第3話
東京から飛行機で1時間半。見慣れたビル群から一変して、あたりには田畑が広がっており、すこぶる田舎感が漂うこの場所が、僕の地元であり川本伊織が住んでいたところだ。ノスタルジーに浸ることはないけれど、幼いころから何度も歩いた道を歩くと、ほんの少し懐かしい気持ちになれた。
「おじゃましま……、ただいま」
「おじゃまします」と言いかけて、「ただいま」と言い直す。自分の家であるにもかかわらず、他人の家に上がる感じがして、「ただいま」と言うことに抵抗を感じた。
「母さん」
台所に立つ母の後ろ姿に向かって声をかける。なんとなく、5年前よりもその背中は小さく見えた。母は、驚いた表情で振り向いた。
「あんた……どげんしたの?仕事は?」
「休みとって帰ってきた」
「急に、なんしに……」
「友達……が亡くなってさ」
「友達って?こっちに連絡来てないけど?」
「学校の友達じゃないから」
「え?どこの友達?このあたりの子なの?お葬式に行くんならいろいろと用意しなきゃ――」
「大丈夫だから!葬式はもう終わってるし、母さんには、関係ないから……」
一瞬だけ、母は寂しそうな顔をした。
「麦茶入れるね。今日暑いけえ。そういや、今日は最高気温だって今朝のニュースで言っとったわ」
「大丈夫。すぐ、出るから」
「あら、そうなの。でもちゃんと水分取らんと熱中症に――」
「ペットボトル、あるから」
開かれた冷蔵庫から麦茶が取り出されることはなく、そのまま閉められた。母は、こちらを振り向かないままぽつりとつぶやいた。
「ごめんね……母さん、あんたが帰ってきたのが嬉しくって。ついつい子ども扱いしちゃった」
「別にいいよ……謝らなくても……」
僕はバツが悪くなってうつむいた。
「晩御飯は?」
「い、らない……」
「そう、わかった。いっつも余るほど作っちゃうけん、もし家で食べることになっても大丈夫だけんね。あと、お父さん、今日は飲み会で遅くなるみたいだけん……」
「いらない」ばかりじゃ母がかわいそうな気がしたが、どうしても父親と一緒に食卓を囲む気にはなれず、なんだか歯切れの悪い感じで答えてしまった。それを察してか否か、母の返答は、どこか気を遣ったものだった。
「わかった。ありがとう。じゃあ、もう出るね」
「うん。気をつけないよ」
玄関を出るときに聞こえた「いってらっしゃい」。明美以外から言われるのが久しぶりすぎて、しかもそれが母親となると、余計にくすぐったく感じた。小声の「いってきます」が母に届いているかはわからないけれど、僕にはそれが限界だった。
家から、最寄りのバス停まで歩いて25分。とても最寄りとは言えない距離だが、田舎ではよくあることだ。電車、いや、ここでは汽車か。汽車もバスも1時間に1本。都会の感覚で、時刻表を確認せずに家を出たから、何十分も待つことになったら嫌だな、なんて考えながら時刻表を確認すると、幸い5分ほどでバスが来るようだ。老人が3人、屋根もないバス停に気だるそうに並んでいる。タクシーを使えばもっと楽なんだろうが、せっかく田舎までやってきたからには、とことん田舎を味わってやろう。1時間に1本しか来ないところも、バス停に老人しかいないところも、都会での生活が日常となった今ではむしろいとおしく感じるまでになっていた。
最寄りのバス停から11駅のところに、商店街がある。僕が学生だった頃は、シャッター街だったこの場所に、数年前から地域活性化事業の一環でか、若者向けのおしゃれなカフェや居酒屋ができつつあるらしい。知らない店の看板を横目に通り過ぎていく。そして、商店街を入って7番目のお店の前で立ち止まった。
『signets』。それがこの店、川本伊織がいた場所だ。ガラス張りの扉に白い文字で書かれた店名は、主張こそしていなかったが、そのシンプルさがかえって目立っているように思う。「signets」はフランスの言葉で、日本語に訳すと「しおり」という意味になるらしい。「人生という本に、花のしおりをはさんで、ストーリーを思い出すきっかけにしてほしい」そんな思いを込めたと彼は言っていた。
「『フラワーショップ カワモト』って、じいちゃんが決めたんだけど、つまらんから俺の代になったら絶対変えるって決めてんだ」
「何にするか決めてんの?」
「いや。決めてないけど、とりあえず日本語はないかな」
「じゃあ、英語?」
「英語もなんかつまらんよなあ」
「フランス語とかは?なんとなくおしゃれじゃない?」
「あー。たしかに。まあ、ゆっくり考えるわ」
あのときの会話が鮮明にフラッシュバックしてくる。この場に彼がいたのなら、「そいえばあのとき」なんて昔を思い出して、きっと恥ずかしくなるだろうけど、一緒に馬鹿笑いするんだろう。
店にはロールカーテンが下りていて、臨時休業の張り紙が貼ってあった。それがひどく現実を突きつけてくる。
「川本伊澄はもういない」のか?本当に?信じられない。だってこうやって店の前に立っていたら、「何してんの?」って呆れた顔で店から出てきそうじゃないか……。
そっと指でなぞったドアの文字は、ひんやりと冷たかった。
どれくらいの間、店の前に立っているのだろうか。平日の昼下がりの商店街は人通りが少ない。いや、気づいていないだけで、もしかしたらたくさんの人が通り過ぎていったのだろうか。なんにせよ、僕がこうして1時間ほど店の前に突っ立っていることに変わりはない。もうじき学校帰りの学生たちがここを通ることになるだろう。女子高生なんかは、放課後にこの通りのカフェに立ち寄るかもしれない。そうなると僕は「ずっと店の前にいる変なおじさん」になってしまうかもしれない。
今日のところはいったん帰ろう。
名残惜しく、ドアの文字をなでて、僕は来た道を戻ろうとゆっくり歩き始めた。そのときだった。
「すいません」
ガチャっとドアの開く音がしたかと思えば、女性の声に僕の足は止められた。振り向くと、さっき僕がいたところには50代くらいの女性が立っていた。
「もしかして、伊澄のお友達……?」
「あ、はい……」
ずっと店の前にいたところを見られていたのかと思い、少々気まずくなりながら答えた。
「そうですか。伊澄の母です」
なんとなくそうだろうとは思っていたが、女性は川本伊澄の母親だった。川本伊澄は、自分のチャームポイントは母親譲りの大きな目と長いまつげだと言っていたが、本当に母親そっくりだった。あまりにそっくりだったので、思わず笑みがこぼれた。
「真壁遥河です。伊澄君には、学生の頃仲良くしてもらっていました」
「真壁くん……。散らかった家だけど、上がっていかん?伊澄も喜ぶと思うけん……」
「いいんですか!?ぜひ!」
思いもよらぬ提案に、僕は食い気味に返事をした。川本伊澄の母親は心悲しそうに微笑んだ。
川本伊澄の家に上がるのは初めてだった。会うときはほとんどが図書館だったからだ。そうでないときは、本当にたまにだが、図書館の近くにある公園で会った。錆びたブランコとベンチが1台の、小さくて古びた公園だった。
川本伊澄の家は、1階に店と風呂があり、上の階が居住空間となっているようだった。
「ごめんね、狭い家で。それにまだ整理が終わらんくてね」
テーブルの上には、写真やアルバムが乱雑に置かれていた。
「これ……伊澄君……」
「3歳のときだね。七五三の写真。この子全然笑わんから、撮影が大変でねえ。でも、私がくしゃみしたらね、ちょっとだけ笑ったんよ。私のくしゃみがおかしかったんかね。あ、こっちは、小学校の運動会でね、走りたくないって、50m走を歩いてるときの写真。急遽先生がやってきて、伊澄の手を引いてね……これは、合唱コンクールの……、あ、ごめんなさいね。べらべらと……」
彼女は我に返って、しまったというような顔をして謝ると、散らばった写真を片付け始めた。
「いえ、楽しいです。伊澄君らしいけど、全部僕の知らない伊澄君だから。聞いていて飽きません。もっと伊澄君の話、聞きたいです」
「ありがとうね……。うち主人も他界してるから、私1人になっちゃって……。誰かに話、聞いてもらいたかったんだろうね」
「伊澄君のこと、教えてください」
「お茶入れるね。その間に、伊澄に手合わせてきてあげて」
「はい……」