第5話
『仮面の告白』は簡単にまとめるとこんな話だった。
病弱だった「私」は、幼少期祖母に女の子ように育てられる。思春期になった私は、「聖セバスチャン」という裸の青年が描かれた絵に性的魅力を感じる。そのうち私は、中学の同級生「近江」に「聖セバスチャン」を重ね恋心を抱いてしまい葛藤する。そんなとき、友人の妹である「園子」と出会い、自分も女の子と普通の恋愛ができるのではないかと思う。しかし園子とキスをしても私の心は動かなかった。園子と別れても自分の性に悩むが、男を前にするとやはりその身体に魅力を感じてしまうのであった。
率直な感想としては、比喩表現が多くて難しかった。どうも想像力に欠けるらしい僕にとっては、言葉の真意をくみ取るのに苦労した。分かったことと言えば、主人公が同性愛者であって、自分の性と世間に見せている自分の姿の狭間で葛藤し続けたということ。僕はどうしてかそんな「私」の気持ちが分かる気がした。そして伊澄君がこの本を僕に薦めた訳も。本当にそうかはわからないけど、そうであるような気がした。
「どうだった?」
「正直難しかった」
今週も僕は、開館したばかりの図書館で、外のベンチに座って隣にいるきれいな顔の男と話していた。
「まぁ、普通の恋愛の話じゃないしね」
「というか、比喩が多くて読みづらかったって感じ」
「そういうことか。たしかに三島作品は比喩表現多いよな」
「でもなんとなく主人公には共感できるかも」
「え!」
驚いて僕を見つめる彼の瞳は、いつも以上にキラキラしていた。少年のような無垢な瞳の奥に期待が見えるような気がした。
「違う違う!そういうことじゃなくて!本当の自分と外に見せてる自分に葛藤してるのに共感できるっていうか……誰でもそういうのあるよなぁ、みたいな」
焦って否定する形になってしまった僕の返答に、一瞬彼の顔に影が落ちたようにも見えたが、彼はへらへら笑った。
「そんなに焦らんでもわかっとるって」
「伊澄君は?どう思った?」
「俺も主人公には共感できるな。でも俺は近江はタイプじゃない」
「タイプじゃないって……そこ?」
「冗談!」
そう言って笑うけど、どこか空虚な笑顔だった。
「じゃあ、どんなのがタイプなの?」
「え……?」
「伊澄君のタイプ」
「か、かわいい……系……?」
「たしかに、近江は可愛い系じゃないね」
「細くて、白い子の方が、タイプだったりする……かも」
ぎこちなくしゃべる伊澄君が新鮮で、自分で聞いたくせに急に隣との距離にむずがゆくなった。
「……遥河みたいなのがタイプ、とか言ったらどうする?」
「へ!?な、ぼ、僕!?それってどういう、」
「あれ、なんか顔赤くね?」
さっきのぎこちなさはどこへやら、気づけばいつもの調子に戻っていて、また僕は彼に転がされてしまっていた。
「赤くない!」
「ごめんごめん、ちょっとからかいたくなっただけ」
「伊澄君って、」
「よし、この話はもう終わり!」
彼は唐突に立ち上がると、一つ大きな伸びをした。僕はと言えば、あっけにとられて、出かかった言葉を飲み込むことしか出来なかった。
その日家に帰ると、そのまま自分の部屋に上がろうとした僕は母に呼び止められた。
「遥河、今日学校行ったよね?」
そりゃ、無断欠席がバレないとは思っていなかったし、それなりの覚悟はしていたけど、実際聞かれると途端に冷や汗が背中を伝った。
「行ったけど、なんで?」
「お父さんには言わないから」
「行ったよ」
「そう……。最近、学校はどう?」
「別に、普通」
「そっか」
それ以上母はこのことについて追及してこなかった。僕は逃げるように自分の部屋へ向かった。
たぶん、学校から何かしらの連絡があったんだろうと思う。普通に考えて、毎週水曜日だけ学校に来ないのはおかしなことだ。学校から連絡が来ても不思議ではない。きっと明日は担任に呼ばれて話さないといけない。そう思うととても憂鬱だった。そして僕は無性に伊澄君に会いたくなった。
最後に伊澄君と会ってから1か月が経っていた。あれから担任と母との3人で、今後の僕の学校生活について話し合った。精神的な面を考慮して、テストは必ず出席するという条件つきで月3回までの欠席は認めてもらえることとなった。母も父には話さないでいてくれるらしかった。
久しぶりに来る図書館に変な緊張感を覚えながら、僕は伊澄君の姿をしきりに探していた。しかしベンチにも館内にもその姿はなかった。伊澄君がいないことに、自分でも驚くほど残念に思っている自分がいた。しょうがないと思いながらも、すぐに勉強する気にも、本を読む気にもなれず、図書館を後にした僕は周辺を散歩することにした。
通り過ぎはするが、このあたりの道をじっくりと探索するのは初めてだった。古い木造町家が立ち並んでいるなかに、昔ながらの駄菓子屋や、リノベーションしたような古着屋があった。知っているようで知らなかった街並みに少し気持ちが弾んだ。少し歩いたところに、公園があることに気が付く。錆びたブランコと滑り台だけがぽつんとある小さな公園だった。引き寄せられるように公園に入るとそこには知っている姿があった。
しゃがんで子猫と戯れている彼の顔はとても甘かった。子猫を触る白くてごつごつした長い指に見とれてしまう。ずっと見ていても飽きない彼の姿に、話しかけるのがもったいなく感じられてしまい、僕はしばらく話しかけないで置くことにした。
しばらくすると僕の存在に気づき、驚いた顔をした彼が近づいてきた。
「なにしてんの!図書館は?」
「伊澄君がいなかったけん散歩してた。そしたらたまたま見つけた」
「いつからいたん?」
「10分前くらいかな」
「はやく声かけろやー」
「猫と楽しそうにしてたから」
「あー、この子ね」
伊澄君は、後を追いかけて足元にすり寄る子猫にまたいとおしそうなまなざしを向けた。
「2週間前くらいに図書館の入り口のところにいたのを、ここまで連れてきてからなつかれちゃってさ。それから図書館行く前にここに会いに来てんだよ」
デレついた顔に僕は妙な嫉妬心を覚える。
「じゃあ、ずっと猫とじゃれてたらいいよ」
「お、え?かまってもらえなくて拗ねてんのか?」
「は?なんで僕が拗ねるわけ?」
「怒るなよー。な、ハルカ?」
一瞬自分に言ったのかと思い混乱したが、彼の目線の先にはしっかりと子猫がいることから、言葉の向かう先は自分ではないと分かった。
「名前、ハルカって、……」
「最近遥河が図書館来なくて寂しいけん、この子に癒してもらってたんだよ。なー?」
「ややこしいから、名前変えてよ」
「遥河はかわいいなぁ」
「そういうこと言うなって」
「俺はこの子に言ってんだよー」
「わかってるけど、……こっちが恥ずかしくなるだろ」
「かわいい……」
「え、」
「いや、ちが、」
不意にぶつかった視線に、二人して恥ずかしくなる。瞬時に視線が逸らされると訪れた沈黙に、自分の心臓の音が聞こえるのではないかと心配になる。
「猫に言ったんだよ……今のは……」
「わかってるよ……」
いつものペースがつかめず、再び訪れようとした沈黙を破ったのは、子猫の鳴き声だった。静かにしていたハルカが急にしきりに泣き始めた。かと思えば、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきて、徐々に雨は強くなっていく。少し前まで見えていた青空は黒い雲でみえなくなり、いつの間にか雨は本降りになっていた。
「とりあえず滑り台の下行こ!」
伊澄君の言葉に従い滑り台の下まで行ったものの、滑り台は高校生男子2人が雨よけにするにはあまりに小さすぎた。
「図書館まで走るか」
「猫は?」
「ハルカとは今日はここでバイバイ」
そう言ってハルカを一撫ですると、ハルカは甘えた声で鳴いた。
「また来るから。よし遥河、走るぞ」
「うん」
勢いよく飛び出した伊澄君を追いかけて、僕は夢中で走った。降ってくる雨も、道路にできた水溜りも気にならなかった。前を走る背中が遠ざからないように必死で追いかけていた。