第8話
どれだけ遺影の前に座っていたのだろう。気づけば僕の足はすっかりしびれていた。
「自殺だったの」
隣に座った川本伊澄の母親は、静かに話し始めた。
「あの子、死ぬ前に遺書を書いてたの。それを読んでね、私は全然伊澄のこと知らなかったんだって……。どんな友達がいて、どんな風に生きてたのかって、何にも知らなかったの。もっとたくさん話をして、知る努力をしないといけなかったのにね」
誰かに話すというより、独り言みたいにぽつりぽつりと出てくる言葉に胸が痛くなる。
「遺書にね、あなたの名前が書いてあったの。住所を書いた紙も大事にしまわれててね」
そう言って、彼女は遺書を僕に差し出した。
「読んで、いいんですか……」
「嫌じゃなければ、読んであげて」
”遥河、頑張れなくてごめん。自分を認めてもらえない社会で生きるのに疲れた。ごめん”
短い言葉に、どれだけの思いが詰め込まれているんだろう。「好きな人がいる」と、そう言っていた人とうまくいかなかったのだろうか……、男の人を好きでいることでなにかつらい思いをしたんだろうか……。色んな考えが浮かんでは消えて、悲しいのに、悔しいのに、涙は不思議と出なかった。そっちで幸せになれると信じて決断したなら、それでいいと思った。
「ありがとう」
大切な時間を共有してくれてありがとう。『仮面の告白』とブルースターを教えてくれてありがとう。そして、「好き」を教えてくれてありがとう。
「大好きだったよ。伊澄君」
実家に戻るころには外はもう真っ暗だった。外套の少ない細い田んぼ道。カエルとセミの鳴き声がうるさいほど響いていた。
「おかえり。遅かったね」
母は心配そうな顔をしていた。
「晩御飯は?」
「食べようかな」
「すぐに温めるけん待っちょって」
母は一瞬驚いた顔を見せたが、嬉しそうにキッチンへと戻っていった。
「今日は唐揚げにしたんよ」
嬉々として唐揚げを食卓に並べる母に、実は昨日食べたんだとカミングアウトできるはずもなかった。
「ちょうど食べたかった」
「よかった」
唐揚げは唐揚げでも、作る人が違うとこんなにも味が違うものかと驚いてしまう。母親が作る唐揚げはいつぶりだろうか。ずいぶんと久しぶりに食べるのに、一口で思い出される母の味に少しばかり感動を覚える。
「遥河が帰って来とるってお父さんに伝えたら、唐揚げ出してやれって」
「なにそれ」
「お父さんがね、唐揚げは遥河の好物だからって。不器用なんよ、あの人は。本当はね、お父さんずっと遥河に悪いなって思ってるんよ?子供みたいに意地張ってるだけ。さっきまでまだ帰らんのかってソワソワしてたくせに、あんたが帰ってきたとたん書斎にこもちゃって……ほんと困った人だわ」
僕は興味ないふりをしながら黙々と食べ続けた。
「ごちそうさま」
「あんたいつ帰るん?」
「明日もう帰る」
「そう。お父さん、6時には家出るけんね」
母は意味深に言葉を残し、せっせと片付け始めた。たぶん母親はエスパーか何かだ。明日父に顔くらい見せるかと思った僕の心を読めるエスパーだ。
父の書斎に入るのは初めてだった。もちろん、部屋のドアをノックすることすら経験がなかった。震えそうなこぶしでノックすると、低く静かな声が返ってきた。ゆっくりとドアを開けると新聞を読んでいる父の姿があった。
「久しぶりに帰ったから挨拶にと思って」
僕は小さく父の背中に呟いた。
「仕事はどうだ?」
「まぁ、ぼちぼちやってるよ」
「そうか。次はいつ帰るんだ?」
「わからない。でもまたしばらくは帰らないかもしれない」
父はしばらく黙っていた。僕は父の背中を見つめていた。
「すまなかった」
沈黙を破ったのは、父だった。相変わらず背中を向けたまま父は続けた。
「お前との向き合い方が分からんくてな。勉強しろとしか言えんかった。お前の気持ちを考えてやれんくて、すまんかった」
父の背中が弱弱しく見えた。
「生きたいように生きればええ。自分の選ぶ道がお前の人生だ、遥河」
立ち上がり、振り向いた父の顔は、ずいぶんと年老いていた。向かい合うと、父は恥ずかしそうに笑った。笑ったときに下がる眉毛を見て、自分とそっくりだと思った。
「今度帰る時は彼女を連れてくるよ」
父はもう一度不器用に笑うと、僕の肩を軽くたたいて部屋を出た。父がいなくなった書斎の机の上には、小さな写真立てが4つ置いてあった。”幼稚園入学””小学校入学””中学入学””高校入学”。すべて僕の写真だった。よく見ると棚には、”遥河 模試”と書かれたファイルがあり、そこには高校受験までの模試が保存されていた。
困り眉と、不器用さがいとおしく思えた。
「お帰り。早かったね」
「うん……。明美、今日は、ちゃんと話すから」
「コーヒー、淹れるね!」
僕が戻ってきてからの明美は、今まで通りの明るい彼女だった。その姿にむしろ胸が痛く、罪悪感がこみ上げた。
「いろいろ考えたの。結婚っていう形を取らなくても一緒にいるだけでもいいのかなとか、もういっそ振り切って別れちゃおうとか……。でもね、たぶんこのまま別れたとして、遥河のこと許せないと思う。長い間付き合って結婚できないから別れようなんて自分勝手すぎるよ。今までの私たちの時間は何だったのって、時間返してよって、思っちゃう。」
「うん」
「でもね、遥河が、私のこと好きじゃないならちゃんと言ってほしい。結婚できないから別れようじゃなくて、好きじゃないから別れようって、ちゃんと言って。たぶん私泣いちゃうと思うけど、ちゃんと受け入れるからさ!」
そう言って笑った彼女は、僕が思っているよりずっと、ずっとずっと、強い人だと思った。素直で、泣き顔よりも笑顔が似合う彼女だと思った。
「亡くなったのは、川本伊澄っていうんだ。本当は高校の同級生じゃなくて、図書館で出会った僕の初恋の人。明美と出会うまで、ずっとその人のことが好きだった。僕が好きになるのは男なのかもしれないって思ってたから、明美と出会ったときは、自分の気持ちが分からなかった。惹かれる気持ちはあるけど、”普通の人”って見られるために明美を利用してるんじゃないかって思う自分もいたから……。明美のことが本当に好きなのかわからなかった」
明美は黙って聞いていた。
「だからずっとあいまいにして関係を続けてしまった。ごめん。でもようやく分かったんだよ。友達としてとか、異性としてとか、恋愛対象としてとか、そんなの関係なくって、僕は明美っていう人間が好きなんだって。明美が女でも男でも、明美が好き。川本伊澄もそういう存在だった」
「川本伊澄は遥河の元恋人なの?」
「付き合ってはない。ただお互い好意はあった、かな」
「そっか……。そっか。それって、なんだっけ……バイセクシュアル?」
「うん……そうなるかな」
「そっか。うん……そうなんだ」
僕のカミングアウトを聞いて明美は何を思っているんだろうか。どんな表情をしているのか、怖くて彼女の顔を見れなかった。ただ、彼女は「うん、うん」と小さく何度も呟いていた。
「それで遥河はさ、私のこと、ちゃんと好きなんだよね……?」
「うん。好きだよ」
「うん。わかった」
また少しの沈黙が流れたあと、明美は続けた。
「正直ね、びっくりっていうか、そうだったんだって思いはあるんだけどね。でも、話してくれてありがとう」
そう言うと彼女は僕の手を取った。
「私も、遥河のこと好きだよ。何年も前から、ずっとね」
優しく笑う彼女の笑顔を見て、温かい手に触れて、泣きそうになる僕を前に明美は言った。
「結婚してください」
「うん……って、待て待て!それ僕のセリフ……」
「別に私が言ったっていいでしょ!」
「僕も言いたい」
「じゃあ言って」
「待たせてごめん。結婚してください」
「はい」
あまり格好のつかなかったプロポーズも、僕たちらしいと思った。
「明日、ブルースター買いに行こっか」
冷めたコーヒーを飲みながら明美が尋ねる。
「川本伊澄くんに報告しないと」
「そうだね」
川本伊澄が教えてくれたこと。それは、誰もが本当の自分を隠すための仮面をつけながら生きていること。傷つきながらも、仮面を取った時、自分も知らなかった自分と向き合うことができるのかもしれない。そして心からの”好き”に気付くのかもしれない。
生けたばかりのブルースターは青々と輝いていて、無邪気に笑う彼の笑顔とそっくりだった。