貴族の爵位
※追記:2020/10/14 騎士爵より下に【辺境伯】【パラディン】【宮中伯】【方伯】【城伯】について追記しました。
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どうも、皆さん。
今回は貴族の爵位について話していこうと思います。
貴族と言われても、現代の日本では存在しませんので馴染みがありませんよね?
おそらく歴史で習ったことがあるのは、華族や豪族、大名などの言葉ではないでしょうか。
世界史であれば、騎士や王族について学んだかもしれませんが、やはり貴族はあまり聞き覚えがありません。
まあ、これを読んでいる方はファンタジー小説においてよく目にする方々だと思うんですが(笑)
そんな事はさておき、一先ずは爵位について説明しようと思います。
端的に説明すれば、爵位とは「国家が賦与した特権」です。
まあつまり、会社において社長が幹部として指名する感じです。
幹部となったら、それだけで今までの業績が認められたことにもなりますし、会社の事業に携わることが可能になり、新規事業を提案したりなど色々な権限を与えられます。
それと同様に、国家から徐爵(爵位を与えられること)されるとそれだけで褒め称えられるような出来事になります。
また、18世紀19世紀のヨーロッパでは土地を与えられ、子々孫々に土地が引き継がれていきます。
ヨーロッパ大陸での貴族は兄弟全員が爵位を継承できましたが、イギリスは一人だけで、爵位は基本的にその家の長男が引き継ぐ世襲制でした。
原則的に生前に爵位を譲ることはできず、爵位保有者存命中に、自分の意思で次の継承者を決めることはできなかったのです。
ここから邪推すれば、おそらく、家督争いによる毒殺や病死に見せかけた暗殺などが起こっていたりしたのでしょうね……恐ろしや!
話しがズレましたが、では早速イギリス貴族の爵位について本題に入って行きます。
様々な爵位は「君主制」という、一人の支配者が統治する国家形態において現在でも使用されているようです。
例えば、イギリスの連合王国にはありますが、やはり爵位に全盛期ほどの力は無いみたいです。
このように形骸化していたり、君主制を廃止して共和制(君主を持たない政体)に変わったことで貴族制度も共に消滅している事が多く、爵位は単なる高貴な称号へと変化したと捉えていいのではないでしょうか?
君主が存在する国家を君主国、君主が存在しない国家を共和国と言いますが、君主国は通常、支配者の君主号によって、王国では王、大公国では大公、公国では公、首長国ではアミール、帝国では皇帝などと呼ばれています。
単純に君主の地位というか呼称がくっついているだけなので、その国がどの制度なのかは一目瞭然ですね!
そして皆さんが気になっているであろう、爵位の名称について話していきます。
爵位は上位階級から「公爵」「侯爵」「伯爵」「子爵」「男爵」となり、この五つの爵位を五爵もしくは五等爵と呼びます。
大体これを聞くと、「公爵と侯爵って読み方一緒じゃん!」となる方がいると思いますが、これは日本での呼び方なので、しっかりと英語では別の読み方がありますので安心して下さい。
とはいえ、日本のライトノベルでは公爵と侯爵の読みを区別する事が無く、文字媒体なら問題ないのですが、音声の場合はどうすればいいのでしょうかね?
それでは五等爵についての詳しい説明をします。
【公爵】は別名「Duke」と呼ばれます。
女性が公爵の時は女公爵と呼び、「Duchess」、大公は「Archduke/Grand Duke」などと呼ばれます。
何らかの成果を上げた者や公爵以下の爵位持ちが公爵まで「徐爵(爵位を与えられる)」や「陞爵(爵位を上にあげる)」されることはあるにはあります。
しかし、当初の意義から述べると時代が変化している証拠なので、物語に使う方は注意してください。
なぜなら、公爵は王家の分家に当たる、いわゆる親戚が与えられる爵位だったからです。
なぜこのようになったのかというと、時代は遡り、イングランドに貴族制度を最初に築いた王――それは征服王ウィリアム1世(在位:1066年-1087年)です。
彼はもともとフランスのノルマンディー公でしたが、エドワード懺悔王(在位:1042年-1066年)の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就きました(ノルマン・コンクエスト)。
重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれることになりました。
イングランドの公爵(Duke)は、伯爵(Earl)と男爵(Baron)に続いて創設された爵位でした。
1337年にエドワード3世(在位:1327年-1377年)が皇太子エドワード黒太子に「コーンウォール公爵位(Duke of Cornwall)」を与えたのが公爵の最初です。
続いて1351年に同じく、エドワード3世がヘンリー3世(在位:1216年-1272年)の曾孫であるヘンリーに「ランカスター公爵位(Duke of Lancaster)」を与えたことで公爵位が貴族の最上位で、王位に次ぐ称号であることを明確化しました。
その結果、公爵の意味が「王位に次ぐ者」という意味と「貴族位に当たる最上位」という意味の二通りの見方ができました。
【侯爵】は別名「marquess/marquis」と呼ばれます。
女性が侯爵の時は女侯爵と呼び、「Marchioness」と呼ばれます。
日本では公爵と発音が同じことから、俗に字体が似ている「候」から「そうろう-こうしゃく」と呼ばれ、区別されています。
侯爵の「侯」と「候」は字が一本線あるかないかで違いますので、リアルで書く時は気を付けてくださいね。
侯爵は王族以外の人たちに与えられる爵位の最高位で、王家に仕えてきた家臣である家柄が大半でした。
つまり、側近といっても過言ではありません。
侯爵の登場はウィリアム1世の時代と同様に、男爵(baron)、伯爵(earl)、公爵(duke)についで創設された爵位です。
1385年にオックスフォード伯爵ロバート・ド・ヴィアーが「ダブリン侯爵位(Marquess of Dublin)」に叙されたのがその最初の事例です。
一つ注意が必要なのは、侯爵から男爵までの貴族への敬称は家名(姓)ではなく爵位名にLordをつけて「○○卿(Lord ○○)」とされるのが一般的な呼び方です。
反対に公爵は「Duke of ○○」と呼び、物語において呼称を変える工夫をすれば、それだけで雰囲気が変わりますね!
これを読めばわかるでしょうが、爵位名と家名が一致しない事が歴史では普遍的にありました。
例えば、「エドワード・ランページ」という人物が「クリューエル伯爵」という名を王から授かった場合、ランページ卿ではなく、クリューエル卿というのが正しい呼び方になるんですね。
まあ、物語に現実を当て嵌めてもしょうがないですが、見る人が見れば「おっ!」と感じる工夫があってもいいんじゃないでしょうか?
もちろん、ロスチャイルド男爵ロスチャイルド家のように、爵位名と家名が同一である例も少なくはありません。
【伯爵】は別名「EarlもしくはCount」と呼ばれます。
女性が伯爵の時は女伯爵と呼び、「Countess」、同格の辺境伯は「Margrave」と呼ばれます。
ブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』に登場する吸血鬼・ドラキュラ伯爵のおかげで、爵位を知らない人も「伯爵」という名を知ってる人も多いのではないでしょうか。
伯爵は簡単に説明すると地方領主ようなものです。
公爵・侯爵に次ぐ爵位第三の伯爵は、国王より大きな権力を持つ者もいて、より豊かな暮らしをしている者もいたと言われています。
この伯爵という貴族爵位の原形はエドワード懺悔王の代には既に存在しており、エドワード懺悔王はイングランドを四分割して、それぞれを治める豪族にデーン人が使っていた称号"Eorl"を与えていたため、この頃にはまだ位階や称号が曖昧でした。
その後、説明で度々登場していますが、征服王ウィリアム1世によってイングランドが征服され、貴族制度が持ち込まれました。
このウィリアム1世によって最初に制度化された貴族称号が伯爵《Earl》であり、1072年にウィリアム1世の甥にあたるヒューに与えられた「チェスター伯爵(Earl of Chester)」が最初の伯爵です。
伯爵は大陸では"Count"と呼ばれますが、イングランドに導入するにあたってウィリアム1世は、エドワード懺悔王時代の"Eorl"を意識して"Earl"としたと言われています。
ところが伯爵夫人たちには"Earless"ではなく大陸と同じ"Countess"の称号を与えました。これは現在に至るまでこういう表記であり、伯爵だけ夫と妻で称号がバラバラになっています。
EarlとCount――違いが紛らわしいですが、Earlが英国の伯爵に付けられるもの、Countが英国外で読まれるものです。
Earlの存在意義は和製英語ならぬ、イギリス独自の伯爵の呼び方だと覚えていてください。
ちなみに雑学になりますが、ベルガモットで柑橘系の香りをつけた紅茶の「アールグレイ」ってありますよね?
飲んだ人は味がイメージできるでしょうが、飲んだことが無い人も一度くらい耳にした事があるんじゃないでしょうか。
この"Earl Grey" とは「グレイ伯爵」の意であり、1830年代のイギリス首相、第二代グレイ伯チャールズ・グレイに由来すると言われています。
色々とアールグレイ発祥に関する伝承があり、その中にインドや中国で人を助けた礼として紅茶の製法を教わったいうのがあるのですが、グレイ伯はインドにも中国にも赴任したことがなく、当時中国やインドにはベルガモット着香は存在しなかったことなどから、これらは全て事実ではない可能性が高いと言われてるらしいです。
【子爵】は別名「Viscount」と呼ばれます。
女性が子爵の時は女子爵と呼び、「Viscountess」と呼ばれます。
子爵は爵位の中でも最後に生まれたものであり、1440年に第6代ボーモント男爵ジョン・ボーモントに「ボーモント子爵位(Viscount Beaumont)」が与えられたのが最初です。
もともとは地方領主である伯爵の副官のような立場でしたが、のちに伯爵の階級を受け継ぐ嫡男の称号として使われるようになりました。
【男爵】は別名「Baron」と呼ばれます。
女性が男爵の時は女男爵と呼び、「Baroness」と呼ばれます。
イングランドでは13世紀頃までbaronという言葉は、貴族称号ではなく直属受封者(国王から直接に封土を受ける臣下)を意味する言葉でした。
そのため数は非常に多く、13世紀から14世紀にかけて大baronのみを貴族とし、小baronは騎士層として区別するようになりはじめ、baronという言葉も国王から議会招集令状を受けてイングランド議会に出席し、それによって貴族領と認められた所領を所有する貴族を意味するようになっていきました。
さらにヨーロッパ大陸から輸入された公爵(duke)、侯爵(marquess)、子爵(viscount)が貴族領の有無・大小と関わりなく国王勅許状(letters patent)によって与えられる貴族称号として登場すると、baronも所領保有の有無にかかわらず勅許状によって与えられる最下位の貴族称号(「男爵」と訳される性質のもの)へと変化しました。
勅許状による称号としての男爵位(baron)を最初に受けたのは、1387年にキッダーミンスター男爵(Baron of Kidderminster)に叙されたジョン・ド・ビーチャムです。
五等爵以外にも世襲称号として存在し、【准男爵】は「Baronet」、女准男爵は「Baronetess」というものがありました。
特に准男爵は売り買いされた爵位として有名で、准男爵は爵位とは違い「○○准男爵」のような名前は無く、肩書だけ与えられました。
そのため、他の準男爵位と区別する必要がある場合には姓名を付けたり、由来する地名を付けたりして区別しました。
准男爵の由来は、ステュアート朝初期の17世紀初頭、イングランドの王庫は財政破綻の危機に瀕していたことがきっかけです。
16世紀末からの対スペイン戦争の負債が重くのしかかっていた上、王領地の払い下げもほぼ終了していたため、王領地売却による一時金も地代収入も期待できなくなっていました。
この危機を打開するため様々な財政改革案が出され、その一つとして構想されたのが世襲の新位階を販売することでした。
最初に新位階の創設を考案したのは哲学者で下院議員だったフランシス・ベーコンですが、彼の構想は販売ではなく、アイルランド入植を推進するために入植者に与えることを想定したものでした。
このベーコンの構想にヒントを得て新位階を販売すべきことを主張したのが尚古学者で下院議員のロバート・コットンでした。
1611年に「大契約」という財政再建案が議会で否決されると、コットンの提案はほとんど無修正でイングランド王・スコットランド王ジェームズ1世(スコットランド王としてはジェームズ6世)と枢密院に採用されました。
ちなみにこれも雑学ですが、1991年にデニス・サッチャー(首相マーガレット・サッチャーの夫)が妻を支えた功績からサッチャー準男爵位に叙せられましたが、2020年現在、これが臣民への世襲称号として準男爵位の最後の叙任例となっています。
クイズとかで出そうですね(笑)
他にも【騎士爵/士爵】は「Knight」、女士爵は「Dame」という、称号が存在します。
主にヨーロッパのキリスト教国家において勲章の授与に伴い王室または教皇から授与される、中世の騎士階級に由来した栄誉称号です。
特にイギリス(連合王国)の叙勲制度において王室より叙任されるものが有名で、今日でも特定の勲章の授与時に王室から臣民にナイトが授与されることがありますが、これは英国君主としての「血の権利(iure sanguinis)による叙任権(Ius Collationis)」の行使の一例です。
ちなみにオーストラリアは2015年に、ナイトやデイムなどの称号を「時代遅れ」との理由から廃止したそうです(笑)
下記のURLから興味があれば見てください。
https://www.cnn.co.jp/world/35072902.html
これらの違いは准男爵が世襲制なのに対して、士爵は叙任された個人限りであることです。
【辺境伯】はドイツ語で「Markgraf」と呼び、辺境を意味する「Mark=march」と爵位を意味する「graf」を足した言葉で、ドイツ語圏における貴族爵位の一つです。
女性の場合は「Grafin」と呼ばれます。
元来はフランク王国が、国境付近に防備の必要上置いた軍事地区「Mark《マルク」」における辺境地区、辺境伯領の指揮官として設けられた地方長官の名称でした。
異民族と接しているため、他の地方長官よりも広大な領域と大きな権限が与えられていたため、一般の地方長官である伯爵よりも高い地位にある役職とみなされています。
軍司令官の称号がいつしか、神聖ローマ帝国の貴族の階級に進化して定着したとみられますが、経緯は定かではありません。
このグラーフは一般的には伯爵に相当しますが、グラーフの意味するものは幅広く、神聖ローマ帝国における帝国諸侯を意味することもあれば、封土を持たない名誉称号的な伯までをも指す場合があり、複雑な名称です。
方伯、辺境伯、宮中伯などのグラーフは、神聖ローマ帝国の序列で伯爵よりも上の、公爵や侯爵と訳される「フュルスト」に次ぐ扱いのため、後代に増加する諸伯においては、公爵や侯爵などと同様の地位で扱われました。
【Paladin】は「palatine」、そしてラテン語の「palatinus」から派生した語で、中世および初期近代ヨーロッパの多くの国で見られた、一定の高位にある騎士です。
本来パラディンは、古代ローマ皇帝ディオクレティアヌスによって、侍従として、また親衛隊(praetorian guard)と呼ばれる宮殿の護衛兵として作られたのですが、中世初期には意味が変わり、ローマ教皇に仕える高官と、神聖ローマ帝国の「パラティン伯(count palatine)」と呼ばれる高位の貴族になりました。
同種の称号は19世紀のハンガリーや、20世紀の初頭のドイツ帝国、イギリスでも使われた。
パラディンの称号は時代を超えて様々な言語で使われ、異なる綴りが生じました。
パラディンの語源はラテン語で「パラティウム(Palatium)に属するもの」を意味するパラティヌス(palatinus)で、パラティウムはローマの七つの丘の1つであり、オクタヴィアヌスの頃から皇帝の館が置かれていました。
パラティウムにある住まいもパラティヌスと呼ばれましたが、パラティヌスは欧州諸言語で「宮殿」を意味する言葉の語源となり、ここからパラディンは「宮殿の高官」との意味も持つように変遷しました。
ラテン語は中世を通じて筆記において支配的な言語であったため、この語の意味はほとんど変化しなかったが、綴りは言語によって様々に変化があった。
ラテン語のpalatinus(複:palatini)から中期フランス語のpalaisinに、ノルマン王朝とともに英語のpaladinとpaladineが生じた。
中世初期のドイツにおけるパラディンは、王の選挙侯である宮中伯だったため、宮中伯には扶養の基礎となる領地として、プファルツ(独:Pfalz、英:palatinate)が与えられた。
英語の「paladin」は、イタリア語形の「paladino」から近代英語に借用されたものであるが、これは後期中世の「フランスの主題」の論述の大部分は、ルドヴィーコ・アリオストやマッテオ・マリア・ボイアルドといった、イタリア人によってなされたからである。
中世文学の「フランスもの」では、シャルルマーニュの家臣として知られていた十二勇将が、パラディンと呼ばれていたため、この用法に基づいて、現代ファンタジー作品のパラディンは高潔な「聖騎士」を指すようになったと考えられる。
【宮中伯】はドイツ語で「Pfalzgraf」と呼び、宮廷領を意味する「Pfalz」と爵位を意味する「graf」を足した言葉です。
中世ドイツの爵位の一つであり、「ファルツ伯/プファルツ伯」とも呼ばれ、神聖ローマ帝国における「宮廷の書記」という意味があり、今日では「大臣」に相当するものと解釈されています。
宮廷伯、帝領伯、王領伯、王領地伯、地方伯とも訳され、「pfalz」はラテン語のpalatinusに由来し、「宮殿」を意味します。
俗にいうローマ皇帝の側近で、通常は宮廷に10人前後の宮中伯がおり、それぞれ担当する部署において政務を処理していました。
しかし、やがて地方において諸侯が台頭し、帝国が分裂状態になると、皇帝により諸侯を監視、あるいは諸侯の力を抑えるために各地に宮中伯が派遣されますが、そのほとんどが諸侯との争いの中で没落して歴史の闇に消えていきました。
唯一、ライン宮中伯だけは任地のライン地方に土着し、自ら諸侯化することで存続する事に成功したため、「宮中伯」というと固有名詞的にライン宮中伯を指すようになり、その所領は「プファルツ(宮中伯領)」と呼ばれるようになりました。
1356年の「金印勅書」によってライン宮中伯は選帝侯となったため、「プファルツ選帝侯」(「宮中伯領選帝侯」)とも通称されます。
【方伯】はドイツ語で「Landgraf」と呼び、地方を意味する「Land」と「graf」を足した言葉です。
神聖ローマ皇帝直属で公爵とほぼ同格の領主のことを指し、ドイツ爵位で公爵に相当する「Herzog」 と伯爵に相当するグラーフの間の地位にあたります。
なので侯爵に近い地位だと認識して良いでしょう。
多くの場合、神聖ローマ帝国もしくはかつてのその領域にできた諸国家で、「伯爵」の代わりに神聖ローマ皇帝に封建的な義務を直接負っていた者に使用された称号でした。
その支配領域は公爵・司教・宮中伯のような中間の権力の言いなりにならずに、大きく拡大していくと、方伯の意思決定力は公爵のそれに相当する力を所持するようになりました。
そのため、中世後期以降の神聖ローマ帝国では、「方伯」、「辺境伯」、および一部の「宮中伯」は帝国君主の一員であり、事実上、公爵として扱われるようになりました。
低ロタリンギア(ヨーロッパに存在した国)に対して1086年以降使用されたという最初の記録以降、この称号は神聖ローマ帝国の時代を通じて生き延びており、方伯は通常主権を行使できました。
その後、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国の大公が20世紀初頭にテューリンゲン方伯を兼ねたように、貴族の補助的な称号として時々使用されましたが、第一次世界大戦の後には使われなくなり、自然消滅したと考えられます。
神聖ローマ帝国の爵位の固有名詞のため英語に相当する言葉はなく、英語形の「Landgrave」はそのまま方伯と訳されています。
【城伯】はドイツ語で「Burggraf」と呼び、城を意味する「Burg」と「graf」を足した言葉です。
フランク王国崩壊後の神聖ローマ帝国において、城塞 (Burg) の司令官を意味する城伯は有名無実の公職になり、称号のみが帝国の封建諸侯によって世襲され、王室に準ずる地位を表しました。
プロイセン王室(ホーエンツォレルン家)はその官職が形骸化し、ブランデンブルク辺境伯に封じられたのちも、ニュルンベルク城伯の称号を保持し続けました。
ポーランド・リトアニア共和国では城伯は子爵に相当する爵位であり、元老院議員に列せられ、地位としてはあまり高くは無いようです。
皆さんがどのような物語を創るのかは分かりませんが、役に立ってくれたら嬉しいです。
◆引用文献◆
https://ja.wikipedia.org/wiki/爵位
https://ja.wikipedia.org/wiki/カバネ
https://ja.wikipedia.org/wiki/氏姓制度
https://ja.wikipedia.org/wiki/公爵
https://ja.wikipedia.org/wiki/侯爵
https://ja.wikipedia.org/wiki/伯爵
https://ja.wikipedia.org/wiki/子爵
https://ja.wikipedia.org/wiki/男爵
https://ja.wikipedia.org/wiki/アールグレイ
https://ja.wikipedia.org/wiki/准男爵
https://ja.wikipedia.org/wiki/辺境伯
https://ja.wikipedia.org/wiki/パラディン
https://ja.wikipedia.org/wiki/宮中伯
https://ja.wikipedia.org/wiki/方伯
https://ja.wikipedia.org/wiki/城伯
https://ja.wikipedia.org/wiki/グラーフ
【国別】貴族の階級の一覧・序列・色|女性/呼び方/イギリス
https://uranaru.jp/topic/1033362#num_3003435
貴族階級の爵位とは?順位や違いは。日本とイギリス(英国)で比較
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ヨーロッパの貴族の爵位の種類一覧
https://ichiranya.com/society_culture/050-europa_title.php




