53.竜人の人攫い
泉の浄化が完全に済んでから、一週間が経過した。
ウルに手伝ってもらいながら水質を調査し、土壌の調査も行っていた。それにはレイリーの土属性の魔術が大いに役立った。
「やっぱり土壌の瘴気は、ほとんど増えていないな」
『そうだね~。大気中に瘴気が増えてるんだろうね。どこかに発生源があるんじゃないの?』
レイリーはユグドラシルの大樹を見上げた。
泉の浄化後、すぐに大樹の再生に取り掛かっている。枯れた葉は落ち、緑の新芽が芽吹き始めている。再生は順調といっていい。
「この大きさの樹だ。時間がかかるのは仕方ないんだが」
今はウィリアムの防御結界で大樹を覆っているから、再生も進んでいる。だがもし、結界を解いたら。
「大気中の瘴気を吸い込んで、また枯れてしまうんだろうな」
この樹が気の循環を司っているのは、再生の過程でわかった。
魔国全土の不浄の気を取り込み、浄化して葉から排出する。防御結界の中の空気が明らかに変わったのは、大樹が本来の生気を取り戻したお陰なんだろう。
「魔国と精霊国を隔てる結界がなければ、この大陸全土を浄化する樹なのだろうな」
人間が結界を張る前は、きっとそういう役割を担っていたのだろう。だからこそ、ユグドラシルの大樹は大陸の中心にある。
『大帝国ユグドラシル』という太古の国名は、この樹にちなんでいるのは間違いない。それくらい大昔から、この国を支えてきた樹であり、象徴だったのだ。
木肌に触れて、耳をあてる。
樹が吸い上げた水が脈を打つように流れているのを感じた。
(大昔から瘴気をコントロールしてきたのは、ユグドラシルの大樹だったんだ。今は、それが間に合わないくらいの瘴気が魔国に溢れている)
手から樹に魔力を送り込む。
「もう少し、もう少しで葉が青々と茂る樹に戻るよ」
神話の大樹は一年中、葉を青く茂らせる豊かな緑だ。その姿を一日でも早く取り戻したいと願いながら、レイリーは魔力を流し込んだ。
「レイリー!」
ノルンがバスケットを持って小走りに近寄ってきた。
「サンドウィッチを作ったのよ。今日は外でランチにしましょう」
敷物と飲み物を持ったウィリアムが後ろから付いてくる。
「ノルン、走ると危ないよ。転んだら、せっかく作ったサンドウィッチが台無しだ」
「私、そんなに鈍くないわ。サンドウィッチより私の心配をして」
べぇっと舌を出して起こるノルンを、ウィリアムがくすくすと小さく笑って眺める。まるでノルンの色んな表情を見たくて、わざとやっているような確信犯的な顔だ。
(あれでもリアムは、気が付いていないんだろうな。自分がノルンに好意を持っているってことに)
ノエルの時もそうだったが、レイリー以外に向かう自分の感情に、ウィリアムは頗る鈍い。
レイリーに関しては『幼い頃から決まっている婚約者』という他者から与えられた建前があった。だからレイリーに好意を持ったのもあったろうし、感情を自覚しやすかったのだろう。
自発的な感情に鈍いところは、正直ユミルを馬鹿にできないレベルだと思う。
(私も他人のことを言えた立場じゃないけど。似た者同士、だったのかな)
いわゆる共依存のような関係だったのかもしれないと思う。けれど、これまでのウィリアムへの想いをそんな言葉で片付けるのも嫌だった。
(ともあれ、二人は少しずつ距離を縮めているようだし、ちょっと安心かな)
ウィリアムとノルンの表情を見て、安堵した。同時に苦い笑いが込み上げる。
まさかウィリアムの恋の行方を案じる日が来ようとは。少し前の自分なら想像もできなかっただろう。
婚約破棄を告げられてから、思った以上に落ち着いている自分の気持ちも、何だか不思議だった。
「ほら、さっさと準備するぞ。腹減った。部屋の中で食っても一緒だろうに」
「だって、こんなに泉が綺麗になって、大樹が生き返ったのよ。まるで違う場所の景色みたいだもの。ピクニックした気分になれるわ」
敷物をばさり、と広げて、カルマが手際よく準備を始める。
面倒そうにしながらも妹の小さな願いを叶えてあげるお兄ちゃんは、やっぱり優しい。
(間違いなくカルマが傍にいてくれるからだと思うけど、なんて現金な女なのだろうな、私は)
カルマに会ってから、自分の知らなかった一面が次々と剥がされていく。こそばゆいような清々しいような、妙な心持だった。
「やっぱり美味しい!」
満面の笑みでノルンがサンドウィッチを頬張る。
ウィリアムが飲み物を差し出した。
「のどに詰まらせる前に飲むんだよ」
グラスを受け取ったノルンが、不満そうな顔をした。
「ウィルは私のこと、子供扱いし過ぎだと思うわ。こう見えてもそれなりに大人なのよ」
「うん、知ってるよ。きっと俺より年上なんだろ?」
楽しそうに問うウィリアムに、ノルンが考え込んだ。
「どうなのかしら? 生きている時間は長いと思うけど。年齢って考えたことなかったわ」
ノルンがカルマに視線を送る。
頬張りかけたサンドウィッチを置いて、カルマが首を傾げた。
「どうだろうな。同じくらいじゃねェの。てか、お前ら急に仲良くなりすぎだろ。俺はヘタレ皇子に可愛い妹やる気はねェぞ」
カルマのじっとりした視線がウィリアムに向かう。
「俺も世話焼きの狂人に元婚約者を易々と渡す気は無い」
硬く表情を変えたウィリアムがカルマと睨み合う。
「このサンドウィッチ美味しいな。ノルンは料理が上手だね。得意料理は?」
レイリーが二人を無視した形でノルンに話しかけた。
「サンドウィッチは挟むだけだし誰でも美味しく作れるわ。普段よく作るのはリゾットやパスタかしら。仕入れた材料を見て決めるの。レイリーは? お料理する?」
「私は、普段はあまり……」
料理をするような人生を送ってこなかったことに、今更気が付く。
「別にいいんじゃねェの。俺が作れるし、飢えるこたねェよ」
さりげなく話題に入ってきたカルマが、さりげなくフォローしてくれた。
「お前……、そのギャップでレイリーを落としたのか? 何にも出来なそうな見た目しているのにな」
「お前は見た目通り、何もできねェんだろうな」
ウィリアムとカルマがまた睨み合う。
「二人は本当に仲良しねぇ」
その光景を楽しそうに眺めるノルンを二人が同時に振り返る。信じられないと書いてある顔だ。
あまりに息がぴったりで、レイリーも吹き出した。
ざわり、と大樹の葉が鳴った。
途端に空気が張り詰める。
カルマが家の向こう側に視線を送る。
咄嗟にレイリーは、その方向に向かって結界壁を展開した。
瞬間、飛んできた攻撃魔法が結界壁を破壊する。
「物陰に隠れろ!」
ウィリアムがノルンを抱えて家の陰に入る。
カルマとレイリーはすぐ後ろの樹に身を隠した。
「何が起きたの?」
不安そうなノルンに向かい、ウィリアムが人差し指を口元に添える。ノルンが慌てて口を手で覆った。
「あの攻撃魔法、魔族か」
カルマの呟きに、レイリーの身に緊張が走った。
魔族の奇襲攻撃は、最近受けたばかりだ。
「まさか、また革命軍が?」
「わからねェが」
声を顰めて問うレイリーに応えたカルマの声は、言葉とは裏腹な響きをして聞こえた。
次の瞬間、風が渦を巻いた。
黒い塊が頭上を飛んでいる。
懸命に目を開く。背中の羽で飛び上がった人が、探るような目でレイリーたちを見ていた。
「ユリウス、先生?」
似ている、けど、違う。
ユリウスよりずっと幼い容貌をした少年とも青年ともとれない男だ。
後ろから飛んできた攻撃魔法を片手で弾いた。
弾かれた魔法が大樹に当たり、木肌が焼け焦げる。
「やめろ、大樹に傷を付けるな!」
飛び出しそうになるレイリーをカルマが引き留めた。
「早く逃げなさい!」
攻撃魔法が飛んできた方向から、今度は知らない声が響いた。
「イズンおばさん!」
声に気が付いたノルンが身を乗り出す。
羽の青年の目が、ノルンに向いた。瞬間、目の前に降り立つ。
「あなた、ケムト……?」
「お前、ノエルじゃない。ノルンだ」
ケムトと呼ばれた青年がノルンの口を塞ぎ、ウィリアムに目を向けた。
「お前が、ウィリアム?」
ノルンを後ろに庇ったウィリアムを、じっと覗き込む。
ケムトが首に掛けたペンダントを握りながら、ウィリアムの左の脇腹に手を伸ばす。腹に赤黒い印が浮かんだのが、衣服越しに見えた。
「なっにを……」
「やっぱり、お前だ」
腹を押さえて上体を崩したウィリアムの襟首を、ケムトが掴み上げた。
「やめて、やめて、ケムト。この人は」
「ノルン、こないで」
ウィリアムに縋り付くノルンを振り払おうとする。
ケムトに向かい、カルマが攻撃魔法を放った。それをさらりと躱す。
後ろから追いついたイズンと思しき女性の攻撃もケムトは難なく避ける。
「随分前にいなくなったと思ったら、今更何しに来やがった」
カルマの言葉にもケムトは表情を変えない。
「ノエルとウィリアムを連れて来いって、命令されたから」
「命令? 一体、誰に? お前は今、どこにいるんだよ」
カルマの問いに、ケムトは黙り込んだ。
俯いたケムトの胸に下がっているペンダントにはフォーサイス家の家紋があった。
「とにかく、ウィルを離せ」
伸びたカルマの腕を避ける。
その拍子に翻ったペンダントの裏には、メイデンバルク家の家紋が見えた。
(フォーサイス家とメイデンバルク家の家紋。まさか、偉大なる大御婆様)
「メロウ様?」
レイリーの呟きにケムトが逼迫した表情になった。
「お前、余計な事、言わないで」
ケムトの手がレイリーに伸びる。
カルマが前に出た瞬間、周囲が光に包まれた。
目を開けていられないほど眩しい光に、視界が真っ白になる。
「レイリー、レイリー!」
カルマに名を呼ばれて、レイリーは目を開いた。
周囲を見回す。ウィリアムとノルンの姿がない。
目の前にイズンが傷だらけで倒れていた。
「早く、治療しないと」
駆け寄って、治癒魔法をかける。
気を失っていたイズンが、うっすらと目を開けた。
「わかりますか? 今、治療していますから、気を確かに」
「イズンおばさん、俺がわかるか? 何があったんだ?」
レイリーの脇からカルマがいイズンを覗き込む。
イズンがカルマに向かい、手を伸ばした。
「カルマ、革命軍に合流しなさい。手遅れになる前に、あの子を取り戻すの。目を覚ました亡霊が、今度こそ世界を滅ぼしてしまう前に」
「亡霊? あの子って、ウィルのことか? ノルンのことか? どうして革命軍に」
混乱するカルマの手をイズンが力なく握る。
「我々守護者も革命軍も、国王陛下から受けた命は同じなの。貴方たちを護るために革命軍は貴方たちの命を狙い、我々は守護した。リンリー様が殺された時から、いいえ、もっと前から始まっている、亡霊の暴走が」
「母上が、殺された? 亡霊の暴走って何だよ」
カルマの顔がどんどん青くなる。
「カルマ、これ以上は無理させられない」
イズンの腹の傷が深い。
話を続けるのは、命に係わる。
必死に治癒魔法をかけるレイリーの額にも汗が滲み始めていた。
息を飲んだカルマが回復魔法でイズンの他の傷を治し始めた。
「レイリーは腹の傷だけに集中してくれ。他は俺がどうにかする」
「わかった」
意識が虚ろになっていくイズンに向かい、二人は無言で治療を続けた。




