ビジネスものかきの世界
2005年頃に自ブログに書いた駄文です。
こんな考え方もあるというご紹介です。
新たな文芸誌を開いてみたら、前に買ったものと全く出てきた小説が違うので驚いた。今回のものは私の目でも読みやすく、理解しやすい。文芸誌ごとにこんなにも収載される小説の見栄えが違うのかと驚いた。単行本や文庫本などの著者単位ということならともかく、文芸誌ごとでこれほど字面が違うものとは思わなかったのである。
ここで私が文章をどう見ているかお話しておこうと思う。
私は、小説作品そのものの話をしているわけではないのだ。そこに現れる文章特性を問題にしているのである。ストーリーの面白さとか、表現のうまいへたとは全く関係がない。
私の文を見る目を知っていただければ、少なくとも小説書きには役に立たなくても、会社の中のビジネス文書を書いたり、連絡メモを書いたりするのには多少の役には立つと思う。
私がいた会社は、歴史の古い大企業だったので、誰が作ったものかは知らないが、暗黙の了解のような文章の書き方ルールみたいなものがあったのである。従って、入社直後から、私はその独特な文章作法をみっちりと仕込まれたのである。それはおそらくビジネス英語のライティングルールにならったもののようだ。ビジネスで使う書き英語は、ネイティブの中学卒業程度の英語水準に合わせるのがベストであり、それよりも高学歴の水準で文章を書くことは、わかりにくく、誤解を生みやすく、ビジネスで使うことは避けるべきだという考え方がある。日本語ではさすがに中学程度の日本語とは言わないものの、不用意に難しい文章を書くなということでは同じである。英語ではフォグカウントとか、他にもいくつか種類はあるが、文章の理解の容易さということについて、明確にスコアを出す方法もある。ルールは、この考え方の模倣だったようだ。
覚えていることを列挙すると、
(これを守ると低いフォグカウント=分かりやすい文になる)
ー 受動態で書かない
ー 不用意に形容詞、副詞を使わない、使う時はよく吟味し、最小限にとどめる
ー 正規構文(という言い方がいいのかどうかわからないが、通常の助詞の出現順位、~が~を~に、に従った書き方。意図的な転倒や、後置を使わない)
ー モノゴトの進展を時系列通りに書く
ー 抽象表現よりも具体表現で
ー 主語を書く(明らかな場合を除いて)
ー 長文にしない(句点や動詞の連用形で続く文を少なくする)
というようなところが主なものだったと思う。
因みに英文を書くときもだいたい同じである。前置詞と冠詞の使い方が加わる。
(特に前置詞はフォグカウントのスコアが高いので、できるだけ前置詞を使わないで済ませる文にするのがコツ。ちなみにフォグというのは「霧」のことで、文の本質が見えにくくなるという意味で誰かがフォグカウントと言ったらしい)
これ以外にもいろいろあったと思うが、別にこれを定めた規定があったわけではなく、自分が起案した文章はこういうチェックを経て直されることによって、身につけていくものだった。もちろん人それぞれ結構個人差も当然あるから、一応はこういう了解があったというレベルの話なのだけれど。
確かにこのルールに従うと、文はシンプルになり、誰が何を望んでいるのかが明確な形の文章になる。おそらく公務員の人も似たようなことをやっているのだろう。小泉首相のインタビューなどをテレビで聞いていると、そんな感じの言葉がポンポン出てくる。
「適切に処理します」
全く無駄がない。
こういうものが良であり、悪いとされるのは、その逆の文だ。
単語の出現が正規構文通りではなく、時系列を統一しないで、形容詞と副詞がたくさんついた受動態の文などは典型的な悪文とされる。つまりいくら文法としては正しく、美しくても「難解」とされ、ビジネス文書としては悪文となるのだ。
私が、最初に買った文芸誌はまさにそういう文が並んだ小説ばかりに見えたのである。「これがプロ作家の世界だとしたら、絶対自分には理解できないな」と思ったのだ。ところが、後から買った文芸誌は、どちらかと言えば、ネットで見る小説に近い、分かりやすい日本語で書かれていたのだ。つまり(フォグカウントではないけれど)フォグカウントという言い方で難解度を表わせば、最初の文芸誌はフォグカウントの高い小説ばかりが収載されていたのに対し、二番目に買った文芸誌は、フォグカウントがずっと低い小説が沢山収載されていたのだ。
サポートしている読者層がかなり違うということなのだろうか。最初の文芸誌は私の思うところ、相当な文学好きの人でないと自由自在に読めないように思えたのである。それにしてもこれほど見事に文芸誌ごとに違うものだとは思わなかった。
もちろん、小説を書くにあたり、そういうビジネス文書の考え方を私も捨ててはいるつもりなのだが、そうはいってもやはり、伝わりやすさ、誤解されない表現に気をつけねばならないところも多く、また自分の作品を多くの皆さんに読んでもらいたいと考えることはあっても、スーパー大文豪の先生に「すごい」と言ってもらいたいなどとはゆめゆめ考えていないので、その呪縛から完全には抜けきれないということも事実なのだ。(この文はもう間違いなく「悪文」だね……。小説を書き慣れると段々こういう配慮が薄まるのかなぁ。最初はおそるおそるという感じでルールを破った文を書いたんだけどね。ルール通りに書くと、分かりやすいけど「味」を感じない文章になってしまうから)
ところでルールの破り方を教わったのも実は会社でなのだ。通算で五年ほど私の上司となった方は、エッセイの単行本を何冊も出版されておられ、また新聞にも連載コラムを持っていた二足のわらじを履いていた方で、この人の会社での仕事で書かれた文章と、作家として書かれた文章は見事にそのスタイルが違っていたのである。器用な方がいたものだと内心舌を巻いていたものである。