46.ユグドラシルの大樹
先に魔国側に入ったカルマとレイリーが、天を仰ぐように見上げている。
目の前に広がる光景に、ウィリアムも同じように上を見上げた。
人間の何十人、いや何百人分あろうかという幹が天を突く勢いで伸びている。四方に茂る豊かな枝葉が、空を覆い隠している。
あまりの存在感の大きさに、圧倒された。
「いつ見ても、でけェなァ。けど、枯れてる葉が増えたなァ」
カルマの呟きは、寂しそうに聞こえる。
確かによく見れば、豊かに茂る葉の所々が黄色く変色していた。
大樹のすぐ手前には、泉が広がる。水は遠目にも濁って見えた。
突然、大樹の枝が揺れた。
(風もないのに、何故……!)
枝の隙間に人の姿が見えた。
覚束ない足が足場を探してフラフラしている。
「あ! アイツ、また……」
カルマが何か言いかけたが、その時には咄嗟に体が動いていた。
足場を探せなかった体が、枝にぶら下がり宙ぶらりんになっている。
「きゃあ!」
悲鳴と共に、小さな体が落下した。
真下に入ると、ウィリアムはその体を受け止めた。
落ちてきたのは小さな少女だった。いや、少女というには大人びて、女性と称するには幼く見える。
「大丈夫か? 怪我はしていないか?」
硬く瞑った目を、少女が恐る恐る開く。ウィリアムの顔を間近に見て、少女はぼんやりとした顔をした。
「……王子、様?」
少女の呟きは、あながち間違っていないので、ウィリアムは言葉に窮した。
しばし見詰め合う形になってしまい、何だか照れ臭くなる。
突然、少女が真っ赤になり慌てだした。
「ご、ごめんなさい! 重いですよね。お、降ろしてください!」
「重くはないが、そうだな。降ろそう。いつまでも触れてしまって、すまなかったね」
少女の焦りに引きずられて、ウィリアムも顔が熱くなる。
「いえ、あの……助けていただいて、ありがとうございました」
立ち上がり、衣服を整えた少女が頭を下げる。
よく見ると、小柄で可愛らしい顔立ちをした娘だと思った。
「怪我はないかい? 痛む所は?」
微笑んで、もう一度同じ質問をする。
少女も安堵したように微笑んで、小首を傾げた。
「ありません。貴方が受け止めてくださったから。とても嬉しかったです」
顔を赤らめて笑う顔に、胸が震えた。
社交辞令のような礼が、どうしてか、心に響いた。
「名前を、聞いても?」
自然と言葉が口から出ていた。
「ノルン、と申します。えっと、貴方は?」
上目遣いで控えめに名を聞かれ、鼓動が早まる。
「ウィリアムだ。はじめまして、ノルン」
「ウィリアム様……」
手を差し出すと、ノルンがウィリアムの指先を両手で握った。
その仕草にまた、胸が高鳴る。
「おい、コラ。木登りはやめろって何度も注意していんだろうが」
後ろから追いついたカルマが、ノルンをじっとりと睨みつける。
「カルマ兄様! いらしていたの? もしかしてウィリアム様は兄様の御友人?」
「友達じゃねェよ。俺は友達いねェっていっただろ」
「違うでしょ? 兄様が友達だと思っていないだけで、本当はたくさんいらっしゃるのでしょ?」
カルマとノルンの会話が耳に入ってこない。
ただ、兄様という単語だけが頭の中をぐるぐる回っている。
ウィリアムはカルマの肩を強く掴んだ。
「兄様、だと? お前のい、妹か?」
「あぁ、そうだよ。王族の城はあんまり安全じゃねェから、ここに匿ってんだ」
「そんなわけないだろ! あんなに可愛らしくて可憐な御令嬢がお前の妹であるはずがない!」
思わずカルマの胸倉を掴む。
「何だと、コラ。妹を褒められて悪い気はしねーぞ、コラ。妹は母親似だ、コラ」
メンチを切り合う二人の会話の内容がおかしい。
二人を眺めていたレイリーが、吹き出した。
「二人は仲良しなんだが、素直になれないだけなんだ。ちなみに私はレイリーだ、よろしく、ノルン」
「やっぱり、そうなんですね。カルマ兄様、お友達が増えて良かったわね。しかも、ここに連れてきてくださるなんて、嬉しい」
ノルンが素直に笑うので、思わず見惚れた。レイリーの仲良し発言を否定するのを忘れてしまった。
「友達でも連れてきたわけでもねェけどな。でも、しばらくは滞在すると思うから。まァ、仲良くしてやってくれよ」
「ああ、わかった」
カルマがレイリーだけでなくウィリアムにまで頭を下げるので、素直に返事してしまった。
「イズンおばさんかブラギおじさんは、いるか? 挨拶しときてェんだけど」
「市に出掛けているから、しばらくは戻って来ないわよ」
「そうか」
カルマの表情が、どこか心細そうに見えた。
「カルマ兄様たち、滞在なさるのならお部屋をご案内するわ。家の中にいらして」
ノルンが浮足立った様子でレイリーの手を引く。二人はそのまま家の中に消えていった。
「滅多に人なんか来ねェから、きっと嬉しいんだ。しばらく、うるせェかもしれねェが付き合ってやってくれよ。アイツも、俺と同じ半魔だけどさ」
燥ぐノルンを眺めて、カルマがウィリアムに言った。
「なぁ、気になっていたんだが、お前の母親は、もしかしてリンリーという名の精霊国の人間、なのか?」
「そうだよ。お前の曽婆さんのメロウと因縁があった人間の女だ。ノルンは母親に瓜二つだと父上がよく話していた。お前にとっちゃァ気に入らねェかもしれねェが」
やはりそうか、と思った。
曾祖母はいまだに王室や国政に影響力を持つ、フレイヤの剣の先代継承者だ。母親のジャンヌでさえ曾祖母には口答えできない。
曾祖母のことは、誰も詳しく教えてくれない。
だが、噂好きのお節介はどこにでもいるもので、よくない噂は時々、耳にしていた。曾祖母がフレイヤの剣を継承できたのは、リンリーという娘が継承を辞退したからだ、と。辞退するに追い込んだのは、曾祖母のメロウであった、と。
どこまで本当の話かは、分からない。
きっと、そのあたりの話はアイザックがローズブレイド辺境伯から詳細を聞いてきてくれるだろう。
「いいや、ノルンには関係のない因縁だ。もちろん、俺にも関係ない」
きっぱりと言い切ったウィリアムをカルマが振り返る。
「先祖の因縁だとか半魔だとか、そういうのを俺たちは越えていかなきゃならないんだろ。だったら、知るところから始めないといけないだろ。ノルンのことも、お前のことも」
ウィリアムはカルマを見上げた。
「真面目なヤツ。融通が利かねェんだなァ。若いねェ」
カルマが笑う。その顔は蔑んでいる訳でも揶揄っている訳でもない。ちょっとだけ照れているように見えた。
「もっと肩の力、抜けよ。お前は期待に応えようとし過ぎなんだよ。他人の評価なんか、どうだっていいじゃねェか。したようにすりゃァいい。今更、難しいかもしれねェけどさ」
「どうしてお前に、そんなことがわかるんだ」
少し不貞腐れて聞いてみる。
カルマとはまだ数日の付き合いだ。レイリーのこともあるから観察はしているが、会話はあまり交わしていない。
「見ていりゃァ、わかるぜ。ユミルに似ているからな、お前。でも、ユミルとは違う。兄上は好んであの場所にいる。お前は、そうじゃァねェんじゃねェの?」
見透かされたような問いかけに、目を逸らす。
「お前はアイザックに似ているよ。奔放に生きているようで、実は兄弟に気を遣っている所がな」
教えてやるのも悔しいが、何となく伝えたくなった。
「ふゥん。じゃァ、アイザックの気持ちが、俺にはわかるかな。俺は、兄上に嫉妬しているし、同じくらい信頼もしているから、こんな生き方してんだぜ」
言葉が出なかった。
カルマの表情が、やけに大人びて見えた。
(そういえば半魔なんだから、俺よりずっと年上なのか)
当たり前の事実に気が付いて、おかしくなった。
一人で笑うウィリアムを、カルマが怪訝な顔で眺める。
「何だよ、おかしくなったか?」
「いいや、カルマは俺よりずっと年上なんだなと思っただけだ。人間でいうなら、二世代くらい上か?」
「馬鹿言え。俺は人の年齢に換算したら二十歳そこそこだ。魔族はゆっくり歳をとるんだよ。まァ、それでもウィルよりは年上だけろうけどな」
カルマがさりげなく使ったウィリアムの愛称を否定する気にはならなかった。
だが、頭をわしゃわしゃに撫でられるのは我慢ならずに手を弾いた。
「兄様たち、友情を育まれるのは素敵だけれど、そろそろ中に入って! お部屋をご案内したいわ!」
部屋の入り口でノルンが手を振っている。
隣に立つレイリーが見守るような目で、こちらを眺めていた。
ウィリアムの中に燻ぶっていた感情が、ようやく動き出した気がした。




