治承・寿永の乱 / 源平の戦い
この話を作ったの、なんと2020年の10月頃。
※注:現在日時は2022/06/11。
……あれか、暇すぎて歴史勉強してたときの産物か?
その時の自分に何を思って作成したのか聞いてみたかった。
■前提情報
平氏と源氏
平氏は平○○という名前の一族。
源氏は源○○という名前の一族。
保元の乱1156年
後白河天皇と崇徳上皇の対立。
平清盛と源義朝側が味方した後白河天皇が勝利。
崇徳上皇は讃岐に島流し。
平治の乱1159年
平清盛と源義朝の対立が激しくなり、起きた戦い。
平清盛が勝利し、源義朝が逃走中に暗殺された。
源氏の勢力が衰えた。
平清盛が全盛期を築く。
倶利伽羅峠の戦い1183年
源頼朝の従兄弟、源義仲が倶利伽羅峠で平維盛・平通盛率いる大軍相手に勝利した。
平宗盛は、安徳天皇や三種の神器を保持しながら都落ちして西国に逃れた。
京に上洛()を果たすものの、上手く治安維持が機能せず、さらに前年の飢饉の影響で義仲軍を養う食糧が不足して、市中で略奪や狼藉が横行する。
天皇不在となってしまった都では安徳天皇に代わる天皇が必要となり、義仲はそれまで自らが奉じてきた北陸宮の即位を強硬に主張し、高倉上皇の皇子のうちの誰かを即位させる存念であった後白河法皇や公卿達の反感を買った。
粟津の戦い1183年
源頼朝の弟「範頼」と異母弟「義経」が頼朝に義仲追討を命じられる。
壊走した義仲は覚悟して自害の場所を求めて粟津の松原に踏み込んだところ、馬の脚が深田に取られて動けなくなり、そこを顔面に矢を射られて討ち死にした。
義仲の妻がかの有名な巴御前である。
一ノ谷の戦い1184年
倶利伽羅峠で敗走した平氏は義仲滅亡に至るまでの間に、体勢を立て直す。
範頼軍と義経軍は二手に分かれて平氏を急襲し、海上へと敗走させた。
この戦いで平氏は多くの有能な武将を失い、後の戦いに大きな影響を及ぼした。
屋島の戦い1185年
一ノ谷の戦いで敗れた平氏は讃岐屋島に陣を構えて内裏を置いた。
義経は後白河法皇に西国への出陣を奏上してその許可を得ると、阿波勝浦へ上陸後、在地武士を味方に引き入れて背後から屋島を急襲し、平氏を追い落とした。
壇之浦の戦い1185年
屋島の戦いの後、瀬戸内海の制海権を失った平氏軍は長門へ撤退する。
元暦2年(1185年)3月24日、関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われた。
序盤は平氏が優勢であったが、やがて劣勢となっていく。
阿波水軍の裏切りもあり、平氏の敗色が濃厚となるに従って平氏の武将は海へ身を投じていき、安徳天皇と二位尼も三種の神器とともに入水した。
この戦いで平氏は滅亡した。
平氏滅亡後、源氏による鎌倉幕府が成立する。