48.精霊占術師 ノルン=ハリー=ヘルヘイム
二階の角の狭い個室に案内された。
中に入ると部屋は真っ暗だ。なのに、二つの椅子だけは鮮明に浮かんで見えた。
「ここは私が占いをするためのお部屋なの。さぁ、掛けて」
椅子に腰かけると、ノルンが同じように向かいに座る。
部屋が狭いので、距離が近い。
「ノルンは、よく占いをするのかい?」
「頼まれた時だけ、時々よ。あんまり術を使わないようにって、ユミル兄様に釘を刺されているの」
「何故?」
「当たってしまうから。私の占いは、占いというより決定した事実なのですって。私自身は、どんな結果が出たのか知ることはできないのだけど」
胸の前に両手を翳して、手元を眺めるノルンは、先程までのあどけない少女ではない。占術師の顔をしていた。
ノルンの両手から、金色を帯びた淡い光が浮かび上がる。三つの光は、それぞれに小さな女性の姿になった。
「また力を貸してね。ウルズ、ヴェルサンティ、スクルド」
名前を呼ばれた精霊たちが、それぞれにノルンの頬にキスをする。
「その子たちは、本当に精霊なのか? まるで……」
まるで神のようだと思った。実際に神様に会ったことなどないが、あまりの神々しさに身が竦む。
「一人一人が大精霊と呼ばれている存在よ。私は仲良くしてもらっているだけ」
ノルンがウィリアムに向かい、両手を突き出す。
「準備は良い? 始めても、いいかしら?」
息を飲み、頷いた。
本当は逃げ出したい気持ちになっている。未来なんか、本当は見たくもない。
けど、ここで逃げ出したら、きっと前に進めない。そう、思った。
「私の手を取って、目を閉じて」
言われた通り、ノエルの両手を握る。
『金の絹糸を紡ぐもの、受け取る糸は長く明日へ、繋ぐ糸は戻れ昨日へ』
ノルンとウィリアムの手に金色の糸が巻かれていく。
まるで、繭から生糸を作っているような光景だ。目を閉じていてもそれが見えた。
「視えた世界が、貴方の望む通りでありますように」
ノルンの声が聞こえた途端、ウィリアムの意識は闇に落ちた。
体が宙に浮いているような、不安定な浮遊感が全身を覆う。額を誰かが突く。
目を開けると、ウルズが微笑み掛けた。
『どうやら私からみたいね。過去を越えなければ、今には至れないのよ』
ウルズがウィリアムの額にキスをした。
『ウィリアムに、試練の祝福を』
体が沈んでいく。落ちていくのが心地よくて、ウィリアムはまた、目を閉じた。
〇●〇●〇
幼い頃の自分は、大人にとって扱いやすい子供だったと思う。
素直に言いつけを守り、物覚えも良く、何でも器用にこなす。一度見聞きすれば大概の事柄は覚えられたし、こなせた。
兄のアイザックが呪い持ちで、ほとんど自室から出られない状態だったから、余計に比べられたのだろう。
ウィリアムの評価は等身大のウィリアムより高いと、子供心に感じていた。
天才と呼ばれることもよくあったが、王族であれば当然とも言われた。
将来に期待されたが、自分はとっくに気が付いていた。
自分には、今以上の伸びしろがないことを。
天才とは、奇才である。人が成し得ない偉業を達成するから天才足り得る。
自分のように既成概念の内側からしか物事を捉えられない生き物を、天才とは呼ばない。
何でも器用にこなすが、それだけだ。特別に秀でたものはない。
自分が一番よく、わかっていた。
八歳の社交界デビューをきっかけに、婚約者ができた。
ファーバイル家の息女で、一つ年下だという。優秀な兄は聖魔術師に名を連ねる光魔術師だ。
一目見て、息を飲んだ。とても年下とは思えない完成された美しさを持つ淑女は、仕草や表情までも大人びていた。
最初から惹かれていた。
だが、ウィリアムがレイリーを愛した最たる理由は、見た目ではない。
剣の稽古中に訪ねて来たレイリーと交わした会話は、今でも鮮明に覚えている。
炎を纏った剣を、レイリーはキラキラした目で見詰めていた。
「その剣は、格好良いな。火魔法で強化しているのか?」
「そうだよ。普通の剣より、攻撃力も防御力も上がる。これでなら、ロキにも勝てるんだ」
自然属性最高峰の家柄であるカーライル家の長男で従兄弟のロキは、武芸に秀でる。剣でも槍でも斧でも、武器なら何でも使いこなす。
小柄な体躯からは想像もできないような豪胆な技を繰り出す秀才だ。
「あのロキに? それはすごいな。私は勝ったことが一度もないよ」
「レイリーは女の子だろ。勝てなくても恥じることはないよ」
レイリーが珍しく頬を膨らませた。
「武芸を嗜む身なら、一度は勝ってみたい。男とか女とか、関係ないぞ」
またやってしまったと思った。
女だから、男には勝てない。武芸なんて所詮は遊び程度、貴族の嗜みの一つとして学んでいるのだろう。
そういうステレオタイプの考え方が、人を不快にさせることを知っているのに。自分は時々、間違える。
「すまない。そういうつもりじゃ……」
「リアムは結界系の魔術の方が得意だろ? どうしてそこまで、剣に拘るんだ?」
レイリーの突然の質問に、言葉を飲み込んだ。
そんな話はしたことがなかった。むしろ、隠していた。
兄に変わり、いずれ王位を継ぐことになるかもしれない自分は、軍を指揮する機会もあるだろう。
守りの戦術より攻めの戦術を得意としなければ、下の者に舐められる。
そう思っていたからだ。
「どうして、気が付いたんだ?」
「どうしてって。城の裏の花壇の防御結界はリアムの術だろ。花が一輪も枯れていない。今の時期、バラは咲かないのに、あそこだけは満開だ」
思わず、顔を隠した。
あの花壇は父のアイラに手伝ってもらって造った。バラが好きな母のために、母の誕生日に贈れるようにと。
わざと人目に付かない場所に植えたのに、いつの間に見つかったのだろう。
「とても優しい魔法だな。人を守り導く立場の者に相応しい魔法だよ。とてもリアムらしい。あれを見て思ったんだ。リアムの婚約者になれて良かったなって」
嬉しそうに笑うレイリーの顔が、少し霞んだ。
流れそうになる涙を堪えるのに、必死だった。
あのあと、レイリーにどんな言葉を返したか、覚えていない。けれど、ただひたすら、嬉しかったのだけは、覚えている。
あの時から、レイリーはウィリアムの誇りになった。
何もない自分がたった一つ、持つことを許された秀でた婚約者。
レイリーだけが、本当の自分を見てくれる。
レイリーだけが、本当の自分を認めてくれる。
レイリーだけが、自分に価値をくれる。
「レイリーだけが、俺の総てだ」
うっすらと目を開く。
周りは真っ暗で、何もない。
『本当に、そう?』
金色の糸が目の前を通り過ぎた。
『本当に、レイリーしかいなかった? 今でも、レイリーは傍にいる?』
瞼の裏にカルマの顔が浮かぶ。
「今は、傍に、いない。レイリーは俺を、裏切った」
カルマと共にいたレイリーは、まるで知らない女のようだった。
ウィリアムが知らない、淑女ではないレイリーの姿だ。
ウィリアムが望まない、レイリーの別の顔だ。
『それは裏切りかしら? ウィリアムは、本当は、どう思っている?』
目の前に別の精霊が姿を現す。
『次は、私の番よ。ヴェルサンティが、本当の今を報せてあげる』
ヴェルサンティがウィリアムの額に口付ける。
ウィリアムの意識はまた、黒い闇に飲まれた。
体が浮遊する。
水に浮いているような浮遊感と何かに包まれている安心感が心を覆う。
遠くにレイリーの姿が見えた。
ウルズの泉の畔に屈んで、水に手を浸している。
(そんなに濁った水に触れたら、レイリーが汚れる)
手を伸ばしてレイリーに触れたいのに、体が動かない。
レイリーの肩に手を置いたのは、カルマだった。
(早く手を引かせろ。レイリーを守らないといけないんだ)
カルマはレイリーを止めるでもなく、ただ肩に手をおいて見守っている。
水に触れた手から、浄化魔法が流れ出す。
レイリーが触れる水の周辺から、水が色を変え始めた。
「やはりまだ、魔力が足りないな」
水から手を引き上げ、レイリーが呟く。
カルマがレイリーの手をタオルで拭いている。
「これだけの規模だ。一度じゃ、どうにもならねェだろ」
「カルマのお陰で、いつもより浄化術は広範囲に使えるんだけどな」
レイリーとカルマが笑い合う。
ウィリアムの中に、どす黒い感情が湧き上がる。
(こんなものは見たくない。俺以外の男に微笑み掛けるレイリーは、俺が愛したレイリーじゃない)
自分の醜い本音、見て見ぬ振りをしてきた本音が、どんどん溢れ出す。
(違う、わかっている。どんなレイリーだってレイリーだ。レイリーは俺を裏切ったんじゃない。成長した、だけなんだ)
狭い世界で生きてきた幼い頃の思い出から、先に殻を破って出ていったレイリーが憎かった。
自分を残して行ってしまったレイリーが、別人のように思えた。
あまりにも幼稚で自分勝手な押し付けの愛情だ。
成長して変わろうとするレイリーを受け入れられずに、愛し続けることができない自分への、焦りだ。
(情けない。そうだ、知っている。俺は情けなくて弱い人間だ。レイリーという誇りを失ったら、どう生きていいかすら、わからないくらいに)
「リアムが戻ってきたら、今より巧く高揚術が発動すると思うんだ。そうしたら、浄化術をもっと広範囲に使える。泉の浄化は出来るはずだ」
「アイツが戻ってきても、巧くいくとは限らねェだろ。増強術が開花するかもわからねェんだ」
カルマとレイリーがまだ泉の畔で話をしている。
いい加減、レイリーから離れろと叫びたい。
「大丈夫だよ。リアムは、やり遂げる。努力の仕方を知っている人だから。リアムはいつだって自分のためじゃない、他人のために努力を重ねてきた人だからな」
「ウィルのこと、よくわかってんだな」
「当然だよ。ずっと見てきたからな。リアムは私の、誇りだよ」
カルマを見上げるレイリーの顔は清々しく笑んでいる。
レイリーの頭をカルマが撫でた。
「そうかよ。あーぁ、妬けるね。どれだけ自分が幸せ者か、わかってんだろうなァ、アイツ」
心臓が、どくりと高鳴る。
涙が止まらない。
自分はレイリーに誇ってもらえるような人間じゃない。今だって、カルマの隣で笑うレイリーが疎ましくて仕方ない。
自分以外の男に微笑むレイリーを殺してしまいたい。
そんな自分が嫌で仕方ない。
(もう、やめてくれ。自分の心と向き合うなんて、俺には無理だ)
子供の頃から、ずっと見ない振りをし続けてきた醜い本心《自分》なんかと、今更向き合いたくない。
『じゃぁ、このままで良いの? ずっと知らない振りをして、見えない振りをして、ウィリアムは生きていくの? 生きていけるの?』
今までだって、そうやって、やり過ごして生きてきた。これからも同じように生きればいい。
『思っていたこと、吐き出してみて。さっきみたいに。ずっと抱えていたこと、出してみて』
ずっと抱えていた本音。そんなもの、遠い昔に忘れてしまった。
「俺はもう、頑張りたくない。辛い思いも痛い思いもしたくない。兄上が呪い持ちじゃなかったら、こんなに頑張らなくてよかった。もっと気楽に生きられた。けどそれじゃ、周りは納得しないから。俺は誰よりも立派で強くないといけないから」
『ウィリアムは、どんな風に生きたいの?』
「誰かのために生きたい。ウィリアムがいてくれて良かったと、思われたい。誰かに求めてほしい。愛されたい」
『そうね。そのために、頑張ってきたのだものね』
「同じくらい、誰かを愛して、大切にしたい。自分の目に映る人も世界も守れるくらいに、強くなりたい」
言葉にした想いは、それこそ子供が抱く大志のような幼稚な思想に思えた。
『自分の総てを否定しなくていいのよ。窮屈で辛かった環境が今のウィリアムを作った。それは事実なのだから。まずはウィリアムがウィリアムを受け止めてあげるの』
優し手が頬を撫でる。ウィリアムの手を握った。
『私は、ここまでよ。ウィリアムはもう、わかっているから、きっと大丈夫よ』
ベルサンティが金の光になり消えていった。




