43.知らなかった常識
時は少し遡り、ノエルたちが革命軍に誘拐された直後。
ノアの指揮のもと、マリアとアイザック、ユミルはローズブレイド領を目指し、馬車で移動していた。
馬車に揺られてもう半日が立つ。
マリアは外の景色も眺めずに俯いて自分の手をじっと見詰めていた。
手が冷たい。汗が引かない。
今、ノエルがどんな状況にいるのだろうと考えるだけで、居ても立ってもいられなくなる。
そんなマリアの手を、隣に座るアイザックがそっと握った。
「考えすぎるのは良くない。今は、信じよう。ノア先生も、ああ言っていたろ?」
見上げると、アイザックが優しく微笑んでいた。
マリアは俯き、目を伏した。
「わかってる、わっかってるの。考えたってどうにもならないって。でも、カルマの話が頭から離れなくて」
アイザックが表情を落とす。
二人の様子を、向かいに座るユミルは黙って眺めていた。
「けど、悲観はしないわ。私が、信じなきゃ。いつだって私を信じてくれたノエルのためにも、今度は私がノエルを信じるの。ノエルが、いなくなるわけないわ」
自分に言い聞かせるように発した言葉に、アイザックが頷いてくれる。
「何故だろう。僕も、そう思う。ノエルならきっと竜神様とも友達になれるんじゃないかと。竜神が味方に付いてくれたら、それはさぞ、心強いだろうな」
ユミルが穏やかな目で語る。
竜神族の事情に詳しいユミルに言われると、安心できた。
マリアは馬車の外を眺める。
(待っててね、ノエル。必ず、迎えに行くから)
馬車の行く先、ローズブレイド領とその先の魔国に、思いを馳せた。
〇●〇●〇
クラブ室を襲撃された後、マリアたちはサーシャの家に保護されていた。自分たちは魔族に死んだと思われているから、外には出ないようにと注意された。
「どうしてノエルとユリウ先生が。恐らくロキも魔族に連れ去られたんだろう? 一体、どうして。捕食のためにしては、不自然だろ」
怒りを隠そうとしない声で、ウィリアムが声を荒げた。
「ロキに関してはムラドの気紛れだろうが。アイツらはノエルとユリウスを攫いに来た。ついでに俺とユミルを殺せたら上々ってところだろ」
カルマが頬杖を突いたまま答えた。
脇腹を刺された傷はすっかり完治している。事件直後、サーシャが見立てた限りでは、ノエルの広範囲治癒術でほとんど治っていたらしい。
「お前も革命軍としてノエルを狙っていたな。何故、ノエルとユリウス先生なんだ。革命軍の狙いは、何だ」
迫るウィリアムに向かい、カルマが視線だけを向けた。
「竜神の復活だ」
ウィリアムが困惑の表情になった。
その場にいた者は全員が、理解できなかっただろう。
少なくともマリアには、ピンとこなかった。
「やはり、そうか。ノエルの中にあるのは、魔石ではなく奇石なのだな。ローズブレイドの竜神族と奇石を内包する娘が、揃ってしまったのか」
ユミルだけが納得した様子で、目を伏している。
「どういうことだ? 確かにユリウス先生は半魔で竜人の血を引いている。だが、竜神は神話に出てくるような太古の言い伝えだろう」
アイザックの質問に、ユミルもカルマも曇った表情をしていた。
「お前たち精霊国の人間は竜神や竜人族について知らないことが多すぎる。だから理解できなくても仕方ない。責める気もねェが。ローズブレイド家は本来、精霊国と魔国の王族以上に尊い血を持つ。この国の原始の王族なんだよ」
ウィリアムが驚愕の表情になった。
「原始の、王族? 半魔の家系が?」
口走った言葉を飲み込むように、ウィリアムが手で口を覆った。
「そういう認識だろ? だが、俺たち魔族は違う。竜神ミツハと魔神フレイの間に生まれた子孫がローズブレイドだ。神と神の間に生まれた神人の一族は、俺たち魔族にとっては魔国の王族より上位の存在なんだ」
カルマの説明にユミルが続ける。
「竜人族は他にも存在するが、竜の神の一族を名乗るローズブレイド家は、我らヘルヘイム家が唯一、首を垂れる存在だ。だからローズブレイド領は今でも魔族と親交が深い。精霊国においては、ただの辺境伯に過ぎないだろうが」
確かにローズブレイド家は辺境伯といっても広い敷地を有する貴族だ。だが、精霊国の中央には関与しない。関わりを避けている節さえある。
「精霊国の中で唯一、魔族と人が共存していた土地だとは聞いていたが。魔国と精霊国では認識が全く違うんだな。どうして俺たちは、竜人族について何も知らされていないんだろう」
アイザックが独り言のように疑問を口にした。
「それも疑問だが、ローズブレイド領が精霊国に存在する理由も気になる。カルマやユミルの話が事実なら、魔国に含まれて然るべき存在だろう」
ウィリアムの疑問は尤もだと思った。
「女神フレイヤの我儘から始まっているんじゃないかな」
ずっと黙っていたレイリーが重い口を開いた。
ウィリアムとカルマの視線を受けて、苦笑いする。
「ノエルに習って精霊国神話を読んでいたんだよ。創世の物語で竜神ミツハは嫉妬に駆られた女神フレイヤに幽閉される。その後、幽閉を解いたフレイヤはミツハに永劫の庇護を約束する。あの描写、私にはまるで鎖で繋いでいるように思えた」
その話なら、マリアも読んだ。レイリーと同じ感想を抱いたから、よく覚えている。フレイヤはミツハを恐れていたんじゃないか、と。だから恭順の意を示した後でさえ、護ると称して自分の支配下に置いたのだ。
「ローズブレイド家の家紋、竜が首を垂れている姿よね。あれは、王族フォーサイス家に対する恭順を表していたのね。逆らわないから、そっとしておいてほしいって」
フレイヤが魔法で作った人が興した家がフォーサイス家、精霊国の王族だ。ノエルに婚約の証である家紋入りの徽章を見せてもらった時に、直感的にそう感じていた。
ウィリアムとアイザックが口を噤んで俯いた。
「別にお前らが悪ィわけでもねェだろ。何千年も前の先祖がやらかした罪を被る必要もねェ。けど、その流れで今があるのは、確かだけどな」
カルマが庇っているのかいないのか、わからない言い回しをする。
「しかし、それではあまりにも」
ウィリアムが言葉を飲んだ。
気持ちはわからないでもない。それではあまりにも、精霊国側の王族が滑稽だ。
魔国とローズブレイド家は交流を持ち、ヘルヘイム家が真の王と崇める尊い血筋をぞんざいに扱い、偏見により窮屈な暮らしを強いてきた。
人間至上主義である精霊国での教育方針は、魔族は悪であり半魔はそれに準ずる存在だ。王族であるウィリアムとアイザックが俄かに受け入れ難いのも、よくわかる。
「竜人族は、魔力も強いんだろうか?」
アイザックの質問に、ユミルは頷いた。
「我ら魔族など足元にも及ばない。ローズブレイドの竜神因子は普段、眠っている。その状態では人と、なんら変わらない。だが一度覚醒すれば、この大陸で敵う者はないだろう」
「ユリウス先生は今でも最強の聖魔術師と呼ばれているのに、更に強くなるのか」
アイザックが、ぞっとした声を上げた。
「ユリウスの覚醒にノエルの、奇石を持つ娘の血は不可欠だ。革命軍はユリウスを覚醒させてェのさ。じゃなきゃ、奇石が覚醒しねェからな」
カルマの話に、マリアの中に嫌な予感が過った。
「ノエルの中にある奇石が覚醒したら、どうなるの?」
カルマの視線が静かにマリアに向く。冷めた目が見下ろした。
「竜神ミツハが復活する。依代の娘の自我は消えてなくなる。ノエルが、死ぬってことだ」
どくん、と心臓が嫌な音を立てた。針で刺されたように胸が痛い。
「そんな……」
小刻みに震える手をアイザックが強く握った。
「革命軍のリーダー、アジム=ティエナ=カリシアは人の方の竜人族だ。奇石の寄辺である奴らなら、竜神復活の方法もよォく知っているだろうぜ。そりゃァもゥ、ユリウス以上にな」
カルマが部屋の扉を見詰めながら話す。
不自然な視線の先の扉が開いた。入ってきたのは、サーシャだった。
「アンタも良く知っていたんじゃねェのか? サーシャ=アーサー=カリシア。カリシア領の竜人族は同じ種族としか交わらない稀有な一族だからな」
全員の視線がサーシャに向く。
「私の母親は人だよ。だから私は《《半魔》》なんだ。君と同じでね」
遠回しにカルマの言葉を否定する。
カルマが小さく舌打ちした。
サーシャは皆に茶を配り、ゆっくりと椅子に掛けた。
「ユリウスに奇石を渡したのは、アンタだろ? だが、あれが奇石だとは告げなかった。ローズブレイド家は二代前に奇石を失っている。ユリウスもどこまで奇石の使い方を知っていたか、わからねェよな」
「そうだね。私は知っていた。だが、何も告げなかった。狡いやり方だったと思うよ」
サーシャは何も否定しなかった。伏し目がちな瞳の奥に色はない。事実だけを淡々と話しているように感じた。
「アンタも革命軍の味方か?」
「カルマ、それは違う。サーシャは僕を保護するために国王に無理を通してくれた」
ユミルが間髪入れずに否定する。
「私たちを助けてくれたのも学長だと聞いています。貴女ほどの力があっても、ノエルたちを守れませんでしたか?」
ウィリアムの質問は意地悪だと思った。本人もそう思っているんだろう。そういう言い回しをする時の彼は、どこか居心地の悪そうな目をする。
「すまない。守るというのがどういうことか、私にはもう、わからない。だが、私なりに守りになるものをノエルに持たせたつもりだよ」
サーシャは微笑んでいるようにも悲しんでいるようにも見える。
「学長は、ノエルが革命軍に攫われるべきだと、思ったんでしょうか?」
思わず、するりと口から出たマリアの質問に、サーシャは笑みを返した。
「私はノエルを救えない。だが、ノエルは救うことができる。魔国も精霊国も、この世界総てを。竜神ミツハが何故ノエルを選んだのか、私にはわかる気がするんだ」
サーシャの言い回しはまるで、革命軍から救い出すことが守ることにはならないと、そういっているようにマリアには聞こえた。
もしかしたら、ノエルが革命軍に行くことは必要なことで、そのもっとずっと先に、本当にノエルを救うべき事態が待っているのかもしれない。
根拠など何もないが、そう感じた。
「ノエルが竜神に飲まれて死んでしまったら、救うも何もない! ノエルがノエルでなくなってしまっては、意味がないじゃないか!」
ウィリアムが激しくテーブルを殴った。
「ノエルは死なないわ。私が死なせない」
マリアは立ち上がった。
「死なせない方法が、あるんですよね。学長は、御存じなんですよね?」
マリアの問いに、サーシャは答えない。
ただじっと、静かな瞳でマリアを見上げている。
「ローズブレイド領に行けば、当代当主に話を聞けば、わかるでしょうか?」
「そうだね。君たちが知らない竜神族のことも、竜神ミツハのことも、奇石のことも、きっとよく教えてくれるだろう。リンリーとメロウのこともね」
サーシャの視線がカルマに向く。
カルマがあからさまに顔を背けた。ユミルが心配そうな顔でカルマを眺める。
「僕もマリアと同行して構わないだろうか? 当代当主とは顔見知りだから、僕がいたほうが、話は聞きやすいと思う」
ユミルがアイザックに同意を求める。
アイザックが戸惑った顔をした。
「俺に同意を求めるのか?」
「マリアが行くのなら、アイザックも行くだろう? それに一緒に話を聞いてほしい。君は精霊国王族フォーサイス家の第一皇子だ」
アイザックが表情を引き締めた。
「そうだな、わかった。俺は一緒に行くべきだ」
アイザックが立ち上がった。




