにはできなかった。
同じように拳を握り締めて、歯を食いしばっていたからだ。
「メロウは、いまだに生きている。リンリー様はもういないのに、何がしたいのかは、わからない。けれど、動き出している。だから、あの子を救うのよ」
イズンがレイリーを見上げた。
「メロウが生きていられるのは、魔族や人間から魔力を吸い上げているから。血族の印を使えば、更に大きな力を得られる」
他者から魔力を吸い上げるなんて話は、聞いたことがない。
ノエルとユリウスが魔力を分け合えるのだって、かなり稀有な事例なのだ。一方的な搾取など、論外だ。
(そんなのまるで、魔族の吸血みたいじゃないか)
おおよそ人間のすることじゃない。
レイリーは、はっとした。
「血族の印て、さっきリアムの腹で光っていた……」
ケムトと呼ばれた竜人がウィリアムの腹の印を確認していた。
「フォーサイス家の、メロウの子孫たちは全員、あの印を押されている。現国王のジャンヌはメロウに魔力を吸われているから、姿が幼いの」
血の気が下がった。
ジャンヌの姿が幼女化しているのは、結界の維持に魔力を割いているからだと思っていた。ノエルもそう認識していたはずだ。
(そういえば、ノエルの口からメロウ様の話を聞いたことが、一度もない)
情報に長けたノエルがメロウについて調べていないはずがない。微かな違和感がレイリーの中に生まれた。
「今度はウィルの魔力を吸うために、連れ戻したってことなのか?」
怒気を孕んだカルマの声が響く。
イズンは、顔を曇らせた。
「わからないわ。ただ、ずっと眠り続けていたメロウが起き上がるだけの魔力を得た理由なら、知っている。ジャンヌの魔力を吸い尽くしたからよ」
「まさか、ジャンヌ様は、死……」
レイリーの焦燥を、イズンは即座に否定した。
「死んではいないわ。メロウの代わりに、眠っているだけ。眠り続けながら、死ぬまでメロウに魔力を送り続けるのよ」
怖気が走る話だ。
「だったら、リアムが連れ戻された理由は」
「次代国王の擁立、新しい操り人形を作りてェんだろ。アイザックも同じ目に遭っているかもしれねェな。何を始めるつもりか知らねェが、俺たちにとって碌でもねェことには違いねぇだろうな」
俯いたカルマの目が、ほの暗さを纏っている。
(操り人形、か。あのジャンヌ様がメロウ様の操り人形だったのだろうか。けど、有り得ない話じゃない気がする)
ウィリアムの婚約者として、レイリーは何度かメロウに謁見している。そのうち、起きている姿を一度だけ見たことがあった。
何とも言えない気味の悪さと圧迫感は、思い出すだけで寒気がする。あの時、一緒に謁見の間に入ったジャンヌは、今思えば怯えているようにも見えた。
「イズンおばさんの帰りが遅かった理由がわかったよ。精霊国まで足を延ばしていたんだな。ブラギおじさんは父上の所か?」
イズンが頷く。
「何かが動く予兆を、国王陛下は感じ取っていたわ。二人同時にいなくなるから、ノルンが心配だったのだけれど」
イズンが睫毛を伏した。
心配は的中してしまったのだから、当然だ。
「市に行っていたわけでは、なかったんですね」
さすがにレイリーにも理解できた。
イズンとブラギの裏の顔は国王直下の間諜だ。
ノルンは恐らく、その事実を知らない。
「行商人は間諜にとって、とても都合が良い生業なのよ」
イズンが微笑んだ。
その表情を見て、カルマが立ち上がった。
「革命軍に合流して、話をしてくる。ウィルとノルンを助け出すにしても、一人じゃどうにもできねェ。一緒に来てくれるか、レイリー」
カルマがレイリーを真っ直ぐに見詰める。
その目は、はっきりとした意志がある。怒りや悲しみに飲まれた瞳ではなかった。
「当然だよ。むしろ私の方こそ、カルマにお願いしたいくらいだ」
微笑むカルマの顔は、まだぎこちない。
今のカルマを一人にすることは、出来ないと思った。
「貴女、レイリーって名前なのね」
イズンを振り返る。
レイリーを見上げて、穏やかに笑んでいる。
「リンリー様に似た、素敵な名前ね。凛とした表情も、ちょっと似ているわ。カルマが好きになる訳ね」
「別に、そーいうんじゃねェよ」
照れた顔でそっぽを向くカルマが、なんだか可愛い。
イズンが、くすくすと小さく笑った。
「カルマとノルンをどうか、よろしくね。私にとっては自分の子供同然の二人なの」
イズンの手がレイリーに伸びる。
その手を握って、ベッドサイドに膝を付いた。
「カルマの傍には、必ず私がいます。ノルンも必ず救い出します。だから、安心して療養してください。傷は治療しましたが、まだ無理は禁物です」
イズンは頷き、カルマに目を向ける。
「ケムトのことも、お願いね。あの子も連れ戻してあげて」
「わかってる」
頷いたカルマの表情が、悔しそうに曇っていた。
ユグドラシルの葉が、ざわめく。
きっと大樹も、精霊国側で起こっているであろう変化に気が付いているのだろう。
再生が十分でない大樹に心を残しながらも、レイリーは革命軍でノエルが生きていてくれることを切に願った。




