第4話
小さい仏壇の前に座り、手を合わせる。仏壇の横にある小さいテーブルの上には遺影が2つ。川本伊澄の父親と思われる男性と、川本伊澄。にこやかに笑う彼の前には、みずいろの花が供えられていた。僕はこの花の名前を知っている。
ブルースター。
ミルキーブルーに染められた5枚の花びらが青い星のように見えることからそう呼ばれている。ほかに知っている花なんて、バラやチューリップのような誰でも知っている有名なものばかりだ。そんな花に無頓着な僕がブルースターを知ったのは、川本伊澄と出会ったからだった。
当時僕は17歳。高校2年生の夏ともなれば、周りは大学受験を意識し始めたり、自分の進路を本格的に考え出す。そんな中、どうしても僕は将来を考える気にはなれなかった。とりあえず進路票には、「医学部」と書いていた。成績は良かったし、勉強が嫌いというわけでもない。ただ、将来や進路という言葉を聞くと嫌でも思い浮かぶ顔があった。父親だ。医者である父は、直接言うことこそなかったが、息子に自分と同じ道を志してほしいと思っていたに違いない。というのも、母親から父がどう思っているのか間接的に聞いていたし、なにしろ、幼いころから自分の教育に金をかけてくれているという実感があったからだ。小学校のときも中学校のときも、遊びを返上して勉強ばかりしていた。楽しみと言えば、塾の先生が授業後にくれるチョコレートくらいだ。それも、どこのお菓子メーカーとも知らない業務用の大量に入ったうちの一粒。そんなチョコレートを楽しみに思うくらいに、他に楽しみなんてなかったのだ。
勉強一色の生活をしていれば、それなりに学力もついてくる。学校や塾のテストで1位をとるたび、クラスメートは羨望のまなざしを向けてきたし、母親も自分のことのように褒めてくれた。そうして僕は誇らしい気持ちになった。けれども、父親は一度も僕を褒めてはくれなかった。そればかりか、「将来医者になるんだからそれくらい当たり前だ」と思っていたに違いない。どれだけ頑張っても認めてくれない父親を、僕はだんだんと嫌いになっていった。そうして、高校生になった頃には、父親と同じ医者にだけは決してならないと強く思っていた。最初こそ父親への反発心や反骨精神からくるものだったが、父親抜きに考えても医者になりたいという思いは持ち合わせていなかった。とはいえ、なんとなく将来は医者を目指すのだろうと思って生きてきただけに、医者という将来の指針を失ったとき、僕は何のために勉強しているのかわからなくなってしまったのだ。
「今日学校は?」
図書館の外のベンチに座っていた僕は唐突に話しかけられた。横に座ってきたのは同年代くらいの男だった。初めて彼を見たとき、きれいな顔だと思った。長いまつげに大きな目。色素の薄い瞳の色が印象的だった。彫りが深いわけではないのに日本人のような平面さもない。顎にかかる長さの髪はさらさらで真っ黒だった。反対に肌は真っ白で、そのコントラストに見とれてしまう。華奢な体とは似合わない大きくてごつごつした男らしい手があべこべで面白かった。中性的という言葉にあてはめてしまうにはもったいない、男の子か女の子かわからない、どっちでもあるようでどっちでもない。彼は不思議な美しさをもっていた。
「学校」
見とれすぎて、言葉を発することを忘れてしまったらしかった僕を見て、彼はもう一度話しかけた。僕は慌てて返事する。
「え、あ、学校、は……、休み」
「学校が休みなのに制服なんだ」
「あ、これは……」
「ズル休み?」
「まぁ……」
平日の開館して間もない図書館に制服を着た学生がいるなんて、普通に考えればおかしな話だ。
夏休みが開けて1週間。残暑の厳しい9月初旬。僕は初めて学校をズル休みした。今日はおそらく夏休み明けにあったテストが返却されるだろう。たぶん僕はほとんどのテストで満点近い点数をとっていて、学年のトップか、そうじゃなくても上位3位以内には入っていると思う。クラスメートはきっと「医学部目指してる奴は違うな」と言うんだろうし、先生は「さすがだ」なんて調子のいいことを言うのかもしれない。それを聞いて僕は、「テストが簡単なんだから当たり前じゃないか」と思いながら、「いやいや」なんて謙遜しなければいけない。
学校の授業は簡単すぎてつまらなかった。部活にも入ってないし、学校生活で打ち込めるなにかもなかった。何のために、毎朝早起きして学校に行くのだろうか。そんなことを考えたら、学校に行くことがすごく非建設的に思えてしまったのだ。だから僕にとってはズル休みなんかじゃない。だけどそんなことを言って「じゃあ休んでもいいよ」となるはずがない。僕は、いつものように早起きして制服を着た。そして「行ってきます」と言って家を出て、向かった場所は図書館だった。学校には体調不良で欠席すると伝えた。これを一般には「ズル休み」というらしい。
「ふーん。そうなんだ」
学校に行かない理由を追求するわけでもなく、変に同情するでもない彼に、僕は変な安心感を覚えた。
「川本伊澄。伊澄でいいよ」
「え」
「名前なんて言うの?」
「真壁遥河、です」
「ハルカ……いい名前だね」
「初めて言われました」
「そうなの?」
「珍しいね、とかはあるけど」
「ハルカって珍しい?」
「男なのに、女の子みたいな名前だから」
「あー、そいうことね」
「遥河」。「遥さきの未来まで、銀河のように大きくのびのびと生きられるように」と、そんな願いを込めて父が名付けた。
母の妊娠が分かり、性別判定を受けたとき医者には「女の子」だと言われたらしい。父は生まれてくる娘に「ハルカ」と名付けると決めていた。とても想像できないが、母の大きなお腹をなでながら、「ハルカ」と呼びかけていたらしい。実際生まれてきた我が子を見て、母はもちろんのこと、父も大変に驚いたに違いない。なぜなら生まれてきたのは女の子ではなかったのだから。ハルカ”ちゃん”ではない我が子。母は、名前を考え直そうと提案したらしい。けれども父は、呼び慣れた「ハルカ」を変える気はないと頑なだった。そうして僕は、ハルカ”くん”になったのだ。
「ハルカ」と聞いて、まず思い浮かぶのは女の子かもしれない。自分でもそうなのだから、多くの人がそうなんだろう。だから、今まで多くの場面で「男の子なのに女の子みたいな名前だね」とか、「男の子にしては珍しい名前だね」と言われてきた。それに、自分の性格もとてもじゃないけど男らしくなんてなかったし、身体だって小さくて細かったから、「名前だけじゃなくて性格まで女」だとか「本当に男か」とか言われて、何かといじられる対象だった。小学生や中学生なんて、共通認識的なターゲットを作ることで絆を深めるようとする幼稚な生き物だから、僕みたいなやつは格好の餌食だったんだと思う。中学生の時は「ついてないんじゃないか」と股間を触られることも多々あった。言葉だけならまだしも、物理的にいじられるようになると、精神的に受けるダメージも大きかった。
母は昔から、名前の響きが女の子だからという理由で息子がいじめられることがないか心配していたようだ。加えて、僕は人見知りだし、放課後は遊ぶことなく塾に通い詰めていたものだから、学校生活や友人関係を気にしているようだった。
「遥河、最近学校はどう?楽しい?」
ある日の晩御飯のときだった。久しぶりに家族3人そろっての食事で、晩御飯は僕の好物の唐揚げだった。唐突に尋ねた母に、僕は驚いた。そして、「いじられてつらい」と正直に言うべきか、「楽しいよ」と嘘をつくか悩んだ。
「楽しいよ」
結果的に僕は嘘をついた。母に心配をかけたくなかったというのと、父が知って話が厄介な方に進む可能性があることを考慮したからだ。けれども僕の嘘は母には通じなかったようだ。
「あんた最近元気ないけん、お母さんなんかあったんかって心配しちょったんよ」
「なんもないよ」
「このごろ朝も起きてこんし、お弁当も残してくるけん……」
こんなことで、息子の元気がないとか、学校で何かあったとかわかるものなのか。母親というのはすごいなと、僕は感心してしまった。
「塾で疲れとるんだが。わざわざそげなことで心配するな。中学生なんだからほっといてやれ」
心配する母をよそに、父はあたかも自分が正しいかのように「ほっとけ」と言った。今思えばそれは、僕の状況を知らない父なりの、思春期の息子に対する配慮だったのかもしれない。だけど僕は、知らないなら知ろうとする姿勢を父にも少しは見せてほしかったんだと思う。
「疲れとるけど、塾のせいじゃない」
気づけば僕の口からはそんな言葉が飛び出ていた。
「名前のせいで学校でいじられとる」
母は驚いて、次には申し訳なさそうな顔をしていた。父は、食べる手を止めてじっと僕を見つめていた。
「男なのに女の子みたいな名前だから!中身まで女だとか!体も女なんじゃないかとか!」
勢いに任せて吐き出した言葉が脳裏で反響していた。そのうち僕の目からは涙が溢れ出してきて、止めたいのに止められなくて悔しかった。
「そんなの真に受けるな。馬鹿を相手にしてうじうじしとる暇があったら、勉強してそいつらを見返してやれ。情けない」
「遥河、お父さんの言うことは聞かんでいいけん。つらいことは全部吐き出しんさい」
そう言うと母は席を立ち僕を抱きしめた。
「お前がそうやって甘やかすから、女みたいだとか言われるんだろうが!」
「なんでそうなるん!?なんでそんな言い方しかできんの!?」
母と父が言い合いをしていたけど、何を言っているのか頭に入ってこなかった。ただ思ったことは、父は僕には無関心だということ。父が見ているのは僕ではなく、僕の成績や学力だけ。父が見ているのは、今の僕ではなく、医学部に進んで医者になった僕なんだろうと思った。
だから僕は父がつけた名前が大嫌いだった。「遥河」という名前が大嫌いだった。
「いいじゃん。ギャップ」
隣の彼は軽快に笑った。
「俺もあんま男っぽい名前じゃないけど、逆にそれがいいっていうか。お前らとは違うぞって感じでけっこう気に入っとる」
「すごいですね川本君は」
「伊澄。あと敬語禁止」
「……すごいね伊澄君は。僕は性格も女みたいだって中学まではいじられてて……」
「嫉妬してんだよ、たぶん」
「嫉妬って。そんなわけ」
「それか好きなんだよ」
「へ?」
「ほら、好きな子にはちょっかいかけちゃうって言うだろ」
「いやだっていじってたの男子だし、僕も男だし」
「関係なくね?こんなかわいい顔してたら、俺だったら好きになっちゃう」
グっと彼のきれいな顔が近づく。鼻と鼻が触れそうな距離に、僕の鼓動は速度を上げていく。
「ちょ、ちょっと……」
「まつげ、ついてる」
彼は僕の頬についていたというまつげを取ると、顔を離した。
「あ、ありがとう……」
歯切れの悪い感じでお礼を伝えると、彼は見透かしたようにニヤッと笑った。
「ドキドキしただろ」
「ドキドキっていうか、びっくりしただけ。こんな顔近づけられると誰だってびっくりする」
「乙女みたいな顔してたけど」
「してない!乙女ってなんだよ……ていうか誰にでもこんなことしとるの?」
「んー?気になった人だけ」
「気になる」ってどういう意味なんだろう。自分以外に何人の人にこういうことをしてきたんだろう。聞きたいことはたくさんあるのに、なぜか聞きたくなかった。知ってしまったら傷ついてしまうんじゃないかと、直感的に思った。初めて出会ったのに、こんなことを思うなんて心底不思議だ。彼のことなんて全然知らないのに、どうしてか惹かれてしまう。風のように軽いのに、見つめる瞳には深みがあって、人を魅了する。彼はそんな人だった。
「学校休んで、こんな朝っぱらから図書館来て何するん?」
「自習室で勉強しようかなって」
「勉強すんなら学校行けよ」
彼は、驚いたように笑った。
「学校の授業はつまんないから、自分がしたい勉強した方が建設的かなって」
「建設的……難しい言葉使われても分からん。俺高校行ってないけん」
「そうなんだ。……え、今何歳?」
「18。俺、家の花屋手伝っとるだ。中1のとき父親が死んで、母親1人じゃ大変だから、高校行かずに家業手伝ってる」
「そうなんだ。すごいね」
「水曜日は定休日だから、昼から近所の精肉店でバイトして、夜は居酒屋。それまではこうやって図書館来て本読んだり、ぼーっとしたりしとる」
「バイトもしてるんだ」
「金はあったに越したことはないけんなあ」
そういって伸びをした彼の横には1冊の本が置いてあった。
「仮面の告白……」
「読んだことある?」
「いや……」
「三島由紀夫、読まない?」
「え、あ、……『金閣寺』は中学生の時読んだ」
「俺も中学んとき読んだわ」
「国語の授業で」
「そうそう」
「これどんな話なの?」
「んー……、自分で読んでみたらいいじゃん」
「あ、うん」
ー三島由紀夫ー
三島由紀夫と言えば、切腹という時代錯誤な死に方をした人という印象しかない。読んだことがある作品だって『金閣寺』しかない。現代文の授業で知った程度の知識しかない僕が、ズル休みして来た図書館で、初めて会った人に三島由紀夫作品を薦められるとは思ってもみなかった。けれども彼に薦められて、読まずにはいられないと思った。
「これは俺の話なんだ」
そう言いながら表紙をなでる彼の顔は、まるで恋人を見るかのように優しかった。あまりにいとおしそうな表情をするものだから、僕は本にすら嫉妬してしまいそうになる。
「どういうこと?」
「ん?なんでもない」
彼はいたずらに笑ってはぐらかした。
「遥河と話してたら、あっという間に時間経つな」
気づけば11時を過ぎていて、彼はバイトに行かなければいけないからと言って席を立った。開館時間の9時に来たのにもかかわらず、驚いたことに僕たちは一度も中に入ることなく、2時間近く2人仲良くベンチに座っていたらしい。
「学校行きたくない日は、図書館来ればええ。水曜日だったらおるけん」
「うん」
「あと、」
「うん?」
「遥河って名前、俺好きだよ」
「好き」という言葉がちゃんと自分に向けられたと感じたのは初めてかもしれない。正確に言えば、「自分に」ではなく「名前に」だし、本人を前に気を遣って出た建前かもしれない。それでも僕には十分だった。彼の飛び切りの笑顔つきで「好き」が聞けただけで、僕の心は不思議と満たされたのだから。
彼の連絡先は知らない。僕が知っていることと言えば、名前は川本伊澄で、歳は18歳だということ。高校には行かず花屋で働いていること。毎週水曜日の午前中は図書館で本を読むこと。愛読書は三島由紀夫ということ、くらいだろうか。
「あ、あと……本通り商店街を入って7番目!俺ん家だから」
それと、彼の家は商店街にある7番目の花屋だということ。時間が迫っていたのか、彼は捨て台詞のように吐き捨てると小走りで通り過ぎなら手を振った。もしかしたら来週の水曜日図書館に来ても彼はいないかもしれない。家は商店街にないかもしれないし、入って8番目かもしれない。実家は花屋じゃないし、彼は高校に通っているかもしれない。ひょっとすると、「川本伊澄」もでたらめかもしれない。それでも僕は、仮に彼を「川本伊澄」と仮定して、彼のことをもっと知りたいと思った。彼を知るにあたり、まずは三島由紀夫に立ち向かう必要がある。僕は返却されたばかりの『仮面の告白』を借りると、自習室へと向かった。図書館の2階にある自習室には、年寄りと私服の若い人が数人。制服なのは僕だけだった。席に座ると、カバンに入った参考書には目もくれず、借りたばかりの本を読み始めた。