しまもようのさかな
万華鏡の奥を切り取ったみたいに鮮やかな、青と白のコントラスト。透明感のある水色に、真っ白な入道雲が浮かんでいる。
夏休みが明けたばかりの九月の教室は、まだ気怠い空気が漂っている。皆、休みボケが抜けないのだろう。その証拠に、あくびがちらほら聞こえる。
原田果奈の通うこの学校は、県内の私立中学にしては珍しく私服通学だった。そのせいもあって、中学一年生の果奈たちは、年よりも幼く見えた。
この私立中学は学校行事に力を入れており、十一月には合唱コンクールが控えていた。どこのクラスも、放課後には合唱コンクールの練習をしている。
「ちょっと、男子ちゃんと歌ってよね」
リーダー役の女子が、怒った声で言う。男子達はそれに全く耳を貸さない。それを見て取った女子が泣き出してしまう。その女子を他の女子達が慰める。男子を睨みつける女子や、罵る女子もいる。
よくある合唱コンクールの光景だ。
「だいたいさー、意味がわかんねえんだよな。合唱コンクールなんてして、誰が喜ぶんだって話だよ」
「本当にそうだよな。人前で歌って、なにが楽しいんだよ」
これは男子の言い分。
「楽しいとかじゃなくて、そういう決まりなんだから」
これは学級委員の女の子。
「喜ぶのはセンコーや親たちだけだろ? みんなで口を揃えてパクパクやって、いい見世物だよな。俺らは動物園の猿じゃないんだぜ」
アンタたちは猿そのものじゃないか、と果奈は心の中で悪態をつく。去年まで小学生だった男子達は乱暴で、とにかくうるさい。果奈は教室の喧噪がいやになり、そっとため息をついた。
だが、ため息の理由はそればかりではなかった。果奈は歌が得意で、合唱コンクールのソロをやることになっている。そこまではいい。問題は、それがアルトのソロだということだ。本当はソプラノのソロが良かったのに、ソプラノのソロは別の子に決まってしまっていた。
クラスで一番可愛い女の子が、合唱コンクールの役を決める際に「私ソプラノのソロがやりたい!」とそうそうに‘宣言’してしまったのだ。クラスの皆はならしょうがないか、といった空気になり、ソプラノのソロは自然にその子ということになってしまった。
とてもじゃないが、果奈が立候補できる空気ではなかった。そのみずきちゃんというクラスで一番可愛い女の子は、明るくて、おしゃべりの上手なクラスの人気者だった。女子からはときどき「ぶりっこ」や「わがまま」といった陰口を叩かれているようだけれど。
それでも決まってしまったものは仕方がない。果奈はアルトのソロに精を出す。低音を響かせるように、大きな声で歌う。
「わあ、果奈ちゃん上手!」
果奈と仲良しのともちゃんが褒めてくれる。果奈は気を良くして、しっかりした声を出して歌った。
合唱コンクールの練習が終わった後、クラスの男子の一人が、果奈にこんなことをいった。
「なんだかシマイサキみたいだな」
「シマイサキ?」
「縞模様の魚で、低い声で歌うんだ」
その日、果奈はボーダーの服を着ていた。でも、だからといって魚に喩える(たとえる)なんてあんまりだ。
「なによ、馬鹿にしてるの?」
果奈が目くじらを立てる。
「馬鹿になんてしてないって。可愛い魚だよ。歌う魚なんだ」
可愛い、といわれて、果奈はドキッとした。可愛いのはシマイサキという魚であって、自分のことではないと慌てて思い直したが。
(倉岡くんだっけ。魚が好きで、男子からは魚博士とか呼ばれている、変わり者の。でも、なんだかうれしいな。私のことを見てくれている人もいるんだな)
教室を出て行く倉岡くんの後ろ姿を見ながら、果奈はこんな風に思った。
家に帰ると、果奈の母親と、果奈の妹である実奈が仲良く遊んでいた。
「おかえり、果奈。ねえ、見て。みーちゃんがこんなに上手く絵を描いたのよ。すごいでしょ」
母親の声は弾んでいる。果奈は‘みーちゃん’の持っている絵をのぞき込んだ。クレヨンで殴り書きに描かれた絵は、お世辞にも上手いとは思えない。親バカだなあ、と果奈は心の中で呟く。母親の方に向き直ると、たたまれていない洗濯物や、床に散乱しているくずゴミが視界に入ってきた。
「あー、もう。またこんなに散らかして。お父さんにまた小言を言われるよ」
「もう、果奈ったら。小姑みたいなことをいって」
あっけらかんと、母親は言う。ケラケラと笑うだけでいっこうに片付けようとしないので、見かねた果奈がゴミの一つに手を伸ばした。
「みーちゃんも手伝うー」
「みーちゃんはいいの。座ってて」
果奈が優しく言うと、みーちゃんは「はーい」とも「ふぁーい」とも聞こえる声を発してちょこんとイスに座った。
‘みーちゃん’こと実奈は五歳で、幼稚園生である。みーちゃんは果奈たち一家のアイドルだった。一挙手一投足が注目され、その言動に家族全員で反応する。
果奈も妹のことは可愛い。明るくて、おしゃまさんで、いるだけで場の空気がぱっと明るくなる。好奇心が旺盛で、喜怒哀楽の表現も豊かだ。自分にはとてもできないな、と思う。
ただ、可愛がりたい、大事にしたいと思う気持ちの一方で、果奈は黒い感情も抱いてしまう。
(お父さんも、お母さんも、いつだってみーちゃんのことばかり。私のことなんてどうもでもいいんだ)
夕飯の食卓でも、話題はみーちゃんのことばかりである。今日はどこどこに遊びに出かけた、今日のおやつは果物だった、だとか、なんとか。
(少しは私の方に話を振ってくれてもいいのに。なんだか私はこの家の子どもじゃないみたい)
もやもやした気持ちを抱えつつも、中学一年生の果奈は、不満を表だって口にすることはできない。なぜかはわからないけれど、口に出したら自分がとても恥ずかしい思いをする気がしていたのだ。
「ごちそうさま」
果奈はそう言って食器を持ち、席を立つ。
家族の楽しそうな談笑の声を聞きながら、果奈は二階の自分の部屋に上がった。
果奈は自分のベッドに寝そべって、しばらくぼうっとしていた。不意に、帰りがけに男子にかけられた言葉を思い出した。シマイサキのことだ。歌う魚について、思いを馳せる。
シマイサキ。歌う、可愛い魚。どんな色の魚なんだろう。縞模様っていうんだから、二色は色が使われているんだよね。私の好きな色だといいなあ。例えば、濁りのない澄んだ海みたいな青。デコレーションされたケーキの上に載っている、真っ赤な苺の色。グラウンドに生えている芝生みたいにまっさらな緑。こんなに派手な色じゃ、すぐに他の魚に見つかっちゃうかな。強い魚なのかな。強い魚なら捕食されることもないよね。そうだ、大きさはどのくらいなんだろう。
シマイサキについての想像を膨らませるうちに、果奈は寝入ってしまった。
果奈の部屋の電気がつけっぱなしであることに気づいた母親が、部屋に入った。
「やれやれ、しょうがない子ねえ」
パジャマにすら着替えずに寝ている我が子に、そっと布団を掛ける。足音を立てないように注意しながら、母親はそっと果奈の部屋を出た。
次の日の放課後も、合唱コンクールの練習があった。果奈はシマイサキを頭に思い浮かべながら、教室中に響きわたるような大きな声でうたを歌った。
その次の練習の日も、その次も、果奈は歌うときにシマイサキをイメージした。
シマイサキ。歌う夢のような、カラフルな魚。軽やかに海を泳ぐ、不思議な生命体。
想像の力は次第にふくらんでいき、果奈は自分がシマイサキそのものになったような錯覚さえ覚えた。
「果奈ちゃんは歌が上手くて良いなあ。私なんて全然で」
みずきちゃんの突然の呟きに、夢中で歌っていた果奈ははっと我に返った。
「そんなことないよ」
他の女子が口々に言う。
「……そう思うなら、もっと練習すればいいじゃない」
そう返してから、果奈はしまった、と口をつぐんだ。きっと反感を買ってしまう。
「……それもそうだよね」
意外なことに、果奈に賛同する女子がいた。
「みずきちゃんは自分からソロをやりたいって言ったんだし」
これは他の女子。
「……」
みずきちゃんは一瞬不服そうな顔をしたが、気を取り直したかのように表情を変えてこう言った。
「そうだよね。ごめん。私もっと練習する」
にっこり微笑んで、この話は沙汰止みになった。
合唱コンクールまで、あと一週間を切った。果奈たちのクラスは相変わらず練習に励んでいた。みずきちゃんは文句こそ言わなかったけれど、熱心に練習をしているようには見えなかった。もどかしい思いを抱きつつも、果奈はなるべくそのことについては考えないようにしていた。
みずきちゃんはみずきちゃん、私は私。私は、自分のやるべきことに集中するだけ。ソプラノのソロがどうなろうと、私には関係ない。果奈はそう思おうとした。
「随分張り切っているのねえ」
自宅でも練習に励む娘を見て、果奈の母親は感心したようすで娘に話しかけた。
「うん、まあね」
果奈は曖昧に返事をする。
「合唱のソロだものね。花形よね」
アルトだけど、という言葉を果奈は飲み込んだ。
「合唱コンクールが上手くいったら、なにかご褒美を用意しなくちゃね。欲しいものはない?」
その言葉に、果奈は目を輝かせた。
「それなら私、水族館に行きたい!」
「水族館? ああ、良いわねえ。みーちゃんも喜ぶと思うし」
「……」
突然妹の名前が出てきて、果奈はがっかりしてしまった。
(結局みーちゃんだけが可愛いんだ。私のことなんて、どうでもいいんだ)
ふてくされた顔にならないように、努めて果奈は笑顔を作る。
「うん、そうだね」
内心では心がズキズキいっていたのに。
合唱コンクール当日。
果奈はボーダーのワンピースを着ていた。
「コンクールなんだから、もっとちゃんとした格好をしなさい」と母親に文句を言われながらも、「絶対に縞模様の服を着る!」と言って譲らなかったのだ。ボーダーではあるが線は細めだったので、なんとかカジュアルな要素は抑えられていた。
母親からは、こうも言われた。
「それにしても、なんで縞模様なの? ふつうボーダーって言わない?」
「……縞模様の魔法だから」
果奈が小さく呟く。
「ん? なんて言ったの?」
「いいでしょ、別に。縞模様って言ったら縞模様なの!」
果奈が強く言う。母親はそんな娘の強情さに呆れてしまったようで、それっきりなにも言わなかった。
果奈のクラスの番がやって来た。
ソロがあるのは、課題曲の「翼をください」の方である。音大出の学年主任が、編曲してソロパートを設けたのだ。
まずは最初。一斉に皆で声を出す。一部声の出ていないところもあったが、まずまずの出だしである。
そして曲の終盤、ソロパート。まずはアルトのソロである。果奈は胸に手を置き、一瞬だけ目をつぶった。シマイサキをイメージする。
縞模様の魚にはいつしか翼が生え、空に昇っていった。カラフルな魚が、果奈の方を見下ろしながら、優雅に微笑する。優しい目をした魚だった。
果奈はそこまで頭の中で想像したところで目を開き、現実に戻った。ソロが上手くいき、やった、と声に出したくなるのを抑える。今は自分の立っているところに集中しなければならない。
果奈がアルトのソロを歌い終えた直後に、ソプラノのソロが始まる。
みずきちゃんのソロは、声は可愛かったがあまり音が出ていなかった。先ほどの果奈のソロと比べると、だいぶ見劣りがした。
最後に皆でラストのフレーズを合唱した。クラスメイトの声が揃った。まずまず上手くいった、と誰もが思った。
表彰式があり、果奈たちのクラスは二位だった。果奈たちのクラスの生徒が、おしゃべりをしながら教室へと戻る。
「残念だったね」
「アルトのソロがすごく良かったよね」
「ただ、ソプラノのソロがね……」
これはひそひそ声だ。
教室に戻ると、みずきちゃんが果奈の方に向かってとことこと歩いてきた。突然こう言ってくる。
「ごめんね。私、もっと真剣に練習しなきゃいけなかったよね。なんだか、果奈ちゃんのうたを聞いたら自分が恥ずかしくなっちゃったんだ」
みずきちゃんがぺこりと頭を下げる。
「そんな、謝らなくていいよ。みずきちゃんだけのせいじゃないよ」
果奈が慌てて手を横に振る。
「そうだよ」
クラスメイトが口々に言う。
「歌っていない男子もいたしね」
リーダー役の女子が言って、喧嘩になりそうになった。教室に入ってきた担任教師がそれを止める。
果奈は思った。
(みずきちゃんは素直だなあ。私だけじゃなくてみんなの前で言うところが、ちょっとずるい気もするけれど。上手くはいえないけれど、ね。私ももう少し素直になってみようかなあ)
そのとき、ちょうど廊下に出ようとしている倉岡くんに目がいった。
「倉岡くん!」
「なに?」
ほとんどしゃべったことのないクラスメイトに声をかけられて、倉岡くんはびっくりしたようすで振り向いた。
「ありがとね。私にシマイサキのことを教えてくれて」
「シマイサキ? 僕そんなこと言ったっけ?」
「覚えてないの?」
倉岡くんは不思議そうな顔をしている。
「まあいいや。とにかくありがとう。倉岡くんの言葉のおかげで私、アルトのソロが好きになれたの」
果奈が倉岡くんに向かって微笑みかける。
(なんだ、原田って笑うと可愛いじゃん)
照れて顔を赤くしている倉岡くんには気づかずに、果奈は教室の中へと戻っていった。倉岡くんは胸の高鳴りを覚えながら、果奈の後ろ姿を見つめていた。
その後、教室で担任教師の話があった。その日はすぐに帰れることになっていた。
下校しようと玄関まで行くと、果奈の母親と実奈が待っていた。
「果奈、かっこよかったわよー」
母親が褒め言葉を口にする。
「かっこよかったー」
みーちゃんも母親の真似をして言う。
「みーちゃんもうたいたい!」
「そっか、みーちゃんも歌いたいかー。今度みんなで歌おうね」
母親が頬をゆるませる。みーちゃんのことが可愛くて仕方がない、というようすだ。果奈はたまらなくなって目を背けた。だが先ほどのみずきちゃんのことを思い出し、意を決して母親に向き直った。
「ねえお母さん、お母さんはみーちゃんのことしか可愛くないの?」
母親が首をかしげる。
「どうしたの? 一体」
「答えてよ。いつもいつも、みーちゃんのことばかり。ホントは私のことなんてどうだっていいんでしょ」
自分でも子どもっぽいなと感じ、果奈は恥ずかしくなってしまった。頬が赤くなっているのがわかる。なんだか、うっすら涙さえ出てきた。
母親はしばらく無言だったが、果奈のようすを見て取り、こう口を開いた。
「果奈がそんなふうに思ってたなんて。ごめんね。お母さん気づいてあげられてなかったね。果奈はしっかりしているから、ちょっと甘えていたところがあったのかも。今度から気をつけるね」
「お母さん!」
果奈は思いがけない返事に戸惑いつつもうれしくなり、母親に抱きついた。
「あらあら。じきに他の生徒も降りてくるわよ。恥ずかしくないの? 大丈夫?」
果奈の背に手を回しながら言う。
「それはちょっと恥ずかしい」
果奈が慌ててぱっと身体を離す。
「今日は果奈の好物をたくさん作るわね。お母さんはりきっちゃうわ」
笑顔で果奈に笑いかける。
その日果奈はいつも一緒に帰っている友達にことわって、母親とみーちゃんと三人で帰った。
母親はみーちゃんとばかり話していたが、寂しくはなかった。果奈は二人のようすをにこやかな表情で見つめていた。
(素直になってみるものだなあ。私ったら、なんだか難しく考えすぎてしまっていたみたい。みずきちゃんにも感謝しなきゃ)
時間は夕暮れ時。遠くに見える山々に、じんわりと照っている太陽が、隠れようとしている。
本当にきれいな夕焼けだ。シマイサキの色はオレンジでもいいな、と果奈は思った。
翌週、果奈たち家族は隣の市の水族館にいた。
「早く、早くー」
みーちゃんが母親の手を引っ張る。
「ゆっくり歩きなさい。転んじゃうでしょ」
果奈と父親は、そんな二人を遠巻きに見ながら笑っていた。
「果奈も行きなさい。見たいものがあるんじゃないのか?」
父親に促され、果奈は母親とみーちゃんのそばに駆け寄った。
「お姉ちゃんも、手ー」
そう言いながらみーちゃんは自分の手を差し出した。手をつなごう、と言うのであろう。
「はいはい」
果奈はみーちゃんの手を取る。小さくて熱っぽい手だ。
(小っちゃい手。みーちゃんはまだ、ほんの子どもなんだ。私はこんな小さな子どもにヤキモチを焼いていたんだな。なんだか馬鹿みたい)
「ねえお母さん、私シマイサキがみたい」
「シマイサキ? ちょっと探してみるわね」
果奈の母親はパンフレットをごそごそと開き、シマイサキの場所を探し始めた。
「すぐそこよ。ほら、あれ」
母親が水槽を指さす。
果奈はわくわくしながら水槽の元に駆け寄った。だが水槽の中の魚を見て、果奈はショックを受けた。
シマイサキはカラフルでもなんでもない、至ってふつうの魚だったのだ。白地に黒の縞模様ではあるが、これではその辺にいる魚とたいして変わらない。丸い目や尖った口など、よく見るとグロテスクですらある。
(想像してたのと全然違う。全く可愛くない。倉岡くんの、嘘つき!)
呆然としている果奈に追い打ちをかけるように、母親が言う。
「シマイサキが見たいなんて、変な子ねえ」
果奈はぎゅっとこぶしを握り、うつむいた。「あっ、ごめん。お母さんまた余計なこと言っちゃったね。ごめんごめん」
母親の言葉に、果奈は慌ててこう返した。
「お母さんは悪くないよ。私がなにか勘違いしていたみたい。違う魚を見に行こうよ。そうだ、私チンアナゴがみたい」
果奈は笑顔で母親に笑いかけた。
「そう?」
母親が心配そうに果奈の顔をのぞきこむ。果奈は表情を気取られないように、ぱっと顔を背けた。
みーちゃんが果奈の顔を心配そうに下から見上げている。
「なんでもないんだよ、みーちゃん」
果奈は小声でそう言った。
果奈は二学期の間中、倉岡くんと口をきかなかった。倉岡くんは、なぜ果奈にそのような態度をとられるのかが、全くわかっていないようだった。