第6話
びしょびしょすぎてとてもそのまま館内に入ることはできず、僕たちはひとまず図書館の裏手にある駐輪場で雨宿りすることにした。
「やば、びっしょびしょ」
「うわ。教科書までびしょぬれだ」
「俺拭くものもってない」
「僕もハンカチしか持ってない。あ、」
「なに」
「ハンカチもほぼ濡れてる」
「貸してみ」
伊澄君は僕のハンカチを手に取ると濡れてない面で、僕の顔を拭いた。
「うわ!なに!自分でやるからいいよ!」
「はいはい、喋らない」
変に抵抗することもできず、僕はされるがままを受け入れることにした。しばらく拭いてくれていたが、そのうち伊澄君の手が止まった。
「遥河、まつげ長い……」
「え」
驚いて目を開けると、真面目な顔をした伊澄君と目が合う。
「……ごめん、」
ふっと悲しそうに笑って俯く伊澄君。
「伊澄君も、顔、拭いたら……」
「俺は大丈夫だよ。すぐ乾くし」
僕は伊澄君の手からハンカチを取った。
「だけんいいって」
「はいはい、喋らない」
そう言って僕は、さっきまで彼がしていたように彼の顔を拭いた。
「やっぱもういい」
「いやまだ全然、」
伊澄君は不意に拭いている僕の手をつかんだ。
「なんか、まじで、このままだとやばいから……」
余裕がなさそうにする伊澄君がとても魅力的に思えてしまうのはどうしてなんだろうか。雨でぬれた髪に、汗か雨か分からない、しずくが伝う首元に、僕の鼓動は早くなるばかりだった。
「やばいって……なにが……」
「俺が変な気持ちになる……」
「変な気持ちって何」
「お前分かってて聞いてんの?」
伊澄君は顔をあげると怒ったように僕を見た。からかっているわけではなかった。純粋に彼の本音を聞きたいと思ったのだ。思わせぶりな態度をとるくせに、本当のところは隠そうとするのが嫌だった。聞いても驚かないし、気持ち悪いとも思わないだろう。僕は自分勝手にも、本当の彼を見せてほしいと望んでしまっていた。
目が合う二人の間には、公園のときとは明らかに違う雰囲気が漂っていた。静かに伊澄君の顔が近づく。僕は思わず、彼の肩を力なく押し返してしまう。
「ごめん、」
伊澄君は我に返って顔を離そうとする。
「違う……大丈夫」
自分で何を言っているのかわからなかった。反射的に出た言葉を理解しようとしても、もう脳内はいろんな感情の整理でキャパオーバーだった。伊澄君の肩に置いた手は、次には自分の濡れた制服のズボンをつかんでいたし、目はギュッとつむっていた。
伊澄君は僕の前髪を上げ額に軽いキスを落とした。
期待を裏切られたというか、予想が外れたというか、彼がキスしたのは僕の額だった。
残念なような安心したような、僕は複雑な気持ちのまま目を開けた。僕が目を開けたときには伊澄君は離れたところで服の裾を絞っていた。
「遥河も服絞れ。風邪ひくぞ」
「う、うん……」
さっきのことが幻だったんじゃないかとおもうくらい伊澄君は平然としていた。自分だけ舞い上がって変な気持ちになっているような気がして、急激に恥ずかしさが込み上げてきた。
気づけば、空に広がっていた雲の隙間から光が差し込んでいた。
「今日はもう帰れ。風邪ひくとよくないけん」
「伊澄君は」
「俺も帰るよ」
「じゃあ一緒に帰ろ、」
「俺猫の様子見てから帰るけん」
「だったら僕も、」
「ちょっと一人にしてほしい……ごめん……」
彼の言葉に、僕はようやく我に返った。恋をしたこともない男が、出会って1か月ちょっとの男にキスされて舞い上がっている。それが他でもない自分だということ。やっぱり僕はどうかしていたのだろうか。キスされるかもしれない状況で僕はそれを受け入れたということは、僕は同性愛者なのだろうか。
「そうだよね、ごめん……帰るね……」
むなしさ、羞恥心、懐疑心、いろんな感情でぐちゃぐちゃだった。僕は伊澄君を見ることなく、駆け出して家路を急いだ。
濡れたハンカチは冷たいのに、僕の額はまだ彼の唇の温かさが残っているようだった。
家に帰っても、僕の額は無性にうずいた。暗闇の中、目をつぶると嫌でも今日のことが鮮明に思い出された。僕の手は自然と自分の熱くなった下半身へとあてがわれる。そなんなときに浮かぶのは伊澄君だった。タブーに触れている気がして、自分を制御しようとすればするほど、その意に反して僕の手は早まった。
肩で息をしながら汚れた手を見て僕は絶望にも似た感情に襲われた。一方で、達成感や満足感を感じている自分もいた。不意に思い出されたのは、『仮面の告白』の一場面だった。
(その絵を見た刹那、私の全存在は、ある異教的な歓喜に押しゆるがされた。私の血液は奔騰し、私の器官は憤怒の色をたたえた。この巨大な、張り裂けるばかりになった私の一部は、今までになく激しく私の行使を待って、私の無知をなじり、憤ろしく息づいていた。私の手はしらずしらず、誰にも教えられぬ動きを始めた。私の内部から暗い輝かしいものの足早に攻め昇って来る気配が感じられた。と思う間に、それはめくるめく酩酊を伴って迸った。)
不意に思い出された『仮面の告白』の一場面。
僕は、「私」だ。これは僕の話だと思った。