27.ロキの魔族覚醒
脈を取り、顔を近づけて呼吸を確認する。
(生きてる、良かった。でも、このままじゃ)
魔獣の森に入った時と同じか、あれより酷い。
ノエルの拙い浄化術ではとても浄化しきれない瘴気を浴びていた。
(魔国に浄化術が使える魔術師なんかいない。どうすれば)
拙いながらも浄化術をかけながら、ノエルは頭をフル回転させていた。
「もしかして、その浄化術で何とかするつもり? 馬鹿なの? 頭、悪過ぎじゃない?」
可笑しそうに笑う少年を睨みつける。
「五月蠅い、ガキは黙ってろ」
話し方や内容から察するに、ロキに化けてクラブ室を襲ったのはコイツだ。確か、ムラドとか呼ばれていた。ロキを魔国に連れ帰ったのも、ムラドだろう。
(コイツ、誰なんだ。私が作ったキャラの中にはいなかった。何なんだよ)
ムラドの性格も然ることながら、知らない事実が多すぎて混乱が怒りに転嫁する。
「ガキにガキなんて言われたくないね。僕の方がよっぽど年上なんだから」
髪を鷲掴みにされて、振り向かされた。
ノエルの顔を覗き込んだムラドが、表情を変えて吹き出した。
「お前、泣いてんの? そっか、そっかぁ。もう助けられないって気付いてるんだ。このまま緩やかに死んでいくの見ているしかないって、わかっちゃったんだぁ」
ニヤついた顔を見ていたくなくて、顔を逸らす。
ロキの顔色がどんどん悪くなっている。
ノエルはアジムを振り返った。
「せめてロキだけでも精霊国に返してくれませんか。私とユリウスは、ここに残るから。だから今すぐロキを」
ムラドがノエルの顎を鷲掴みにして上向かせた。
「間に合う訳ないだろ。僕の結界を渡る術も準備に時間がかかる。その間に死んじゃうよ。しかもこれだけの瘴気、払える術師がいるの?」
「戻りさえすれば、きっと助けられる」
マリアなら、この状態のロキを助けられる。カルマの血約すら焼き消した浄化術なら、生きてさえいれば、きっと救える。
ノエルはムラドを強く睨みつけた。
「悪いが、生かして返すのは難しい。砦の場所は隠している。精霊国に帰ったロキが口外しないとも限らない。数千人の魔族の命と精霊国の貴族一人の命なら、天秤にかけるまでもない」
アジムの言葉は尤もすぎて、反論できなかった。
「だったらさぁ、お前の血でロキを魔族にしてやったらいいんじゃないの?」
ムラドの言葉が理解できなくて、ノエルは顔を顰めた。
「お前の血は人を魔族に出来るんだろ? 魔族になれば瘴気なんかに中てられないし、むしろコントロールできる。この場で生かす手段て、それしかないよ。お前に、仲間を魔族に変える度胸があれば、だけどね」
ムラドが可笑しそうに笑う。
確かにユミルもそんな話をしていた。
ロキを見下ろす。
顔は真っ白で、手も冷たい。目の下が窪んで、呼吸も浅い。時間がないのは明白だ。
(でも、私の血にそんな力が。あったとして、ロキが魔族になっちゃったら、もう精霊国に戻れないんじゃ)
悔しいが、ムラドの言う通りだ。一人で決断など、出来るはずがない。
動けないノエルを眺めて、ムラドが詰まらない顔をした。
「決められないなら、本人に聞けばぁ? ロキ、起きてよ、ねぇ。お前は、どうしたい? 人のまま死にたい? それとも、魔族になってでも生きたい?」
ムラドが無遠慮にロキの頬を叩く。
ノエルはムラドの手を払いのけた。
「いい加減にしろ! ロキの命を弄ぶような真似、するな! 第一、私の血でロキが魔族になるなんて、そんな確証は……」
涙が、ポロポロと零れる。
ユリウスの竜神因子の覚醒だけでなく、ロキまで魔族に変えてしまうとしたら。自分の血が、自分という存在が、人の運命を弄んでいるようで、とても怖い。
「奇石は竜の隻眼だと教えただろ。今の魔族のほとんどが竜神から生まれた。お前の血液には奇石の竜神因子が多分に含まれる。流し込んでやれば因子が根付くかもしれん。絶対ではないがな」
アジムの説明がわかりやすすぎて、かえって不安になった。
下から手が伸びてきて、ノエルの頬を撫でた。
冷たい指がノエルの涙を拭いとる。
「ロキ……、ロキ!」
ロキがうっすらと目を開けて、微笑んでいた。
「ノエルの血を、ちょうだい」
乾いた唇が、かすかに声を発する。
「でも、でも。そんなことしたら、ロキは魔族になっちゃうかもしれないんだよ。精霊国には、もう、戻れないかもしれないんだよ」
「どのみち死ぬなら、同じだよ。俺はまだ、生きたいんだ」
言葉が出てこない。
代わりに涙が、とめどなく溢れる。
「ノエルが俺のために泣いてくれるのは、嬉しいけど。笑ってる顔の方が好きだ」
生気のない顔でロキが弱々しく笑う。
ロキの頭を膝に乗せる。
「アジム、血の注ぎ方とか、方法って、ありますか」
「特にはない。ただ、お前の血を流し込めばいい。だが、抹消よりは奇石に近い場所の血の方がいいだろうな」
「近い、場所……」
今のロキが自分から吸血するのは難しいだろう。第一、ロキは人間だ。きっと吸血行為自体出来ない。
ノエルは自分の舌を噛んだ。
ロキと唇を重ねて、舌に血を擦り付ける。次第にロキの舌が動いて、ノエルの舌の血を舐めとり始めた。
「うっ……、あっ……っっ!」
飛び起きたロキが、胸を押さえて苦しみだした。
「ロキ、しっかりして、ロキ!」
蹲るロキの背中を摩る。
早かった呼吸が徐々に落ち着いて、ロキがゆっくりと上体を上げた。
「ノエル、苦しく、なくなった」
「ロキ、左目が……」
ユリウスやノエルと同じ、深紅の瞳に変わっている。
ロキの左目は、ユリウスよりずっと深い赤だった。
「すごーい! 成功した! 人が魔族になるとこ、初めて見たよ。まさか本当にやるなんて、思わなかったなぁ。生かすためとはいえ、酷いことするよねぇ。もう二度と人間には戻れないのに」
はしゃぐムラドの頭をアジムが押さえつけた。
アジムに睨みつけられて、ムラドが不満げに言葉を飲み込む。
「ノエル、ロキにもう少し血を分けてやれ。因子が不安定だと、ロキが苦しむ。今なら自分から吸血できるだろう」
アジムの提言に頷いて、ノエルは肩口を出した。
「ロキ、吸って」
「いいの? ノエルにとっては、されたくない行為なんじゃない?」
「ロキになら、構わない」
ロキの手がノエルの肩をふわりと撫でる。
「じゃぁ、吸うよ?」
ノエルが頷くと、ロキが唇を押し当てた。ピクリと肩が震える。
牙が滑り込んでくるのがわかるが、痛みはなかった。
「ぅっ、ぁ……」
気持ちが良くて力が抜ける。
崩れかかるノエルの体を、ロキが受け止めた。吸う力が強くなった。
「ぁ!」
(強く吸われると、背中が痺れる)
ロキが夢中でノエルの血を吸い続けている。
頭の芯が痺れて、呼吸が早くなる。顎が上がって、顔が熱い。
ロキの腕がノエルの小さな体を拘束するように抱き締める。
「ノエル……ノエル……愛して……。あぁ、……ミツハ……さま……」
譫言ように、ロキが知らないはずの名を呼ぶ。
存在を請うように、ロキの手がノエルの体を弄る。
(あ、れ……? なんだか……)
意識が霞む。視界が途切れて、霧が掛かったようにぼやけ始めた。
ノエルの意志とは関係なく、両手がロキの顔を覆った。
『やっと会えた、私の可愛い眷族。どうか桜姫を守って頂戴ね』
口が勝手に動いて、思いもしない言葉を発する。
ロキの顔を引き寄せて、口付けを交わす。
心底嬉しそうに微笑んだロキが、唇を返した。
「すべては神の御心のままに。俺の総ては貴女のものだ」
歓喜に溢れた瞳がノエルに、いや、ノエルの中に眠る何者かへ向けられているのがわかる。
(ロキは誰と話しているんだろう。私を見ているのに、私を見ていない)
自分の意識がどこか深い場所に沈んでいくのがわかる。
堕ちてはいけないとわかるのに、沈む意識をどうにもできない。
(ロキ……、知らない誰かに、なってしまわないで)
想いは言葉にならないまま、ノエルの意識は深い深い場所へと沈んでいった。
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