全てがうまく行ってる時に限って邪魔するヤツが出てきてマジ不愉快な話
「凄かった。トラもみんなもホント凄かった!」
興奮気味のあかねがトラの手を握ったまま離さない。
「このまま精進すればあなたはきっとプロ選手になれるわ。キアラン・リードのような。間違いないわ。それじゃ行きましょうか」
「…誰それ?」
「あら知らないの? 世界一のラガーマンだけど。」
「知るか… で、何処に?」
「だって。あなた父と約束したじゃない? 結果を出したら土下座とか何とかって。今日は父は家にいるのよ。最近は週末ずっと家にいるのよ。以前は接待ゴルフとかばかりだったのに。どうしたのかしら」
「ちょ、ちょっと待ていっ」
「心の準備? 諦めなさい。さ。行くわよ」
「ま、待てい…」
ずるずる引き摺られながら、トラはあかねの後を歩くしかなかった。
そう言えばあかねの家に入るのは初めてだ。この辺りでは有名な超高級マンションの最上階。玄関に入るとメッチャ良い匂いがしてトラは倒れそうになる。
ああ、これがセレブって奴か…
家具、調度品の数々を眺めながらトラは今更ながらの社会格差に呆然としてしまう。
あかねの母親と会うのは初めてだ。メッチャ細くてスッゲー美人。ケンタのおっさんが見たらイチコロだろーな、なんて思ってしまう。
「やあいらっしゃい。あかねから話は聞いているよ」
あれ。一ヶ月ぶりだよな。どしたんだろ、顔色悪い。
トラは怪訝な顔で会釈する。
「キミと永野、ちゃんと結果出した様だね。素晴らしいじゃないか。」
須坂がゆっくりと立ち上がる。少しよろけた様に見えた気がする。それに… このひと月で、かなりダイエットした?
「人間のクズ。これは僕の誤りだった。どうか許してください」
深々と頭を下げられる。
「ま、イイっす。それより。おじさん、体調悪いのか?」
須坂がハッとした表情となる。あかねの母親はサッとキッチンに入って行く。
「そんな事… ないよねお父さん?」
あかねが不安げな顔で囁く。
須坂はベランダの外の景色を眺める。しばらくして、何か決意した様な表情で、
「あかね。それにトラくん。そこに座りなさい」
と言ってソファに促される。
(なんだよ。別れろって説教されんじゃね?)
(そ、そんな筈は…)
(髪を黒くしろ、とかなら、黒くする)
(あら。赤い髪、私は気に入っているわよ。)
(お、おう…)
とコソコソ話す二人を冷徹に眺める須坂は、妻がキッチンからお茶を人数分持ってくるのを待っていた様だった。
「二人に、話がある。」
(アレか、やっぱ風呂は毎日入れってか?)
(毎日入ってちょうだい。必ず)
(お、おお…)
(それより…私の塾の成績のことじゃないかしら)
(何だよ。成績落ちたのかよ)
(ええ。七位から九位に落ちてしまったわ。私としたことが…)
(何人中?)
(百二十人中)
(お、おお…)
「しっかりと、聞いて欲しいんだが…」
(や、やべ。やっぱ、オレら別れろってか?)
(そ、そんな筈はないわ。父はあなたを気に入っているわ)
(じゃ、お袋さんは?)
(……)
(お、おい…)
「実は、先日わかったことなんだが…」
(オレがネンショー入ってたコト? 言ってなかったのかよ)
(言える訳ないでしょ! 母が知ったら気絶するわきっと)
(お、おい…)
「未だに信じられない話なのだが…」
(やっぱ間違えねえ、オレの噂を聞いたに違いねえ)
(あなた…人殺しはしてないわよね?)
(するか! してたらココにいねえし)
(あなたを信じるわ)
若い二人はかなーりビビりながら、じっと須坂の顔を見つめる。
「僕はどうやら… 膵臓癌、らしい」
二人はポカンとする。母親は両手で顔を覆う。
「余命、半年、らしい」
あかねは小さく呻き声を上げ、トラにもたれかかり気を失った。
「間違い、ないんすか? その、別の病院行ってみたりとか…」
「ああ。セカンドオピニョンも同じだったよ。末期の膵臓癌。いわゆる、サイレントキャンサーってヤツさ」
「? 手術とか入院はするんすか?」
「いや。痛みが我慢出来なくなったら緩和ケアのホスピスには入るだろうが。基本は在宅で療養しようと思う」
「そっか。」
「トラくん、も… お父さん亡くされてたんだっけ?」
「ああ。オレが生まれる前なんだけど。バイクの事故でね」
「そうか。」
トラは自分にもたれかかっているあかねを覗き込み、
「……コイツ、大丈夫かな… アンタのこと大好きだったからさ…」
須坂は苦笑しながら、
「この子よりも、妻の方が心配なんだ。妻は所謂お嬢様ってヤツでね。未だに全く受け入れられないみたいで…」
「アハハ。奥さんがお嬢って、ケンタんとこと一緒じゃん」
「それは心外だな。だけど、ホントだ。」
「それより。どーすんだよ、これから。」
「どうしたもんだか、な。こんな事初めてだからさ。」
トラはプッと吹き出しながら、
「すっとボケたオヤジだなー」
「おいおい。もうすぐ死に行く者に、酷い言い方じゃないか。まあ、まずは妻とあかねの二人にしっかりと受け止めてもらう事かな。」
「ふーん。」
須坂がトラに向き直り、
「そこでだ。キミの力が必要になる。」
トラは真面目な顔で、
「お、おう…」
「妻は、親戚も友人もいるからまあ何とかなるだろう。だが、まだ中三のあかねは… 受け入れるのに時間がかかるだろう。」
肩にもたれるあかねのいい匂いにキュンとしながら、トラは軽く頷きながら、
「かも、な」
「だからこそだ。なあ、トラくん」
須坂は更にトラに向かい直る。
「どうか、僕の代わりに…」
トラは須坂の目をしっかりと見据える。大人にしては、何と一途な瞳なのだろう。これまでトラを見下すか怯えた視線ばかりの大人達に、これ程誠実な眼を見た記憶が無い。あのケンタの目でさえ、ここまで心に染み入る瞳とは言えない。
死を覚悟した男の眼。
そして己はその死を受け入れ、愛する妻と娘に何とか受け入れさせようと必死な目。
これは、男と男の信頼の問題だ。決して揺らいではならない、命を賭けた男と男の約束である。
「わかった。どうすれば良い?」
* * * * * *
「上田先生、サッカー部大活躍だそうじゃないですか!」
副校長の中野がいやらしい目付きで一美に近付いてくる。元々サッカー部の活動に否定的で、トラをはじめとする素行の良くない部員を毛嫌いしている。
だが大企業の部長職だった健太という指導者には好意的で、健太のコーチ就任には有無を言わさず賛成してくれた。
「やはりね、ああいう大企業の管理職だった方は結果を出してくれますよ。ちゃんとした人はちゃんと結果を出すんです。あんな子達相手でも。」
あんな子達って…
だが。一美自身、顧問就任前には副校長と同じ考えだったのが、今となっては穴があれば入りたいくらい恥ずかしい。サッカー部の子達は、根はとても素晴らしい子達ばかりだった。生活環境が子供の素行を左右する。そう信じてきた一美には、アラフォーにして眼から鱗が取れた気持ちなのだ。
例え家が貧しくて親が育児に余裕がなくても。子は目標があればちゃんと育つ。親も実はこの成長をそっと見守っている。この事実をサッカーの試合を通じて一美は思い知らされたのだ。
「一体どんなマジックを使ったのですか、先生。是非その辺りのことを一杯やりながらご教授願いたいのですが」
副校長がもはや涎を垂らしながら一美に擦り寄ってくる。吐き気を抑えながら一美は、
「ええ、大会が一段落したら。」
と言って逃げる。
一時間目の授業は二組。教室のドアを開くと、トラを中心に殆どの生徒が輪になって一昨日の試合の話をしている。
授業を始めると、いつもの様にトラは机につっぷして居眠り……
あれ… 教科書、開いている…
それに、真剣に私の話を聞いている…
ウソ… ノート取ってる…
周囲もこの異変に気付いた様で、
「おいトラ… お前何マジになってんのよ?」
トラは彼を一瞥して一言、
「プロに、なるから。」
教室中が騒然となる。一美も思わずチョークを落としてしまう。
授業後。トラの机に歩み寄り、
「松本君、どうしたの?」
「んだよその言い草は。酷くね?」
「ご、ごめんなさい… でも、どうして急に?」
トラは立ち上がり、そっと一美の耳元で
「あかねの親父と、約束したからよ。ぜってープロになるって。」
一美はトラを凝視する。
「プロになるにはよ、こーゆーのちゃんとしてねーとダメだって、ケンタが言ってた。」
一美はカクカク首を縦に振りながら後退りし、教室を出て行く。
何これ。信じられない…
今私、奇跡を目の当たりにしている!
先月まで少年院に入っていたどうしようもない不良が、自分から立ち直ろうとしている!
生き甲斐を見つけ出し、それに向かって走り出している!
一美は教室に引き返し、トラに
「後で職員室に来なさい。勉強について色々相談に乗るから」
トラは目を細め、
「ほんっと、アンタ変わったよ。先月までに比べて。やれば出来る子だったんじゃん」
と言ってニヤリと笑う。
「お、お、オマいう?」
持っていた書類でトラの頭を叩く。
周囲の生徒がそれを囃し立てる。
私も生き甲斐、見つけたよトラ君。それはキミが立派なプロサッカー選手になれる様、学校生活を支える事。特に、勉強面。
さて、何から始めようか? ワクワクしながら職員室に戻る一美なのである。
* * * * * *
「えーと。二次予選の予定が出ましたー 共用フォルダーにぶちこんどいたんで見てくださーい」
小谷主将がスマホを弄りながら声を張り上げる。
いつの間にか月曜日はミーティングの日となり、今日も一美が取ってくれた会議室に皆集まっている。
先週までと違うのが。
皆のモチベーションだ。あの慶王に勝ち、蒲田南中は堂々と二次予選に進出した。この予選を勝ち抜けば、六月から始まる全国中学生大会の都予選出場に大変有利になる。
二次予選は四月末からリーグ戦方式で行われ、一次リーグを勝ち上がった八校をAブロック、Bブロックに分けてそれぞれ四校による総当たり戦となっている。
上位二チームは都大会へのスーパーシードを獲得する。すなわち、一回勝てば都大会出場が決まるのだ。下位二チームはシードを獲得できず、地区予選を再度戦わねばならなくなる。
勝ち抜ければ都大会出場に大きく前進となる。だが負けてもまた地区予選を勝ち抜けば良いので、それが最後の大会、な訳では無い。
だが。彼らのモチベーションは、かつて無い程に昂まっている。
一次予選勝ち抜けの最有力候補だった慶王中に十一人で勝ち、次の予選からは三人の三年生が出場出来るからである。
「早く試合出てー!」
「それな。こないだの試合、痺れたわー」
「次の試合、いつだよ!」
新メンバーの佐久、阿南、金は先日の試合をベンチ外で観戦し、心底このチームの一員として自分も戦いたかったのだ。
「と言う訳で。ウチらグループBはウチら以外は皆私立ね。どこも強豪だよね」
キョンがタブレットを摩りながら真剣な顔で呟く。
「また手分けして偵察行くか?」
「そーだな。今週末とか、行っとくか」
「それがいいと思う。今ウチら選手十五人? マネージャー三人。六人ずつに別れて偵察しよ。えーと、ちょっと待って。コイツらのH P見れば今週末の予定が載ってるかもー」
おお、流石キョン、との声が多数上がる。
「まず、初戦の芝学苑。えーと土曜日にT M(練習試合)入ってる。場所は同校グランド、だって。誰行ける?」
そこからはまるで修学旅行のグループ分け状態のカオスと化す。マネージャーはりんりんが芝学、キョンが富士見坂、もえが五反田大付属、と決めてからのオスたちの乱れっぷりは、後ろで見ていた一美も目を丸くするほどであった…
結局。最終的に。詰まるところ。以下の様に決まる。
芝学苑 りんりん、沢渡(3)佐久(3)茅野(2)大町(2)売木(1)
富士見坂 キョン、松本(3)小谷(3)岡谷(2)木崎(2)平谷(1)
五反田大 もえ、青木(3)阿南(3)金(3)飯森(2)小谷(1)
「ハアハア。これで、文句無い、わね?」
「ゼエゼエ、ああ、こんなもんだろう」
「あー、オレやっぱ芝学にー」
「「「ウッセー黙れ!」」」
「それでは。各グループは練習風景と練習試合の動画。各選手の経歴その他洗い出し。出来れば生年月日も」
キョンがしれっと言い放つと、皆一斉に
「「「ハアー?」」」
「な、何よ。文句ある?」
飯森が目を点にしながら、
「誕生日って、なんでそこまで?」
キョンはそんなことも知らないの? 的な目付きで、
「知らないのアンタ達。かつてフランスを優勝に導いた代表監督、エメ・ジャケは選手起用を星占いで決めてたのよ」
ヘーーー。皆が感心する中。
「あれー、それって、レイモン・ドメネクじゃね?」
と平谷が呟く。
「しかもそん時って、フランス一次予選で敗退じゃね?」
皆が即座にスマホを駆使してその事実を調べている間。
「ちょっと。松本君。」
一美がトラの横にしゃがみ込む。自然にトラの目が豊かな胸の谷間に誘導され、トラは子猫になる。
「あなたの成績表とテストの結果調べたの。意外に数学の成績が良いのにはビックリしたわ」
「にゃん」
「ただ、国語。あなた、本読んだことある?」
「エロ本」
「却下。小説とかは?」
「にゃい」
「やっぱり。まずは読書から始めましょう。キミが興味持ちそうな本を幾つか選んでおいたわ。図書室で借りて行くと良いわね」
「にゃあー」
「読めない漢字はスマホで調べて。出来れば書ければ良いのだけれど。でも先ずは読めること、そして意味を知ること。良い、わかった?」
「にゃんにゃん」
「後。英語。これは壊滅的… キミ、海外でサッカーしたいんでしょ?」
「…… そっか…」
釣り垂れ上がっていた目が虎の目となる。
「どの国に行くとしても、英語は基本。絶対出来なきゃ、ダメ」
「ハイ…」
「はい?」
一美は思わず聞き返してしまう! あのトラが、真面目に「ハイ」と返事をした!
どこまでこの子は変わって行くのだろう。どこまで私はこの子を伸ばせるだろう。
「とにかく。読書と英語。これだけは毎日少しずつ、やっていこう」
「ハイ」
「英語、良い参考書を英語の大滝先生から聞いておくわ。それまで一年生の頃の教科書を復習すること。出来る?」
あっちゃー。トラは頭を掻き毟る。
「そんな昔の教科書。とっくに捨てちまったって…」
「そ、そう… 仕方ないわね。ちょっと待ってなさい」
一美は立ち上がって会議室を出て行った。
その後ろ姿を、トラは教師に対して初めて感謝の気持ちを抱きながら見送っていたものだ。
* * * * * *
「だから… それは過去形なの。makeの過去形がmadeなの。先ずはトラくん。動詞の過去形をしっかり覚えていこう」
あかねが今にもブチ切れそうな表情でトラに優しく語りかける。
「英語って、面倒くせ。なんでmakedじゃダメなんだよ?」
あかねは溜息をつきながら、
「日本語だって、十分面倒くさいわ。青信号って言うくせに、あれはどう見ても緑色じゃない。」
「…ちょっと、違う気が… あ、でもホントだ。信号ってそーいや緑色じゃん。へーー」
「だから。英語だって、所々変なのも仕方ないじゃない。さ。諦めて過去形覚えていこ!」
「そ、そうするか… 仕方ねえな。確かに…」
あのミーティングの翌日。一美から渡された参考書とワークノートをあかねに渡す。
「これ。教えてくんね?」
あかねはビックリ仰天して、
「ど、どうしたの…」
「それは、」
トラはあかねをじっと見ながら、
「お前の親父との、約束。」
あかねは目に薄っすらと涙を浮かべ、
「お父さんとの、約束って…」
「ああ、絶対プロになるって」
「うん。それで、その為に?」
「かずみんが、海外でサッカーやるなら、英語は絶対必要って。そりゃそーだ。」
「そうね。うん。そうよ。絶対に必要よ。日本のサッカーと習慣が劇的に変化しない限りあなたは海外へ出るべきだわ。わかりました。英語教えてあげるわ」
それから毎日、学校と部活の帰り、蒲田駅近くのファミレスや「スナックあゆみ」での勉強会が始まった。それこそ、ABCの書き方からのスタートであった。
そんなある日。側から見ると幸せそうなカップルに近づく足音。
「あれー、トラじゃん。何してんだよー」
トラはジロリと上目遣いで睨む。
「ホントだ、トラだ。え… 彼女? メッチャ可愛いじゃん、紹介しろよー」
「お前ら。なんか用か?」
トラがテーブルを囲む四人連れを睨みつける。
「まさか… のお勉強中なワケ? あの、トラくんが?」
四人はいやらしく笑い出す。
「なーんか最近。俺らから距離取ってね? ネンショーから帰ってから? つれないよなー」
「そーそー。なんかサッカーに熱中しちゃってるとか? それマジ?」
「んで。こーんなお嬢とお付き合い? 俺たち差し置いて? オレらダチじゃなかったっけ?」
「自分だけアオハル? ずるくね? 酷くね? 俺ら見捨てられた?」
トラは勢いよく立ち上がり、
「サッカーにのめり込んで、何が悪い? ああ?」
頭ひとつデカいトラに凄まれ、四人組は後ずさる。
「い、行こーぜ。こんな奴ほっとこ」
「それな。こんな奴、ダチじゃねーわ」
そんな事を呟きながら四人は店から出て行く。
トラは大きく溜息をつきながら、
「わりい。さ、続き。」
あかねは震えながらカクカク頷いた。
「マジムカつく。」
路上に捨ててあった缶を蹴飛ばしながら吐き捨てる。
「ネンショー行く前まで、あんなにつるんでたのによ。薄情な奴だわ」
路上に唾を吐き捨てる。
「なんかアイツだけ、彼女作って? 一緒に勉強して? 部活に熱中?」
「あー、マジ腹立ってきたわー。なんか許せねー」
「いっこ下のくせに。生意気なんだよアイツ。マジ、許せねー」
「やっちゃう?」
一人がニヤリと笑いながら言うと、
「やっちゃうか」
「マジ、ブチのめす」
四人は合意に至るワケだが…
「でも。どーやって?」
「ああ。まともにやったら、ぜってー敵わねえわ」
「こないだも、河原で川崎の奴ら四人シメたってよ… マジ恐ろしい奴だわ…」
「それな… どーしたもんだか… 誰か知恵だせ、知恵」
とぼとぼ歩いていると、後ろから黒いワゴン車が止まる。ウインドーが開き、ラップの大音量が流れ出す。
「なーにお前らしけたツラして歩いてんだ、コラ!」
「あれー、リューさん。チース」
「聞いてくださいよリューさん。トラのヤツが女作っていちゃついてんっすよ。俺らに見せびらかしやがって」
黒ワゴンは急停止する。
「ああ? トラ、だと?」
リューと呼ばれた男の目がギロリと開かれる。
「おう、話きかせろや。お前ら、乗れ」
「「「「ういーっす。お邪魔しまーす」」」」
* * * * * *
「な、なんだコイツら…」
「… うま過ぎ…」
「流石、全国大会常連校、だね…」
慶王大麻布グランド。先週、なんとかギリギリで勝つことが出来た慶王中相手に、富士見坂中学は前半だけで四点取っていた。
「上には、上ってヤツか。」
トラがボソッと呟く。隣でキョンが頷く。
「ここは幼稚園から高校までの一貫校なんだよね。幼稚園から授業でサッカーあるんだって。Jリーガー何人も出してるし。名門中の、名門だね」
キャプテンの小谷も、
「一昨年だっけ? 全国大会で三位。まあ都内じゃ最強じゃね?」
相変わらず十五分遅刻してきた平谷も、
「へーー。なかなか上手いじゃん。面白そう」
と目を輝かせている。
「クラブチーム並みのテクニック。そして戦術。これは流石に厄介な相手だな」
「それをなんとかするのが、トラくんでしょ? 期待してるよー」
「バーカ。そんな簡単な話じゃねーって。」
Aチーム同士の試合は後半にも更に三点を加えた富士見坂中の圧勝であった。
試合の帰り道。小谷が、
「蒲田で飯でも食いながら、対策考えよーぜ」
「「「いーねー」」」
「何にするよ、トラ?」
怪訝な顔をしたトラに小谷が首を傾げながら、
「ん? 行くだろ?」
「んーー。それよか、オレん家来るか?」
「「「「いーよー」」」」
一人、小谷だけは納得がいかない顔であった。
トラ達が「スナック あゆみ」に到着すると、後から続々と他の中学を偵察したメンバーも集まって来る。
他のメンバーは和気藹々としているのに対し、富士見坂中の偵察チームは、重い雰囲気を垂らしまくっている。その空気を察した生徒は、
「なになに、やっぱ富士見坂、スゲかった?」
と集まって来る。
キョンが動画を共有フォルダに入れると、皆一斉にそれを再生する。そして、皆も重い空気に蝕まれていく。
「これはちょっと… もはや、クラブチームレベル…」
「凄いよね、凄すぎる…」
「コーチが見たら、なんて言うかな…」
案の定皆のテンションはみるみるうちに下がっていく…
「ケンタ、に相談してみっか…」
トラがボソッと呟いたと思うと、スマホを取り出し健太にメッセージを書き始める。それを合図に、他の中学の偵察の結果を話し合い始めるのだった。
『…だから、練習試合で強いところとやってみるのがいいかと』
健太はトラからのメッセージを眺めながら、ソーダ水をクイッと飲み込む。
練習試合。それも、富士見坂レベルの相手。健太はその相手は一択しかないと思い、スマホの連絡先のアプリをタップし、出来れば練習試合を頼みたい旨書き込み送信する。
スマホをテーブルに置くや否や、電話がかかって来る。
「健太さんから連絡なんて珍しい。こないだはどーもでした。蒲田南、頑張ってるみたいですねー」
「おうマサ。急にすまんな。ところでさっき書いた件なんだけど…」
「いいですよ。Aチームはちょっと厳しいかもしれませんけど、Bチームで良いのなら。喜んでー」
「おお、助かる。是非頼む。時間と場所は任せるよ」
「それなら、急なんですけど、今週末の土曜日、如何ですか? グランドはウチの第二グランドで。十五時から。」
「えーと、第二グランド、十五時。すまない。ホント助かる」
「勿論、松本、キーパー、一年の元S C東京も来ますよね?」
「ははは、そっちが目的かよ?」
「ええ。ちょっと話題になってるんで。蒲田南のG Kと新一年。」
「アイツらこないだ、S C東京のスカウトに声かけられてたぞー」
「マジすか? やば… とにかく、十五時。お待ちしてますんで」
健太は電話を切り、その旨をメッセージに認めてトラに送信する。
フォルダーに入っていた動画を再生し、富士見坂の実力を確認する。これは手強い。全く歯が立たないのでは、そんな弱気に囚われてしまう。
今週いっぱい、富士見坂対策を真剣に突き詰めよう、そう誓って健太は風呂場に向かった。
「おーい。みんなー。ギョーム連絡―」
トラが健太からのメッセージを読み、声を張り上げる。
「今週の土曜、川崎フロンティアと練習試合入ったから」
しんと静まり返る。
「十五時に川崎のグランドに集合だってよ。平谷―、遅刻すんなよー。一緒に行くかー」
「いーっすねー、川崎。うは、さすが永野コーチのツテ、スゲー」
小谷はゴクリと唾を飲み込み、
「いやいやいや… あの、フロンティアと、試合って…」
「無理無理無理… ボール触れないっしょ…」
「…マジで? あのフロンティアと? ないない…」
口々に弱気が噴き出す。キョンでさえ、
「ちょっと、相手強過ぎない? 流石に富士見坂もここまで…」
「だからいーんじゃね? ホントの実力あるとことやっとけばー」
「うん。わかるよそれは。でも、フロンティアって…」
「エリート中のエリートの集まりだろ。無駄だって、やっても…」
トラはテーブルをバンと叩き、
「もー、そーゆーの、やめねえかオマエら。やる前からビビって無理だ無理だって。そーゆー秘訣な考えじゃ、この先何やってもダメだろーが!」
皆はゴクリと唾を飲み込み、そして俯く。
これまでの自分たちの人生を思い返してみる。やる前から諦める。出来ればそれを避ける。逃げる。そんな人生を送ってきたし、これからもそうなるであろう、今のままでは…
一人だけ別の空気を纏う強者がボソリと、
「トラくん。秘訣じゃないでしょ。卑屈でしょ?」
「ウッセーな平谷。何オマエ、実は頭いいの?」
「まー、トラくんよりは?」
「マジか! 今度英語教えろ!」
「It`s my pleasure」
「… 誰か… コイツ今何て言った…?」
爆笑が「スナック あゆみ」に轟きわたる。
* * * * * *
「去年のこともあるし、川崎の奴ら相当キレてますよ。チャンスがあれば、ぶち殺したいって」
「そっか。じゃあ協力してくれるっつーことか?」
「丁度いい場所、貸してくれるって。使ってない倉庫かなんかを」
「いーねー。そこにトラのヤツを誘き寄せて。ぶちのめす!」
「あの女も拐っちゃいましょーよ。そんで、みんなで…」
「いーねー。オレが一番だぞ。わかってんな?」
「勿論っすよ、リューくん。動画もキッチリ撮っておきますよ」
「それな。そんでいつにするよ?」
「アイツら丁度今週の土曜日、川崎で練習試合するって。だからー」
「へー。なんでそんなこと知ってんの?」
「ま、ちょっと、ね。俺の元カノがマネージャーなんすよ。さりげなーく聞いときました」
「よーし、グッジョブ! じゃ、その帰りを狙うか。」
「多分、トラの彼女も観に来るって言ってましたからー」
「そっか。じゃ、まずその彼女を拐ってから…」
「トラを呼び出して…」
「すげー、完璧じゃん。マジ今週末、楽しみじゃん!」
「よし。これからその川崎の奴らと会っとくか。そんで参加さしてやるか、なあ」
「それは大喜びで乗っかるっしょ。じゃ、連絡しときますよ」
「おお。そんじゃ行くか」
黒のワゴン車に乗り込み、男達は川崎に向かって走り出した。
* * * * * *
一体、何年ぶりにここに来たのだろう。川崎フロンティア栗平グランド。玉川電機時代からこの練習場でどれ程の汗をかいただろう。
感慨に耽っている健太の後ろでは、蒲田南中の生徒達が呆然としている。
「芝… 天然芝…」
「お、俺、こんなグランドでサッカーすんの、初めてかも…」
「そ、それな… マジかよ…」
嘗ては土のグランドだったのだが、健太が引退しJリーグに昇格した頃に、総天然芝に張り替えたのだ。
まるで母校を訪れた気分となる健太の元に、コーチらしき青年が近寄って来る。
「永野、さんですか。遠い所までようこそいらっしゃいました。U15コーチの下田と申します。どうぞこちらへ」
思わず深々とお礼のお辞儀をし、後ろで恐れ慄いている生徒達に声をかける。
グランドでは既にU12と思しき選手達がチョコマカ動き回っている。
「うっま… あれ、小学生、だろ?」
「スッゲー… あの子達にオレら勝てるかー?」
「それなー」
最早、完全に名前負け状態である。
そんな生徒達を試合前に集めて、
「今日は20分を三本。一本目は慶王戦のメンバーで。二本目から新入りのメンバー加えていくぞ。それとー」
試合前から顔面蒼白な多くの生徒に向かい、
「今日、お前ら何しに来たの?」
と問いかける。
「小谷。お前今日何しに来たの?」
「それは… 強豪と試合しておくことで…」
「強豪? そんなもんじゃないよ。彼らは。木崎、お前は? 何しに来た?」
「えっと… それは…」
「サワ。お前は?」
「やっぱ、打たれ慣れておくというか…」
「ハーー。ダメだ、そんなんじゃ。ここに来た意味ねえ。トラ。教えてやれ。お前、今日何しに来た?」
トラは既に虎の目を光り輝かせながら、
「勝ちに来たに、決まってんだろーが!」
平谷を除く全員が目を見開き、
「それは… 流石にトラ…」
「いやいやいや。いくらトラくんがいてもさ、それは…」
と首を振りながら弱気を口にする。
「20分が三本だろ? チャンスは三回あんじゃねーか。どれか一本でも勝ちゃいいじゃんよ。何お前ら、同じ中坊相手に、一本も勝てねえ気でいんのか、最初から? ああ?」
トラの顔が怒りで赤くなる。
「言ったろ、こないだ。やる前から諦めんなって。相手がJユースだろうと、やる前から逃げてたら、ぜってー勝てっこねーだろーが」
「まあ、そうだけど…」
「でも、あのフロンティア、じゃん…」
トラは突如、ニヤリと笑う。
「あのさ。サッカーって遊びだろ? 違うか?」
全員がキョトンとする。
「試合で負けたら殺されるとか、金取られるとかじゃねーじゃん。単なる、ゲームじゃん。お前らゲームするときもそんな弱気なのか、ええ?」
うーーん。ゲーム。サッカー。何か違う気がするが。でも、トラの言わんとすることは皆何と無く分かり始める。
「相手は最初からオレらなんて眼中ねーんだよ。なんでもチームのレジェンドの我儘に仕方なく付き合ってやるかって感じだろ? そんなオレらがよ、もし一点でも取ってみろよ。死ぬほどビビんぞ、アイツら」
まあ、そーだろうな。徐々に下を向く選手が減り始める。
「相手の監督コーチ、激怒すんだろ。どーよオメーら。アイツら凹ませてやろーぜ。だってゲームなんだからよ。楽しまなきゃつまんねーだろ?」
全員が顔をあげた時。
「トラの言う通り。点差なんて気にするな。今お前らが出来ることを全部出してこい。そしてちょっと余裕がある奴は、今までやったことない事してこい。失敗、大歓迎だ!」
皆の表情が緩む。
「Jユース相手に。なあ茅野、マルセイユ決めたら一生自慢できるぞ。違うか?」
「おおおおおお! やる! で、どーやるんすか? マルセイユルーレットって?」
皆が声を立てて笑う。
「スポーツなんて、元々全部遊びなんだよ、トラの言う通り。勝ち負けを気にするのは大会だけでいいだろ? 今日は思いっきり遊んでこい。わかったか?」
皆が笑顔でハイッと返事をする。
「ケンタさん。なんか楽しそうに、やってくれちゃってますねえ」
川崎フロンティアU15監督の高月が苦笑いしながら健太に話しかける。健太は肩を竦めながら、
「いやさ、折角あのフロンティアと試合する機会なんだから、面白い事やってこいって言ったんだよ。」
「いやー、笑える。中学の部活と試合するの滅多にないんですけど。珍しい部活ですよね?」
「そうか? オレはこんなガキ指導すんの初めてだから。こんなもんだろ?」
「いやいやいや。普通、部活は試合中笑ったりしませんって。そんな事したら顧問に怒鳴られますって。何あのトップの子。バレリーナ志望なんですか、さっきからクルクル回っては転けて。こっちの選手まで腹抱えてますよ」
「サッカーってさ。楽しいもんじゃん、特に草サッカーとかって。アイツらはさ、そんなサッカーの楽しさを知らねえんだよ。学校の規則に縛られ、家の事情に縛られ。そんな綺麗な芝生の上ではしゃぎ回った事ねー奴ばっかりなんだよ。だからさ、」
健太は微笑みながら、
「サッカーの本当の楽しさを、知ってもらいたかったんだ。相手があのフロンティア。見たこともない天然芝。アイツら、今日の試合のことは一生忘れないさ。」
G K小谷が大きくクリアするフリをして相手のF Wを交わすと、皆は歓喜の雄叫びだ。M F大町がこれまでの試合で一度も試した事のないダブルタッチで相手を抜き去ると、トラは大声でヨッシャーと叫ぶ。
一本目が終わりスコアは0−3だが、皆充実した表情でベンチに戻ってくる。そして自分の成功、失敗を誇らしげに語り合ったものだ。
「しかしアイツら。中一、中二だろ? ありえねえ位うめえなー」
「それな。ミスらしいミス、全くないし」
「パスも超正確だし。笑っちゃうわー」
「「「でも、、、」」」
一人としてその実力差に凹んでいる生徒はい、いなかった。
「よし。二本目は三年生、入るぞ。ポジションは今朝連絡した通り。いいな。」
久しぶりの実戦に三人の街クラブ上がりの佐久、阿南、金は目を輝かせている。健太自身、三人の実戦は初めて目の当たりにする。練習では街クラブ上がりらしい、止める蹴るの技術のしっかりした子達である。どれくらいやるのだろう。少し心が躍る。
二本目が始まり、初めはぎこちない三人であったが、何度かボールをタッチすると落ち着きを取り戻し、徐々に実力を見せ始める。
トラの左右に配した佐久と阿南はトラのコーチングを忠実に守り、一本目に比して蒲田南のディフェンスは劇的に良くなる。左ウイングに配した金はそのスピードとキープ力が一年生の小谷とは隔絶の差があり、左サイドからの攻撃が非常に有効となってくる。
「金は身体デカイし、キープ出来るな… キョン。お前ならF Wどうする?」
「え… このまま左サイドから崩していけば…」
「そっか。じゃ、ちょっと見ていなさい。」
健太はそう言うと、トラにトップの茅野と金をポジションチェンジするよう指示する。すると蒲田南は前線で金がポストプレーをするようになる、つまり最前線でボールを保持し左右に散らせるようになる。必然得点のチャンスが激増する。
「永野サン… これが、采配の妙、なんですね…」
「適材適所。それも状況に応じて、な」
とニヤリと笑ったものだ。
そして金の落としからトラの豪快なミドルシュートが決まると、全員がベンチにやってきて歓喜の輪を作る。
健太が相手ベンチを見ると、コーチがスマホで電話をしている。試合中にプライベートな電話をする筈がない。三本目に何か面白い事でも起きるかもな。その健太の予感は的中する。
「ケンタさん。最後の一本、こっちAチーム出しますんで」
1−1の二本目のハーフタイムに、高月がニヤリと笑いながら健太に告げた。
「… シャレになんねーわ、アイツら…」
「それ… な… 当りも半端なくツエーし…」
「あの10番、一回もオレらからボール取られなかったろ…」
トラは大笑いしながら、
「いやーー、スゲかったー。全然ボール取れんかったー。ありゃ世代別の代表候補だろ?」
「その通りだよ。松本くん」
相手の高月監督がゆっくりと蒲田南ベンチに近づいてきながら、
「君とマッチアップしたのが、U15日本代表の塩尻。率直な感想を聞かせてくれないか?」
トラは軽く頭を下げ、チッスと挨拶した後、
「アイツさ、一つのプレーに選択肢、3つ位持ってんじゃね…すか? それとアイツの周りの時間、すげーゆっくり流れてね… すか?」
城島はほう、と言う顔をしながら、
「そうだね。彼は常にオプションを3つは持ちながらプレーしているんだ。そしてアイツは君たちの動きがスローモーションに見えるんだ。その通り。大正解!」
「どーすれば、そんな感覚掴めるんだ、すかねえ?」
「おーい、シオ、ちょっと」
相手ベンチから塩尻がゆっくりと歩いてくる。トラを一目見ると毛虫を見る表情で、
「タカさん、コイツ大っ嫌い。オレのパスコース、二つ消すんですよ必ず。あと当たりがヨーロッパや南米並みにキツい。オレアザだらけっすよ… それにオレ一回中盤でコイツに剥がされましたよね。あんな気持ちよく抜かれたの久しぶりだわ… 何者すかコイツ…」
蒲田南の生徒がおおお、と唸る。
「高窓宮カップ前のいい練習になりましたけど… コイツ、キライ…」
塩尻が心底いやそうな顔でトラを睨む。
「シオ、じゃあコイツがウチのボランチの底にいたら?」
塩尻の顔がパッと明るくなり、
「それ、最強でしょ! オマエ、ウチ来いよ。オレがコキ使ってやるから」
トラは塩尻をジロリと睨み、
「バーカ。オレがお前をこき使ってやるよ。お前全然守備ダメ。後ろから怒鳴り散らしてやるわー」
「んぐ… んだよオマエだってスタミナ全然じゃねーか」
「んがっ… オマエ、フィジカル弱すぎ。それでよく日の丸付けてんな、ウケるわー」
「ハア? てかオマエホント中三かよ? ホントは一八じゃね? 住民票持ってこいっ」
「テメーこそ! 足早過ぎだろ、スピード違反で逮捕すんぞコラ」
「オメー、レントゲン写真持ってこい、骨が鉄で出来てんだろ、ずりーぞ!」
キョンが大笑いしながら、
「途中から褒めあってんじゃん、ウケるー」
すると塩尻がビックリした顔をした後、顔を赤くしながら、
「おい… この子、マネージャーって奴? あの、部活特有の、女子マネ?」
「おう。どーだ可愛いーだろ? コイツらが毎日オレらの練習着とか下着も洗ってくれるんだ」
塩尻が仰天する。キョン、りんりん、もえがハア? と言う顔をする。
「それに試合の後は、全身をマッサージしてくれるんだぜ」
塩尻がゴクリと唾を飲み込む。三人娘は目を見合わせた後、
「トラくーん、じゃ、しよっか?」
と言いながらトラの足や肩をいやらしく揉み始める。
気が付くとフロンティアの選手達が呆然とそれを見守っているー
「ぶ、部活すげ…」
「お、オレ、部活入ろっかな…」
「女子マネ、女子マネーー、クッソおーー いーなあーー」
「ケンタさん。アンタどんな教育してんすか!」
「教育なんてしないし。オレ顧問じゃないし。コーチだし」
「それより… 顧問の先生? ちょーっと紹介してくださいよ、あのメガネ美女…」
「オマエこそ。どんな教育して…」
* * * * * *
「それより… 姐さん遅くね? コンビニわからんかったのかなあ?」
キョンがちょっと心配そうにもえに話しかける。
「ホント。ラインに既読つかないしー どーしたんだろ」
健太も心配そうに、
「あかねちゃん、方向音痴ってことはないよな、どこ行っちゃったんだろう」
二本目の試合中、打撲でピッチ外に出た木崎の為に、あかねは駅前のコンビニに氷を買いに行ったのだが、戻って来ないのだ。
「よし、駅に戻りがてら、探してみるか。まさか交通事故とかじゃないだろうな…」
マネージャー三人娘の顔が暗く曇る。
一美も心配そうな顔で、
「私、その辺を回ってきます。何かあったら連絡ください」
と言って、駆け出して行った。
グランドを後にして駅に向かう途中。真っ青な顔をした岡谷が、トラの元に小走りで走り寄り、何やら紙のような物を手渡す。
トラはそれをじっと眺める。目を走らせるに従い目が鋭くなり、読み終えると紙を持つ手は怒りで震えていた。
そして岡谷に何事か呟くと、駅に向かって走り出した。
「あれー、トラどーしたん?」
「おーい、トラあー、どーしたー」
同級生の呼びかけに一顧だにせず、トラはあっという間に皆の視界から消えて行く。
残された岡谷は蒼白な顔のまま立ち竦んでいたー
「だから… 何でもないって… それにオレ中身読んで… ないし…」
トラと岡谷の様子があまりに不自然だったので、仲間達が岡谷に詰問する。
「読んでない? 嘘つきなさい! トラくんに渡す時に顔真っ青だったじゃない!」
キョンが厳しく問い詰める。
「一つだけ確認させて。姐さんに関係する事なの?」
岡谷がビクリと体を震わせる。
「言えよ! 姐さん、どーしたんだよ!」
いつもは大人しいりんりんが岡谷の襟を締め上がる。
その後ろで、もえが岡谷以上に真っ青になっている事に、誰も気付いていない。
「だ、大丈夫だって… トラくんが、行くから…」
「「ハア? 行くって、何処に?」」
「だ、だから、トラくんが、助けに行くから、平気だって…」
「「助けに…って?」」
キョンとりんりんが吠える。その瞬間、もえが蹲る。
「いやーーーーーーーー」
頭を抱え、悲鳴をあげる。
「ヨシキが、しつこく聞いてきたんだよお」
もえが泣きじゃくりながら話す。
「ヨシキって、あの西中のアイツ?」
震えるように頷くもえに、
「だって、アイツとはもう終わったんだろ? なんで今更?」
「わかんない… でもこないだ急にライン来て… サッカー部の試合の日程とか教えろって… ウチ、なんだかわからんかったけど、まいっかって…」
「教えたんだ、今日試合やるって…」
「うん。そしたら場所と時間は、って言うから、まいっかって…」
「でも、なんでヨシキが姐さんを… あっ」
「ヨシキ達って、トラくんと連んでた… それがなんで… あっ」
「「コレ… チョーまずくね?」」
サッパリ的を得ない健太は、
「キョン。岡谷。話してくれ。これはあかねちゃんに関わる事なのか?」
キョンが蒼ざめながら頷く。
「多分だけど、あかね姐さん、拉致られたと思う」
健太は膝の力が抜け、地面にへたれ込んでしまう。
「だ、誰がそんな、ことを…」
「多分だけど。トラくんが前に一緒に連んでた奴ら。蒲田の不良達。」
健太の脳裏に須坂の顔が浮かぶ。もしあかねちゃんに何かあったら、何と申し訳を立てれば良いのだろう…
「早く、警察に…」
「ダメだよお、警察に言ったら、あかねさん…」
健太は拳をアスファルトに叩きつける。
「それで。トラは?」
岡谷が怯えながら、
「僕がさっき黒いワゴンから降りてきた奴に紙を渡されたんだ、トラに渡せって… それをトラに見せて、トラくんは…」
「その紙の中身、マジで見てないのアンタ?」
「だって… 見たら殺すって…」
「バカっ それじゃ、姐さん何処に拉致られたか、わかんねーじゃんか」
「うっ うっ だって、殺すって… でも、なんか、地図みたいなのに「鶴見」って書いてあった気がする…」
「それだけ? そんなんじゃわかんねーし」
健太は少し落ち着きを戻し、
「その、黒いワゴン車の男には見覚えなかったのか?」
岡谷は、
「だからー、去年河川敷で僕をボコボコにした奴らの一人だったんだってば!」
* * * * * *
「どったの永野さん〜 珍しい、電話してくるなんて… えー何何―? あもしかしてアレ? クイーンの店に連れてってk―」
「亜弓ちゃん。落ち着いて聞いてくれ」
「…へ? あ、うん。ハイ。な、何? ドキドキ…」
「トラが、どうやら事件に巻き込まれたらしい」
「へ? ああ、そんな事? へーきへーき。そんなんしょっちゅうだし。むしろ、あいt」
「あかねちゃんが、拉致されたらしい」
「…んだと?」
「蒲田のトラの不良仲間に、あかねちゃんが拉致されて、それをトラが一人で助けに行ったんだ。でも相手は車に乗っている様な相手、即ち大人なんだ、これはかなりマズいと思う…」
「車って? どんな車?」
「えーと、岡谷、何という車種か覚えて… そうか、ああいいよ、仕方ないよな… 亜弓ちゃん、黒いワゴンという事しか分からない…」
「ふーん。あと、なんか手がかりになるコトある?」
「ああ。拉致られた場所は恐らく、鶴見。それと、そいつらのメンバーに、去年岡谷に暴行を加えた奴がいるらしい」
「ん。ありがと。それで十分。永野さん、ウチで待っててくれるかな?」
「わ、わかった。すぐに行く… あの、警察には…」
「んー、いいから任せといて。じゃ。」
一方的に切れた電話に呆然としながら、健太の脇に冷たい汗が流れた。
「姐さん… 大丈夫、かな…」
もえが止まらぬ涙を拭いながら呟く。
「大丈夫。トラくんがなんとかするって… でも、永野サン、もしまた警察沙汰になったら、トラくん…」
「ああ、また少年院とかに入ったら… いや、それより、大怪我とかさせられたりしたら…」
もえの悲鳴が電車の中に響き渡る。りんりんがもえをギュッと抱きしめる。
「とにかく… 亜弓さんの店に行こう。そして対策を練ろう」
「それじゃ、遅いよ… やっぱ警察に言おうよ、ね、コーチ」
「ダメだよ、そんなコトしたら、トラくん殺されちゃうよ… アイツらに… あとあかね姐さんも…」
ヒイー もえの悲鳴が再度響き渡る。
健太はマネージャー三人と岡谷を除き、速やかに帰宅させる様、見回りから戻った一美に指示した。皆納得のいかない顔だったが、
「大丈夫だ。状況は逐一グループに流す。だから家で大人しくしていろ。わかったな?」
そう言って皆を宥める。
「そうよみんな。後は永野さんに任せて、家に帰りなさい!」
健太は一美をじっと見つめ、
「先生。後はよろしくお願いします」
「わかりました…」
一美は事態の重さを察し、残りの生徒達の安全を引き受けたのだった。
自分に出来ることは何だ? 自問するが答えは何も出てこない。ただ一つだけ。これだけは健太がやらねばならない事がある。
京浜急行の雑色駅を降りると健太は
「電話をしなければならない。先に行っててくれ」
と言い、四人を「スナック あゆみ」に向かわせた後、大きく深呼吸をしてから一本の電話をかける。
「まさか君から電話があるとは… ひょっとしてあかねかトラ君から何かを聞いたのか?」
「何のことだ。その件は全く知らん。それより。報告がある。」
「何だ?」
「あかねちゃんが、トラをよく思わない奴らに拉致された。」
「…… 何だって?」
「トラがその現場に一人で向かっている。」
「警察には?」
「連絡したら殺す、と脅されているらしいが、連絡するつもりだ。」
「ああ、そうしてくれ。私も知り合いの警察署長に相談してみる。」
「須坂… すまない。俺がいながら、こんな事になってしまって…」
「…… 兎に角妻には内緒にしておく。そして出来れば大事にしたくない。内々で解決してもらいたい。言っている意味がわかるな?」
「ああ。その方向で動こうと思う」
「永野」
「何だ?」
「頼む。」
その一言で電話は切れた。
健太はスマホを尻ポケットに入れて「スナック あゆみ」に駆け出した。
入り口の扉に「準備中」の札が下がっている。
戸を押し、健太が中に入ると、亜弓は電話の真っ最中、スタッフのミキもスマホに何やら怒鳴りつけている様子だ。
カウンターの席には岡谷とマネージャーのもえが座り、亜弓が通話の合間にあれこれ事情を聞いている様だ。それをキョンとりんりんが見守っている。
よっしゃ。と大声で電話を切ると、亜弓が健太に向き直り、
「永野サン。多分、大丈夫。安心して待ってて。」
「あの、警察には…」
「連絡した。それも大丈夫。優秀なデカに頼んだから。」
「そ、そうか…」
ミキが近寄ってきて、
「そ。安心して永野さん。あかねちゃんも必ず無事に保護されると思う。」
健太にはこの二人が根拠なく安心しろと言う筈はない、と感じていたが、ではその根拠は何か、と深く突っ込む事が出来なかった。
きっと健太の窺い知れない裏の事情や裏人脈を駆使してるに違いない。だがそれを一々聞き出そうとは思わなかった。
「この子達… もう帰宅させて、いいかな」
亜弓は首を縦に振ったが、
「いや、コーチ。俺、残ります… 二人が無事であるのがわかるまで」
「「「ウチらも」」」
「でも、何時になるかわからないし。わかり次第連絡するから…」
「「「「イヤだ!」」」」
健太はふーと溜息をつき、
「じゃあ、遅くなると親には連絡しておけ。」
と言う事しか出来なかった。
「永野サン。後はそのデカに任せて。ねえ、お腹空いてない?」
全く空いていない、食欲どころじゃない、と言いながらお腹がギュルルとなり、一拍して亜弓とミキが爆笑し、
「よし。今夜はアタシの奢りだ。焼きそばでいいか?」
健太と四人の生徒は力なく頷くしかなかった。
* * * * * *
「さーて、どーしますかあー」
「それそれ。先ずやっちゃわね? オレ我慢できねーわ、こんなイケてるJ C」
「うーん… でも、トラの見てる前でヤっちゃう方がインパクトあるんじゃね?」
「なるほどー、自分の目の前で愛する彼女が次々に… よっし、それでいこ。だからトラが来るまではお預け、だな」
「ですねー。よし。じゃこの子、そっちに連れてけ。そーっとな」
「それにしても、川崎の。よくこんないい場所を貸してくれて。サンクスですよ」
「まあまあ蒲田の。こっちゃあ、トラの野郎への恨み、パないんで。マジ今日は腕の一本でもへし折ってやろうと思ってんだけど」
「あー、そんなら足にしようか足。アイツ今サッカーに凝ってるみたいだからー」
「いいねー。とーぶんサッカーなんて出来ねえ位、ボッキリやってやりましょう」
「そうだー、おいヨシキ、車からバット持ってこいや」
「ウイーっす。」
J R鶴見駅を降りたトラは、岡谷から渡された紙を取り出す。駅からは徒歩で十分程だろうか、スマホのマップアプリを起動し、その場所を確認し、走り出す。
こんな卑怯な事をされたのは去年の岡谷の事件以来だ。いや。去年は可愛い後輩だったが、今回は失う事が考えられない大切な…
何度電車の中で吠えたかっただろう。何度電車の窓ガラスを叩き割ろうとした事だろう。その都度、トラは自分を抑え込み、それよりも現状の把握に脳味噌を働かそうとした。だが、あかねの笑顔が脳裏に浮かび、また咆哮したくなりー 鶴見駅を降りるまで、トラはずっとそのループに苦しんでいた。
走りながら考え始める。手紙には一人で来い、とあったので一人で来たが、間違えだったか。相手は何人だろう。蒲田モンで黒ワゴン、と言えばあのリューのクソ野郎しかいない。だが、一体何人で連んでいるのか。
相手が何人だろうと、何を持っていようとトラは全然怖くなかった。だが。あかねが奴らに拉致られている。そして、今この瞬間にも酷い目に遭っている?
トラはこめかみの血管が切れるほどの怒りと同時に、はらわたが凍りつくほどの恐怖を感じている。
オレ一人ならーやるかやられるかだ。だが。あかねは…
トラは急に立ち止まる。そして自分の膝が恐怖で震えているのを感じる。
怖え。マジ怖え。アイツが奴らに殴られ、鼻や口から血を流し…
ああああああああああ
トラは絶叫する。
そして、ニヤついた奴らに服を剥ぎ取られ、
わああああああああああああ
あまりの恐怖に蹲ってしまう。
これがオレ、オレの本当の姿なんだ…
大事なモノが危険にさらされると
恐怖で頭が変になりそうだ
身体も動かねえ
オレって、こんなショボい
弱っちい奴だったんだ
それを隠すために、みんなの前でイキがって
弱いヤツを叩きのめして、調子に乗って
ンなことばっかしてっから、バチが当たったんだ
自分に強くなろうとしなかったから、
自分の弱さにちゃんと向き合わなかったから、
こんなバチが当たったんだ
助けてくれ、オヤジ
助けてくれ、お袋
助けてくれ、ケンタ…
誰か、オレの大切な宝を、助けて…
その時。スマホが鳴動する。
涙を拭い、画面を見ると健太からだ。
『警察に連絡済み。無茶はしない事。現場の位置を知らせろ』
いつもなら、『警察』の二文字を見るや否や削除していただろう。だが自分の弱さを認識し始めたトラは素直に、奴らからの手紙の写真を撮り、それを健太に送付する。すぐに既読がつく。
『捜査本部に転送した。間もなくそちらに到着するだろう。呉々も不用な手出しはしないこと。あかねちゃんの為にも』
トラは生まれて初めて、大人に感謝した。
これで、あかねは助かる。あかねを傷つけずに済む。
温かい電気が胸から脳に突き上がった気がする。
後は大人しく警察の到着を待つだけ… なのだが。
トラはそこまで自分を変える事が、今日は出来なかった様だ… 自分の弱さ、他人への感謝。この二つは身についた様だが。
トラの野性の本能に火が付いた。警察が来る前に。やっぱ、ぶっ潰す!
もう一息、なトラなのであった。
「オッセーなトラの野郎。何ぐずぐずしてんだか」
「あれじゃね、すっかりビビって逃げちまったとか?」
「おい、トラに電話してみろや。お前ビビってんだろって」
「そっすね。ちょっとかけてみますわー」
ヨシキがトラの電話番号をタップする。
倉庫内に、呼び出し音が鳴り響くー
「オレに、なんか用かヨシキ。」
黒ワゴンの持ち主、そして去年トラにボコられたリュー、去年トラに川辺でボコられた川崎の不良達、そしてヨシキ達トラの昔の連れは一斉にニヤリと笑う。
指定された倉庫の脇に、見覚えのある黒いワゴン車と見知らぬ白いセダンが停まっている。川沿いにあるその倉庫は丁度テニスコート半分程の広さだ。周囲には似た様な今は使われていない工場が立ち並び、ちょっとの叫び声など誰にも聞かれることは無さそうである。
倉庫の中には何もなく、地べたに転がされたあかねはまだ手出しされていない様子で、トラは心底ホッとする。
奥に転がされているあかねの手前に、八人ほどの男が地べたに座り込んでいる。
「おう。おせーじゃねーかトラ。待ちくたびれたわ」
リューがニヤけながら話しかける。
「どんな状況か、わかってるよな。今」
見たことのない奴が冷たく吐き捨てる。
「よーし。ヨシキ。トラを縛れ。そのトラロープで」
一同が大笑いする。ヨシキは腹を抱えながら、トラをグルグル巻きにする。
「トラ。オメーが悪いんだぜ。オメーだけ、こんなイケてる彼女作って。」
それを手伝いながら、もう一人が
「なんかサッカーに熱中しちゃって。オレらから離れてって。なあ、そんなのアリか?」
「それな。一人だけ、オレらみてーなサイテーの人生から抜け駆けしよーとして」
「そんなん、許せねーよな。オマエ一人、いい思い、楽しい思いはさせねーぞコラ」
全く身動きできない程縛り上げ、
「よーし。それでは本日のメインイベントっ お嬢様をお連れしなさーい」
「っしゃー。待ってましたあー」
その瞬間。
「頼む。待ってくれ!」
トラが大声で叫ぶ。
「オレはどーなってもいい。何なら、殺せ。でも、コイツは関係無い。頼む。コイツは見逃してくれ!」
一同は一瞬立ち止まり、そして顔を見合わせ、大爆笑する。
「ば、バッカじゃねコイツ。なに今のセリフ。マンガみてー」
「ほ、ホントにこんなこと言う奴、この世にいるとは」
「マジ、ウケるー。ハハハ。よーし。動画スタート、おいトラ。も一度言ってみ?」
トラは動画撮影中のスマホに向き直り、
「ああ、何度でも言うよ。頼む、オレはどーなってもいいからさ、コイツだけは助けてくれ」
更なる爆笑が沸き起こる。
「あー、腹いてー コイツ、こんな奴だったっけ?」
「コイツマジで言ってんの? ウケ狙いっしょ? いや参ったわー」
「ハーー。ではおもしろついでに。トラくん、こっちに向かって、ゴメンなさい、しなさーい」
と言ってスマホをトラに向ける。
「今までどうもすみませんでした! オレが悪かったです。許してくださいっ」
最早、全員床にのたうち回って笑っている。
「あの、あの蒲田最強のトラがー」
「謝ってる! 信じらんねー」
「この動画、すぐにアップ、アップ。イイねが百万は付くわー」
目から涙を零して笑っていたリューが、
「はーウケる。てか。ハア? オレらが? テメーのこと、許すわけ、ねーだろ」
いきなりトラを蹴りつける。
「マジ、ムカつく」
他の連中も立ち上がり、トラを蹴り始める。
「許す訳? ねーだろボケ。おい、ヨシキ。オメーやっていいぞ、このバットで」
ヨシキは一瞬ギョッとした顔になり、
「あ… マジすか? オレ、コイツの足へし折っていいんですか?」
それまでじっとしていたあかねが暴れ始める。口を塞がれている為、声は出せないが甲高い呻き声が倉庫内に響き渡る。
リューがあかねに近づき、
「ねえ。うるさい。動くな。でないと」
尻からナイフを抜き出し、
「その顔、スパーって切っちゃうよ」
と言ってナイフを顔に押し当てる。
今度は顔中血塗れのトラが、
「やめろ! やめてください! オレを、オレを刺してください、だから!」
テンションの上がった彼らは逆に興奮して、
「っセーんだよコラ。指図すんなオレらに!」
「マジ腹たつわこのガキ。」
「おいヨシキ。さっさと足へし折れや!」
ヨシキはバットを振りかぶりながら、
「よーし、トラー、覚悟しろや!」
あかねの声なき絶叫が虚しく響く。