40.魂の迎合
窓のない部屋に大きなベッドが一つ。その上にノエルが横たわっている。
ユリウスはノエルの頬に指を滑らせた。
「もう随分長く、ノエルの声を聴いてない。こんなのは、あの時以来だね」
ノエルと出会ってすぐの頃、マリアと仲良くなってほしい素振を見せたノエルのために、しばらく距離を取った。
自分から、わざと起こした行動だったが、すぐに後悔した。あの時からノエルの隣にはロキがいるようになった。
「僕には、あの時、ロキとノエルがとてもお似合いの恋人同士に見えたんだよ」
嫉妬に焼け焦げる胸を収めるために、ノエルに指輪を嵌めた。我ながら幼稚な行動だったと思う。
血のせいだ、奪われるわけにはいかない、と言い聞かせて自分の行動を必死に正当化した。
今思えば、あの時にはもう、ノエルを愛していた。
「僕はまだ君に伝えていない言葉があるから」
ノエルの服のボタンを一つずつ、外す。
「君に会えたら、今度こそ伝えるよ。今なら、何の憂いもなく言葉にできる」
露になった胸に顔を埋める。
一つ、口付けて、そっと牙を差し込んだ。
(今なら血の匂いに惑わされない。今はただ、君に会いたい)
血を吸い上げても、今なら自分のままでいられる。
変わらないユリウスのままで、ノエルに、桜姫に会いに行ける。
背中に熱いものが滾って、体に力が入った。
「うっ……」
ふわり、と何かが弾けて、背中から飛び出した。
黒い羽根がユリウスとノエルの体を包み込む。
ユリウスの意識が、ノエルの中へと溶け込んだ。
〇●〇●〇
「ねぇねぇ、桜姫。たこパ、やってみたい。ピザパでもいい」
ミツハが興奮気味に桜姫に声を掛ける。
桜姫の昔の記憶を映像化して鑑賞しているらしい。
「つまりパーティーがしたい、と。ピザは出来るけど、たこ焼きは、どうかな」
小麦粉とタコがあればできないことはないだろうが。
出汁はどうしようかと考える。
「あと、マリカやってみたい。桜姫が子供の頃やっていたテレビ? ゲェム? ってやつ」
「それは無理だねぇ。ハードがないし、電気もないし」
「魔法で何とかならない?」
「魔法で何とか……、ならないと思うよ。科学と魔法って代替がきかない気がする」
「えー、やってみたいのになぁ」
とても残念そうにミツハが口を尖らせた。
ここのところ、ミツハは桜姫の記憶を覗いては、あれやこれやと質問してくる。
記憶の中のテレビ番組や配信番組なども楽しいらしい。
桜姫が書いた小説も幾つか読んでいた。
「ミツハって本当に神話の神様なんだよね? 神々しさとか、あんまり感じないけど」
「そんなの常に感じてたら大変よ。神っぽさは、いざという時に出せばいいのよ」
そんなものかな、と思う。
よく考えれば神話に登場する神様も、大概俗っぽい。なんなら人っぽい。
そんなものなのかもしれないと思った。
「全部、聞こえてるからね。何回も言うけど、考えてること筒抜けだから」
ここは精神世界、いわゆる心の中なので、考えたことは全部、伝わる。
嘘も付けない。
面倒だし厄介だなと思う。
「早く出たいなぁ」
呟いた桜姫に、ミツハが傷付いた顔を向けた。
「私と一緒にいるのが、そんなに嫌なのぉ」
「そういう訳じゃなくて、思ったこと全部が伝わっちゃうのって、不便じゃない?」
「別にぃ。私は楽でいいと思うなぁ」
そういえば、ミツハからは余計な言葉があまり聞こえてこない。
(普段、私がいかに嘘つきかとか、心に仕舞って言わない言葉があるかが、よくわかる)
自分の心の醜さを思い知る。
そういう意味では、ミツハは神様なんだなと感心した。
隣でドヤ顔しているミツハを見ると、そうは言いたくなくなるが、どうせ伝わってしまうのだ。
「どうせって何よぉ……」
愚痴ったミツハが顔を上げた。
ニコリと微笑む。
「どうやら、お迎えが来たよ、桜姫」
「え! ユリウスが来たってこと?」
思わず立ち上がって、顔を上げる。
周囲を見回す桜姫を、ミツハが満面の笑みで眺めた。
「嬉しそうねぇ。でも、不安でもあるみたいね」
ミツハが立ち上がり、桜姫の顔に手を添えた。
「私が何を伝えようと、それはユリウスの真意じゃない。あくまで想像でしかない。だから、本当の気持ちは、本人に聞くといいよ。怖くても、逃げないこと」
ミツハの言葉に、前にサーシャに言われた言葉を思い出した。
サーシャにも「自分を手放してはいけない、逃げてはいけない」と忠言された。あれはきっと、今のことを言っていたのだろう。
サーシャには未来が見えていたのかもしれない。
「納得がいくまで、じっくりと話しておいで。私は外で、白竜の中で待っているから」
ミツハの手が桜姫の胸に当たる。優しい温かさを感じた。
「奇石はノエルの中にある。この体をもつ桜姫こそが竜神よ。私は同朋の竜となって、桜姫を支えよう」
「え? どういうこと? 竜神はミツハでしょう?」
ミツハが微笑んだ。
「私が『救世の女神様』をプロデュースしてあげる。皆、きっと驚くよ。楽しみね」
桜姫は、げんなりと表情を落とした。
「いやいやいや、今のは何か良いこと言う流れだったと思う。それって、ミツハのただの悪ふざけでしょ? 眷族が挙ってがっかりする絵しか浮かばないんだけど」
「だってそういう異世界ものいっぱいあるじゃなーい。楽しそうじゃない? やってみたくない?」
「全然、楽しそうじゃないし、やってみたくない。白竜の姿になっても竜神はミツハだよ」
「それはダメよ」
ふざけていたミツハが急に真顔になった。
「桜姫が思い描く未来を実現するなら、桜姫は神様にならなきゃ。それくらいじゃなきゃ、世界は変えられないよ。自滅を願うミツハではなく、未来を造る桜姫じゃなきゃ、ダメなの」
「そんな大層なこと……」
考えて、ここにいる訳じゃない。
ただ、皆が幸せに暮らせる世界を造りたい。この世界が崩壊しない未来に辿り着きたい。その為に出来ることは、何でもやりたい。
「これも、出来ることの一つ、なのかな」
「そうね」
「じゃぁ、ノエルは? ノエルはどうなるの?」
ノエルという器はどこに行ってしまうのだろう。
彼女の存在意義はあるのだろうか。
「ノエルと桜姫は同じ人だから、どこにもいかない。分けて考えなくていい。桜姫とノエルはもうとっくに溶け合っているから」
微笑んだミツハが桜姫から手を離した。
「貴女を心待ちにしている人がたくさんいる。忘れないでね、桜姫」
ミツハの気配が消えていく。
何もない空間に、桜姫は一人になった。
ミツハがいないこの場所は、とても空虚に感じられた。
「あ……」
背後に気配を感じた。
会いたくて待ち望んだ、でも会うのがとても怖かった人の気配だ。
「……桜姫?」
久々に聞いた声に、胸が震える。
ゆっくりと振り返る。
ユリウスが真っ直ぐに桜姫を見詰めていた。
驚いた表情のユリウスが、一瞬、泣きそうに顔を歪めた。
「ユリ、ウ……ス」
腕を引かれて、抱き締められた。
今までに感じたことがないくらいに強い力で、ユリウスが桜姫を求める。
「ごめん、君に奇石を与えたこと、ずっと何も語らず君を騙し続けたこと、本当に、ごめん」
力強い腕の中で、桜姫は目を閉じた。
ユリウスの本音が、気持ちが、全部流れ込んでくる。
どれだけの後悔と自責に駆られて過ごしてきたのか、どれだけノエルを大事に守ってくれていたのか、言葉以上に伝わってくる。
「こんなに辛い気持ちを抱えて、傍にいてくれたんだね。私をずっと守ってくれていたんだね」
抱いていた不安や疑念が総てどうでもよくなるくらい、ユリウスはノエルを失うことを恐れていた。
自然と涙が溢れてくる。
「私の方こそ、ごめん。ユリウスのこと、何も知らなかった。知ろうとも、しなかった」
竜人の一族は、静かな暮らしを願う種族だ。それは神話の時代から変わらずに受け継がれてきた思想なのかもしれない。
誰よりも強い血を持ちながら、争いを好まない。そんなユリウスが精霊国で半魔として生きることは、桜姫が創作した設定以上に辛かったはずだ。
「今なら僕にも、桜姫の気持ちがよくわかる。ここに招いてくれたミツハのお陰だ」
「招いてくれた?」
桜姫の問いにユリウスが頷いた。
「眷族は本来、主の心の中にまで、入り込まない。外側から魂を引っ張り上げるだけだ。ミツハが僕を通してくれた。本当の桜姫に会って、話すようにと」
ユリウスの手が桜姫の頬を撫でた。
「初めて君に会えた、桜姫。髪が短いんだね。健人の記憶の中では長かったけど。しかも黒髪、僕と同じだ」
ユリウスの細くて長い指が、桜姫の髪を梳く。
「ノエルより背が高いね。いつもより顔が近い」
額を合わせて、ユリウスが微笑む。
仕草の一つ一つが、愛おしくて擽ったい。
「君の見た目がノエルでも桜姫でも、変わらない。愛しているんだ。誰よりも何よりも、桜姫が大事だ。これからも永遠に桜姫だけを愛してる」
ユリウスの顔が近付いて、唇が重なる。
桜姫は、ユリウスを見上げた。
「初めて……。初めて、ユリウスから、愛しているって……」
感極まって言葉が続かない。
それはユリウスから唯一、一度も貰ったことがない言葉だった。
「ずっと、言えなかった。隠し事をしたまま、騙したまま、伝えていい気持ちじゃないと、思ってた。でも今なら、何の遠慮もなく言える。愛してるよ、桜姫」
唇がまた重なって、舌が絡まる。
このまま二度と離れたくない。
ずっと二人で抱き合っていたい。
「私も、世界で一番、ユリウスだけを、愛してる」
口付けの最中に、何とか言葉を伝える。
長いこと重ねていた唇が名残惜しそうに離れた。
「ずっとこのまま、こうしていたい」
「うん、私も。でも、早く出なきゃね。皆、待ってる」
ユリウスが桜姫の胸に顔を埋めた。
「胸もノエルより大きいね。このまま抱きたい」
桜姫の胸にキスを落とす。
「何言ってるの、それはダメだよ」
ユリウスの体が覆いかぶさって、桜姫の体ごと倒れ込んだ。
「桜姫には、ここでしか会えない。だから、忘れないように刻み込んでおきたい」
首筋に舌を這わされて、びくりと体が震える。
久しぶりの感覚に、受け入れてしまいそうになる。
「ダメ、ユリウス、止まって。でないと、ミツハが見てるから」
ピタリ、とユリウスの動きが止まった。
がばっと顔を上げて、辺りを見回す。
「実際、傍にいる訳じゃなくてね。魂が繋がっているから、筒抜けだと思う」
「それって、内でも外でも同じってことじゃないの? 主の監視体制」
「まぁ、そうかもね。善処してもらおうか」
ヘナへナと、疲れたようにユリウスが肩を落とした。
「お陰で、大切なことを思い出したよ」
顔を上げたユリウスが、桜姫をその場に座らせる。
桜姫の手を取り、片膝を付いて礼をした。
「竜人族の血を受け継ぐ第一の眷族ローズブレイドとして、これからは貴女に仕える。僕の総ては貴女のものだ。総ては女神様の御心のままに」
桜姫の指先に、ユリウスが口付けた。
「今のは、ミツハにするべき誓いじゃないの? どうして、私に?」
戸惑う桜姫に、ユリウスが微笑み掛けた。
「これがミツハの意志だ。ミツハは桜姫の同朋になると眷族に告げた。ならば僕ら竜神の眷族は、ミツハの意志で桜姫に従う。今から桜姫が、僕ら眷族の主だ」
「そう、なんだ……」
つまりはユリウスやロキを従える、ということだ。
何とも釈然としない気持ちになる。
「心配ないよ。僕もロキも今までと何も変わらない。ミツハは眷族を血で縛りたくないんだ。その為に一番良い方法を考え行った。それだけのことだ」
桜姫の指先に口付けるユリウスの舌が、手のひらへ、腕へと伸びていく。
「ユリウス、擽ったい……」
顔を赤らめる桜姫を眺めながら、桜姫の手に舌を這わせる。
「こうして桜姫に悪戯を仕掛けていたいけど、早く戻らないとね。やめてって命じれば、すぐにやめるよ。主様」
ユリウスの切れ長な目が悪戯に笑む。
くすぐったくて、じれったくて、目が潤む。
「も、やめて」
ユリウスが唇を離す。
名残惜しさに、思わず目で追ってしまう。
「他に御命令は?」
桜姫の指を自分の頬に当てて、ユリウスがにこりと笑う。
「一回だけ、キスして」
「仰せのままに」
桜姫の腰に腕を回して抱き寄せる。唇を重ねると、逃げられないよう後頭部を押さえられた。
「ん……ふぁ……」
思わず漏れた吐息ごと飲み込むように、強く深く口付けられる。
(これ、本当に命令通りなのかな。どう考えても、ユリウスのペースだと思う)
通常運転のユリウスに、どこか安堵した。
唇が離れると、ユリウスが満足そうに微笑んでいた。
「桜姫が眷族の従属性を望まなければ、無いのと変わらない。形骸的なものだと思えばいいよ。ミツハでは出来ないことだからね」
「最初から、そう説明してくれたらいいのに」
「実際に、やってみたほうがわかりやすいでしょ?」
腕に抱かれて、髪を撫でられる。
ユリウスの意地悪も久々だと嬉しく感じてしまう。
安息の場所がようやく戻ってきたようで、桜姫はユリウスの胸に抱き付いた。
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