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古代ローマ・ティベリウスの物語

『ティベリウス・ネロの虜囚』後日談であり、続編の前日編。そしてこぼれ話。

作者: 東道安利

【短編】(『ティベリウス・ネロの虜囚』第4章終了後の、後日談)




「サルディニア島に行くぞ!」

「ぐえっ」

 ルキリウスはうめいた。振り向かなくてもわかったが、自分が待っていたはずの一人に背中からのしかかられていた。ぼんやりしていた自分が悪いのだが、突進してきたうえで重みのすべてを委ねてくるとは、八歳であろうと、公の場でなんらかの非難を受けるべきだと思った。肺をつぶされ、腰を折られ、膝頭を肩にめりこませてから額を地面にこすりつけそうになった、そんなルキリウス・ロングスにはなんの罪もない。

 しかしドルーススはそんな被害者に頓着していなかった。彼はさらにルキリウスの背中でばたばた動いたのだ。

「カエサルから手紙が来たぞ! ぼくらはそこで冬を越すんだぞ!」

「……へぇ……」

 ルキリウスはなんとか相槌を打った。今は九月の初め。少し前に、この世界の中心であるらしきローマには、とある知らせがもたらされていた。

 ローマ軍、エジプトのアレクサンドリアを完全制圧。将軍マルクス・アントニウス自害。

 不思議な話だと思った。敵将もまたローマ人で、彼と共に戦った仲間たちの多くもローマ人だったに違いないのに。

 とにかく、ルキリウスはドルーススの話を懸命に理解しようとした。

「……ひょっとして、君はサモス島のことを言っているのかな?」

「かもしれない」

 ドルーススは無邪気に認めた。ルキリウスは彼を肩越しに見やった。

「以前にも君は間違えた。それでぼくは君の兄上にたわ言だらけの手紙を送らなきゃいけなくなった」

「あにうえもいるぞ!」苦情を無視し、ドルーススは飛び跳ねた。「もうすぐ会えるぞ!」

 そうらしかった。もう一年半ほどカエサル・オクタヴィアヌスの軍についていったきり帰ってこないドルーススの兄――ティベリウス・クラウディウス・ネロもサモス島の冬営地に戻るだろう。

「よかったね」ルキリウスは言った。本当にそう思ったのだ。

「明日、出発する!」輝く顔で、ドルーススは教えた。「あにうえの誕生日に間に合うように!」

 当然のように、ルキリウスは知っていた。ティベリウスの十二回目の誕生日とは、十一月十六日だ。まだ二ヶ月と少しあるが、それでもサモス島ははるか東の彼方だ。おそらく旅はカエサルの妻リヴィアが取り仕切り、そこへカエサルの姉オクタヴィアも同行するだろう。そうなるとリヴィアの次男であるドルーススばかりでなく、オクタヴィアの大勢の子どもたちも従うはずだ。

 ユルス・アントニウスも行くのだろうか、とルキリウスは考えた。マルクス・アントニウスの次男だ。こういう結末をずっとずっと予期していながら、オクタヴィアの保護下で暮らしてきた少年だ。今日も、ルキリウスが名目上待っていたのはドルーススであるが、実際に待っていたのはユルスのほうだった。まだ家から出てくる気配はない。

 いずれそういうことになるなら、ぼくはとうとうお役御免というわけだ。ルキリウスはそう思った。二年前の年の暮れに引き受けることになった、ティベリウスとの約束だった。

 だが、ドルーススが言った。「お前も行くぞ!」

「……なんだって?」ルキリウスは思わずぽかんとした顔を向けた。

「お前もサモス島に行くんだぞ!」ドルーススはくり返した。

 ルキリウスは信じられなかった。「ぼくは君らの家族じゃないよ。素性不明の、『へんなやつ』だよ」

 ドルーススと話すようになって一年近くなるが、ルキリウスはまだまともに自分の名前さえ伝えていなかった。貴顕中の貴顕であるクラウディウス・ネロ家のお坊ちゃんにしてみれば、自分など取るに足りない庶民にすぎないと知っていた。

 『へんなやつ』とは、兄の物まねをするルキリウスをドルーススが呼ぶ名で、不幸にも、この一年半でティベリウスから彼に届けられた唯一の手紙にも、同じ宛名が記されていた。皮肉以外のなんでもなく、ルキリウスはティベリウスが帰ってきた場合の身の行く末を色々と考えてしまった。ぼこぼこかな。八つ裂きかな……。

「メッサラ家のマルクスも行くぞ」ドルーススは知らせた。

「彼は父親に会いに行くんだろう?」ルキリウスは指摘した。マルクスの父親メッサラ・コルヴィヌスが、将軍の一人としてカエサル軍に参加しているのだ。「ぼくは行かないよ。行く名目がない」

「船があるんだろ!」ドルーススが思い出させた。ロングス家の稼業のことを言っているのだとわかった。いつ話したっけか……。「ぼくが乗ってあげてもいいぞ!」

 ルキリウスは思わず微笑んだ。「光栄だけどね、ドルースス。君みたいな良き家柄の子どもを乗せて浮いていられる船じゃないよ」

 第一、ドルーススの母親が許すはずがなかった。ルキリウスはドルーススへ首を向け、あらためて言った。

「ぼくは行かない。ここで待ってる。君の兄上にはよろしく伝えておくれ」

 すると、ドルーススは見る見るしょんぼりと眉毛を下げ、背中の上でぶーっと頬をふくらませた。なんだよ、もう……とルキリウスは苦笑する。ようやっとあにうえに会えるんじゃないか。君がどれだけ恋しがっていたか、ぼくは知っているぞ。それなのにその顔はなんなんだよ。

 ぼくは君の友だちじゃない。君の兄上に頼まれたから、そばをうろうろしていただけだ。それも頼まれた対象は、君じゃなくてユルス・アントニウスのほうだ。君に絡まれる羽目になったのは、ぼくのドジだったんだ。

 君のためじゃないんだよ、ドルースス。ティベリウスのため……いや、ティベリウスに頼まれたぼくのためなんだ。

 だから、そんな顔をするなよ。

「言っておくけど、無事に帰るまでが遠征だからね」腰をひねり、ドルーススの頭をとらえて撫でまわしながら、ルキリウスはさも気楽に言った。「君も気をつけるんだよ、ドルースス。アントニアたちとはしゃぎすぎて、迷子にならないように。海に落っこちたりしないように」

「お前はあにうえか」ドルーススが言った。それからルキリウスの腹に頭を埋めてきた。「一緒に行こう」

「行かないよ」

「お前をあにうえに会わせたい」くぐもった声が言った。

 ルキリウスは苦笑を引っ込めることができずにいた。「君は可愛いな、ドルースス」

 こんな子どもと一緒にいると、つい素直な言葉が口をついて出る。なるほど確かに、あのティベリウスがだれより愛してやまない弟だ。もう胸が苦しくなるくらい、よくわかっていた。

 それでも、とルキリウスは言い張るのだ。「ぼくは命が惜しい」

「食べられちゃえよ。お前なんか、あにうえの顎で噛み砕かれちゃえよ」

 それが、弟が決めた物まね師に対する処刑法らしかった。ルキリウスは身震いしてみせた。それから言った。

「とにかく、無事で帰ってこいよ」

 すると、ドルーススは拳を突き上げてきた。危うく顎に一撃くらうところだったが、見ていると、小さな拳がゆっくりと開かれていった。中からは小さな銀色の光がこぼれ出た。

「お前に」ドルーススが言った。

「ぼくに?」ルキリウスは目元をしかめた。

「あにうえからだ。手紙の中に入ってた」

 それは、銀貨のようだった。ただし鋳型が使われたにしては、独特の模様をしていた。片面になにかの鳥の図柄、もう片面には文字が刻まれていた。ルキリウスはドルーススのしめった指からそれを受け取って、適切な距離から読んでみた。

『ルキリウス、ぼくはこれから帰る』

 それだけだった。

 君はぼくの夫か……とは、真っ先に思い浮かんでしまった指摘だった。けれどもかろうじてそれを呑み込み、つくづくと眺める。思いめぐらす。

 ルキリウス、と名前だけで呼ばれたのはたぶん初めてだ。必要なときはいつも「ルキリウス・ロングス」と、罪人に刑を宣告する冥王のような口調で呼ばれたものだ。

 これはいったいなんだい、我が愛しき友?

 ルキリウスはその銀貨へ問いかけた。澄み渡る青空へかざしてみながら、不気味と言っていい胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。

 それでも、君がようやく帰るというのなら、ぼくは待つ。いつまでも待つ。それが、君とぼくとの約束だ。

 ルキリウスはただ一つの銀貨を握りしめた。


 飛んでいけ――。






【こぼれ話】


『ティベリウス・ネロの虜囚』「第二章 家族」より。(ー3の後に入る予定でした)




 テレンティアの狂乱にもめげず、会談は夕刻が近づいても終わらなかった。詩人たちは、そろそろ遊び疲れただろうと、子ども三人を室内に入れた。そしてもったいぶりつつも楽しげにはじめたのは、怪談だった。

「暑い夏は怖い話でひんやりするにかぎるからねぇ」

 ホラティウスが雰囲気たっぷりににたりと笑った。

「なんだい。どんなのがきたって、ぼくはちっとも怖くないんだぞ」

 ドルーススは勇ましく両腕を振った。ホラティウスはこのちび助がお気に入りだった。今日もはじめる前から期待通りの反応をくれる。可愛いったらない。

 マルケルスはティベリウスを見た。ティベリウスは小さく肩をすくめた。礼儀は尽くそうと言ったつもりだった。

 ホラティウスが主筋を語り、他の詩人たちがそれに思い思いのつけ足しをして盛り上げた。

 カニディアという魔女がいる。彼女は夜な夜なローマの墓地に出没し、仲間二人とともにおぞましい儀式を行っている。

 まずは幼い少年をさらってくる。服を剥ぎ取り、ブッラを引きちぎり、裸にしたところで首から下を地中に埋める。そうしておいて毎晩、少年の前に供え物を置く。泣いて哀願する少年の声に応える者はいない。魔女は小蛇を絡ませた髪をうじゃうじゃと逆立て、無慈悲に見下ろすばかりだ。

 そうして少年が死ぬと、魔女たちはその肝臓を取り出す。身の毛もよだつ行いを繰り返したおかげで、それは干からびている。魔女はその肝臓に、ヒキガエルの血を塗った卵、フクロウの羽、飢えた犬から奪った骨、さらに種々の毒草を混ぜて、恐ろしい薬を作る。それを一口飲んだ者はたちまち正気を失い、永久に魔女のしもべとなる。

 そんな話だった。

「君たちはみんな良い子だが、もしいたずらが過ぎたり大人の言うことを聞かなかったりすれば、魔女にさらわれるかもしれないぞ」

 そう言うと詩人たちは、それぞれ恐怖をあおるような表情を作って、子どもたちの反応をうかがった。

「へへんっ、へへんっ」

 ドルーススは右拳を何度も突き出した。

「そんな魔女なんか、これっぽっちも怖くないぞ。ぼくがみんなやっつけてやるんだぞ!」

 もちろん詩人たちは、兄の服の裾をつかむ左手を見逃していなかった。全員必死で笑いをこらえていた。

 マルケルスは青い顔をしていた。こちらも申し分ない聞き手だった。このような素直で純真な子どもこそ大人の理想である。大切に保護し、あたたかく成長を見守ってあげたくなる。

 聞き手がティベリウス一人だったら、詩人たちはさぞがっかりしたことだろう。まずもって全然可愛いところがない。終始無表情で、いかにも礼儀でつき合っていると言わんばかりの態度。醒めた目は、魔女の話が万が一本当ならば、ただちに造営官にでも連絡して対策を講じてもらわなければと考えているように見えた。実際に、ティベリウスはそのようなことを考えていた。

 ティベリウスは間違っていない。だが、もう少し子どもらしいところがあってもいいのではないか。

 それでも詩人たちは、ほか二人のすばらしい聞き手に満足し、一人の興ざめな聞き手の存在にはそれほどへこたれなかった。

 最後にホラティウスは、あたかも黒く長い爪が生えているかのように十指をわななかせ、かっと目を剥き、耳まで口を裂き、夜闇を貫く魔女の笑い声を実演して見せた。ドルーススもマルケルスもすくみあがった。

 演技は真に迫っていた。もしかしたら、ホラティウスは魔女と知り合いなのかもしれない。

 そこへ、テレンティアを連れたマエケナスが現れた。

「おいおい、君までぼくを不眠症にする気かい。キーキーわめくのは妻一人で十分なんだが」




 カエサル家に帰るころには、雨がぱらついていた。珍しく夏の嵐が近づいているようだった。

 夜、中庭に吹きつける風が、さながら魔女の吐息のような音を立てていた。儀式には絶好の日和だろう。

 寝室づきの奴隷が、外から扉を開けた。

 ティベリウスが顔を上げると、枕を抱えたマルケルスが立っていた。気恥ずかしげな笑みを浮かべながら、少し震えていた。

「今日はこっちで寝てもいいかな?」

 上掛けからドルーススが顔を出した。

「なんだよ、マルケルスは怖がりだな」

「お前は人のことを言えるのか」

 ティベリウスは胸元のドルーススの頭に言ってやった。ドルーススは首を反らし、へへっと兄に笑いかけた。

 そういうわけでマルケルスは、空いているドルーススの寝台に入った。

「いいなぁ、ドルースス」

 マルケルスはうらやましそうな目を向けてきた。ドルーススは兄の腕と上掛けにくるまって安心しきっていた。彼は勝ち誇った笑みを返した。

「うらやましいか、マルケルス? やらないぞ。あにうえはぼくのあにうえなんだからな」

「お前はもういい加減に寝ろ」

 ティベリウスはドルーススを上掛けに押し込んだ。

 奴隷は扉を閉めた。このような日でも、彼は外の回廊で眠るのだ。

 部屋は再び真っ暗になった。不気味な風音が続いていた。

 ドルーススはしばらくもぞもぞしていたが、やがて背中を兄に預けて落ち着いた。しだいに一定の拍子をとる弟の呼吸を聞きながら、ティベリウスもまどろみはじめた。

 そこで雷が鳴った。

 ドルーススがびくりと動いたので、ティベリウスも目が覚めた。

 雨音が急に強くなった。立て続けに雷鳴が轟き、ドルーススが胸にしがみついてくる。

「ユピテルが怒ってるよ」

「大丈夫だよ、お前に怒ってるんじゃないから」

 とは言え、ティベリウスも雷は好きではない。ちょっと待っているよう弟に言って、寝台から出た。

 もともと夜目が効く体質なので、手間取らずに進めた。部屋を横切り、花瓶から月桂樹の枝を抜く。布で水気を取ると、また寝台に戻る。その影をマルケルスの視線がずっと追っていた。

 寝台の上ではドルーススが待ちかねていた。ティベリウスは月桂樹から小枝をちぎり、ドルーススの髪に刺してやった。

「雷が落ちないお守りだよ。母上がおっしゃってた。雷火でも燃えないんだよ」

 それからティベリウスはマルケルスに振り返った。マルケルスはじっとティベリウスを見つめたまま、無言で小枝を受け取った。

 また雷鳴がした。かなり近づいてきていた。

「あにうえ、早く!」

 ドルーススにせかされ、ティベリウスは上掛けの中に戻った。ドルーススが兄の頭に小枝を刺す。暗いなかでも、神妙な顔つきがよくわかった。

「きっとユピテルは悪い魔女をやっつけてるんだな」

 ドルーススはつぶやいた。たしかにこのような天候になっては魔女も災難だろう。

 次に轟いた雷鳴はひときわ大きかった。屋敷が震えた。

 兄の胸にひしとうずまり、ドルーススはぐすぐす言い出した。

「大丈夫、大丈夫」ティベリウスは背中をさすってやった。

「ぼくはなんも悪いことなんかしてないんだぞ。計算の勉強もちゃんとやったし、アントニアもいじめてないぞ。あにうえを池に落としたけど、そのあとおしりをつねられておしおきされたぞ」

「わかってるよ」

 山を引き裂くような雷鳴が響き、大地をゆらがした。

 どこかに落ちたのではないかと、ティベリウスは心配になってきた。

 ふと、背中が圧迫される感覚がした。

「…マルケルス?」

「ごめん!」

 謝りながらマルケルスは、夢中で背中にしがみついてきた。うなじに押しつけてくる額が汗ばんでいた。

「あにうえ!」

 前からはドルーススがこれでもかと埋まってくる。

 ティベリウスは目をぱちくりさせた。まったく身動きがとれなくなっていた。

 嵐の夜だろうと、季節はまだ夏だった。眠るには薄い上掛け一枚で十分だ。今や暑いうえに逃げ場がなくなっていた。おまけに前からも後ろからもしめつけられて苦しい。とどめに、寝返りもできずに体が痛くなってくる。

 だが挟む二人は必死だった。おびえきっていた。

 やがて嵐も雷鳴も、少しずつ遠ざかっていった。二人の呼吸が静かで規則正しくなっていく。けれどもティベリウスは、途方に暮れてなにもない部屋の角を眺めるばかりだった。




 翌日の昼、嵐は嘘のように去っていた。日差しに目を細めながら、オクタヴィアヌスが家に戻ってきた。元老院会議を終えたあとだった。

 いつものごとく、ドルーススは歓声を上げてまっしぐら、継父に体当たりした。

「おかえりなさい、カエサル!」

「ただいま、ドルースス。お前に会いたかったよ」

 オクタヴィアヌスもまたいつものごとく、相好を崩して継子を抱きとめた。

 ティベリウスは中庭で書物を読んでいた。ドルーススと接吻を交わし合ったオクタヴィアヌスが近づいてきた。それで、書物を掲げた体勢のまま立ち上がった。

「おかえりなさい」

 それからまた階段に腰を下ろし、読書に戻った。

「ただいま、ティベリウス」

 オクタヴィアヌスは言った。

 ティベリウスはひそかに唇を噛んだ。礼儀を尽くしていないのはわかっていた。

 だがそこで、ドルーススがにやにやしながら周りをぐるぐる歩きはじめた。ティベリウスは相手にせず、読書に没頭しようとした。オクタヴィアヌスで頭がいっぱいだったので、ドルーススが書物を取り上げるとまでは思い至らなかった。

 ふいに手から書物が消えると、くっきり赤いあざがついた左頬が露わになった。

 息を呑んだティベリウスは慌てて手で覆ったが、すでに遅かった。

「どうしたんだ、その顔は?」

 オクタヴィアヌスが目を丸くした。

 かっと顔が火照った。あざが見えなくなるほど赤面していたかもしれない。ティベリウスは口をぱくぱく動かした。だが結局なにも言えず、がっくりうなだれた。

「あにうえね、テオドルス先生に怒られたんだよ」

 代わりにドルーススがすべてばらした。

「授業中に居眠りして、ぱしいって叩かれたんだよ」

 オクタヴィアヌスはますます目を見開いた。

「お前が居眠り?」

 ティベリウスは歯噛みをした。こんなに弟を恨めしく思ったことはなかった。

 ドルーススがこんなに喜んでいるのは、兄が叱られることなどめったにないからだ。ローマの教師は体罰を当たり前に行うが、ティベリウスはその理由など与えない優等生だった。鞭も平手打ちもまず縁がなかった。

 今日がその例外だが、ティベリウスはなにも言えなかった。居眠りをしたのは事実だし、テオドルス先生は当然の罰を与えたと思っている。だが、もっと目立たないところを打ってくれてもよかったではないか。恥ずかしい思いに耐えなければならないうえに、一番見られたくない人に見られてしまった。高名な先生の授業をなまけるような不誠実な子どもと、オクタヴィアヌスに思われてしまう。それがなにより辛かった。今日以外の毎日、精魂傾けて勉学に励んできたのに。

 だが言い訳はできなかった。

 ティベリウスはすっかり気落ちして、階段にうずくまった。

 ドルーススはしばらくはしゃぎまわっていたが、やがてオクタヴィアヌスが庭の木からシトロンをもぎ取り、これを厨房係にしぼってもらうように言いつけた。ドルーススはたっぷりの蜂蜜投入を期待しながら、走り去っていった。

 オクタヴィアヌスは沈み込むティベリウスを見下ろしていた。なにも言う気がないティベリウスは、早くこのいたたまれない時間が終わることだけを願っていた。

「泣いているのか?」

 ティベリウスはぎょっとして顔を上げた。さらに傷ついていた。

 カエサルはぼくが教師にはたかれたくらいでめそめそ泣くような男だと思っているのか。

 オクタヴィアヌスはにやにや笑っていた。その意味をティベリウスがはかりかねていると、彼はかがんで目線を合わせてきた。

「私は弟だが、どうも兄というのは辛い役まわりらしいな」

 オクタヴィアヌスの手が、ティベリウスの赤い左頬に触れた。

「どうして言わない? 昨夜はマルケルスとドルーススに挟まれたせいで眠れなかったと」

 ティベリウスは目をまんまるにした。口をぽかんと開けた。

「…どうして知っているのですか?」

「私もあまり眠れなくてね」

 オクタヴィアヌスが一晩に三度も四度も目を覚ます体質であるのは、家のだれもが知っていた。

「あんな夜だったし、子どもたちがどうしているかと気になって覗いてみたら、お前があの二人に押しつぶされて苦しそうにしていた」

 オクタヴィアヌスはくすくす笑い声をもらした。継父の訪問にティベリウスはまったく気づかなかったから、一睡もしていないわけではなかった。それでも朝からぼうっとして、テオドルスが手を振り下ろすまで開こうとしないまぶたと戦いながら、半ば夢を見ていた。体はまだぐったりしているが、それは寝不足のせいばかりではなかった。今このとき、全身から力が抜けていく感覚がした。

「体がしびれて大変だっただろう?」

 オクタヴィアヌスはティベリウスの頬をゆらした。それから手を頭に動かした。

「お前は強い子だ。泣き言一つ言わずに、弟とマルケルスを守った。私はお前を、とても頼もしく思っているのだよ」

 なでる手が、とても柔らかかった。

「大変だろうが、これからも守ってくれるね? ドルーススはもちろん、私の甥のマルケルスも。あの子はお前にだけは甘える。お前を一番頼りにしているからだ。マルケルスを頼んだよ」




 午後、ティベリウスたちが肉体鍛錬に出かけると、家の男児はドルースス一人になる。退屈にはなるが、なにかと厳しい兄に叱られる心配なく、のびのび羽を伸ばせる。

 近所の友人と遊んでもいいのだが、最近のドルーススは妹のアントニアを相手にすることが多かった。なんとかこの生意気な妹分に兄の威厳を見せつけてやりたいと思っていた。ところがこのアントニアは少しばかり変わった性向の持ち主だった。普通の女の子が嫌がる生き物の類を可愛いと言う。愛らしい子猫より、うようようねるウナギに興味津々。あるときなどはヒトデを頭じゅうに張りつけておしゃれし、母オクタヴィアを気絶させた。ドルーススのペットの蛙とも、今では飼い主より仲良しだった。

 アントニアはなにも怖がらないように見える。こんな娘をぎゃふんと言わせるためにはどうしたらいいのだろう。

 ドルーススは考えた。

 結果、兄のスゴさを思い知らせてやるためには、アントニアが感心せざるをえないような大物を目の前で捕まえてやるのが良いと考え至った。怖がらせるのではなく、喜ばせて尊敬させるのだ。

 そこでドルーススはアントニアを連れて、近所の公園に向かった。そこにはさながら主のような巨大なトカゲがいると、子どもたちのあいだで評判だった。アントニア好みの獲物だ。

 二人は公園じゅうを探しまわった。そのあいだドルーススは、巨大トカゲを捕まえたらお前にあげてもいいぞと言って、アントニアを期待させようとした。ところがアントニアは、アントニアのほうが先に捕まえるのよと言って、またドルーススの威厳を奪おうとした。

 なんてやつだ。負けてたまるか。

 ついに目当てのものに違いない大きなトカゲを見つけると、二人は肩をぶつけ合って追いかけた。

 トカゲは木の幹を伝い上がって逃げた。ドルーススはすぐさまよじ登ってあとを追った。

「あぶないわよ」

 アントニアが言った。

「ドルーススはおちちゃうわよ」

「平気だよ」

 ドルーススは言った。太い幹をすいすい登る姿を見せつけてやった。

「お前とちがって、ぼくは高いところでも怖くないんだぞ。お前より先にあいつを捕まえてやるから、そこで大人しく待ってるんだぞ」

 ドルーススは枝先にトカゲを追いつめた。勝利を確信し、満面の笑みを浮かべる。

「見てろよ、アントニア!」

 そして両手で獲物に跳びかかった。

 ところが、トカゲは枝の裏側をさっさと伝って走り去った。

「わっわっ…」

 枝が激しくゆれた。しまいにドルーススの重みに耐えきれず、大きくしなって下に折れた。大声を上げながら、ドルーススはくるりと一回転して落下した。

 幸い、下は浅い池だった。前日の雨で泥沼と化していたが、おかげで怪我をせずに済んだ。

「ぷはっ」

 ドルーススは泥沼の中で座り込んだ。驚きが去るまで、少しかかった。それから気持ちをくさらせた。

 またアントニアにカッコイイところを見せられなかった。それどころか、また笑いものになった。

 ドルーススはむくれた泥まみれの顔をアントニアに向けた。

 アントニアは黙って立ちつくしていた。飛び出さんばかりの目玉で、ドルーススを見つめていた。

 それから火のついたように泣き出した。

「ア、アントニア?」

 慌てたドルーススは大急ぎで池から上がった。パラティーノの丘じゅうに響くような泣き声だった。

「お、おい、なんで泣くんだよ?」

 困惑してその涙まみれの頬に触れ、泥だらけにしてしまった。ドルーススはますますあわてた。

「な、な、なんだよ」ドルーススは自分の全身を見まわした。

「ぼくはドルーススだぞ。泥んこオバケじゃないぞ!」

「ど、ドルーススが…」アントニアはしゃくりあげた。「ドルーススがおちちゃったの」

「悪かったな、トカゲが獲れなくて」

 ドルーススは怒って見せたが、アントニアはさらにひどく泣きわめいた。

「ドルーススがおちちゃったの。あぶないことしたから、おおけがしちゃったの。おっきなおとがして、いなくなっちゃったの、いっぱいいっぱいいたかったの。こわかったの……」

 ドルーススはあんぐり口を開けた。

 頭をなでてやったら、アントニアはまた泥だらけになった。

 夕方、手をつないで家に帰るや、母リヴィアに大目玉をくらった。そのうえちょうど兄たちが帰ってきた。

 一部始終を聞いた兄はいつにもまして怖い顔で近づいてきたが、今日ばかりはドルーススも気にしなかった。

「ぼくはもう、ぜったいアントニアを泣かさないぞ」

 そう言って黙々と泥をぬぐう弟を、ティベリウスは目をしばたたいて眺めた。






以上です。

よろしければ近々の新作、読んでいただけましたら幸いです。

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