はじまり
あれから1週間が経った。
竜二は今朝も電車に乗っていた。
そうだ。
今日もマーケティングデータの確認のために、朝からいつもの満員電車に乗っているのだ。
新型コロナ感染拡大で電車も空いてるかと思ったが、朝の通勤時間だけはどうやらどうしようもないらしい。
そして相変わらず電車の車内の空気はよどんでいた。
鼻先をいつものようにドアの隙間に近づけながら、竜二は先日のことを考えていた。
あの赤い帽子の女。
こっちはビールを飲んでたし、あの女は結構なスピードで走っていたのでとてもじゃないが追いかけても追いつけそうにはなかった。
それで仕方なく、遠くから女が走り去るのをしばらく見ていた。
赤い帽子を被った小さな頭がランニングのリズムに合わせて左右に揺れている。
揺れる赤い帽子が風に揺らめく真っ赤なチューリップに似ていると思った。
あいみょんか!
ところが走り去るその女が、なんとそのまま突き当たりのマンションのオートロックを開けたではないか!
あのマンションに住んでいるんだ。
竜二は赤い帽子の女の情報をひとつ手に入れたことで満足していた。
そして次にあの女を見つけたら話しかけてみようと決めていた。
それはあの女が美しいからだけではない。
なぜか見覚えのあるシーンのことが気にかかることもある。
それを確かめられたら・・・
電車はいつもの新宿駅に着いた。
今日は雨が降っていたが、竜二のオフィスまではうまく地下街を抜けると、一度も外に出ることなくオフィスまで行けるのだ。
だから竜二は雨の日でもよほどじゃないと傘を持って出歩かない。
東京は本当に便利な街だ。
俺が育った田舎の家は、大雨が降れば家の中でも傘をささないといけないくらい雨漏りがする家だった。
同じ日本に住むんならやっぱ東京だぞとあらためて竜二は思う。
オフィス階まで長い長いエスカレーターで移動しながら、竜二はそんなことを考えていた。
巨大なエスカレーターの踊り場には、これまた巨大なかぼちゃが置いてあった。
『そっか、夏が終わったと思ったらもうハロウィンの飾り付けか〜。』
これも都会ならではだ。
竜二が生まれた街でエスカレーターがあるのはジャスコだけだった。
今はもうジャスコもなくなったが、田舎でかぼちゃを飾ったりしたらせいぜい農家の無人販売所と間違えられるだけだ。
誰かが金を払ってかぼちゃを持っていってしまうのは目に見えている。
『今日のかぼちゃはふとかばい!』
とかなんとか言いながら・・・
竜二は急におかしくなって笑い出した。
ハロウィンのかぼちゃはとてもじゃないが一人で持てるような大きさではない。
そしてエスカレーターがオフィスフロアに着く頃、竜二はまたハッとして顔を上げた。
『まただ!』
『このシーン見たぞ!!
絶対に見た。デジャブじゃない。
どこだ?
どこで見たんだ・・・』
竜二はエスカレーターを降りた場所で両手で頭を抱えた。
何かを思い出そうとするがそれが何かわからない。
しかし長いエスカレーター?
階段?
そういうところを昇って行き頂上に着いたときのような、そんな感覚がありありと浮かぶ。
竜二はさらに強くなるこの感覚に怯えた。
『俺の頭はいったいどうなっているんだ・・・』
どうしても思い出せないこの感覚に竜二は苛立った。
オフィスフロアには誰も人はいなかった。
おそらく他の会社もみんなテレワークなのだろう。
このビルで人がいるのは、おそらくショッピングフロアだけだ。
竜二は重い頭を抱えながらしばらくその場所から動けなかった。