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異世界系における小説設定資料  作者: Twilight
幻想小説を創るための設計図
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ファンタジー脳で考える日本の歴史 三世一身の法・墾田永年私財法・荘園・国司

なんでこれを作ったのかわからないけど、作ったことだけは覚えている……。

非公開のままなのも勿体ないので、とりあえず投下しておきます。


■ 三世一身の法


 奈良時代に「三世一身の法」というものがある。


 口分田(民衆へ一律的に支給された農地)がたりないため、723年に出されたこの法令は、新しく開墾した者には三代、古い池や溝を利用して荒れた大地を回復させた者には一代、その土地を自由に耕作(一時的に自分の土地に)できるとした。


 しかし、返す時期が近づくと耕作されず再び荒れた土地になるため、法令の効果は上がらなかった。


 これをファンタジー的に例えて考えて見る。


 我々がもし“農民”だとして、父親のアルフレッドが家族が満足し得る食料を得るために、木々を伐採し、草や小径木(しょうけいぼく:丸太の直径が14cm未満の木)を刈り払い、火入れをして野を焼き、伐根ばっこん、地面を大雑把に掘り起こす荒起(あらおこし:田んぼを大まかに掘り起こす作業)を行い、そして砕土さいど灌漑かんがいという風に、新しい畑を手に入れるため数年かけて開墾し土地を増やし続けたとする。


 せこせこ働く父の背中を見ながら共に開墾した、息子のブラボーたる我々は元々あった土地の三倍まで増やすことに成功し、平均寿命が40~50代そこそこの時代で農民の中では中の中程度には懐が温まった。


 この時、アルフレッドが開墾してから30年程度の時間が経過しており、ブラボーの息子チャーリーが成人を迎え、子どもを産んだ。


 アルフレッドからブラボー、チャーリー、そして赤ん坊と数えていくと四代目になるため、「三世一身の法」により、30年続いた富の象徴であったアルフレッドの畑は期限が到来したことにより、国に収めることになる。


 ここでブラボーは考えた。

 自分たちが汗水たらして開墾した畑が奪われてしまうのであれば、誰だって三世代に到達する前に田畑を維持したり、増やそうとは思わない。


 そうだ! 期限が切れるよりも前にこれ以上開墾した畑に割く時間を減らし、元々あった畑の維持をしながら内職をしよう、と――。


 その結果、返還時期が近づくと怠けた農民によって耕作されずに荒れ地だけが残り、一時的にしか効果は続かなかった。




■ 墾田永年私財法


 その後、この結果を受けて、743年に「墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほう」という田畑を拡大するために、新たに開墾した土地の私有を認めた法令が出された。

 五感が良くて大体みんな一度は聞いたことがある言葉であろう。


 何より「三世一身の法」を改良したのが、この墾田永年私財法だと言える。


 この法の凄い所は努力した分だけ自分の土地として永年、つまり財産としてずっと所有し続ける事を認めたということだ。


 それだけではない。

 「公地公民」という律令制を支える基盤である、「全ての土地と人民は公――すなわち天皇に帰属する」とした制度を真っ向から覆す性格を持っていたのである。


 当時の天皇や貴族は焦りながらも、何とか律令体制を立て直そうとしていた姿が目に浮かぶが、その結果、頭が回る一部の有力な貴族や寺社、地方豪族などは自らの資力(資本)を巧みに利用し、農民を使う事で大規模な私有地を増やすことに成功した。


 同時に大貴族や大寺院と呼ばれる者達は広大な土地を囲い込み、一般の農民や浮浪人(戸籍・計帳に登録されている土地から離れる)を使役して私有地を広げた。

 ちなみに、この時の“浮浪人”が現在における「浪人」の語源とされている。

 

 この時の大規模な私有地を「初期荘園」と呼ぶ。

 これは輸租田ゆそでんという税を払わなければいけない土地であったため、土地を増やしても、租(いわゆる年貢として納められる税金としての米)を納めねばならず、律令支配体制(土地と人民は王の支配に服属するという理念)からは抜け出せていないためであった。


 この形における私有地はのちの荘園の原型となった。




■ 荘園


 「荘園しょうえん」とは、墾田永年私財法により有力な貴族や寺社が土地を増やすことに成功し、所有するようになった私有地の事である。


 この言葉の由来は、大規模な私有土地を経営するため、現地に管理事務所や倉庫が置かれたがこれを「荘」と称した。そして「荘」の管理区域を「荘園」と呼称したとされている。

 元来は中国での呼称だったのが、日本へともたらされたのである。


 しかし、初期荘園を所有するのも意外と大変であった。


 当時の大規模な私有地は所有者が直接管理していたため、国に収める輸租田(租庸調の租とほぼ同義)によって人的にも経済的にも負担が大きかった。


 それにより、初期荘園は10世紀(平安時代中ごろ)までに衰退した。




■ 不輸の権


 9世紀終わり頃、荘園領主の中で中央政府と関係を築き、不輸ふゆの権(律令制で、田地に課した税の免除)を認めさせるものが現れた。


 これにより、太政官だいじょうかん(中務省、式部省、民部省、治部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省の八省を統括する最高機関)と民部省みんぶしょう(今でいう税務と戸籍を管理している部署)が発する符により不輸が認められた荘園を「官省符荘かんしょうふしょう」という。


 太政官符だいじょうかんぷ(太政官から八省・諸国に命令を下した公文書)と民部省符みんぶしょうふ(多くは太政官の指令にもとづいて発せられた文書)を得て、所有及び不輸の権を認められた荘園のことなので、官省符荘である。


 簡単に言えば、宰相から各大臣に命令を下す文書が「太政官符」なのに対し、財務大臣から官省符荘を認める公的文書が「民部省符」である。


 官省符荘の登場と同時期、金持ちが浮浪人や一般の農民を囲い込んだり、「偽籍」という男性に課される税から逃れるための行為など、個別に管理していた戸籍が意味を持たなくなり、*班田収授法による租税制度がほぼ崩壊する事となった。


 ※班田収授法はんでんしゅうじゅのほうとは、六年ごとに行われる戸籍作成に合わせて、6年に1度班田収授という農地の支給・収公を行った。農地の支給は口分田と呼ばれる田んぼを与える事であり、収公とは死亡者の田んぼを国が回収する事である。

 六年に一度なのは、当時の六歳未満の死亡率が極めて高く、班田(六年一班というサイクル)した口分田を次の班田時に収公し、新たな班田に回すという業務の複雑化を分けると共に、その世代に十分に供給する土地がないためと考えられている。


 ちなみに、当時のとある地域における戸籍の男女比は「1:6」にものぼっていた。

 それだけ重税されていたために、土地から逃げたり性別を偽っていたのだろう。




■ 班田収授の崩壊と国司の変化


 人民一人ひとりを租税収取の基礎単位としていたが、班田収授が機能しなくなったことによって、人民支配が存続できなくなっていった。


 これを例えるなら、渋谷のスクランブル交差点で人の数を数取器カウンター片手に把握する、みたいな感じである。

 勿論、行き来する人の群れを正確に把握する事など不可能であるが、班田収授も人がいなくなったり性別が違うなどの理由で機能しなくなっていった。


 律令制は王土王民という「王だけが君臨し、王の前では誰もが平等である」という一君万民思想を理念としているため、ある種の平等とも言える時代であった。

 勿論、取り締まる力を持つ側と持たざる側が存在する以上、権力者と弱者という縮図は事実上存在していたため、ただの理想でしかなかった。


 管理する側であった国司という役職も、複雑な手順を踏む班田収授の仕事から朝廷に定められた税を納入するだけの仕事へと切り替わっていった。


 この国司こくしとは、中央から派遣された貴族(中央貴族)が班田収授制における、戸籍の作成、田地の班給、租庸調の収取など律令制の理念を全うする職務を任されていた重要な役職である。

 

 そして、国郡里制における行政区画は国司・郡司ぐんし里長りちょうの三つに分けられており、

 50戸で1里、

 2里(100戸)~20里(1000戸)で郡、

 数郡で国という規模感で成り立っていた。

 つまり国司とは、農民たちの代表である村長(里長)を束ねる地方豪族(郡司)から、税を取りに来た官僚(国司)という形である。


 荘園が登場したことによって班田収授による租税制度が崩壊した事から、租税を国に納入させる国司請負という仕事へとは移行し始めた。




■ 延喜の荘園整理令


 醍醐だいご天皇の延喜2年(902年)に太政官符として発布された「延喜えんぎの荘園整理令」がある。


 この荘園整理令では、醍醐天皇が即位した寛平かんぴょう9年(897年)以降に開かれた勅旨田ちょくしでんの廃止、地方民が権門や寺社に田畑や舎宅を寄進きしんすることの禁止、権門や寺社が未開の山野を不法に占拠することの禁止などが挙げられている。


・勅旨田の廃止は、天皇の命令により開発された土地の新設禁止を意味し、勅旨田を増やすことによって経済を補おうとしていたのに、農民を駆使して公費や公水を利用するなど却って社会・経済の混乱要因になってしまったため。


・寄進の禁止は、荘園の増大は有力貴族や彼らに保護された寺社などに莫大な収入をもたらす一方、国司等による税の徴収が不可能になってしまうので、荘園の新規設置を取り締まるために禁止された。


・山野の不法占拠禁止は、公地であった土地を貴族や寺社が勝手に占拠していたので、開墾した土地は認めても山という規模の土地は認めなかった。


 また、土地所有者には相伝された公験(証明書の一種)の保持を義務付けるとともに、本来賦役令によって租税・課役の免除申請の権利を有していた国司が、土地所有者からの立荘の申請を受け付けることとなった。

 そのため、この法令は違法な荘園を整理するとともに、国衙こくが(国司の役所)による国内の土地への管理権限を強化する側面もあった。


 これ以降、班田は行われなくなり、税は荘園や公領こうりょう(=国衙領)などの土地に対して課されるようになった。

 律令制の基本とされる「公地公民」が成り立たなくなり、律令制度は崩壊した。



◆引用文献◆


https://ja.wikipedia.org/wiki/荘園_(日本)

https://ja.wikipedia.org/wiki/律令制

https://ja.wikipedia.org/wiki/班田収授



平安時代についてわかりやすく【6】荘園公領制と武士の関係、課税対象の変化

https://nihonshi-yururi.com/nihonshi/heian05


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