51.心の陰り
昔から御伽噺が大好きで、物語を読むのはノルンの日課だった。大好きだった母が毎晩、色々な物語を読み聞かせてくれていた影響だと思う。
特に恋の物語はノルンの胸を昂らせた。
白馬に乗った王子様が不遇な環境に生きる姫を救い上げる話に胸をときめかせた。
精霊国神話を読んだ時、創世の物語には悲しくなった。皆が幸せになれる方法はなかったのかと一生懸命考えて、母に泣き付いた。
母が死んで、魔国の様相も家族の在り方も何もかも変わってしまった今でも明るく生きていられるのは、優しいイズンとブラギの愛と、多くの物語のお陰だ。
いつか白馬に乗った王子様が自分を迎えに来てくれる、かもしれない。
そんな子供じみた微かな願いを、いまだに胸の奥に仕舞って生きていた。
だから、木から落ちた時、受け止めてくれたウィリアムを見て、確信した。
『王子様が迎えに来てくれたんだ』
ウィリアムはノルンが思い描いた王子様そのものだったから。
カルマに、ウィリアムの婚約者がレイリーだと聞いて、微かだった希望は瞬時に消え失せた。
美人で優しくて頭が良くて勇気がある素敵な女性。ノルンでは足元にも及ばない。
自分の中に芽生えた恋心を無かったことにして見ない振りをした。
今までの暮らしを考えれば、出会ったばかりの王子様を忘れるくらい、なんてことはない。今まで、ノルンが願う通りの日常なんか訪れたことはない。
母が死んだあの日に、総ては変わってしまったのだから。
なのにどうして、ウィリアムはレイリーとの婚約を破棄してしまったんだろう。ノルンの目から見ても、お似合いの二人なのに。
自分の『占い』のせいだろうか。
ノルンは占術者だが、『占い』の内容を知ることができない。それは被術者しか知り得ない内容で、知ってはいけない内容だ。
(ユミル兄様には、安易に『占い』をしてはいけないと注意されていたのに。でも、カルマ兄様はウィリアム様を占ってやれって)
事情はよく分からないが、ウィリアムとカルマの会話から、カルマがレイリーを想っていることは察しがついた。
(だから、カルマ兄様は私に『占い』をさせたの? でもまさか、兄様だってウィリアム様がレイリーとの婚約を破棄するなんて、思わなかったはずだわ)
カルマへの不信感と怒りが湧き上がる。同じくらいの安堵と期待が胸中に広がる自分が、嫌でたまらない。
(ウィリアム様とレイリーが別れて嬉しいと思ってる。私は最低だわ。カルマ兄様はどうするつもりなんだろう)
窓から、三人の姿をこっそり窺う。
ウィリアムの増強術が開花して以来、三人は泉の浄化に取り掛かっていた。泉に手を浸し、浄化術と高揚術を同時に展開するレイリーの肩にウィリアムとカルマが手を添える。レイリーの魔術が倍以上に膨れ上がる。
泉の水は少しずつ清められ、元の透明さを取り戻しつつあった。
二人に挟まれるレイリーの姿は祈りを捧げる女神そのものだと思った。
「きっとレイリーは、選ばれた特別な人なんだわ。私とは、違う」
憧憬と嫉妬がレイリーに向いていくのが、怖かった。レイリーとはもっと仲良くなりたいのに、嫌な感情ばかりが渦巻いて、どんどん嫌いな自分になっていく。
(同じ場所にいるのに、私は三人の役には立てないもの)
疎外感はノルンの心を余計に曇らせた。
「早くイズンおばさんたちが、帰ってきたらいいのにな」
イズンとブラギが帰ってくれば、ノルンのいつもの日常が戻ってくる。
今回の市は王都ではなく地方都市だと聞いている。いつも一週間程度かかるから、そろそろ帰ってくる頃だ。
「ノルン、飯の支度するぞ。腹減った」
いつの間にか、カルマが戻ってきた。
「お役目は、いいの? ご飯なら、私が作っておくわ」
どうせそれくらいしか役に立てないのだ。
誰でも出来ることは、ノルンがやればいい。
「連続して術を使うと、さすがに疲れる。長丁場になりそうだし、レイリーも休ませてやらねェとな」
窓から外を眺めるカルマの視線を追う。
レイリーとウィリアムが話しながら笑い合っている。
「カルマ兄様は、二人があんな風にお話しているのを見ていても、平気なの?」
ぼそりと出てしまった言葉に、自分でも驚いた。
胸に仕舞い込んだ、どろどろの感情が零れてしまったようだった。
「あの二人はもう、大丈夫だろ。むしろ今の方が、お互いにスッキリした顔しているぜ。きっと、窮屈な人生を共に生きてきた戦友だったんだろうな」
カルマの目には、羨望が浮いて見えた。
二人が歩んできた時間は、カルマには知り得ないはずなのに。それを羨んでも、ノルンのように嫉妬したりはしないのだ。
「カルマ兄様は、ウィリアム様とレイリーに別れてほしかったの? そうしたら、レイリーは兄様のものになるから? だから私に、『占い』をさせたの?」
「ノルン?」
カルマがノルンを振り返る。
自分でもわかっている。これは只の八つ当たりだ。
どうして、こんな言葉を口走ってしまうのか、自分でもわからない。でも、止められない。
「レイリーみたいに完璧な淑女様が、選ばれた特別な人が、ウィリアム様みたいな王子様にはお似合いなんだわ。二人を別れさせるような真似、しちゃいけなかったのよ」
涙がぽろぽろ零れてくる。
カルマがノルンの涙を拭った。
「レイリーは完璧でもねェし選ばれた人間でもねェよ。婚約の解消は、二人が決めて受け入れたことだ。俺らが口出しする話じゃねェ」
「どうして兄様に、そんなことが、わかるのよ」
きっかけを作ってしまった事実は、変わらない。
二人に変化を与える一因は、確実にノルンにあった。
「どうしたんだ、ノルン。何かあったのか?」
家の中に戻ってきたウィリアムが、慌ててノルンに駆け寄る。
ノルンは咄嗟に身を引いた。
「ごめんなさい、私。少し気分が優れないから、お部屋で休んでいるわ」
顔を見せないようにして、ノルンは二階への階段を駆け上がった。
こんな汚い心のままで、ウィリアムと話をしたくはなかった。




