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僕が仮面を取ったとき  作者: ご飯おかわり。
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第2話

 明美と出会ったのは、大学1年の夏だった。当時彼女は美大の写真学科に通う学生で、写真の被写体を探していた。名前は何だったか……。松本だったか、松田だったか。仮に松本としておこう。彼は大学の必修のクラスが一緒で出席番号が前後だった。週1回、必修の授業で顔を合わせ、少し話す程度の関係だった。明美とは高校の同級生らしかった。そんな彼から「美大の友達が、ひょろ長くて無気力な顔をした男を被写体にしたいって探してるんだけど、会ってみないか」と言われたときは、喜んで「いいよ」なんてとても言えなかったけれど、なんとなく自分でも無気力な顔をしている自覚はあったし、なにより、実際何に対しても無気力だった。自分が被写体でいい写真なんか撮れるのだろうか、そんな不安はあったが、どんな人なんだろうという純粋な興味から彼女に会ってみることにした。

 

 明美の第一印象は、小さくておとなしそうな子という感じで、これと言って特徴があるわけでもなかった。”美大生”と聞いて、もっと奇抜な感じをイメージしていただけに、案外普通だなと思った記憶がある。しかし、一見すると普通な女の子が、カメラを構えると一瞬で別人になるのだ。向けられているのはレンズなのに、彼女の瞳で直接見られているような、自分の心まで読み取られてしまいそうな、そんな感覚を覚えたし、不思議な魅力を感じた。とはいえ、それが彼女に対する好意なのかといえばそういうわけでもなかった。


 それから、何度かデートを重ねて1か月も経たないうちに、彼女の告白で付き合うことになった。付き合ってからも好きかどうかはわからなかった。ただ言えることは、嫌いではないし、一緒にいて居心地はいいということ。彼女に自分のことが好きか聞かれた時も、正直な気持ちを伝えると、彼女は「そういうところが好きなんだ」と言って笑った。その顔を見て、この人だったら自分のことを、真壁遥河という存在を受け入れてくれるんじゃないかと思った。


「ねぇ、なにニヤニヤしてるの?」


 どうやら僕は思い出してニヤニヤしていたらしい。明美は、今にも「気持ち悪い」と口にしそうな表情をしている。


「明美も全然変わらないよなぁと思って」


「変わらないって、どこが?」


「かわいい顔して意外と男勝りなところとか、何に対しても全力なところとか、カメラが大好きなところとか」


「遥河も全然変わんないよ。思ったこと全部口にしちゃうところとか、嘘つくの下手なところとか、笑ったときの困り眉とか」


「それ全然褒められてる気がしないんだけど」


「素直ってこと!」


「明美の変わらないところに、ツンデレってつけ足した方がいいかな」


「もう!いいからご飯食べて!冷めちゃうよ」


「そういえばさ、メインがからあげなら、ワインじゃなくてハイボール買えばよかったね」


「もう!ワインもおいしいからいいの!」


 こんなやりとりができる時間を幸せというのだろうか、なんて考えている自分はおそらく幸せ者なのだろうと実感したもつかの間、明美との間に不穏な空気が流れるのはデザートを食べているときだった。


「私ね……、そろそろかなって思ってるんだけど……」


 明美は好物のフルーツタルトをつつきながら呟いた。「そろそろ」と聞いて思い浮かぶのはただ一つ、「結婚」だ。お互い三十路手前で、仕事も順調、長く付き合って意識しないはずがない。それに周りの結婚や出産の報告を聞くと焦る気持ちもわかる。去年あたりから明美が強く意識し始めているのはなんとなく気づいてはいたが、うやむやにしてきた。しかし今回はそういうわけにもいかず、僕も本腰を入れて向き合わないといけないようだった。


「遥河は、どう思ってる?」


「正直、わからない……」


「わからないってどういうこと……?」


「明美のことは嫌いじゃないし、一緒にいたいと思う。だけど恋愛的に好きなのかわからない」


「私のこと、好きじゃない?」


「好きじゃないわけじゃない……でも、結婚ってなると――」


「じゃあどうしたいの?結婚せずに、ずっと彼氏彼女の関係を続けていくわけ?それってなんか……おかしくない……?」


 シン……と静まり返った部屋。皿に乗ったフルーツタルトは居心地が悪そうだった。


「結婚って形をとらなくても、一緒にいるだけでもいいんじゃないかって……今のままでも俺は十分だよ」


「私は嫌だよ。遥河と一緒に家庭築きたいって思ってるよ。でも……。遥河は逃げてるんだよ。8年も付き合ったのに、私のことが好きかわからなくて、結婚してから好きじゃないってわかるのが怖いから逃げてるんだよ。そのくせ別れようとも言えない。なんなの?私は一生キープの都合のいい女なの?」


「違うよ――」


「違わないよ!……違わない。遥河は全然変わってない……昔から好きなのは私だけじゃん……」


 明美の瞳からポロポロと涙が溢れ出す。僕はなんて言葉をかければいいのかわからなかった。


「明美――」


「ごめん、冷静にならなきゃね……今日はもうお風呂入って寝るね。また、話そう……」



 一人取り残されたテーブルに、二人分のフルーツタルト。流れる涙を拭ってやることすらできない僕はなんて情けないやつなのか。

「逃げてるんだよ」、明美の言葉が脳裏で響く。自分が何から逃げているのかは、本当は分かっていた。分かっていたけど、見ないようにしてきた。見なければ、傷つかないから。

ふと、うつむいていた顔を上げると、テーブルの隅に寄せられた手紙やチラシの束に目がいった。その一番上にあるハガキは僕宛てのものだった。


”真壁遥河様”


 優待か何かのお知らせだろうかと思い、表に返す。


 

 僕は息をのんだ。



”長男 伊澄儀 去る八月十二日 急逝いたしました

二十九歳という短い生涯でございました――”


 薄いグレーの花が気持ち程度に描かれたハガキには、”川本伊澄”が死んだことが単調な文章でつづられていた。


 川本伊澄が死んだ。涙は出なかった。ただ、心臓がうるさく鳴っていた。もうこの世にいない。そう思うと、無性に会いたくなった。なんて皮肉なことだろう。いや、自分の心に蓋をしていただけで、本当はずっと彼に会いたかったのだろう。


「明日から数日実家に帰ろうと思う」


 返事はなかった。暗い寝室を開けると、鼻をすする音が聞こえた。きっと布団に入ってからもずっと泣いていたのだろう。


「大事な人が亡くなったから。会いに行ってこようと思う。……ごめん」


 気持ちばかりの”ごめん”はあっという間に暗闇に消えた。





 翌朝、起きてきた明美の目はひどく腫れていた。


「おはよう」


「おはよう。……今日帰るの?」


「うん」


「大事な人が亡くなったって……」


「伊澄くんが……事故で、ね」


「伊澄くんって、あの、花を送ってくれた人?」


「うん……」


「高校の同級生、だっけ?」


 ”高校の同級生”


 明美にはそんなふうに紹介していたのか……。


「うん……まぁ……。何日か戻らないと思う。ちゃんと話しができていないのに、ごめん」


「ううん。私も一人で考える時間が欲しかったから……」


 明美は目を合わせずにそう言った。昨日よりもよほど小さく見えるその体を、今日は抱きしめることができなかった。


「ごめん」


 昨日から何度謝っているのかわからない。けれども、彼女にかけられる言葉は、この3文字しか今の僕は持ち合わせてはいなかった。


 家を出ると、嫌なほどの快晴で、めまいがしそうになった。地元に戻るのは5年ぶりになる。帰れないわけではなかった。ただ単に帰りたいと思わないのだ。昔から父親との折り合いが悪く、実家に戻っても終始居心地の悪さを感じるだけだ。5年前も、社会人になったからと実家に少し顔を出したくらいで、ろくに会話もしなかった。

そんな僕にも、一人だけ会いたいと思う存在がいた。それが川本伊澄だった。

シャッター街となった古びた商店街を入って7番目、左手にある小さな花屋。それが川本伊澄の家だ。最後に会ったのは5年前だから、僕は23歳で彼は24歳。出会った高校生のころから全く変わらない笑顔を向けられて、僕は不覚にも胸を高鳴らせたことを覚えている。

あれから5年、28歳になった僕を前に彼はどんなふうに思うのだろう。僕は彼にどんな言葉をかければよいのだろう。そんなことを考えてハッと思い出す。







 川本伊澄は死んだ。

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