21.誘拐
周囲はいつものクラブ室に戻っていた。
違うのは壊れた扉と、倒れている仲間たち、それに知らないロキが目の前に立っている。
「僕の幻術が跡形もなく消えるなんて」
呟いたロキがノエルに目を向けた。
「もしかして、お前がノエル? なら、これが中和術か。でも中途半端だね。仲間たちに掛かった幻術は消えたけど、僕の魔力を消し去るまでには至らなかった」
座り込んで俯いているノエルに、ロキが近付いた。
(中和術? 今のが? いつも使っている術とは違う。体に力が入らない。動けない)
無自覚に使った中和術は、あまりに魔力消費が激しくて、指すら動かせない。
視界の端に映ったカルマが小さく咳き込んだ。よく見ると、出血が止まっている。
全員、意識はないが、怪我をしている様子はない。
(そうか、中和術に続いて、得意じゃない治癒魔法を広範囲に使ったんだ。だからこんなに魔力を消費して……。皆、生きてて、よかった)
傾きそうになる体を懸命に支える。
何とか顔を上げて、ロキの姿をした誰かに向き合う。
(ロキの顔で仲間を殺そうとしたコイツは、絶対に許さない)
「残念だったねぇ、ノエル。さっきの幻術が消えても、僕はまた幻術が使える。僕に向かって中和術を放てば次はなかったのに。お前は選択を誤った」
ノエルはロキの顔を睨んだ。
「気に入らない目だなぁ。圧倒的に劣性なのに、希望を捨てない生意気な目だ。現実に絶望して壊れちゃうくらいが可愛いのに。だったら、もっと面白いパフォーマンスをしよう」
ロキの指が振り下ろされる。
ユリウスの手が突然、ノエルの服を引き千切った。
「ユリ、ウ、ス……」
驚いて、顔だけで何とか振り返った。
ユリウスの目に意志の色がない。
(あの時と同じだ。ノアに『呪い』を植え付けられた、あの時と)
「仲間が目の前で殺し合う程度じゃ、お前の心は壊れないんだろ? 愛する男が自分の血のせいで魔族に覚醒したら、どうかなぁ。それでもお前は、平然と僕を睨み据えていられるかな?」
ロキの目が愉悦に歪んだ。
慌てて逃げようと身を捩る。今の体力ではユリウスの腕の力から逃げられない。
「ダメっ、ヤダ。ユリウス、しっかり、してっ!」
振り向きたくても、動けない。ユリウスの唇が、ノエルの肩に吸い付いた。
びくり、と小さく肩が震える。
「ユリウスも今のままじゃ、ただの人間と変わらないよねぇ。僕の幻術に抵抗できないんだから。竜人因子が覚醒していれば、ユミルやカルマみたいに見分けられたのにね」
気の毒そうに言いながら、ロキが頬杖をついてユリウスを眺める。その目がノエルに向けられる。
「お前もちゃんと見えていたから、わからないか。他の奴らは、目の前の仲間が敵に見えていたんだよ。自分を狙ってくる敵、仲間を狙う敵。守るために殺した相手が実は仲間だったなんて、最高だろ」
ノエルは愉悦に歪む目を睨みつけた。
「最高に、悪趣味だ。見えなくって、良かった。広範囲中和術は、間違いじゃなかった」
歪んだ目から愉悦が消えた。
「いいや、お前は間違った。どう足掻いても人間は魔族に勝てない。お前はこれからその現実を、嫌というほど思い知るんだ。ユリウスに血を吸われてね」
逃げるように半身を捩って、ユリウスの顔を抱き締める。
「私の血を吸っても、ユリウスは、魔族になんか、ならない」
ノエルの血を吸っても、何も起こらないとユリウスは話していた。
実際に血を舐めても変わらなかった。
(何も変わらない。もう試したんだ。大丈夫だったじゃないか)
必死で自分に言い聞かせる。
けれど、どうしても、体が震える。
ユミルはノエルの血が人を魔族に変えると言った。カルマも、さっき何か言いかけた。目の前の魔族の言葉は確信を持っている。
ユリウスを信じていても、頭の片隅にこびり付く不安が拭えない。
ロキの顔がまた、歪な笑みを取り戻した。
「そう思うなら、大人しく吸われていろよ。可能性があると感じるから、逃げようとする。お前は自分の血が本当はどんなものか、知らないのに。お前の中にある石が本当は何かを、知らないのに。体が、本能が、危険だと警鐘を鳴らすんだろ」
ロキの声が、意識に絡みつく。突然、体が重くなった。
(なにこれ、どうして……)
ロキが少しずつノエルに手を伸ばす。
視界が歪んで、地面が斜めに見える。
ノエルの顎を掴んで強引に上向かせると、無遠慮に顔を近づけた。
「その警告は間違ってない。お前たちの中に眠る竜人族の因子は、僕らが目覚めさせてあげるよ」
ロキの顔が間近に迫る。歪に笑う顔は、まるでロキの表情とは思えない。
(竜人……、ユリウスのこと? どうして、私まで……)
ローズブレイドの祖先は竜人、それは桜姫が作ったゲーム設定の一つだ。今は魔族に分類される竜人は、魔国と精霊国が別れるより以前は、この国土全体を収める長だった。
(何か、考えなきゃいけないのに。頭が回らない。何を、考えないと、いけないんだっけ?)
思考が徐々に消えていく。
「僕の目的はお前とユリウスを革命軍に連れ帰ること。ロキは気に入ったから、僕の玩具にするよ。最高に楽しいだろ」
ロキの言葉が頭の中に響いて、渦を巻く。言葉は聞こえるのに、何を言われているのか、わからない。
ノエルの胸にロキが指を立てた。
とん、と突かれた瞬間、どくりと心臓が大きく震えた。
(今の、何? 魔力を込められた? それとも魔術? わからないけど、胸が苦しい)
心臓がすごい速さで脈を打つ。血が沸いて全身を駆け巡った。
魔石が心臓のように脈を打っているのがわかる。あまりの熱さに逃げ出してしまいたい。
「はっ、はっ……ぁっ……」
息が上がって、上手く呼吸ができない。
ノエルの姿を見ていたロキが、ニタリと笑った。
「準備完了。さぁ、ユリウス。愛するノエルの血を存分に楽しめ」
ノエルを抱いたユリウスが、肩に顔を寄せる。
細い牙が、ノエルの薄い肌を貫いた。
「んっ……ぁっ……」
痛みなんか、ほとんどない。ただ気持ちいいだけだった。目が潤んで、視界が滲む。二人を眺めるロキの顔も、よくわからない。
早かった脈も呼吸も落ち着いて、快楽だけが全身に広がっていく。
ノエルを抱くユリウスの腕に力が入る。唇が深く吸い付いて、吸う力が増していく。
ユリウスが触れている所だけを体が敏感に感じ取る。
「やぁ……、やめて」
譫言の抵抗を聞いて、耳元で囁かれた。
「はぁ? やめて? もっと吸ってください、だろ? ほら、言えよ」
「はっ……ぁっ……もっと、吸って、くださぃ……」
口が勝手に言葉を吐く。
「くっ、あははは!」
ロキが声をあげて笑う。
「好きな男に血を吸われるのは、気持ちいいだろ。快楽に堕ちていくお前を眺めるのは気分が良いよ。ずたずたに壊れてくれたら、もっと楽しかったのに」
このままユリウスに吸血されていたい衝動と必死に戦う。
身を捩り、逃げようと動く緩慢な体を、ロキが抑え込んだ。
「今更、逃げようとするんだ? まだ抗うの? そういうの詰まらないから、もういいよ。ユリウスが覚醒するまで、素直に快楽に溺れてろ。ほら、左目の赤が濃くなってきた。ここから、どう変わるのか、楽しみだなぁ」
ロキの顔をした男がうっとりとユリウスを眺めた。
(やだ、いやだ。ユリウス、いやだよ)
上手く思考が回らない。体も動かない。
涙で視界がぼやける。
なけなしの理性は今にも快楽に飲まれてしまいそうだ。
遠くから近づいてくる知らない気配を感じた。
気配はロキの後ろで止まった。
「ムラド、遊びは終わりだ。王族の二人は始末したのか?」
振り返ったロキが倒れているユミルとカルマを指さす。
「全員、死んでる。ノエルの中和術で皆、核が壊れちゃったよ。可哀想にね」
ニコリと笑むロキに対して、男はピクリとも表情を動かさなかった。
「精霊国の王族まで殺せとは指示されていない。余計な真似をしたな」
二人のやり取りに微かな違和感を覚えた。
(全員、死んで……? さっき、カルマは動いてた。今だって、皆の魔力は感じる。何を話しているんだろう)
「しかし、僥倖だろう。いずれは死んでもらう手筈だった。ノアが追い付く前に、この場を離れるぞ。これ以上は時間の無駄だ」
男が警戒しながら後ろを振り返る。
(ノア……。この魔族はノアと戦っていたんだ。ノアに、せめてノアに何か残さないと……)
働かない頭を必死に回転させる。今、伝えられるだけの言葉を、言霊に込める。
ノエルがステルスを纏わせた言霊魔法を手から転がす。ばれないように、なるべく後ろに静かに投げた。
「あーぁ、もうちょっとだったのになぁ。竜神因子が覚醒したユリウス、見たかったのに」
残念そうにしながら、ムラドと呼ばれたロキが立ち上がる。
「続きは砦に戻ってからでいい。それより、ノエルにしっかり幻術を掛けておけ」
「よくわかんないけど、完全には掛からないんだよ。今は広範囲中和術のせいで動けないみたいだし、このままで良いんじゃないの?」
「お前の幻術が掛からない? やはり奇石を持つ人間は特殊なのか。魔力を回復したら、厄介だな」
「その前にアジムに呪印でも付けてもらえばいいんじゃないの? テュールが今、やってもいいけど」
「アジムの許可なしに私が付けるわけにはいかない」
(奇石? 奇石って、何? テュールって、知っている名前だ。誰、だっけ)
テュールに顔を持ち挙げられて、覗き込まれる。
「この状態なら、運ぶのに難はないだろう。早く連れ帰るぞ」
「はーい。ねぇ、ロキって人間、持って帰ってもいい? 僕、気に入っちゃったんだよね」
「好きにしろ。いじり過ぎて壊すなよ」
「玩具で、どう遊んだって僕の勝手だろ。どうせ飽きたら捨てるんだから」
テュールの手がノエルの目を覆う。
目の前が真っ暗になる。ノエルの意識は、そこで潰えた。
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