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トラ トラ トラ!  作者: 悠鬼由宇
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夜桜を楽しんでいただけなのに不良に絡まれ散々な目に遭った中年男と町一番のワルが出会った話。

来月に中学三年生になる松本寅は、先週東京の多摩少年院を出所したばかりである。

丁度半年前、サッカー部の後輩が川向こうの不良に暴行を受け、その仕返しに川を渡りキッチリとリベンジ決めたのだが、通報され駆けつけた警官や刑事を殴り倒したのがマズかった。

半年近く少年院で大人しく過ごし(と本人は思い込んでいるが決してそうではなかった)、先週やっと出所できた。

もう二度と公僕を殴らない。そう母親に誓い、ああそれがいいよ、と頭を撫でられた。

サッカー部の仲間たちと半年ぶりの再会を果たした帰り道。すっかり遅くなり、寅は一人ブラブラと多摩川土手を歩いていた。

明日から久しぶりに仲間とボールを蹴れる。そう考えただけでスキップが止まらない。

母親に出所祝い?にもらったスマホを見ると八時過ぎだ。腹が減って仕方がない、早く家に帰ろうと道を急ぐ。そんな寅の道先に、四、五人位の人だかりができている。どうやら平和な雰囲気では無い感じだ。

あれ、何でオレ、ウキウキしてんだろ。

未だ己をよく理解出来ていない寅は、獲物を狙うネコ科の動物と化し、そこにゆっくりと近づいていく。


     *     *     *     *     *     *


三月も終わりに近づき、桜の花もチラホラ見られる様になり、永野健太は多摩川土手にしゃがみ込んで一人、夜桜を眺めていた。

川の向こうには健太の勤めている玉川エレクトロニクスの工場の灯が見える。こうして夜桜をゆっくりと眺めるのなんて、いつ以来だろう。毎年開かれていた部内の花見の宴で花を愛でることなどなかった健太にとって、土手沿いの街頭に淡く照らされた夜桜の幽玄さはちょっとした驚きであった。

溜息を一つつき、コンビニの袋に入っている缶酎ハイを一本取り出し、蓋を開け口に含む。

不意に、同期入社の須坂人事部長の冷たい言葉が脳裏に蘇る。

「永野の部長職の任を解き、しかるべき部署に転属とすることを決定した。」

缶酎ハイを握る手が震える。どうして、どうして俺が…

健太は顔を上げ、川向こうの工場の灯を睨みつける。

そう言えば良子と克哉は元気にしているだろうか?

去年離婚して以来一度も会っていない。今年大学二年生になる克哉とは接見を禁止されている。そんな家族に想いを馳せようとした、その時。

ジャリジャリ複数の雑な足音が近付いたと思うと、四人の中学生らしき不良達が健太を囲んでいた。

金髪の小僧がニヤニヤしながら軽い口調で、

「おっさん、カネ。カネちょうだい」

一人息子との思い出に浸ろうとしていた健太の酔眼が細まる。

「いま、何て言った?」

缶酎ハイを片手に健太はゆっくりと立ち上がる。


昼から数えると何缶目かの酎ハイを投げ捨て、180センチの巨躯で彼等の前に立ちはだかる。仕事や家庭への苛立ちは容易に健太の自制心を吹き飛ばす。

こんな小僧に舐められるとは俺もとことん落ちたもんだ… フッと自虐の笑みを浮かべると、不良達はそれを挑発と受け止め、いきなり無言で蹴りを入れてくる。

中学生の蹴りなぞ…と思いきや、それが健太の鳩尾に入り一瞬にして気が遠くなりかける。更に背中、足裏にも蹴りを入れられ、健太は土手の砂利道に転がされる。

相当喧嘩慣れしているのだろう、決して顔や頭は狙わず背中、腹、足を集中的に痛めつけられている。

リーダー格の金髪の小僧の蹴りが再度鳩尾に入り、健太は砂利道に吐瀉する。

吐き終えるとそこに顔を押し付けられ、

「とっとと言うこと聞いてればよお、こんな目に合わないで済んだのになあオッさん。反省しろ、はんせい。」

と言いつつ、健太の腰のポケットを探り財布を抜き取る。

「んだこりゃ… 千円札一枚?」

「ハア? ダサっ」

「カードはあるじゃん、それでいっか」

「あれ、何この写真。草」

やめろ、それだけはやめろ!

声なき声で呻くも、

「ウッセーな。カネねーくせに俺らに手間かけさせやがって。ウザ。こんな写真、どーでもいーっしょ」

と言いながら破ろうとした時。


「オメーら。この辺で見ねえ顔だなあ。川向こうからか?」

と野太く低い声が耳に入る。

金髪が写真を放り投げ、

「何だテメー、それがどーしたよ。狩りの邪魔されたくねーんだけど」

と言ってその男の前に仁王立ちする。

他の三人も身構える。

健太も顔を上げ、その男を見上げる−その瞬間。

金髪が夜空に舞った。舞い上がった。まるでスローモーションの様に両手を大きく広げながら土手の夜空に舞い上がり、やがて砂利道に背中から叩きつけられ、一息呻くと動かなくなる。

呆然としている三人のうち、最も前に出ていた坊主頭が横に吹っ飛ぶ。どうやら顔を蹴られた様だ。あまりの早さに健太の酔眼ではよく見えなかった。

残りの二人が後退りし、

「ちょ… 勘弁してくれ… してください…」

「さ、さーせんでした…」

すっかり戦意消失している。

男は二人を睨みつけ、一言

「行け」

と言うと、二人は仰向けに伸びている金髪と坊主頭を抱えながら立ち上がらせ、それぞれ肩を貸して歩き出す。金髪を抱えている小僧がふと思いついた様に、

「ひょっとして、蒲田のトラさん、っすか?」

巨漢の男は野太い声で

「そーだけど」

二人は真っ青になり、

「も、申し訳ありませんでしたっ」

と言って怯えながら土手下に消えて行った。


「立てるか、オッさん」

健太はゆっくりと立つも、左脚太腿を手酷くやられており、よろめいてしまう。

「きったねーな、ゲロまみれじゃねーか」

と健太の顔を覗き込むその男は、真っ赤なロン毛、ダブダブのパーカーにカーゴパンツ、足首までのスニーカーという、如何にもチンピラ、という格好だ。健太よりも背が高く、ガッチリした体格の、それでも顔付きはまだあどけなさが残る、十六、七の高校生?

男は袋に入っていた未開封の酎ハイを開け、徐に健太の頭からかけ始める。健太は腰を屈めその酎ハイで顔を洗い流し、

「悪いな、助かった。」

「別に。それより、その写真。大事なんじゃねーのか?」

砂利道に落ちている写真を拾い上げ、健太にそっと差し出す。

「コレ、去年別れた女房と子供。」

聞かれてもいないのだが、健太は言い訳の様にそっと呟く。

男は写真を一瞥し、対岸の街明かりが水面に揺れる多摩川を眺めながら、

「あそ」

と呟く。

健太は写真を財布にしまい、

「あの、なんかお礼がしたいんだけど…お腹空いてないか? ファミレスかどっかでご馳走するよ」

河口の方から羽田空港を離陸するジェット機の轟音が響いてくる。男は健太をしばらく見つめた後、顔をクイっと振り、ゆっくりと歩き始める。ついて来い、と言うことか。健太は痛む足を引きずりながら男の後を追った。


二人は無言のまま第一京浜、即ち国道十五号を蒲田方面に向かう。こんな時間でも多くのトラックでかなりの混雑だ。この先の和風ファミレスに行くのだろうか。だが京急電鉄の雑色駅前を左折し、男は最初の角にある「あゆみ」という看板がかかったスナックに入った。

どう見ても未成年の少年がスナック? 健太は怪しさを感じつつも、店のドアに貼ってあるカード使用O Kのシールを見てホッとする。何しろ現金を持ち合わせていない、この数週間。

店内は昭和感溢れる懐かしい雰囲気だ。壁にはサイン入り演歌歌手のポスター、カウンター席の他にソファー席が三卓程。どれも使い込まれてボロボロだ。カウンターの奥にはキープボトルのウイスキーやら焼酎が所狭しと並んでいる。

誰も客はおらず、カウンターに気怠そうな太り気味の中年の女が座っており、その奥には細くて背の高い若い女がグラスを磨いている。

「あらー、トラちゃん。お店に連れで来るなんて珍しいー」

トラ、と言うのか、この男は。トラは中年女を一瞥し軽く頷く。

「おー、どーしたトラ、そんなシケたオッさん連れで。もっと羽振り良さそーなの連れて来いや!」

カウンターの中から、口調は最悪だが、透き通る様な綺麗な声が聴こえてくる。

もうすっかり酔いの覚めた目をその声に向けると、

こんな場末のスナックに…

ロングの茶髪は安っぽくも瑞々しく、顔はビックリする程小さい。切れ長の目と鼻筋の通った鼻梁が絶妙の位置関係にあり、意思の強そうな唇に真っ赤なルージュが良く似合っている。

背は170センチ近くはあるだろう、細身の身体に白のワンピースがピッタリと張り付いており、知らず健太はゴクリと唾を呑み込んでいる。

モデル? 芸能人? 健太の頭にはてなマークが点滅していると、

「で? お客様、でいーのかな」

トラはカウンターにドサリと座り込み、

「んな感じ。俺、チャーハンとラーメン。」

「あっそ。じゃあ、いらっしゃーい、どうぞそちら、座って座ってー」

と健太にニッコリと笑いかける。

気怠そうだった中年の女性も営業モードとなり、お絞りを持ってきて、

「今晩はー、ここ初めてですよねえ?」

健太はトラをチラリと見ながら軽く頷く。

「でもホント珍しい、と言うか、初めてじゃない? トラちゃんがお客さんを連れてくるなんて、ねえママ」

何と… 若い方の女がママなのか。健太は唖然とする。

「そーだねえ。一体どんな風の吹き回しなんだい、トラ?」

そう言いながらママがカウンター越しに身を乗り出して健太の顔に近づく。健太は顔が一瞬にして赤らむのを感じる。

「てか。アンタ、臭い。洗面所で、顔洗ってきたら?」


石鹸で皮膚がすり減るほど顔を洗い、カウンターに戻ると二人の女が大笑いしている。

「アンタ、大変だったねえ」

「トラちゃんがたまたま通りかかって、ホント良かったねえ」

健太は曖昧に顔を歪ませ、

「ビール、頂戴」

と絞り出す様に呟く。

出された瓶ビールをコップに注ぎ、ママのコップにも注ぎながら、

「ママって、トラ君のお姉さんかな?」

二人の女は顔を見合わせ、プッと吹き出す。

「そんなこと言ったって安くならないからねー」

「そーそー。トラちゃんは、ママの大事な大事な、息子。ですから!」

思わず健太はコップを落としそうになる。

「そう、なのか?」

と隣のトラにふると、

「まーな」

小さくない衝撃を健太は受ける。いや、どう見ても母親って、あり得ない… 

厨房からチャーハンが出てきてトラの前に置かれると、トラは物も言わずに掻き込み始める。

そんなトラとママを交互に見比べながら、

「結構若い頃の子なんだ?」

「そうね。アタシが二十歳の時かな。この子が生まれたの」

「で、このトラ君は今…?」

「来月から中三。そこの中学の。よかったねえ、進級できて」

トラが食べながら無言で頷く。

「この子って、ついこないだまでネンショー入ってたからさ。もう一回、中二やるかと思ってたわー」

「ネンショーって… 少年院? え、何で?」

「ケンカ」

口にチャーハンをいっぱいに入れたまま、ボソッと答える。

「そ、そっか。ま、でも、進級できて良かったな」

なんて月並みな言葉をかけながら、健太は誤魔化すようにグラスを口にする。

成る程、どうりで喧嘩慣れしているものだ。四人相手にも全く怯まずに、相手のリーダー格を最初に倒し残りのヤツの動揺を誘い…

そう言えば、彼らが立ち去り際に言っていた言葉が、健太の脳裏に蘇ってくる。

『蒲田のトラ』

地元で有名な不良なのだろう、コイツは。一人納得し、健太はグラスを一気に呷る。


「でー? オジさんは何してる人なのー?」

中年のホステスがタバコをふかしながら聞いてくる。

「そこの、川向こうの会社。」

「あー、玉エレねー。名刺くれるー?」

健太は財布から名刺を抜き出す。

「へー、永野健太、さん。……え…? 第三、営業、部長!」

ママがカウンターから身を乗り出して素っ頓狂な声で、

「マジマジ? 部長さん、なの?」

隣でチャーハンを食べ終わったトラが、全く興味なさそうな目で健太を見下す。

「去年、まで。今は、休職中。」


健太は小学生の頃からずっとサッカーに夢中だった。まだJリーグがない頃、いつか日本代表のユニフォームを着ることを夢見て、朝から晩までサッカーに明け暮れていた。

高校は都内の強豪校に進学し、三年生の夏にインターハイの全国大会に出場し、大学はサッカー推薦で御茶ノ水の東京六大学に進んだ。

大学日本選抜にも選ばれ、卒業後は玉川エレクトロニクスの前身である玉川電機に入社し、営業部での仕事の傍らサッカー部で活躍した。

Jリーグが発足してから数年後、玉川電機サッカー部が母体となった川崎フロンティアがJ昇格を果たすまでその主力メンバーとして活躍してきたが、古傷や年齢の事を考えて、昇格を機にサッカーから離れた。

その頃上司の紹介で横浜の資産家の娘と結婚し、すぐに子宝に恵まれた。

サッカーを辞め家庭を築き、健太は営業の仕事に邁進してきた。

昔ながらの体育会気質で営業成績をグングン伸ばし、順調に昇進を重ね、三年前に本社第三営業部の部長に昇格した。

一人息子の克哉は、小学校から私立の一貫校に入学しずっとサッカーを続け、この春から大学二年生である。


「へー。サッカーやってたんだ」

ラーメンを啜っているトラが呟く。

「まあな。ひょっとして、君も?」

トラはビクッと体を震わせ健太を睨みつける。そして否定も肯定もせずに、ラーメンを啜り続ける。

「でもー、あんまブチョーっぽくないじゃん。髪ボサボサだし、オッサン服だし、臭いし」

ママが小悪魔の様な笑顔で話しかける。

「そう。実は去年…」


本社の法務部に一通のメールが送られてきた。それは健太のパワハラに関する内容であった。入社二年目の若手社員が、健太の日頃の横暴ぶりを証拠の音声ファイルと共に法務部の社内コンプライアンス委員会に提出したのであった。

ある日の昼休み、健太は本社法務部の会議室に呼び出され、その事実関係を確認された。音声ファイルを開くと健太の凄まじい怒声が会議室に響き渡り、委員会の面々は皆苦虫を噛んだような表情で首を横に振っていた。

「今時、ダメですよこれは。永野さん、毎年オンラインでやっている社内ハラスメント講習会、ちゃんと受講していましたか?」

勿論していない。激務の最中にそんな暇は無かった。

「記録では… ちゃんと講習済みになっていますが。因みに今年の講習の内容を言ってみてくれますか?」

部下に「チャチャっとやっとけ」と言ったのは思い出したが。内容なんて知る由もない。

「そうですか… これはかなりの問題です。講習会を自ら受講せず部下にやらせた。その部下とは誰ですか。確認しなければなりません」

健太の背中に冷や汗が流れた。部下も責任を問われるだと?

健太は部下に仕事上は非常に厳しい反面、人としては温かく接してきた。就業時間を過ぎれば人格がガラリと変わり、仕事のミスで凹む部下を励まし、部内の人間関係で悩む部下には何時間でも相談に乗ってきたのだ。

この件では若手の有望株の田中が呼び出されることになった。田中は大学時代はラグビー部で、健太の体育会気質に良く合った大事な部下である。

「わかった。俺が悪かった。以後気をつけよう。だから田中を呼び出すのは勘弁してくれないか?」

同席していた同期入社の須坂人事部長が首を振りながら、

「永野、そういう問題じゃないんだよ。昔ならそれで良かったのだけどな。これは今後の会社の在り方にとっても重要な事態なんだよ。ハラスメント撲滅は今や我が社の命題なのだから。」

「はあ?」

「ハラスメント対策が疎かな企業は東京オリンピックの協賛企業になれないのだよ。前からあれだけ言ってきたじゃないか。時代は変わったのだって!」

須坂人事部長は冷徹な声音で吐き捨てる。

健太の額から一筋の汗が流れ落ちた。


一週間後。再度委員会に呼び出された。

「結論から申し上げます。今回の件はパワハラ自体の深刻さ及びハラスメント教育の意図的なボイコットの二つが、社長を含めた社内委員会で問題となりました。」

社長もだと? 健太は顔が青ざめるのを感じた。

「そして。正式な辞令は来週発表するが。永野の部長職の任を解きしかるべき部署に転属とすることを決定した。」

須坂人事部長が冷たい声で言い放つ。

膝の力が抜けた。会議室の硬い椅子に座り込んでしまった。

「あの… 田中は… 何か処分が下されたのですか」

銀縁メガネの委員長が冷ややかに、

「彼の証言により、この一連の不祥事は全て永野部長の強い指示、いや命令によるものであることが判明しましたので、田中さんに対しては譴責処分とした次第です。停職や減俸処分はありません。」

俺の指示…俺の命令… 確かにそうであるが、それを田中はありのままに委員会に全てぶちまけたのか? あれだけ目をかけてやったのに、あれ程面倒を見てやっていたのに…

信頼し大事にしていた部下の裏切り行為が、健太には一番応えた。


「ありゃりゃ。パワハラかあ。それはアウトだわー」

ミキ、という中年のホステスが苦笑しながら首を振る。

「ダメだよー永野さん。今時の若いヤツは根性ないんだからさー。チンピラ中坊相手に立ち向かってく永野さん世代とは、違うんだからさあー」

「ボロカスに弱えくせに、な」

隣でラーメンを食べ終わったトラが見下し笑いを健太に向ける。

「弱えくせに、口ではえらそーなこと言ってでしゃばって。弱え奴だけに威張り散らして。アンタ最低じゃん。」

健太は顔が歪ませ下を向くしかなかった。その通りだ。そんなつまらない人間に俺は何時からなってしまったのか。

少なくともサッカーを引退するまではこんな自分ではなかった。仲間を愛し信頼し、喜びも苦しみも皆で分かち合っていた。何よりサッカーを愛し、愛され、この世に不満なんて何一つなかった。

それが、一体どうして…


「あなた。ちょっとお話があります」

健太の辞令が下された。川崎工場の資料課課長。地方に飛ばされなかっただけまだマシである、そう思っていたある日。

妻の良子が硬い表情で切り出した。

「これにハンコを押してくださいませんか?」

一枚の緑色の紙を健太の前に差し出した。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。これは一体どういうことなんだ?」

「どういうことも何も。こういうことです。」

「いきなり離婚してくれなんて…どうして…」

「あなたは今まで私の言うことなんて、何一つ聞いてくれませんでした。仕事のこともそう。父の会社を継いでくれとあれほど言っても、耳を貸してくれませんでしたし。」

良子の父は横浜で手広く不動産業を営んでいる。その仕事を結婚当初から継いでくれないか、と言われてはいたのだが。

「それに克哉のことにしてもそう。あなたは勝手に学校を決めてしまうし、無理矢理サッカーをやらせるし。あなたは全てが自分の思う通りにならないと済まない人なのです、昔から。」

いや… 学校は大学まで受験が無いから良い、と賛成してくれていたのでは… それにサッカーは克哉がしたいと言ったから…

「全然違います。学校は横浜の父の母校の附属が良いと言ったのに、勝手に東京の学校に入れてしまうし。それに克哉はサッカーがしたいだなんて、一言も言った事はありませんよ。あなたは何でもそう。自分の独りよがりを周りに押し付けてきたのです。」

健太は呆然としてしまう… これまで良子が健太に対して、こんなにはっきり自分の意見を言うことなど一度もなかったからだ。

「そんな事はありません。私は何度も何度もあなたに話しています。でもあなたは全く耳をかさなかったのです。」

本当にそうなのだろうか、結婚してからの自分を振り返ろうとした時、

「これ以上あなたと一緒にいる事はできません。克哉は当家で引き取ります。来週実家に戻ろうと思います。」

克哉との思い出が走馬灯の様に健太の頭の中を駆け巡った。

「この家は父があなたに与えたものなので、どうぞご自由にお使いください。」

結婚祝いに良子の父は、新丸子の新築マンションの最上階を二人に与えたのだった。

それだけ言うと良子は、離婚届をテーブルの上に置いたままキッチンに入っていった。

翌週、健太が仕事から帰ると、良子は不要な荷物は置いたまま家からいなくなっていた。


「ううー、キっつー…」

「ひでー女じゃん。なにそれ、信じらんない」

二人の女が激しく健太に同情してくれるも、

「でも、まあ、思い返してみたら思い当たることも多々あってさ。仕方ねぇかなって。」

ママが空になったビール瓶をよく冷えた新しい瓶に換えてくれた。そして栓を抜き健太のグラスに注ぎ足してくれる。

「正直、女房はいいんだ。元々育ちも全然違うし。向こうはお嬢さん育ち、こっちはサッカーしか知らない下町育ちの庶民。合うはずなかったんだ」

「……」

「でも、克哉は… 息子は… 」

健太はそれ以上、何も言えなかった。

僕、パパみたいなサッカー選手になるんだ、と目を輝かせながら、昔健太が出ていた試合のD V Dを観ていたことを思い出すと、鼻の奥がむず痒くなってくる。

今は大学のサッカー部でそこそこ頑張っているようだ。合宿所に入っているのでこの一、二年はちゃんと話した記憶がない。


突然の左遷、突然の離婚が健太の心を蝕み始めた。仕事はほとんどなく定時には帰宅の毎日。自然とアルコールの量は増え、飲み歩く毎日。

酔っ払って警察に世話になることが増え、ついに先月、夜の街で暴力事件に巻き込まれて、会社を無期休職となった。

基本給のみ支払われるので収入は激減し、毎日の生活も苦しくなってきた。飲みに行く余裕がないので、酒を買ってきては家で飲む。一日中酒浸りの日々が続いていた…

「そして、今夜ここに至る。と言う訳さ。」


ママとミキは大きく溜息をつく。隣のトラは一人スマホを弄っている。

「そんで、永野さんアンタ、これからどーすんの?」

ミキが何本目かのタバコに火を付けながら問いかける。

「エリート社員がこんなに落ちこぼれちまってさあ。」

赤の他人にこんなことを言われるなんて。ちょっと前の健太だったらなら、プライドを傷つけられたと怒り狂っていただろう。

しかし今夜は、いやこの店では全く怒りが湧いてこなかった。寧ろその苦言が心地良くもある。不思議な店だ、いや不思議な人たちだ。

「そっか、ヒマ、なんだオッさん」

不意にトラが口を挟んでくる。

「そしたらさ、俺たちの中学のサッカー部のコーチ、やってくんね?」


飲みかけたビールを咽せてしまう。

「は? 何だって?」

「だからー。ウチのサッカー部の面倒みてくんね?」


     *     *     *     *     *     *


あれからトラが自室に上がっていって−あの店の上に住居部分があり、トラとママはそこで暮らしているという−、ママが焼酎のボトルを開けてくれた。それを三人で飲んでいると遅くから客が入り始めた。

一人でその焼酎をちびりちびり飲んでいると、次第に客は帰って行き、そろそろ閉店だと言うので時計を見たら二時半だった。

勘定をカードで支払い(値段は一切記憶にない)、新丸子のマンションまで多摩川沿いにフラフラと歩いて帰ると三時半。そのままベッドに倒れ込み、ハッと目覚めると昼の十二時を過ぎていた。

酷い頭痛がし、半分寝ぼけながらシャワーを浴びると、スマホにラインのメッセージの着信がポップアップしている。

誰だよ、トラトラトラって? こんな奴知らねえ、と削除しようとして唐突に昨夜のことを思い出す。

「明日。二時から。ウチの学校のグランドで練習。」

「やるなんて一言も言ってねえぞ!」

「いいから。来いよ。今夜のこと、忘れたわけじゃねーよな?」

「うっ… で、どこの中学?」


『蒲田南中グランド、二時から。絶対来いよ』

サッカー。サッカーか。もう二十年近くボールを蹴っていない…

克哉が幼い頃に公園で遊びで蹴るくらいはあったのだが、グランドで本格的に蹴るなんて引退以来だ。健太は大きな溜息をついた。

それに。スパイクが無い。トレーニングウェアも無い。散歩用のジャージしかない。

ま、いっか。見るだけ見て、適当にアドバイスしてあとはバッくれよう。

冷蔵庫からビールを出しかけて、流石に中学校に酒気帯びは宜しくない、と社会常識を思い返し、ペットボトルのお茶を一気に飲み込んだ。


     *     *     *     *     *     *


「そんな訳で、今日から松本が練習に来ると言うので、上田先生よろしくお願いしますよ」

副校長の中野はそう言って一方的に電話を切った。

冗談ではない! あの松本寅がサッカー部の練習に来るなんて…

上田一美は蒲田南中の体育科の教諭であり、四月から三年二組の担任を務めることとなっている。更に四月からはサッカー部の顧問を任されてしまった。

それまで顧問だった先生が他校に転出し、そのお鉢が回ってきたのだった。

何故私が? サッカー部? 二年前に蒲田南中に転入する前は田園調布の中学に勤めていた。自身がかつてやっていたバレー部の顧問を務め、都大会に出場する程熱心に指導していた。

この学校にはすでにバレー部に顧問の先生が付いており、一美は二年間どの部活にもタッチせず過ごしてきた。

そもそも、この学校の柄の悪さにヘキヘキとしていたのだ。大田区でも最悪の学校と揶揄されており、件の松本寅なぞ先週まで少年院に入っていたのだ!

今年で四十になる一美の教員生活で少年院に入った生徒は居なかったし、これまで勤務した学校はどこも高級住宅地にあり、生徒の質も素晴らしかった。

二年前。赴任の挨拶の為、壇上に上がった時。私語と野次は挨拶が終わるまで静まることはなかった。授業中も私語どころかゲーム、スマホ、時には乱闘が起き、今時こんな中学がこの世に存在していることが信じられなかった。

生徒だけでなく、副校長の中野先生も責任は部下に押し付け、手柄は自分で持っていくと言う最悪の上司であり、たまの飲み会では体を触られたりもして、何度この学校からの転出を考えたことだろうか。

それでも一美を思い止まらせたのは、学生時代にバレー部で全国大会出場というプライドである。練習中に吐くなんて当然。気を失うほどの練習を重ね、鍛え抜かれた根性だけは誰にも負けない、と言う自負があるのだ。

その根性を持ってしても、どうしてもこの学校の子たちには、未だに慣れない。それもよりによって、不良の巣窟(と一美は信じ込んでいる)であるサッカー部の顧問をやらなければならないとは…

私、このままでいいの? こんなヤンチャな子たちに小馬鹿にされながら、あんな嫌な上司にネチネチされながら、それでも教師を続けるべきなの? 他にやるべきことがあるんじゃないの?

人知れず思い悩む一美なのである。


新三年生のキャプテンから連絡が入り、今日の二時から学校で練習するから来て欲しいとのことなので、午前中に新学期からの準備を済ませ、昼食は駅前の馴染みの中華料理店でチャーハンを掻き込み、十五分前には学校に到着していた。

二時にグランドに出てみると、不審な中年男性が生徒を集めて話をしている。

一美はメガネを押さえつつ慌てて走り出し、生徒の輪に近づく。

「どちら様ですか?」

生徒達が一美を一瞥し、視線を男に戻す。

男は話を済ませ、生徒に何事か指示を出すと一美の元に歩み寄ってくる。

「トラ… 松本に頼まれて、今日一日コーチの永野ですけど。先生は?」

そんな話、一切聞いていない! 何それ!

「私、サッカー部顧問を四月から引き受けます上田です。えっと、永野さん? そう言った話を学校側は聞いていないのですが?」

「やっぱそうか。トラの奴、大丈夫大丈、なんて言ってたけど。そーだよね、いきなり部外者がコーチとか、不味いよね?」

なんだこのやる気ゼロの中年オヤジ?

「はあ。あの、生徒の保護者関係の方でしょうか?」

男は首を振りながら、

「いや。全然。この学校には縁もゆかりもないよ。」

「だとすると、学校側から発行された指導許可証を持ってもらわないと…」

「ま。今日一日だけだから。それに春休みで誰も見てないでしょ。」

「はあ、まあ…」

誰なのだろうこの男は。背は175センチある一美より高く、がっしりしており、嘗てはサッカーの選手だったのかも知れない。

髪の毛はボサボサで顔もやや浮腫んでいるのだが、昔はさぞや女子にモテたであろう整った顔つきだ。眉毛は太く、意志の強さを感じさせる。唇は薄く、やや繊細な神経の持ち主なのかもしれない、見かけによらず。

「では、取り敢えず、今日一日ということなので… あの、怪我だけは十分に気をつけてください」

すると男はムッとして、

「怪我なんてしたくてするもんじゃねえんだよ。」

一美もカチンときて、

「指導者なら怪我の予防もしっかりしてくださいよ。またやむなき怪我の応急処置も!」

男はちょっと驚いた顔をしながら、

「お、おう…」

と言って一見に背を向け、生徒たちにグランドの真ん中にボールを集めさせる。

何このオヤジ。なんかムカつく。だけれど、何か気になる。それが何なのか、未だに独身彼氏無しの一美にはさっぱりわからなかった。


     *     *     *     *     *     *


「おいトラ。顧問の先生が来るなんて聞いてねえぞ!」

「あ? シカトシカト。あんなウザいメガネババア、放置プレーでいいって!」

トラが吐き捨てる様に言うと、周りで笑いが起きる。

「マジウザいんだよなババア。何かっつうとねちっこく語りだすし」

「そーそー。あの「私はあなた達を信じてますー」的な? うるせーっつうーの」

「ギャハハー そんでみんな自分のこと好きだと勘違いしてるし。イタタ…」

「何で今更、ウチの顧問なのかね。まあ前の滝田もウザかったけどな。」

散々な言われようだ、サッカー部顧問。健太は呆れつつも、

「ま、そんな訳で今日一日だけお前らのサッカー、見させてもらうからな」

トラを除く生徒たちは疑心暗鬼の視線で、

「「「ウイー」」」

…礼儀もへったくれもない。ま、いっか。今日一日だけだし。

「ところで。今日休みの奴いるのか?」

全員が首を横に振る。

「へ? ってコトは… 七、八、え? 九人だけ?」

全員が首を縦に振る。

「そっか、今時の中学校って、こんなんなのか…」

健太が驚いて問いただすと、

「いやー、他のガッコはそーでもねーよ。ウチだけじゃね?」

「それそれ。ウチはトラがおっかねーから。なんちって」

全員が笑う。え、そうなの?

「いや、本当はウチにちゃんとした指導者いないんっすよ。だからみんな街クラブに入っちゃうんですよ」

主将のG Kの小谷が答える。


それは仕方ない。まあ別に俺がそれを気にする必要もない、今日一日なのだから。と健太は思い、

「よーし。一人ボール一個持ってこい」

皆、ズタボロのボールを持ってくる。

「リフティング。ミスったらその場で座れ。ハイ、始め」

サッカーの上手い下手を見分けるのに手っ取り早いのがこのリフティングだ。コツを掴み何千回とできる様になるには長年の努力と根気、そしてサッカー愛が必要なのだ。

見ていると、早速脱落者が二名。きっと中学からサッカーを始めた子なのだろう。

G Kも10数回で脱落。まあそんなもんだろう。

あとの六人はどれほどやる子なのだろう。健太は彼らの足捌きに少し興味が湧いてきた。六人は皆、明らかに小学生低学年から球を扱ってきた形跡が見られる。

中でもトラは別格であった! 

なんだコイツ?

全く体軸がブレずに背筋もシャンと伸びていて、姿勢が美しい。ボールはトラの意思のまま自由自在に宙を舞い、それをさも簡単そうに捌いている。

なんでこんな奴が、こんなとこで…

他の五人もトラほどではないが、十分街クラブレベルで活躍できそうな足捌きだ。少なくとも俺の子供の頃より遥かに上手いわ… 健太は密かに驚嘆していた。


次に健太はグランド中央からゴールに向かいコーンを並べさせて、

「ドリブル、シュートまで。右脚左脚、交互で。キーパーも」

トラを含む経験者六人は流石なモノだった。皆足に吸い付く様なドリブル、狙いすましたシュート。やはりこんな部活レベルでは勿体ない。

初心者も一人は足が異様に速い。呼び寄せて聞いてみると、学校のリレー代表に選ばれるほどのモノらしい。

もう一人の初心者はトラに次ぐガタイの良さだが足元のテクニックが弱い、と言うか皆無。だが体幹はしっかりとしており、パワーに満ち溢れている。スタミナも相当ありそうだ。呼び寄せて聞いてみると、学校のマラソン大会では学年一位だそうだ。

G Kの小谷も俺ほどの上背がある。動きが俊敏でアジリティに富んでいる。キャッチングは滅茶苦茶だが、G Kとしてのポテンシャルは凄いものがある。

これは……

九人しかいないが。ちゃんとした指導者がコイツらを鍛え上げたら…

何人か苦しそうな子が目に入ったので、一旦休憩を入れることにする。


「オマエ、サッカー久しぶりなのか?」

その中でも一番苦しそうにハアハア言っているトラに健太は尋ねる。

「ああー、半年、年ショーいたしー」

下級生が怯えた顔になる。それを上級生がいじり倒す。このチームの雰囲気は悪くない。健太の大嫌いな、上下関係が緩い雰囲気ではあるが。

時計を見ると既に三時過ぎだ。校庭は四時までしか使用出来ないらしい。

「よし。チーム半分に分けて、ミニゲーム!」

ワッと歓声が沸く。ゲーム(試合)こそがサッカーの全て。健太も学生時代は練習よりも試合が好きだった。

「5−4で分けろ。少ない方に俺が入る」

おおおおーと皆が沸く。ったく、トラの奴。俺のことをコイツらに何と言ってるんだ?

「だって、元フロンティアのJリーガーっしょ?」

「フロンティアの前。Jでは戦ってない」

「でも城東学園でインハイ出たんでしょ?」

「ああ、まあな」

「御茶大サッカー部でユニバ出たんでしょ?」

「おお、まあな」

俺、そんな喋ったか、昨夜? 健太ははてなマークが頭に浮かぶが、それよりもミニゲームだが久しぶりにボールを蹴れることに少し浮き足立っている。心がウキウキしている。

やはり。俺は好きなんだ、サッカー。

五十歳になってもこの胸のトキメキ。

「よーし、コート作れ。キーパーは交代でやるぞ。サイド出たらキックインでな!」

足元のジョギングシューズを見下ろす。心底、スパイクが欲しくなっていた。


     *     *     *     *     *     *


「マジ、コーチ半端ねーって、な…」

新三年生のC B青木が興奮気味に喚き立てる。周りも頷きながら、

「俺一回もボール取れんかったー、ジョギングシューズ履いてる人に…」

トラはカウンターに突っ伏しながら、

「ったく大人気ねーっつーの。途中からマジになってよ。あー痛え、完全ファールだろあれ」

「いやいや、正当なチャージだったよトラ君。あのトラ君が吹っ飛んでたよね?」

下級生に弄られ更にふて腐れるのを

「ザマーミロ。日頃チョーシこいてっからだよ。」

とママが言うと皆が大笑いする。


ミニゲームに白熱していると、上田先生がグランドに仁王立ちして時間だから引き上げろ、と咆哮して練習が終わる。

健太は汗まみれとなるも、何十年ぶりかの清々しさに、この数年の辛い出来事をすっかり忘れ去っていた。

キャプテンの小谷が、

「夕飯、トラのトコで食わね?」

と提案し、恐れ慄く新二年生を上級生が拉致連行し、スナック「あゆみ」に大勢で押しかけたのだった。トラの母親である亜弓は顎が外れるほど口を大きく開き、事態の把握に努めた結果、

「カレーでいいな、おまいら」

と言って慌ててカレーを作り始めたものだった。


「で。どーよ、このチーム。あんたの目から見てさ」

トラが冷たい烏龍茶を啜りながら健太に尋ねる。

「そうだな。大会があるのか?」

「そう。四月の頭に、地区大会。総当たりのリーグ戦。」

「…九人で戦うのか…?」

「一年坊入ってくるの、早くても中旬だしな」

「そっか… でも、戦い方によっては何とかなるんじゃないか?」

トラの目がキラリと光る。

「ポジションは?」

トラが紙とボールペンを持ってきて、サラサラとポジションを書き出す。

「4−3−1だな。トップに茅野。中盤の真ん中が俺、サイドが木崎と大町。C B二人はコータとサワ、サイドが岡谷と飯森。G Kはコタ。かな。」

「うん、そーなるかな。ただな、この木崎って子、S Bサイドバックの方がイイと思うぞ」

「え? なんで?」

「下級生だけど良く声出してるだろ? サイドからのコーチングが守備の時効くと思うぞ」

「…へー、そーなん。でも、岡谷って初心者じゃん、ハーフはちょっと…」

「攻撃よりもD Fを意識させる。トラと岡谷の2ボランチで大町がアンカーでも良いかもしれない。コイツスタミナあるし。ガタイ、デカイし。」

「なーる。じゃ、そーすっかな」

素直にポジションを書き換える。

「それより、驚いたよ。お前街クラブでずっとやってたろ? それともJクラブか?」

「Jも街クラブもみんな落ちたわ、素行不良で」

口を尖らせてトラが拗ねる。

「そっか。何だお前、小学生の頃からワルだったのか?」

「知らねーよ。みんなあっちから仕掛けてくんだもん。」

とふて腐れる様に吐き出す。

「ホントは、行きたかったよ、Jクラブに。」

健太はトラの赤い髪の毛をワシャワシャしながら、

「これからでも遅くないだろ? 大会で活躍して認めて貰えばよいだろうに」

「だーかーらー。その大会にも出れるかどーか。っつーのはさ、今度の大会って、顧問だけじゃダメなんだわ」

「へ? 何が?」

「大会出場。審判やれるコーチか保護者がいないと、出場できねーんだってさ」

そんな馬鹿な。振り返り聞いてみると、

「そーなんっすよ。だから、永野さんに来てもらえないと、夏まで試合ないんっすよ。」

と小谷が切実な表情で訴えてくる。

「顧問の上田には言っときますんで、だからこのまま何とかコーチしてくれませんかね?」

そう言われても…

「頼むよ、オッさん。また不良に絡まれたら、助けてやっからよ」

んだよその上から目線。思わず吹き出す。

「それによ、ここでの呑み食い、全部タダにしてやっからよ」

は? 何? マジ?

「んなのダメに決まってんだろボケ!」

と亜弓がトラの頭を叩く。何故かそれを見て皆が沸く。この母親が子を弄ると皆が喜ぶ。何だこの関係は…

「じゃ、じゃあ、このお袋と、付き合っても良い! どうよコレで!」

おおおおおー 中坊が興奮する。

「アホか。ご主人に殺されるわ。」

天使が通った。それも何人もの天使が。店内は亜弓が玉葱を切る音だけが響いていた。


「ゴメン、ママ。知らなかったわ」

「知ってたら逆にキモいし」

健太は苦笑いしながら、

「いつ?」

「トラが産まれて半年後かな。バイクの事故でさ」

カレーを散々食い散らかし、一人五百円置いて生徒たちはご機嫌で帰って行った。トラは久しぶりで疲れ過ぎたと、上に上がって早々に寝床に入ったらしい。今は店内は常連客の二人組と健太だけだった。

「この辺を仕切ってたゾクの頭だったの。ガタイデカくて、頭もキレて。そんで下のモンにはトコトン優しくて。あと弱いモンにも。そんなトコ、やっと似てきたよトラ。」

憂げのある表情で亜弓が話し続ける。

「アタシらの出会い? 決まってんじゃん、ある集会でね、一眼見て。コイツと生きてくって決めて。向こうもそう思ってくれて。そんで一緒になるって決めて。二人してゾク引退して。アタシの妊娠がわかって。そんで真面目にバイト始めて。一緒に暮らし始めて。『ホットロード』そのもんでしょ? カッケーでしょ?」

ホットロードは良くわからないが、健太は取り敢えず頷く。

「だけど、『ホットロード』と全然違うのが… 死んじゃうトコだよね。そこだけはマンガと映画通りであって欲しかったなあ」

その原作は二人とも生きて終わるのだろう。ドラマや映画よりも現実はなんと残酷で厳しいモノなのか。

「O Bで集会参加して。途中でマッポに追われて。バイク滑らしてトラックと激突。映画では何とか生きてたんだけどねえ」

遥か遠くを眺める様子の亜弓に健太は心から同情する。

「だからさ。トラって父親の味を知らねえんだよね。父親から叱られたことも、父親に何かを教わったことも…」

亜弓の瞳に涙が溢れてくる。

「だからさ、さっきアンタとトラが紙と睨めっこしてんの見てさ。ああ、トラってこーゆーのに憧れてたんだなって。母親とじゃ出来ない、こーゆーことをって。」

頬に涙が流れる。健太が見た女の涙の中でも、一番美しい涙だった。

「もし父親がいればさ。トラは年ショーなんて行かなかったかも。その前に父親に怒鳴られ殴られ、真っ当に中学生してたかも」

「いや、ちょっと待てよ」

健太はカウンターに身を乗り出しながら、

「トラはいい奴だぞ、うちの会社にもあんな真っ直ぐで実直な男はそうはいないぞ」

「真っ直ぐで実直って、同じじゃん」

健太は驚いてあゆみを直視する。

「な、何よ」

「い、いや別に、それより。少年院行ったからって、人生終わりじゃないだろう、コレから幾らでもやり直しはきくし。」

「そーかも知んないけど。でも世間ってさ、そんな甘くないっしょ? この日本じゃ。」

健太は確信する。この母親は生まれ育ちが良ければ、普通に大学から大企業に入る程の知性の持ち主であると。生まれながらの環境が人生を左右する。そう痛感させられる。

「サッカーこれから頑張れば良いじゃん。生活態度をさ、少しずつ正していって。来年サッカーの強豪校かクラブに入って、サッカーでのし上がっていけば良いんだよ」

「それを本人が望むかどうか… それに、そんな才能あの子にあると思った? 今日見てて」

背筋が凍りつく。何だ、この母親の冷徹な視点。


確かに今のままではトラがプロになることは決してあり得ない。テクニックはあるが、体力、スピード、アジリティ、全てが足りない。

それより何より、プロになるのに必要なのは、誰よりもサッカーを愛することなのだ。ゲームよりも、YouTubeよりもサッカーが好きで好きで堪らない。それぐらいでないと、現代の日本ではプロになることは叶うまい。

トラは、そこそこサッカーは好きな様だ。だが、全てをサッカーに捧げる覚悟は全く感じられない。昨夜の様に赤の他人と乱闘を起こすなぞ、プロを目指す人間にはあり得ない行動なのだ。

だが。

だが、万が一、トラにその覚悟が芽生え、それを実践すれば…

あの体格は非常に魅力的である。体軸もしっかりしているし、今ついている筋肉を更に効果的に鍛え上げれば、日本人規格外の素晴らしい武器となろう。

それよりも。最も今日彼のサッカーを見て驚いたのが、サッカーI Qの高さであった。テクニックがあるから足元のボールよりも周囲を見渡すことが出来る。そこまではある程度の選手なら到達できようが…

トラは刻々と変わる状況を全て認識している!

それは、今コート上で誰が何処にいるかを全て把握している、という事なのだ。

この能力はどんなに努力しても誰もが身に付く能力ではない。全く天性の才能なのだ。この能力を持つ人間は、サッカーのみならず、バスケットボールやラグビーなどでも稀有の存在となり得る、実に貴重な能力なのである。

その能力をトラは持っている。今日の練習での、ミニゲームでの一番の驚きだった。こんな子が部活レベルのサッカーをしている…

日本代表レベルを知る健太にとって、実に驚きの出来事だったのだ。

スタミナとスピードを付ければ、数年後には間違いなく年代別代表に選ばれるであろう。そうでなくとも、今後数回の試合をスカウトが見に来ていたら、必ず目をつけるであろう。

アンタの子供は、それぐらいのポテンシャルがあるんだ。

「ふーん。プロもどきの永野サンが言うなら、そーなのかもね」

「もどきって…」

「でも、どーかなー。アイツ、多分サッカー自体よりも、サッカーを一緒にやってる仲間が好きなんじゃないかな?」

健太はゴクリと唾を飲み込む。どこまでも深い透察力を示す母親。一体キミは…?


「アタシ? なんでアタシの事? まいっか。うん、アタシ子供ん頃、勉強が嫌いじゃなかったんだよね」

「そうなのか? じゃあ、どうして…」

「どうしてこんな場末で落ちこぼれてんのかって? ケンカ売ってんのか! 親がさ、アタシが小学生の頃に離婚しちゃってさ」

健太の胸がズキュンと痛む。

「そーだよー。親の離婚って子供の心にすっごい傷跡つけんだからねー。そー、そんで、アタシは母親に引き取られて暮らし始めたんだけど。やっぱ、経済力って子供の成長を大きく左右すんだよ。それまで行ってた塾も行けなくなって。母親は一日中仕事に出始めて。夕飯も遅くなって、それも出来合いばっかで。するとさ、親が褒めてくれなくなるんだよね」

「親、が? キミを?」

「そう。専業主婦だった頃はさ、自分に余裕があるんだよ。自分に余裕があるから子供を良く見れる、だから褒めてくれるし叱ってくれるし。でも親が生活で一杯一杯になっちゃうとさ、子供の事なんか見れなくなんだよ」

亜弓の独白に健太は息を飲んで聞き入っている。

「テストでいい点とっても褒めてくれない。学校で悪さしても叱ってくれない。孤独、しかなかったんだ、あの頃のアタシ。」

「孤独、か…」

「そ。それからはテストでいい点取る意味がわかんなくなって勉強しなくなる。家にいても寂しいだけだから意味もなく外に出る。すると同じ様なヤツが居るわけよ。そんでそいつらとつるむ様になる。気がつくと髪の毛まっ茶っ茶、夜も家に帰んなくなる。」

幸い、ウチの克哉は既に大学生。体育会の寮に入っており、その心配はなさそうだ…

「そいえば永野さんって出身どこ? 都内だよね?」

「江東区。門前仲町って知ってる?」

亜弓は驚いた表情で、

「マジ? 門仲? ならさ、『深川のクイーン』って知ってんじゃね? 丁度タメくらいじゃない?」

うわ… これまた懐かしい名前が飛び出してきたものだ…

「ああ、アイツな。同じ中学で同じクラスだったよ」

亜弓は全力で身を乗り出す。近い、顔が近すぎる…

「きゃー、アタシ憧れなんだよねー、警官隊を殴り飛ばして仲間救って〜 今でも面識あるの?」

「さあ。高校出てから地元と全く繋がってないから。今頃どうしてんのかな」

生まれ育った街に、久しく戻っていない。最後に行ったのはいつだったっけ…

「えー、いつか会わせてよー、ねーねー」

急に可愛いキャラになる亜弓にちょっと驚きながら、

「ま、いつか偶然会ったら、な」

懐かしい。何十年前の話だろう。あの時の仲間は今頃どうしているだろうー


「そうそう、それはさておき。だからね、旦那と一緒になって子供出来て。自分の子供だけは絶対寂しい思いさせないって誓ったんだ。だから今でも絶対夕飯はここで食べさせる。学校は絶対サボらせない。テストの点数は全部チェックする。いい点とったらハグしてやる。」

羨ましい。真剣に思った。

「悪い点とったら。復習させる。」

「復讐じゃなくてか?」

「学校に乗り込んで、テメーうちの子に何て点数つけてんだコラってか? な訳ないじゃん!」

その笑顔に、素直に惹かれる。サッカー馬鹿で学生生活を過ごし、職場にも女子が少なかった為、健太はあまり女性を知らなかった。結婚も上司の勧めであったので、女性とデートなんて数えるほどしか経験が無い。

結婚後も仕事が忙しく、女性と付き合う、即ち不倫など皆無だった。

そんな健太が、素直に亜弓は美しい、と思った。

ま、こんなしょぼくれた五十オヤジじゃ真面に相手してくれる筈もないだろう。

高嶺の花。

それでも、いっか。

今日のサッカーといい、彼女といい。この数年で今日、一気に目の鱗が落ちた感が半端ない。

「だからさ。出来たら、アイツらのコーチ、引き受けてくんないかなあ。そんでさ、トラのヤツを思いっきりシゴいて叱ってくんないかなー」

この人の頼み。こんな俺へのお願い。健太はすっかりコーチを引き受ける気持ちになっている。

「顧問の先生が言っていた学校の指導許可? の問題はどうなんだろう」

「大丈夫だって。元Jリーガーで大企業の部長様だよ! 大歓迎さ!」

だから… そうじゃないって…

「頼むよー。そしたらさ、永野サンもここで毎晩夕飯食べていきなよ。あ、酒は金取るよお」

これ程魅力的なオファーは社会人になって初めてだ。

「分かった。学校次第だけど、引き受けるよ」

カウンター越しに亜弓は健太に抱きついて感謝の意を表す。タバコと香水の混じった匂いに不思議な癒しを感じる。女性の匂いを意識したのはいつ以来だろう、健太はそっと目を閉じ暫しの幸福感に身を委ねる。

そして。明日、御徒町に行ってスパイクやトレーニングウェアを買ってこよう。そう決める。


     *     *     *     *     *     *


学校のグランドは毎日使える訳ではなく、精精週に二回だそうだ。他の野球部とかは週三で使えるのだが、

「副校長の許可が下りなくて。それは仕方ないと思いますよ、あの子たちの日頃の行いからすれば。」

相変わらずつっけんどんな態度で一美が吐き捨てる。

「特に松本君とか取り巻きの子達が気に入らない様で。でも少年院行く程なので、副校長の気持ちも仕方ないですよね」

あの最悪の初対面以来、一貫してこの態度だ。健太に対して、部員に対して協力しようとする姿勢ゼロ。毎回の練習をいかに早く終わらせようか、そんな雰囲気に健太も壁壁としている。

「永野さんの指導許可証は今月いっぱいに発行されそうですよ。この件に関しては、「元Jリーガーで玉テクの部長がコーチに来る!」と副校長は大喜びでした。」

若干違うけどな。健太は苦笑いをする。それよりも…

本当に俺はコーチを引き受けていいのだろうか?

健太はこの数日、そればかり考えていた。コーチを引き受けると言うことは、コイツらのサッカー人生の一部を俺が預かる、と言うことだ。俺の一挙手一投足がコイツらの心身に影響を与えるのだ。

こんな公私共に脱落したサラリーマンがコイツらを指導しても良いのだろうか。もし俺が保護者だったら、猛反対する。そんな半端な人間には絶対子供を預けたくない。

「先生、俺さ、部長じゃないんだよ。元部長。今は色々問題を起こして、休職中なんだ…」

一美の知的冷徹メガネがずり落ちる。

「はあ? ど、どういうことですか?」

「それに去年離婚して。一人で自堕落な生活してるんだ、今。それでも俺がコーチを引き受けていいのかな? コイツらの保護者はそれでいいのかな?」

話が、全然違う! 見るからにちょっと怪しい中年男とは思っていたが、まさかこんな没落者!だったとは…

「そ、それは… 本当なんですか、そうなんですか?」

「うん。後から言われたくないんだよ。だからその辺りをさ、コイツらの保護者と話し合ってくれねーかな」

「は、はあ…」


その数日後。健太の元に一美からメールが入る。

『今週末、サッカー部の保護者会が開かれます。御足労ですが来校して頂けませんでしょうか、どうぞよろしくお願いいたします』

健太は深く溜息をつく。

俺は、どうしたいんだ? コーチを引き受けたいのか? どうなんだ…

わからねえ。全然わからねえ。

頭を抱えていると、スマホに電話が着信する。誰だこの番号は? ひょっとして亜弓か、と思い、

「ハイ、永野ですが」

「うわ、マジで永野? 俺、覚えてるかな、西中の高橋だけどー」

「西中の高橋って… え? ケンタ?」

「そーそー、俺とオマエ、ダブル健太! うわー懐かしー おい、元気かよ?」

「俺はアレだけど、お前何してんだよ? まだ門仲か?」

「おうよっ 変わらずインテリアコーディネーターってヤツよ」

「ただの左官屋だろうが」

「ウッセー、それより健太は今何処にいんだよ?」

「蒲田の近く。もう二十年かな」

「おおおー、まだサッカーやってんのか?」

「とっくに引退よ。今はヒラ社員だ」

「そっかー。忙しいのか?」

「いや。相当暇だぞ」

「こっち遊びこねえか、たまには?」

「…そうだな。久しぶりの、門仲か…」

「じゃあ、今夜は? これから来いよ」

「マジかよ…お前、相変わらずだな」


     *     *     *     *     *     *


送られたマップ情報を辿りながら、健太は高橋の事を思い浮かべている。サッカー部で活躍していた健太に対し、高橋健太は所謂当時のツッパリグループに属していて、他校とよく喧嘩沙汰を起こしていた。そして、「深川のクイーン」とも仲良かった筈だ。

飲みながらクイーンの消息でも聞いてみるか、ひょっとしたら消息くらいは知っているかも知れない。なにしろ地元に残る率が異様に高いこの地域なので、又聞きの又聞きくらいであっさり分かるかもしれない。

そんなことを考えているうちに、高橋の指定した『居酒屋 しまだ』に到着する。

外見は今流行の古民家風で、実に深川らしい居酒屋だ。高橋ってこんなセンス良かったっけ、と思いながら暖簾をくぐる。

「へい、っらっしゃい! お一人すか?」

かなり気合の入ったオバさんに挨拶され、若干腰が引ける。カウンターに座っていた中年の男が駆け寄ってくるー

「健太―、久しぶりー、元気だったかあー」

紛れもない、相当オッサン化した高橋健太だ。健太は笑いが止まらなくなり、

「ケンター、元気だったかー」

「ちょ、ちょっと紛らわしい。どっちかにしてよ」

と中年のオバさんが戸惑っているのが更に笑いを掻き立てる。

「それよか。健太、コイツ誰かわかるかー?」

と言って高橋がキッチンで調理している金髪の女性を指差す。

「いや…誰?」

するとその金髪が顔を上げ、

「おい健太。アタシの事、忘れたのかコラ!」

と包丁を健太に向けながらニヤリと笑ったー

まさか…

金髪のポニーテール。背は低くだが細身のスタイルの良さ。鼻梁はスッと通り、切れ長の美しいアーモンド型の瞳。そのクイーンたる美しさは中学生の頃よりも光り輝いている!

高橋を見ると頷いている。そう言えば、この店の名前…

「クイーン、いや、島田、島田光子かあーーー!」

思わず健太は叫んでいた。

「おうよ! 生きてたか、ダブル健太の健太! 出来の良い方の健太!」

それはこっちの台詞だよ、心の中で叫んだつもりが言葉となり口から放たれていたー


「そーかー。そっちの健太は苦労したんだな、いや良く頑張った!」

来客の佳境が過ぎ、カウンターにダブル健太とクイーンがビールジョッキを抱えて並んでいる。なんでも地元の健太がこうやって嘗ての仲間に連絡し、無理矢理店に連れてくるのだという。昔から面倒見の良い男だったな、地元の健太は。

「お金持ちのお嬢か。ま、オマエに合ってなくは無い、かねえ」

「それより、パワハラはマズいだろうが。俺だって今時部下を怒鳴りつけたりしねえぞ」

「バーカ。今時の若いヤツは根性ねーんだよ。なあ、健太」

「ありがとなクイーン。そう言ってくれんのクイーンだけだわ」

「ったりまえよ。あ、勘定はちゃんと払ってけよ」

「大丈夫、ちゃんと金おろしてきたわ」

「しっかし。オマエ、中坊に助けられたって… オマエ割とケンカ強かったじゃねえかよ」

「どんだけ昔の話だよ。今はただの酔っ払いオヤジだっつーの」

「それはオレもだけどな。それより。さっきの話、コーチするかしないかって。どーすんだよ」

「それな。こんなオレがコーチ引き受けていいのかねえ。親は怒り狂うんじゃねえかな…」

クイーンがキッと向き直り、

「それはテメエ次第だろうが。テメエがキッチリガキの面倒見ますって気合入れんなら、親は文句言わねえよ。要は、オマエが覚悟決めたのかってコトだろ。違うか?」

何だろう、この正論。確かクイーンは中卒だった筈だ。なのにどうしてコイツはこんなに簡単に問題を端的に捉え、物事の核心を拾い上げることができるのだろう。

健太は思わず爆笑していた。似ている。クイーンとあゆみは、ソックリだ。

その事をクイーンに話すと、

「よし。今度連れて来い。酒飲ましてやる」

と上機嫌に言い放った。

そして。

覚悟は決めた。

酒の席であるが、覚悟は決めた。

スマホを取り出し、トラにメッセージを送る。

直ぐに既読が付き、返信が来る。

『頼むよ、コーチ』

絵文字もスタンプも無い単純な一文。だがそこにトラの切実な気持ちが入っている事を健太は気付いていた。

生まれ育った町に来て良かった。心底健太は思った。


門前仲町の夜は賑やかに更けていく。


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