あの何だかわちゃわちゃした日々からいつの間にか四年後の話
バキっ
ぎゃあああーーー
トラの絶叫が倉庫内に、そして倉庫外にも響き渡る。
「ヘッ、ヘッヘ、や、やったぜ…」
ヨシキが息を荒くして言う。
「ああ、ついにトラを、やってやったぜ…」
苦痛に叫びながらのたうち回るトラを見下ろしながら他の連中が呟く。
「いや。これじゃ足りねえよ」
川崎のリーダー格が目を細める。
「足、もう一本だ。」
ヨシキがゴクリと唾を飲み込む。そして頷き、トラに近づく。
「コイツ… こんな大袈裟に騒ぎやがって… いつもは平気な顔してケンカするくせに。おい、コイツ押さえつけてくれ。動き回って反対の足、狙えねーよ」
四人がかりでトラを押さえつけると、苦痛でもがくトラにむかい、
「よし… やるぞ…」
自分に言い聞かせる様に呟く。
「やってやんぞコラー。ああトラ? あああああー」
目が血走ったヨシキが、さっきよりも高く大きく振りかぶる。
「バッきり、へし折ってやっからよお、ええトラ!」
あかねの声なき悲鳴が再度響き渡るー
「はーーい。そこまでっ 全員、動くな!」
彼らの知らぬ間に、倉庫の入り口いっぱいに警官隊がこちらを凝視している!
そして先頭の刑事の合図と共に、あっという間に八人を確保する。
「前田―。お前自分が何やったか、わかってんのか?」
「知らねーよ。オレは、蒲田の、コイツに頼まれてココを教えてやっただけだよ」
「誘拐。監禁。暴行。お前ら、今回はちょっとシャレになんねーぞ。」
そ、そんな、と口々に喚き散らし、
「そ、そーだよ。コイツと、トラとちょっと仲良く話しただけだって…」
「そーそー。そんでちょっと話の行き違いって奴で、つい…」
刑事はハーと溜息を吐きながら、
「おっ。お前丁度スマホで動画撮ってくれてたのか。丁度いい証拠になるわ、サンキュ」
「クッソ… てか… トラ、テメエ。サツに頼るとはな… 最低のクソ野郎め…」
「マジで… 最低の男だなコイツ… ま、足の骨を折っといたからザマあだけどな」
捜査官によって口ぐつわを外されたあかねが、
「トラっ トラあー、あなた、足!」
さっきまで派手に転げまくっていたトラが大人しくなっている。あれ…?
「ああ、大丈夫。いってもヒビが入った程度、だと思う」
と冷静に答えたものだから、
「…トラ、テメー。さっきのありゃなんだよ…」
トラは冷徹にリューを見ながら、
「警察の皆さんに位置を知らせる為に、な。それよりお前ら。マジヤバいこと、してくれたなおい。」
「な、なんだよ…」
トラロープを解いてもらったトラは、左足を摩りながら、
「オレのお袋。元デビルキャッツの、テポドンあゆみ、ってんだ。」
「へ… デビルキャッツって…? あの?」
その通り! と言いながら刑事が話に割って入る。
「そう。あの伝説の蒲田のレディースの三代目総長。ってことはよお、わかるよな。今のお前らの上の奴らって、みーんな、あゆみの下、な。」
一気に顔面蒼白になる蒲田勢。その刑事は川崎勢にもグサリと合い口を刺す。
「あゆみと、横浜の中華街の切り裂きジャン。マブダチらしいぞ。」
気を失いかねないほど、驚く川崎勢。
「お前らそんなことも知らねえで、トラと連んでたりトラとやり合ってたのか? 馬鹿だなあ。ま、お前ら刑務所で消されるかもな。」
なんと酷い刑事なのだろう… あかねは呆然としながら、自分を拉致した不良達を平然と脅し上げる刑事を見上げている。
不良達が連行され、現場検証が始まった頃。
「なんか、すっかり助けられちゃったわ。去年、アンタにあんな事したっつーのに。」
トラがよろめきながら立ち上がり、そしてその刑事に深く頭を下げる。
「アズミさん。あっざーした。お陰で、コイツを無事に救えました! 」
胡麻塩頭の安曇と呼ばれた、耳が餃子みたいな刑事が、ちょっと照れ臭そうに、
「おいトラ。オマエ、すっかり変わったなあ。何があったんだい。って、アレか、その子のお陰ってか、ええ?」
「そんなとこ。オレ、コイツの親父と約束したから。」
安曇は懐からタバコを取り出し、トラに勧めかけて、
「おっと。中坊だったか」
トラはニヤリと笑って、
「こないだ、やめた。」
こないだまで、やってたんかい! あかねはちょっとキレかけながら、
「ねえ、父との約束、って本当は何なのよ?」
トラはソッポ向きながら、
「オメーに言う訳ねーだろ。で。大丈夫か。ケツ揉まれたぐらいで済んだか?」
あかねは真っ赤になりながら、
「それより… 病院、行かなくちゃ… 来月、大事な試合だよ。早く手当てしないと… 顔も血だらけだよ…」
安曇はタバコをふかしながら、
「救急車呼んどいたから。乗ってけ。お嬢ちゃん、付き添ってやってな」
勿論、とあかねは深く頷く。それから、
「あの、改めまして、助けていただいて本当にありがとうございました。もしちょっとでも遅かったら、トラくんの足、もっと酷いことになっていたと思います…」
安曇は唖然としながら、
「おいおい… 青春だなあ… お互いの事を心配して… トラ、こんないい子、オメーの母ちゃんくらいしかいねえぞ。大事にすんだぞ」
トラは照れた様に微笑む。
遠くに救急車のサイレンが聞こえてくるー
* * * * * *
「で。医者は何て言ってんの? ふん。ふん。なに? だいたいシトーキン損傷? なんじゃそれ?」
健太は持っていた烏龍茶のグラスを落としそうになる。
「ふん。ふん。そっか、全治一ヶ月ね。そんで、あかねちゃんはマジで大丈夫なんだな? ふん。ふん。そっかそっか。あー。ギョーザのオッさん、ちゃんとやってくれたんだな、良かった良かった。ま、オマエにしては上出来だな。はよ帰っておいで。ホッペにチューしてやっから。きゃは」
亜弓が電話を切ると、健太は安堵の溜息をつく。
「すまん、ちょっと電話してくる。」
外に出て、リダイヤルをプッシュする。呼び出し音一回ですぐに繋がる。
「で?」
「大丈夫。無事だ。怪我一つない。勿論、性的暴行も受けていないそうだ。」
「そうか。良かった。またトラ君に助けられたか。それで、その、マスコミ対応は…」
「ああ。マスコミ発表はしないらしい。トラの母親が裏の方にも手を回して、変な噂も立たない様にしてくれた様だ。」
「…永野。ありがとう。」
「オレは何もしていない。何もできなかった。こうしてお前に報告する事くらいしか…」
「いや、それでいい。本当に、ありがとう。」
「…お前らしくないな。随分と弱気じゃねえか?」
「あかねやトラ君から、本当に何も聞いていないのか?」
「は? だから、何をだよ?」
「そうか… 実は俺、膵臓癌のステージⅣと診断されたんだ。」
健太の心臓が一瞬、止まりかけた。
「は… 何冗談言ってんだよ。ふざけんじゃねえ」
「余命、半年あるかないか、らしい。」
「…ウソ、だろ…」
「本当だ。彼らには既に告げてある。」
「そんな… セカンドオピニョンは受けたのか?」
「ああ。どこに行っても、結果は同じだった。」
どれ位、互いの無言が続いただろうか。
「会社、は?」
「上には報告済みだ。今は引き継ぎのために午後から顔出しに行っている」
「奥さん、は?」
「全然受け入れられないみたいだ。今度変な神社に連れて行かれそうだよ」
「…あかねちゃん、は?」
「大丈夫。トラ君がいるから。」
「…… 俺に、出来ることは?」
「は? お前を左遷させた俺のために、何かしてくれるのか? どこまでお人好しなんだお前って奴は。」
須坂が電話口でクスクス笑う。
「何でもいい。俺に、何が出来る? 言え」
「永野… 今だから言うが。お前の左遷に対して、何人かの若手社員から嘆願メールが来ていたんだ。ま、体育会系の奴らばっかりだったがな。永野さんは当社になくてはならない方です。何卒処分の撤回を、ってな。あ、中には契約社員の女子からのものもあったんだ。それでな、ちょっと処分はきつ過ぎなかったか、上の方で検討会が開かれたんだよ」
「……」
「そこで。二年を目処に、左遷先の勤務評定を鑑みて本社に戻そう、となったんだ。それをお前に告げようとした時。お前は警察沙汰の事件を巻き起こした。」
その処分撤回に走り回ったのが須坂だった事は、聞くまでもなかった。健太はスマホのマイクにかからない様に、大きく溜息をつく。
「だから俺は怒り狂ったんだ。周りがこれ程お前を心配し、何とかしようと動いてきたのに、それを全て水の泡にしてしまう行動をした。自分を省みるどころか、自分を落としめした… お前は周囲の善意を裏切ったんだ。己の弱さに甘えて。それが、どうしても許せなかった。」
「須坂、俺は…」
「だが。先月会った時に見たお前の目。トラ君があの時言った通りだった。会社のサッカー部を盛り立てていた頃の、あの頃のお前の目だった。周りを尊敬し、信頼し、目標に向かって敢然と突き進んでいた頃の、あの時の永野健太だった。」
「須坂…」
「そんなお前に頼むのはたった一つ。あかねを、トラ君とあかねを見守って欲しい。それだけだ。」
どれ程二人の間に静寂があっただろう。話したいことは山ほどあるのだが、胸に詰まって口から出てこない。健太は大きく息を吸い込んで、ようやく
「お前、まだ酒は飲めるのか?」
「ふっ もう飲まないし、お前とは絶対に飲まない。」
「何で、だよ?」
「お前を見ると、娘を取られた気分になって、ぶっ飛ばしてしまいそうだからな」
吹き出しながら須坂が楽しそうに呟く。
「は? 意味がわからん…」
「どうせ、トラ君の父親に、なるんだろ?」
「…ハア? な、何言ってんだオマエ… 誰がそんな…」
「二人はよく言ってるぞ。お互い好きあってんのに、お互いそれに真剣に気づいてない、恋愛未熟者同志だって。アッハッハ」
須坂が本当に楽しそうに、嬉しそうに笑う。
「お前がトラ君の父親になれば、将来お前があかねの父親になる。違うか?」
健太は夜の雑色で一人真っ赤になりながら、
「そんな将来の事、何言ってんだ、お前…」
「余命、半年だからな。」
「……」
「それなりに、娘の将来を考えてしまうのさ。こないだまでの永野健太ならば死んでもお断りだ。だがーあの頃の永野健太だったならー」
健太はゴクリと唾を飲み込む。
「永野。これからのあかねの事、俺の代わりに、よろしく頼む。」
走馬灯の様に、須坂との過去が健太の脳裏に映し出される。同期入社でサッカー部とラグビー部。それほど親しくはなかったが、お互いに会社を代表するスポーツマンとして尊敬しあっていたあの頃。部を引退し、共に管理職となった頃。管理職研修で激しく議論し、議長をしていた常務が止めに入ると、二人して「うるさい、邪魔すんな」と怒鳴り散らした事。
互いに順調に出世を重ね、同じ日にそれぞれ部長を拝命した事。新橋の飲み屋で朝まで社の前途を熱く語り合った日の事。
そして… 去年。左遷を言い渡された事。
そして…
「おい。返事しろよ。いやとは言わせないぞ… ん? 永野、お前、泣いているのか?」
鼻を啜りながら、健太は一言だけ、
「わかった。」
そう言って、電話を切る。
既に顔中涙だらけの健太は、細い路地に蹲み込んで、顔を覆い号泣するのであった。
* * * * * *
その一週間後。トラをスポーツ整形外科で有名な川崎にある関東総合病院に送った帰り道。健太は一人、川崎駅前のビルにある川崎フロンティアのオフィスを訪れ、U18監督の栂正樹と話していた。
「そうですかー。じゃあ、トラは手を出してないんですね?」
「ああ。全くの被害者だ。相手には一切手を出していない。」
「で、怪我の具合は?」
「大腿四頭筋の部分断裂。バットでおもいっきし殴られたらしい。全治一ヶ月。特に後遺症は残らないと医者は言っている。」
「それは良かった。てか、バットで殴られて、そんだけ? ホントに丈夫なヤツですね。ウチの塩尻が、ええ、U15代表の塩尻が。あの赤髪、絶対骨が鉄で出来てるって言いふらしてますよ」
「マサ、それで。今後のアイツの事なんだが…」
「暴力沙汰はマジ勘弁してください。今後、絶対。」
「ああ。わかっている。俺がしっかり、見張って行く」
栂はニヤリと笑いながら、
「へー。どうやって?」
「それは… その… 何とか、頑張って…」
「プハっ ま、どっちにしろ、トラは俺が面倒見ますよ、いや見たいです。ただ、一つ条件があるんだけど」
健太は目を瞑り、深く頷きながら、
「何でも言ってくれ。マサの言う通りにする。」
栂は目を見開き、
「言いましたね。何でも言う事、聞いてくれるんっすね?」
「ああ。だから、その代わり…」
栂は小さくガッツポーズをしてみせ、
「じゃあ、夏休みからトラ、ウチの練習寄越してください。それと…」
健太は心から安堵する。
「夏休みに、ケンタさん、C級コーチのライセンス取っちゃってください。」
健太は眉を顰め、
「は? 何それ?」
「そんで、秋からウチのユースのコーチ、引き受けてください。それが、トラをウチで引き取る条件。」
呆然とする。何だそれ。俺が、フロンティアのユースのコーチ?
「ゆくゆくは、トップチームも見てもらいたいんだけど。これ、G Mの意向だからねー」
「マサ… ちょ… 話に、ついて行けん…」
「タクさんがさ。久しぶりにこないだケンタさんと会ったじゃん。言ってたよ、ケンタさんの目はあの頃のままだって。玉電サッカー部をJ昇格に導いた、あの頃の目のまんまだったって」
健太はソファーに深く座り直し、
「ちょっと… 考えさせてくれ…」
「なる早で。来年のスタッフ予定、上に提出しなきゃだから。」
栂は立ち上がって、
「俺も、見てみたいよ。あの頃の永野健太の、クールで熱い指導をさ。」
そう言ってウインクしてみせる。
俺が、プロの卵たちの、コーチ。
夢想だにしたことのない申し出に、ただただ戸惑うばかりの健太なのである。
* * * * * *
「上田先生。また、松本、ですか。一体、どう言う事なんですか! ええ?」
副校長の中野に会議室に呼び出された一美は、深く頭を下げる。
「中野先生、松本君は被害者なんですっ 友人を拉致されて、それを救いに行っただけなんです。相手には一切暴力は奮っていません。誓って本当です。」
中野は不機嫌そうな顔で、
「警察沙汰、ですよ。また。例え被害者側であっても。それに他校の生徒も巻き込んだそうじゃないですか。さっきその学校から問い合わせの連絡がありましてね」
中野はテーブルをドンと叩きながら、
「二度と、ウチの生徒に近づかないで貰いたい。朱に交われば赤くなりますから、なんて言われましたよ。こんな屈辱、教師生活三十年で初めてのことです。」
「申し訳ありませんでした。二度とこんなことがない様に、しっかり指導して…」
「サッカー部。活動、禁止。」
中野が冷たく言い放つ。
「当然、来月の? 大会も棄権してください。いいですね?」
一美は目を皿の様に大きく開けて、
「ハア? どうしてそうなるんですか? 納得いきません。撤回してくださいっ」
中野は蔑んだ表情で、
「それが私に対する態度ですか。他校から恥をかかされた私に対する態度なんですか?」
今、私に出来ること。あの子達のために私が出来ること。あの人の為に、私が出来ること…
一美は拳を握り締め、
「失礼しました… 申し訳ありませんでした。でも、先生。どうか、活動停止は勘弁してください。お願いします」
一美は90度以上の角度で頭を下げる。
それをいやらしい目で眺めながら、
「そうでしょ? その態度が大事なんじゃありませんか、顧問として。ね?」
中野がゆっくりと一美に近づいてくる。
「僕だってね、人間ですよ。心からお願いされたら、ちゃんと考えますよ」
一美の肩に生暖かい手が添えられる。
「今夜、その件をじっくりと議論しましょう。個室の居酒屋を取っておきますね。時間と場所、後で連絡しますから。では…」
二回ほど一美の肩を揉んだ後、中野は会議室を出て行った。
夕方七時。一美は指定された店に向かっていた。J R川崎駅の南側、仲見世通りの砂子二丁目交差点近くの個室居酒屋の暖簾を潜り、待ち合わせの中野と言うと、こじんまりとした部屋に通される。
席につき、溜息をつきながらスマホを弄っていると、程なく中野が入ってくる。
「お待たせしましたね、上田先生。いや、校外だから、一美ちゃん、でいいよね?」
と言いながらおしぼりで顔を拭い、生ビールを二つ注文する。
「いいでしょ、このお店。僕が一生懸命探したんですよ。さ、乾杯、乾杯!」
中野は一気にビールを飲み干す。
「一美ちゃんも、ささ、グイッといってグイッと。そうそう。最後の一滴まで、ね」
言われた通りにビールを飲み干し、
「中野先生。サッカー部の件ですけど」
「まあまあ。もう一杯飲んでから、ね。おーい、生二つおかわりー」
見えない様に、深く溜息をつく。
「そもそもねえ、少年院にいくような生徒をねえ、どうして僕らが指導しなきゃいけないのよ。犯罪者ですよ、奴は。警察官に暴力を振るう様な、人間のクズですよ。ねえ一美ちゅあん」
テーブルには空のジョッキが六個。中野はすっかり酔っ払った様だ。一美はそっとスマホの録音アプリを立ち上げ、録音を開始する。
「人間のクズ。もー、生まれも育ちも、犯罪者。更生なんて不可能っ そーでしょ、一美ちわーん」
「あの、先生。そろそろお開きにしませんか。それと、サッカー部の件。どうにか活動継続でお願いできないでしょうか?」
「ぬふふふふ。いーよー、別に。その代わりにー わかってるよね、一美ちわわーん」
「何がですか?」
「わかってる、くせに」
中野はジメッと湿った手を一美の手に乗せる。
「わかるでしょお? 大人なんだから。」
一美はニッコリと笑いながら、
「わかりかねます。何でしょうか?」
「朝まで。僕と、付き合って。ね。それで、部活もOK。来月の大会もOK。ね?」
「中野先生。それが聖職者の言動ですか。信じられません!」
一美は声を張り上げる。
「ハア? そんなこと言っていいのお? じゃあ、サッカー部、活動停止。そうなるよお」
「致し方ありせんね。今の発言は録音させてもらいました。明日、教育委員会に提出しますので。それでは失礼します」
と言って席を立とうとすると、
「ふざけんじゃねーよ、この行き遅れのババアがっ 調子にのんじゃねーや!」
と大声を上げ、テーブルをバンと叩く。
「そんなことしてみろ。お前なんか島嶼部に送り込んでやるからな。おい。そのスマホこっちに寄越せ。寄越せって言ってんだろ!」
そう言って徐に一美にのしかかってくる。
「ちょ、やめてください! 何するんですか!」
「うるさいっ 俺の言うこと聞くんだよ」
そう言うとガシッと一美の両胸を握り締めた。一美は頭が真っ白になり、言葉を失った。中野はそこにつけ込み、更に一美にのしかかってくる。一美を羽交い締めにし、あろうことか耳を舐め始める。
「いい加減に、しなさいっ」
一美が叫ぶも、恐怖で中野を押し除ける力が湧いてこない。
一美の瞳に涙が浮かぶ。
助けて 助けて 永野さん 助けて…
中野の激しい息遣いを聞きながら、きつく目を瞑る。
「ちょっと、何してんですか! 嫌がってるじゃないですか!」
上の方から力強い男性の叱咤の声がする。中野の息遣いが止まる。
「アンタ、関係ないだろ。出て行けよ」
中野が吐き捨てる様に言うと、
「でもその女性、泣いているじゃないですか。警察、呼びましょうか?」
チッと言いながら、中野は立ち上がり、
「退いてくれ。僕は帰る。言っとくけど、この女が誘ってきたんだからな。誘ってきたんだからな」
そう言い捨てて、中野は部屋から出て行った。
「あの、大丈夫ですか。ホント警察呼びましょうか?」
一美はゆっくり目を開ける。すると!
「あれー、ひょっとして、ケンタさんの学校の顧問の先生?」
暗がりでハッキリ見えなかったのだが。一美は起き上がり、その声の主を見上げると、
「あなたは… フロンティアのG Mさん!」
「あー、ハイ。川崎フロンティアの飯田です、ご無沙汰でーって、こんな形でアレですが、先生、ホント大丈夫ですか?」
飯田が蹲み込んで一美を気遣う。
「こわ、怖かったー えええーーーーん」
一美は飯田にしがみ付く。そしてその厚い胸板に縋り、思う存分泣くのであった。
* * * * * *
「な、永野サン… ホントに、アタシ、クイーンと話せるんだよね? これ、夢じゃないよね…」
亜弓が半分嬉しそうに、半分怯えながら健太に伺う。どうしてこの子は島田の事をこんなに仰ぎ見るのだろう。サッパリわからない。
「生意気な女だって、追い出されないかなあ… 嫌われないかなあ… あー、マジキンチョー」
そんな亜弓を愛おしそうに健太は見詰める。そんな母親をトラはウザそうに見下す。
東西線の門前仲町駅を降り、エスカレーターで地上に出る。もうすっかり初夏の夕暮れの街並みに、懐かしさも込み上げてきて健太は目を細める。
健太は思うところがあり、また前々からの亜弓との約束もあり、生まれ故郷である門前仲町の『居酒屋 しまだ』に亜弓を誘うと、まるで子供みたいに彼女は飛び跳ねて喜んだのだった。
前もって島田光子に連絡を入れると、驚くことに彼女は未だにガラケーであり、電話しか受け付けないそうだ、
「おお、いつでもいいぞ。え? 女、子供連れ? やるじゃんかケンタ。見せろ会わせろ!」
と言ってくれたので、金曜日の練習後、いやがるトラを引き摺りながら三人で電車に乗ったのだった。
「大分、普通に歩ける様になったな、トラ」
若干、左足を引き摺りながら、
「まあな。」
最近のトラは、暗い。それもその筈だ。あれだけ出場を心待ちにしていた二次リーグを全て棒に振ってしまったからである。
救急車で運ばれ、二日程入院して足を固定し、松葉杖で登校すると、学校中の生徒がトラをいじり倒したそうだ…
但し。サッカー部員の落胆ぶりは半端なく、トラ抜きで私立の強豪校と戦える筈がない、と弱音を溢していると、
「オメーら、まだそんな事言ってんのかコラ。何度言えばわかんだよ、やる前からー」
「諦めんじゃねーよって… オメーのせいだろがトラっ!」
と逆ギレされてちょっと大変だった様だ。
それでも練習にはトラは毎回顔を出し、特に下級生、新入りの三年生に懇切丁寧に厳しく激しく熱く指導している。
「そう言えば、副校長の中野先生が更迭されたらしいな。」
「コーテツ? 何それ、硬いの?」
「…… 副校長が、クビになったんだろ? 理由知ってるか?」
「知らねーよ。てか、ザマーミロってーの。アイツ前からサッカー部を目の敵にしてやがったから。バチでも当たったんじゃね?」
「ふーん。前会った時は下手に出てペコペコしてたなあ。まいっか、どーでも。」
「それよりー、何処だよその店。てか、何でオレまで行くんだっつーの。面倒くせー」
亜弓がトラの頭を叩き、
「永野サン、まだ?」
「ああ、ほらそこ。古民家風のー」
「ヘーーー。さすがクイーン。素敵な店じゃんか、なあトラ!」
「知るかよ。それよか、腹減って死にそー」
こんなにしおらしい亜弓を見るのは初めてである。健太とトラは目を真丸にして、亜弓の様子に唖然としている。
「おうケンタ! よく来たな。元気だったかあー」
変わらないクイーンこと島田光子が威勢よく声を掛ける。
「島田。久しぶり。お邪魔するな、で。こちらが蒲田でスナックやってる、お前の大ファンの松本亜弓ちゃん。それとその息子のトラ。」
亜弓はヨロヨロと歩み出て、
「ずっと、ずっと憧れでしたっ 深川のクイーン…」
クイーンはニッコリと笑い、
「おうっ よく来たな。まあ座れ。今夜はアタシの奢りだ! しこたま飲んでけ!」
亜弓はきゃーーと絶叫し息絶える。享年三十五歳。
クイーンは満足そうに亜弓を眺めた後、トラを一目見て、
「…でか …オメエ、二十歳か?」
「十四。中三。」
「…嘘だろ …老けてんなー。だけどー」
クイーンが見上げながら。
「いい目、してんじゃん、トラ。腹減ったか? 好きなもん食ってけ!」
トラは何故かドキマキして、
「おいっす…」
なんて裏声になっているし。
トラは夢現の母親を無視し、健太に、
「…誰?」
「俺の中学の同級生。昔、ここいらでヤンチャしてた、深川のクイーン、こと島田光子。」
「ケンタと、タメ? 嘘つけ。え? ってことは、今年、50? ウッソ、あり得ねえ…」
クイーンは満面の笑顔で、
「おう、坊主。何食うんだい?」
「え、えっと。焼きそば」
「ハイよっ 忍、焼きそばメガ盛り一丁♩」
「ハイよっ 姐さん」
厨房の奥で、明らかにクイーンより年配の中年太りした女性が声を上げる。
「信じらんない… 目の前にクイーンがいる…」
すっかり目がハートになっている亜弓に、
「ケンタからちょっと聞いたんだけど。アンタも蒲田の方で、暴れてたんだって?」
イヤイヤ… 手を顔の前で振りながら、
「そ、そんな。クイーンに比べたら、可愛いモンっす。蒲田のレディース、ちょっと仕切っただけっす…」
「へー。蒲田のどこよ?」
「デビルキャッツ、っす。」
「ふーん。何人くらいいたん?」
「えーと、アタシんときで、五十位っすか… あの、二千人束ねてたって、マジっすか?」
亜弓の幸せの時はゆっくりと過ぎて行き、トラの空腹は徐々に解消されていく。
「で。何だよ話って。」
「ん? ああ、実は、さ…」
隣で幸せに酔い潰れている亜弓、その隣で幸せに満腹で転寝しているトラ、を細目で眺めながら、
「クイーン、この子、どう思う?」
「んだよケンタ。まだ告ってねーのか?」
「ば、バカ。まだだって…」
「ったくテメーは昔から女っ気薄いっつーか、女心わかってねーっつーか…」
クイーンは溜息をつきながら、
「コイツ。お前にゾッコンじゃねーか。良かったなケンタ♪」
「ま、マジか? 本当か?」
「…… 忍―、何とか言ってやれよ… このタコ野郎に」
「メチャ、似合いじゃないっすか。二人、っつーか、三人。」
健太は忍を見返しながら、
「え? 三人?」
「うん。アンタら、どー見ても、親子だし。」
「ホント?」
「うん。ホント」
「そっか…」
トラが薄目を開けている事に、健太だけ気づいていないし。
「オレさ、前の妻との間に、今大学生の息子がいたんだわ」
「ああ、前言ってたな。そんで?」
「そいつにさ。父親らしい事、何一つしてやれなかったんだわ」
「ふーん。」
「なあ、人間って、やり直せんのかな…」
トラがビクリとする。やり直すって、誰と…?
「コイツらと、家族になって、」
トラが硬直する。ケンタが、父親。オレに、父親…
「やり直し、出来るのかな…」
クイーンはタバコを口に加える。すかさず忍がそれに火を付ける。
「問題、なし。オメーら、なら。な」
「そーっすね。問題、ないっす。な、坊主」
忍はそう言いながらトラの頭をポンと叩く。トラは慌てて寝たふりをする。
「そっかな。そっか。うん。わかった。そっかー」
健太は何度も一人で頷く。トラは思いがけない健太の告白に、胸がジワジワと暖かくなってくる。オレに父親… 親父… 嘘だろ、マジかよ、ホントかよ…
そんなやり取りに全く気づかず、爆睡している亜弓を見て、
「うん、コイツなら、ケンタにピッタリかもな。お似合いだよ。」
健太はニッコリと笑う。
「そう言えば、島田は今独身なのか? 孫がいるって言ってたよな?」
「おお、花のアラフィフ独身よ。カッケーだろ? カッカッカー」
「そー言えば、あの頃お前さ、バスケ部の金光に惚れてなかったっけ?」
クイーンのタバコが口からポロリと落ちる。
「生徒会もやってた真面目な堅物。あいつと一昨年かな、大手町で偶然会ったよ。」
クイーンがズンと前に乗り出し、
「それで?」
「東京三葉銀行の… どっかの、支店長やってたんだけど… 奥さん、ちょっと前に亡くなったって。聞いたか?」
クイーンは唖然とした表情で凍り付く。奥さんが、亡くなった、だと…
「そ、そんなの、聞いてねえし、知らね、えし…」
「そんで、娘と一緒に門仲の実家に戻ってるって言ってたぞ。この辺にいんじゃねえか?」
目をクワっと開き、鬼の形相で
「マジか!」
健太はその迫力に五十センチほど下がりつつ、
「ああ。あの、高橋健太あたり、知ってんじゃね?」
急に恐ろしげな表情で、
「あの野郎。そんな事、ひとっことも…」
「はは。金光と高橋、仲良かったよな。あー、懐かしい。みんな元気かなあ…」
「そっか。あの人、この街に帰ってきているのね…」
一瞬、クイーンが清純派の美魔女に見え、その神々しさにトラは思わず息を呑んだものだった。
* * * * * *
四年後―
「今年から始まりました、全日本U18サッカー選手権、初代王者を決める決勝戦をここ新東京国立競技場からお届けします。解説は元日本代表監督の奥野細倫さん。実況は私、永田真治がお伝えします。奥野さん、いよいよ決勝戦です。まずこの大会の意義について、元日本代表監督の視点でいかがでしょうか」
「はい。コロナ禍で数々の世界大会が中止となり、そんな中で日本国内での育成世代の成長が危惧されている中、高校世代の真の日本一を決めるこの大会の存在は大きいと思います。特に正月の高校選手権のベスト8、クラブユース選手権のベスト8、計十六チームによる真剣勝負のトーナメントは、日本サッカー界の新たなる風物詩となっていくことでしょう。」
「それと、この大会の大きな特徴は、参加チームに賞金が配られる点かと思われますが、いかがでしょうか」
「優勝チームに千万円ですか、当初は高校の部活動に賞金は如何なものかと論議を呼びましたね、しかし全員プロを目指す選手達ですから、世界標準で考えれば妥当なことかと思われます、はい」
「優勝チームに千万円、準優勝チームには五百万円が配られます。U18世代であっても、勝利がお金に直結する、プロとしては当然の市場原理に刮目したシステムによる、第一回大会。世間の注目度も大きく、今日もこの決勝戦には大勢のサッカーファンが押しかけて、ある意味ではこれ迄の日本サッカーの殻を破る試みに大きな声援を送っています。観客席は半分以上埋まっているのではないでしょうか」
「そうですね。それとこれまでと大きく違うのが、ユースチームへの応援、ですかね、ご覧ください、両チームともトップチームの応援団がこのユースチームの応援に駆けつけており、選手達も相当モチベーションが上がっていると思いますよ」
「ピッチ上では選手入場の準備が進んでおります。さて奥野さん。今日の注目選手といえば?」
「はい、川崎フロンティアで言えば、何と言ってもU19日本代表コンビの塩尻、松本の二人でしょう。攻撃の中心である塩尻、守備の中心である松本、どちらも世界規格の優れた選手ですね」
「対するS C東京、年代別代表はいませんが、チームとして非常にまとまった印象を受けますが。」
「そうですね、G K小谷を中心に良く組織された守備陣と高速カウンターを得意とする攻撃陣、非常に魅力あるチームではないでしょうか」
「そう言えば、川崎の松本、東京の小谷、平谷は中学では同じ学校のサッカー部だったそうです。そんな同級対決も大きな話題となっております、さあ間もなく選手入場です」
「トラ… お前、またデカくなったんじゃね?」
「オマエこそ… てか、平谷はあいかわずチビじゃん。ウケるわー」
「アンタらがデカ過ぎ。キモ」
「ハア? 生意気言ってんと、バットで足へし折るぞコラ」
「それ、アンタだろトラくん、ウケるー」
「はー、それより一千万! 何に使うかなー バイクでも買うか、ハリーダビットソン!」
「馬鹿かオマエ、何でテメーのもんになんだよ、それに何だよハリーって。魔法使いかオマエはボケ」
「るせんだよシオ、無得点のヤツは黙ってクソして寝てろ」
「て、テメーこそイエロー三枚持ちだろが! 遊戯王でもやんのか、ボケ」
試合前に、しかも世間の注目を集める大会の決勝戦前に、笑ってはいけないーそう思い込んでいる選手達の我慢の袋の尾が切れる。
ギャハハハー
皆腹を抱えて大笑いし、中には立っていられなく者も…
先程から我慢しているのは選手達だけではない。この試合の為にわざわざ選出された世界に誇る日本の国際審判、宇野隆平はついにぶちぎれる。
「オマエら! いい加減にしないか! これ以上ふざけてると、試合中止にするぞ!」
一瞬で静まる… 筈もなく、
「っせ〜んだよ。U N Oさん!」
野太い声が響き、一瞬静まる。皆驚きで凍りつく。トラ、何言っちゃってん……
その時。冷静に宇野主審は胸からレッドカードを取り出し、トラに向かって
「ウノ!」
数名の選手の体調回復の為に、試合開始が三分遅れたことは公表されなかった。
「なんか試合開始、ちょっと遅れてね? あーーー、おーい、サワー。こっち、こっち!」
「おおおおおー、コータじゃん、マジ久しぶりー、おおおー、みんないんじゃん、うわー懐かしいーー」
「いやー、ホント久しぶりっすね、てか、よくみんな集まりましたよねー」
「中学卒業以来じゃね? え…この子、誰? まさか、りんりん?」
「そーだよおー、サワくん、おひさー」
「マジかー、メチャ可愛くなってんじゃん、っくーー」
「何それ。昔はブスってこと?」
「いやいやいや… え? で、こっちがもえ? ウッヒョー、何坂だよおまいら!」
「… なんかサワ、軽くなってね?」
「色気付いてますな。あーあ、あの頃の面影が…」
「っセーよ、あれ? キョンは来てねーの?」
「ここには、ねーー」
「どゆこと?」
「あそこ!」
りんりんが指差したのは、川崎フロンティアベンチ方向だ。沢渡の頭にはてなマークが浮かぶ。何それ意味不―
「キョンはボランティアで、フロンティアのスタッフやってんだよ。何でも戦術解析部隊とか」
「マジか… いやー、みんなスゲーなあ…」
皆は同意し頷く。
「で、オマエらみんなサッカーやってんの?」
試合開始のホイッスルも聞こえず、元蒲田南中サッカー部関係者はこの四年間の四方山話に前半一杯使う事になる…
「ここで前半終了のホイッスル。0−0で前半を終えました。奥野さん、ここまでの所、如何でしょうか?」
「はい。両チームの中盤の攻防戦は素晴らしかったのではないですか。流石高校世代のトップチーム同士の攻防だったと思います。特に東京は好守の切り替えが早かったですね、ボール保持率では川崎が上回ってますが、ボールを奪った後の速攻が良く効いていると思います。」
「そうなると、後半戦の選手起用を含めたベンチサイドの攻防も見ものとなるのではないでしょうか?」
「ハイ、特に川崎は去年から指揮をとっている永野監督の動きに注目したいですね。去年の冬のユース選手権では、その選手起用がどれもうまくハマって見事タイトルを取りましたからね」
「対する東京の玉城監督の手腕にも注目したい所です。」
「ええ。上手く若手を融合させて、組織的な素晴らしいチームを作る事には定評がありますよね。後半の選手起用には大いに注目したいです」
「それでは前半のハイライトをお送りしますー」
「ねえ、あかねちゃん。あなたみんなと一緒に観たいんじゃない?」
「いえ。このスタッフ関係者席がいいです。ねえお母さま」
「…お、おう。そ、そうだな…」
「亜弓さん? 顔面蒼白、ですよ。大丈夫ですか?」
「お、おう… 何とかな… でも、またトラのヤツがファール取られて、クビになんじゃねーかと…」
「クビって… トラくん、大奮闘じゃないですか。ねえあかねちゃん」
「よく分かりませんね。サッカーは相変わらず。やはりスポーツはラグビーが一番かと。あのワンフォーオールオールフォーワンの精神に叶うスポーツはこの世に存在するのでしょうか」
「え… そうなの…?」
「それにラグビーは亡き父が愛したスポーツですから。私にとっては忘れたくても忘れられない、心の拠り所なのです」
「あは… そ、そうなの…」
「はい。それより。かずみん先生は遂にC級コーチの資格を取られたとか?」
「そうなの。やはり刺激になるわね、すごく勉強になったわ」
「スッゲーよな、かずみんは。もう南中はさ、あの辺りの名門校だもんなー」
「そうですね。去年の全中都大会ベスト4は惜しかったですね。あと一勝で関東大会出場… トラくん試合の後号泣していましたよ。」
「そうよー、あなた達がせっかく観に来てくれてたのに… あーーーー悔しいー!」
「でも今年のチームは有望だってトラくん言っていましたが?」
「そーなのよ! トレセンに三人出てるの! あとフロンティアのU12の子が二人、入ってくるのよお、どうしよう…」
「カツくんとてっちゃん。あの子達トラくんの大ファンなんですよ。だからU15昇格諦めてトラくんがいた南中でやるんだって。それでトラくんが成し得なかった全中全国大会に行くんだって。」
「うわー、責任重大じゃない、私…」
「それでもし本当に全国大会行けたらトラくん公認の舎弟にしてもらうんですって。男の子ってサッパリ意味がわかりません…」
「…… うん、そこは同意… それより、すごいね、あかねちゃん。四月からあの東大の法学部なんだって? 現役合格って、ホント凄いじゃない!」
「ありがとうございます」
「それにしても、人生ってわからないわよね、もしあの時あのまま慶王女子に行っていたらー」
「仕方ないです。あの事件で退学になったのですから」
亜弓の表情が少し曇る。
「マジ、あんときは悪かったな… マスコミには出ねえように頑張ったんだけどな…」
「いいんです。お陰でみんなと同級生になれたしトラくんとも…」
「そうね、あなたが三年の五月に編入してきた時はビックリしたわよ。でもそこから頑張ったわよね、あの二学期の期末試験の全教科満点って、未だに伝説なのよ」
「そうですか。でもあの事で私どんな逆境にも屈しない強い心を持てた気がします。」
「ホントね。その後、お正月にお父様亡くなられて。でもまたそこで頑張って、都立の名門日々矢に入って。亡きお父様は、どんなにあなたを… うっうっうっ…」
「ったく… 泣くなかずみん! ほれ、後半始まんぞ! って、アンタの旦那、今日はベンチなのか?」
「G Mはベンチには入りません、スポンサー席にいる筈です」
「あれ、そー言えば、景虎は?」
「実家に預けて来ました。そろそろサッカー見せたいんですけど、まだ二歳ですから」
「それにしても景虎って… 飯田G Mは上杉謙信がお好きなんですか?」
「それもあるし。あと、どうしても、『トラ』っていう字を入れたかったの、私が。」
「「へーー、何故?」」
「だって… 私を変えてくれた、あの子の名前だから。」
そう言って一美はハーフタイムを終え、ピッチに現れたトラを指差す。
「それよりも。亜弓さん! いい加減、ちゃんと考えなさい、永野さんとの事!」
「そうですよお母様。さすがにのんびり屋の私も堪忍袋の尾が切れそうです。と言うか永野さんも永野さんなのですけど。一体あなた方は何を考えているのですか!」
「な、何って… いや、だって、ほら、あれじゃん、わかんだろ、な、あ、始まったぞ後半!」
必死に誤魔化す亜弓を呆れ顔で見つめる一美とあかねなのである。
「後半に入り、試合が動きましたねえ」
「ええ。開始早々の塩尻のミドルシュートは見事でした。松本からのロングフィードを見事なトラップで足元に落とし、そのまま豪快に振り抜きました」
「そして、その直後に東京もお返しとばかりに平谷がF Kを決めてみせました!」
「あの距離は平谷の得意な距離でしたね。G Kは一歩も反応することが出来ませんでしたね」
「後半、三十分を過ぎて1−1、どうでしょう、東京がやや優勢でしょうか?」
「そうですね、川崎は少し疲れが見えますかね。選手起用がポイントとなるでしょう、ああ!」
「あああ、東京、平谷が倒されましたっ ゴール前、絶好の位置です、あああ、松本にイエローカードが出されるようです。宇野主審は松本にイエローカードを出しましたっ!」
「今のは平谷が上手くファールもらいましたね、絶妙な位置ですからー」
「ああ、激しく松本が抗議します… が… 宇野主審に指導され… 松本は首を項垂れて大人しくなりましたね。あれ… どうしたんでしょう…」
「何でしょうね… 選手達が…」
「ピッチ上の選手達が… 何人か急に倒れています… これはどうしたことでしょう?」
「倒れている選手は、少し震えていますね、何事もなければ良いのですが…」
「あっと… 松本が倒れている平谷の髪を掴んで、立ち上がらせて… これはいけません、平谷も相当痛がって… あれ?」
「ちょっと、笑ってますね、平谷選手… 痛くなかったのかな…」
「そう言えばこの二人は大田区の蒲田南中学時代の先輩後輩、松本が三年生の時の一年生が平谷と言った間柄だそうです。」
「先輩後輩で、まあ、そんな、あれなのですか、ねえ」
「倒れていた選手が立ち上がっています。みな大丈夫みたいですね、それでも川崎のピンチは続きます。東京にとっては絶好のチャンス。平谷がキッカーでしょうねココも」
「はい。距離も近いし、しっかりと決め切りたいところです」
「ハアハア、あの、おっさん…「ウノ!」って言いやがった… ハアハア…」
「ハアハア… 苦しー… マジウケる。サイコー」
「ったくテメー、上手く倒れやがって…」
「まーねー、ハアハア、トラくん、決めさせてもらうよー、ハアハア」
「バーカ。そーはいかねーっつーの。だってよ、オマエ、宇野主審がまた俺にカード出すかも… ぷっ」
「…クックック… トラくん… ずりーよ… これ以上、笑わすなよ…」
「オマエ、蹴る時気を付けろよ、宇野主審がカード…」
「やめろよ、やめてよ…」
「ああああーーー、ボールは枠を大きく外れましたー」
「全くボールに回転がかかっていませんでしたね、やはりファールを受けた足の状態がよくなかったのかなあ」
「相当悔しがっていますね平谷。東京は勝ち越しのチャンスを逃しました、残り約十分、勝利の女神はどちらに微笑むのでしょう」
「両チームとも頑張って欲しいですね、どうかな、このまま延長戦になったら、やはり東京有利かな、」
「東京は既に選手交代を二枚切っております。一方の川崎はー未だ交代はありません」
「これは永野監督の作戦なんでしょうかね、今後の展開が楽しみですね」
「あっと、ここで東京は最後の交代のカードを切りそうです、7番土屋に変わって、ロアンが入ります。」
「より攻撃的な選手を入れてきましたね。東京としては残り時間で勝負を決めにきたようですね。両監督の戦略が実に見ものですねえ」
「川崎の永野監督は延長戦を見据えて、と言うことでしょうか。延長戦に入りますと、交代枠が一人増えます。もしこのまま川崎が交代枠を使わないで延長戦に入りますと、川崎は一気に四人交代できる事になります」
「おい、キョン。あと十分で延長戦だ、四人のアップは?」
「ハイ、丁度いい感じに行けそうです」
「よし。あとはこのまま延長に入れよー」
「… 最初からこの展開を想定してたんすか?」
「いや。後半入ってからの展開が、な。最初打ち合って1−1だろ、相当後半は東京バテると思うんだ。ま、ウチもだけど。だから、残りの後半は無理に点取りに行かないで凌いで、延長でケリを付けるかーってな。」
「成る程。勉強になりますっ」
「で、相手、特にボランチの二枚の走行距離は?」
「ハイ、9.8キロと10.7キロです。確かに… 延長入ったら、彼らは…」
「で、ウチは? トラと塩尻。」
「トラくんが、7.8キロ… 相変わらずサボるの上手いなあ… で、シオさんが、9.9キロ。もう限界かも、です」
「トラの野郎、後半の途中からドン引きでサボってやがる。アイツもおんなじ事考えてるかもな」
「ホント。親子って似ますねえ」
「ば、馬鹿野郎! お、親子じゃねえって…」
「もーー。マジ面倒くさ… って、あれ? この大会で優勝できたら、確か告るって、トラと約束してませんでしたあ?」
「そ、そんな事、今カンケーねーだろ。ほれ、キョン、アップの四人にピッチ上げろって伝えてこい!」
「ハイ!」
* * * * * *
「えーー、放送席、放送席―、それではヒーローインタビューです。全日本U18選手権大会、通称「イチハチ」大会初代王者となりました、川崎フロンティアの松本キャプテンに来てもらいました。松本くん、おめでとう」
「あっざーす」
「… えー、松本くん自身、延長戦に見事な決勝点を決めて見せました、率直な今の感想を」
「P K戦になったら、小谷の野郎に止められちまうからな、まあ上手く決めれられてよかったわー」
「… えー、そうです、東京のG K小谷くんとは中学生時代の同級生だったんですよね、試合後に何か話していましたが、何と?」
「ああ、打ち上げ、いつもの「スナック あゆみ」でやっから、遅れんじゃねえぞ、って」
川崎フロンティアの応援団から爆笑が起きる。
「ま、松本くん、そして塩尻くんの二名は今後川崎フロンティアのトップチームに昇格しますが、今後Jリーグでやっていく自信は?」
「ハア? ねー訳ねーじゃん。ま、シオはヘタレだから、当分修行が必要じゃね?」
川崎応援団から罵詈雑言が聞こえてくる。
「さ、最後に、応援してくれたサポーターに一言」
トラはマイクを奪い、フロンティアサポーターに向き直り、
「ま、今年のフロンティアの優勝、間違いなし! オメーら、俺についてこい!」
罵声と歓声に包まれるトラなのであるー
「… それでは、一点目を決めた塩尻くんに来てもらいました。塩尻くん、おめでとうー」
「ったく、あとで録画見て、大爆笑だよ… なんだよあのインタビュー」
店内が爆笑に包まれる。
「それな! って、この店の宣伝、思いっきししてるし」
再度爆笑に包まれる。
「いやー、ホント親孝行だわートラくん」
「でもさ、でもさ。すっごくない、ウチの中学。今日の試合に、三人もO B出てるんだよ」
「だよなあー。平谷―、オマエ後半のアレ、メチャ外してたじゃん、トラに削られたトコ傷んだとか?」
「チゲーよ。トラくんが笑わすんだよ。ざけんなよ、ったく。」
「泣くな平谷。また来年が、ある。」
「えー、それでそれで? 小谷くんは大学でやるんだって?」
「そー。昇格できなかったから… まー、でもお陰で大学生! ラッキー」
「いやいやいや。大学生と言えば、何と言っても現役東大生、あかねっちでしょ!」
「それなー、まさか同級生から、東大生が生まれるとは…」
「流石、あかね姐さん。一生、ついて行きますよお!」
あかねはハア? という表情で、
「え? 何? 私、東大王狙うなんて一言も言ってないわ!」
うおーーー 店内は歓声に包まれる。
そんな彼等を目を細めて見守っている健太に、亜弓がキンキンに冷えたビールジョッキを渡す。
「ハイ、お疲れ様。かんぱーい」
「ありがと。乾杯」
二人はグラスを軽く合わせる。
「永野サン、ダメじゃん、インタビューで泣いちゃ。あれ、全国中継だぞー」
「いやー、つい感極まって、なー。それにしても、あれからもう四年経つのかー」
「そーだねー、なんかあっという間だったね。」
「俺はいつの間にか古巣のユースの監督。トラは何とか高校卒業してプロサッカー選手。あかねちゃんは東大生。色々あったよなあ。でもさ、何も変わってないのが、亜弓ちゃん。」
「あは、そーかも。あーでも、オババになったよ…」
「全然。むしろあの頃より、ずっと綺麗になったよ」
「え… は… えっと…」
「あ… いや… その…」
後ろでキョンがハアアーーーと深―い溜息をつく。ダメだこりゃ。このままじゃ、この人たち一生このままかもー
仕方がない。初恋を諦めよう。
そう決めて、一粒だけ涙を流し終えたキョンが、二人の間に割って入る。
「さ。永野サン。約束、守ろっか?」
「… へ?」
「トラくーーん。永野サン、今から約束! 守るってさあー」
店内に響くキョンの大声に、みなキョトンとする。
「監督。いい度胸じゃあねえか。ま、男と男の約束だからな。キッチリ守ってもらおっか!」
トラが割と真剣な目付きで健太に近づくと、店内がシンとなる。
「ちょ、ちょっと待てトラ。何もこの場で…」
なあ。
そろそろ、いいかな
そろそろ、マジで
親父ってもんが欲しいんだけどー
アンタは俺をプロにしてくれた
マジ感謝
でもこの先のことが、
あかねと一緒に歩くこの先のことがさ、
イマイチ良くわかんねーんだよ
俺らには、絶対必要なんだよな、
親父ってヤツが
俺、知ってんぜケンタ
あかねの親父さんと約束したんだろ?
あかねを一生見守るって
そろそろちゃんと
約束、守れよな
「… トラ。わかった。あの… 亜弓ちゃん。」
背筋をピンと伸ばし、亜弓に向かい直る。亜弓も何事かと、背筋を伸ばす。いつの間にか黒くなって腰まで伸びた髪がサラリと揺れる。
「俺と… 」
店内がかつてない程静まり返る。
「俺と…… 付き合ってください!」
店内の全員がリアルにずっこける。思わずグラスを落としてしまう者も出る始末だ。
「今、ハッキリわかった。アイツ、リアル馬鹿だ」
「ああ。アレがリアル「脳筋男」だ。なんてタチの悪い…」
「ああは成りたくねえな。ちゃんとお付き合いから結婚、とか考えてんだろーけど」
「馬鹿よねえ… 相手の気持ち、年齢、立場とか全然考えてないっしょ?」
「アレじゃトラママ、可哀想過ぎ… アレに比べたら、川崎のG Mは凄かった…」
「アハハー、あの速攻は流石元日本代表! まずは既成事実、ってのが凄かった…」
「それなー。って… ケンタさんじゃ、それは望めまい…」
「脳筋だもんなあ… アレ。スクールの若い人妻とかサポーターから、結構モテてたんだよな」
「でも、一切それに気づかず… ま、それが永野さんの魅力でもあるかもー」
ホント。成長したな、子供達。店のスタッフのミキが目を細めているとー
「ゴメン、永野さん。それは、ムリ!」
最早、スマホの秒針が聞こえそうな程、静まり返る。
「貴方とは、これ以上、付き合えません!」
健太が気を失いそうな真っ白な顔になる。
全員が一斉に席を立ち、
「「「ちょっと待て!」」」
「「「トラママ、待って!」」」
「そーだそーだ。」
皆が健太と亜弓を囲む。そして、亜弓が軽く右手を上げて、皆を黙らせる。
そして、往年のレディースを束ねていた頃の目付きとなる。
健太はその迫力に凍り付いてしまう。
その、動けなくなった健太を睨み付けて。
「アタシと、結婚しなさいっ!」
健太は思わず、
「ハイっ」
亜弓は唖然とする皆に振り返り、
「いいか、オマエら。喧嘩もプロポーズも、先手必勝な。わかったか!」
「スナック あゆみ」開店以来の大歓声がいつ迄もいつ迄も、店内に響き渡る。
「先手、必勝。成る程―」
「いや、これは奇襲に近いな。先ずは付き合えない、と言って油断させ、そしていきなりのプロポーズ。」
「流石、蒲田の伝説のレディース。「われ、奇襲に成功せり」ってか?」
「何だっけ、それ?」
「ああ、何かの作戦の合言葉だっけか?」
あかねが首を振り、
「違うわ。真珠湾攻撃が成功したことを大本営に告げた言葉よ」
おーーー流石東大生。
「では問題! 真珠湾攻撃に成功、「我奇襲に成功せり」これを暗号にした言葉とは?」
あかねがトラの頭を押す。
「文一の新一年生、須坂さん、答えは?」
あかねは誇らしげに。
「トラ トラ トラ!」