永遠の愛を我が君へ
昔あるところに大きな国があった。
お城には臣下と国民から愛される女王が暮らしていた。父王が早くに身罷り、まだ少女と呼べる年で即位したフェリンローネも今年で26となる。
蜂蜜色の美しい髪に、泣きぼくろに、垂れ目。威厳を感じさせない代わりに優しげな雰囲気がフェリンローネから感じられた。
国民を愛し、国民に愛された王。
しかし王として彼女には何かが欠けていた。
優しすぎる王は国をだめにしてしまう。
寝間着姿で今朝家臣の一人に言われたことをフェリンローネは考えていた。その男は父の代から王に仕え、幼い自分の面倒もよくみてくれ――亡き父が生きていれば同じくらいの齢になっていたことだろう――女王になったフェリンローネによく仕えてくれていた人物だった。
「……やはり私は王には向かなかったのですね」
フェリンローネは自分には王になる資質がないことをずっと前から気がついていた。
民を愛し、国を愛している。その民と国を惑わしてしまっている事実がフェリンローネにはとても辛かった。
この国は少しずつ傾いている。このままいけば国が破綻してしまうことは目に見えていた。
ぼんやりと窓際に立っていたフェリンローネだったが、自室の扉をノックする音にハッと表情を引き締める。「はいりなさい」と返事すると一人の青年が入ってきた。
「こんな時間に何か御用ですか?姉上」
寝間着という格好のフェリンローネとは逆にきちんとした身形で現れた青年はレイニートといい、フェリンローネのたったひとりの弟だった。
「よく来ましたね。もっと近くにきなさい」
「はい」
五歳年下の弟はフェリンローネのそばに近寄り、眩しいものを見るように瞳を僅かに細める。
フェリンローネはふっと相好を崩した。
フェリンローネと同じ髪色に切れ長の鋭い瞳。表情をあまり変えない美しい相貌は冷たい印象を与えるが、この男がイメージと違い穏やかな心の持ち主であることをフェリンローネは知っている。
フェリンローネとレイニートは腹違いの姉弟だ。フェリンローネは前国王の最愛とよばれた正妃との間に生まれた姫で、レイニートは側室との間に生まれた王子だった。
母親は違うが幼いころから二人はとても仲が良く、フェリンローネは弟をとても信頼し、レイニートは姉を敬愛している。
「姉上、どうかしたのですか……?」
口を開きかけたレイニートの手を握りフェリンローネは微笑んだ。
「レイニートは大きくなりましたね。昔はあんなに小さかったというのに」
「何ですかいきなり?」
「私はレイニートを愛している。どうかそれを忘れないでいてほしい」
「……姉上」
レイニートもフェリンローネの手を強く握り、何か悟ったようで首を緩く振った。
フェリンローネは逞しく育った弟を抱きしめる。こんな風に弟と触れ合うこと、それどころか二度と向き合うことすらないとをフェリンローネは覚悟しているため離れることを躊躇してしまう。
「……レイニートに全て任せるから」
「やめてください。俺は……」
「全てをレイニートに背負わせてしまうわ。でも分かっているでしょ? 私なんかよりもレイニート、貴方のほうがずっと王になる資質があると」
「姉上」
「私の権限全てをレイニートに委ねます。貴方ならきっと名君となれることでしょう」
「……承りました」
フェリンデルはテーブルの上に置いていた宝剣をレイニートに差し出す。この宝剣は代々王位を継承した者に受け継がれていく由緒正しい宝剣だった。
レイニートはフェリンデルの前に膝をつく。
「……悪いわね、こんなところで」
本来ならばちゃんと式典を開き、皆の前でおこなわなければならない儀式なのだ。それをフェリンローネの寝室で済ませてしまおうとしているため、フェリンデルは申し訳ないと眉を下げて謝罪の言葉を口にする。
しかしレイニートは真摯な瞳でフェリンローネを見つめる。レイニートは誰よりもフェリンローネに認められたいと思っていた。たった一人の姉に。
「いいえ。俺はここで構いません」
「本当に何から何までごめんなさい」
レイニートは差し出された宝剣を受け取り恭しく頭を下げるその姿をフェリンローネは親のような気持ちで見つめる。レイニートならば民を、国を任せられる。
この瞬間からフェリンローネは女王ではなくなった。
「姉上、もちろんこれからも俺の側で助言してくださるんですよね? 国のために……」
「それは出来ないわ。争いの種になることは目に見えている。これはガレッシュと決めたことだけど、明け方に私は城を去る――死んだとみせかけて」
「そんな馬鹿なことをっ! 城を去るだなんて、姉上はいったいどこへ行くおつもりなのですか?」
「……ガレッシュが邸を準備してくれているの。この事実を知るのはほんの一握りの者だけ」
ガレッシュとはフェリンローネの右腕と呼ばれる男だ。冷静沈着な男だが、フェリンローネがこの話を持ちかけた時だけは激昂した。
フェリンローネが王位を退くならば自分も城を離れると言って聞かなかったが、城に残りレイニートの力になってやってほしいと何度も何度も説得を繰り返し、ようやく協力を得られた。
「それでは……グラインツウェール卿には何と言うつもりなのですか?」
「レイニート」
「彼は絶対にそんなことを認めませんよ」
「……ロビリアには何も言わないで行く」
「姉上」
「レイニート、お願いだからロビリアには何も言わないで。いいの、私は死んだことにしてほしい」
グラインツウェール卿ロビリアは王の盾と呼ばれる国王直属の最強と謳われる竜騎士団の長を司る男だ。
ロビリアは女王であるフェリンローネに忠誠を誓っていた。不可能を可能にする奇跡を起こす不死身の男と他国には畏れられ、国では英雄と呼ばれる男。
当のロビリアは数日前から国境の町で起きている暴動を鎮圧するために王都を離れていた。
「お願いだから」
フェリンローネはロビリアに対し臣下としてではなく、もっともっと特別な感情を抱いていた。
二人が初めて出会ったのはフェリンローネが王位を継承した日だった。
フェリンローネの前で膝をつき、頭を下げるロビリア。頭を上げることを許すと黒色の髪の下からのぞく青色の瞳が真っ直ぐフェリンローネを見つめていた。曇りのないそれはまるで青い宝石のよう。
そのあまりにも美しい瞳に飲み込まれ、フェリンローネはしばし呆然としたことを今でも覚えている。
「彼は私から自由にならなければならないわ」
「しかし……」
「グラインツウェール卿のことをお願いします」
「……分かりました」
王として傍にいられないのならば二人は離れるしかない。それが一番良い。
ロビリアはガレッシュ以上に石頭だ。王位を退くなんてロビリアに告げれば、反対はしないだろうがやはり一緒に城を去るというだろう。
彼は王の盾に選ばれた時、【国王】にではなく【フェリンローネ】に生涯の忠誠を誓った。
彼は在るべき場所にいなければならない。
今のフェリンローネでは出来ないが、彼には幸せな未来を与えてあげたいのだ。
「分かりました、姉上。姉上がそう望むのであれば俺は何も言いません」
「情けない姉でごめんね」
「そんなことはありません。姉上は…俺の憧れです。姉上が愛したこの国のこと、あとはレイニートにお任せください」
「ええ、信じているわ。レイニート」
フェリンローネはレイニートをもう一度強く抱き締め、後ろ髪引かれながら部屋を後にするレイニートを見送った。
フェリンローネはレイニートの気配が部屋から離れて行ったのを確認してから、以前よりこっそり準備していたものを鍵付きの棚から取り出す。
フェリンローネが毎晩こっそり縫って作った肩から掛ける鞄だ。小汚い布で作ったそれは、縫い目がガタガタで細かいものは入らないし、とても立派なものとはいえない。
その中に町娘が着るような質素な服を一着詰め込み、僅かな路銀の入った巾着袋も一緒に鞄にしまう。
豪華な家具に高価な宝石。それらを置いていくことに一切未練はない。でもフェリンローネには一つだけ置いていくことが出来ないものがあった。
母親の形見にもらったペンダントだけは城に置いていけない。この城での思い出はこれだけあれば十分だ。
フェリンローネは最初からガレッシュが準備した邸に行くつもりはなかった。
一度、民と同じように町で暮らしてみたいと思っていたのだ。これを機に町で暮らすのも良いのかもしれない。
王都を離れ、どこか遠い田舎町に行って今までの立場では出来なかった――民のために出来ることをやりたい。
深夜の真っ暗な闇の中、城壁を越える人影に誰一人と気がつく者はいなかった。
フェリンローネが城を抜け出した数日後、女王が身罷ったという掲示が各地域であり、瞬く間に国中へと広まった。
民は嘆き悲しんだ。
国の仕切たりにより7日かけて王は弔われる。
国民が城壁の前までやってきてはフェリンローネのために祈る姿を、まだ王都の宿屋にいたフェリンローネは窓から見ていた。城へ向かう人々の中には、見るからに王都の人間ではなく、遠い地からはるばるやってきたと思われる人々の姿もあった。
窓枠に手をかけたまま床に崩れ落ち、フェリンローネは悲しんでいる民に心から謝罪した。
不甲斐ない王で申し訳なかったと――
床にはフェリンローネの瞳から流れ落ちた涙が染みとなって残っていた。
「フェイ!先生がそろそろご飯の時間だっていってたよ」
「わかった。あとこの分だけやっちゃうわね」
「おいらも手伝うよ」
「ありがとう、リューイ。じゃあ割った分の薪を運んでくれる?」
はぁと手のひらに息を吹きかけ、フェリンローネは鉈を持ち直した。
フェリンローネは自分の葬儀が終わり次第すぐに王都を離れた。行く先は国でもっとも貧困な北の地と決めていたので、王都から北の地に向かう団体に混ざってなんとか辿り着くことが出来た。
一年の半分以上が雪に埋もれた辺鄙な土地でフェリンローネは半年以上暮らしていた。
腰につくほど伸ばしていた綺麗な蜜色の髪を今では肩までの長さバッサリ切り揃え、継ぎ接ぎだらけの使い古した服を重ね着している。
あかぎれが出来た指先が痛い。
手入れが行き届いて真っ白だった綺麗な手は豆が出来、ガサガサに荒れていた。今までこんな寒いところで暮らしたことも、力作業をしたこともないフェリンローネは全て手探り状態で生活している。
フェリンローネは孤児院と学校が一緒になっている施設に住み込みで働いていた。
ほんの僅かな給金をもらい、もう一人の老師と子供達に勉強を教え、面倒を見ている。フェリンローネの名を捨て、フェイと名乗り生きていた。
名を捨てて全て断ち切ったと思っていたのに、ふとした時に色鮮やかに思い出す。レイニートやガレッシュ、そしてロビリアのことを。
(レイニートはきっと素晴らしい王になるわ。ガレッシュは勝手に城を抜けて居なくなったことを怒っているかしら――ロビリアは怪我などせずに元気に暮らしていればいいのだけど…)
母の形見を寒さで感覚の残らない手で握り締め、フェリンローネの大切な人達の幸せを祈った。
「フェイどうしたの?疲れたのなら後はおいらがやっとこうか」
そばかすだらけの少年が不安そうな顔でフェリンローネを見つめる。数日前から風邪気味のフェリンローネをリューイは心配のようだ。
しかしフェリンローネはにこっと笑って緩く首を振る。
「平気よ。さっさと終わらせましょう」
「薪割りもだいぶ板についてきたなぁ。最初はあんな下手っぴだったのにさ」
「そう? 薪割り名人のリューイに認められたなら私はもう一人前かしら」
「フェイはまだまだ半人前さ。ま、でも俺が面倒みてやってんだからすぐに一人前になると思うぜ」
「ふふ、ありがとう」
「ところでさ」
リューイの視線がフェリンローネの首に向けられる。リューイという少年は大人にだって物怖じせずに意見をズバズバ言う子なので、こんな風に言い辛そうにするのは珍しい。
「……いつも気にしてるそのペンダント。恋人からもらったのか?」
「ペンダント?あぁ、これ?違うわ……母の形見なの」
「母ちゃんの?」
「ええ。私が子供の頃に亡くなったの」
「そうだったのか、悪いこと聞いたな」
しゅんとするリューイの頭を撫で、フェリンローネは体を傾けて視線を合わせる。もう昔のことだからとフェリンローネが言うとリューイは腰にしがみついてきた。
リューイの両親は流行病で亡くなったと聞いている。寂しい思いをしているだろうことは聞かなくてもフェリンローネには分かった。
抱きしめ返すといつも大人のような口振りのリューイのしがみつく力が増していく。フェリンローネは幼い頃のレイニートとリューイの姿を重ねていた。
「あ、フェイ!リューイもいたっ……大変だよ」
抱きしめあって互いを慰めあっていると、キウと呼ばれる前歯のない少年が雪道を走ってきた。はぁはぁと白い息を吐き、フェリンローネとリューイの腕を掴んで揺する。
「大変だよ!」
キウは顔を真っ赤にし、必死に大変だと叫ぶ。興奮が収まらないキウの様子に、リューイが興味を示し始める。
「何だよキウ」
「すごいんだよ!さっき村長の家の前に大人達がたくさん集まってて、俺聞いちゃったんだけど……」
突風と共にバサバサバサッと木の枝が大きく鳴った。黒い大きな陰が頭上を通り過ぎ、雪が空を舞い落ちる。
「……竜だ」
ずんぐりとした胴体に大きな翼に長い尻尾。一部の選ばれた騎士しか騎乗を許されない獰猛な空の覇者ドラゴン。
現在国で竜に乗ることを認められているのは国王の盾といわれる竜騎士のみだ。今目の前を飛び去っていく竜が、野生の竜である可能性はゼロではないが限りなくゼロに近い。――ということはやはり竜騎士の誰かがやってきたのだろう。
「おー!すげぇ!竜だ」
リューイもキウも瞳を輝かせ、村の方に飛んでいく竜の後ろ姿に飛び上がりながら喜んで見ている。
「竜騎士様が来るって大人達が騒いでたから二人を呼びにきたんだよ」
「それであんなに慌てたんだな……あっ!じゃあ早く村に行こうぜ。竜騎士様が帰っちまう」
「うんっ!フェイも早く行こうよ」
子供達二人はフェリンローネの手を掴んで走り出す。自分は薪割りをしてるからと言ってみるが、リューイもキウも駄目だと足を止めない。
手を引っ張られたまま村まで連れて来られたフェリンローネは、生で竜騎士が見れると喜んでいるリューイとキウの姿に抵抗を諦め、そのまま村長の家に向かった。
村長の家の前にはすでに人垣が出来ている。その向こうに大きな竜の姿も見えていた。
鱗に覆われ蜥蜴に似た巨大な体躯に、蝙蝠のような翼。今は大人しくしているが、そこにいたのは黒竜と呼ばれる一番凶暴な種で、そのうえ賢く捕獲しにくいといわれる竜の姿でフェリンローネの膝が震える。
恐ろしくてではない――元女王のフェリンローネは今まで何度も間近で竜を見たことがある。目の前にいる黒竜自体が希少で、竜騎士の中でもたった一人しか乗り手がいないことを知っていたからだ。
そのたった一人が若くして竜騎士の長となったグラインツウェール卿。つまりフェリンローネが特別な感情を抱いている相手でもあるロビリアだ。
「……うそ」
足が止まり人垣の向こうにいる人物を想像してしまう。あの黒竜を操れるのはロビリアしかいない。
「……ロビリア」
ポツリと呟いた瞬間。そっぽを向いていた黒竜が首だけで振り返り、フェリンローネの姿を真っ直ぐ見据える。
全てを見透かしたような金色の瞳と視線がぶつかった――途端に黒竜が吠える。
突然の咆哮に人垣が戦慄いて揺れ、一本の道が出来上がった。そこを歩いてくる人影が見える。
竜騎士は軍服姿で黒いマントをなびかせ、飛行用の目の下辺りまで隠れる黒い兜をしたまま真っ直ぐフェリンローネの方へ向かって歩いてきた。
フェリンローネの左右を陣取っていたリューイとキウは向かってくる男に圧倒されたのか、慌ててフェリンローネの後ろに隠れる。
隠れたいのはフェリンローネも一緒だったが、もうすぐ間近まで歩み寄ってくる男に視線を奪われ身動き一つとれない。
間違いなくロビリアだ。
何年もロビリアを思い続けてきたフェリンローネには顔が見えなくとも、ロビリアだと分かってしまう。
男は悠然と兜を外した。
黒色の髪を揺らし、青い瞳はフェリンローネしか捉えていない。痛みを堪えるような険しい表情のままロビリアはフェリンローネの前まで来て、そして膝をついた。
雪の積もる地面に兜を置き、一礼してから両手でフェリンローネの手を掴む。
「……ご無事で」
探しましたと言う掠れた声はまるで呻いているようにも聞こえた。ロビリアはフェリンローネの手の甲部分に額を押し付ける。これは竜騎士が王に誓いをたてる時の行為だ。
もとから言葉が少ない寡黙な男だが、言葉が出ないといった感じでずっと下を向いている。
「……お、おい」
「何で、竜騎士様が膝をついたんだ」
「えっ、それって……」
ざわめく村人達にハッとしたフェリンローネがロビリアの手を引っ張って立ち上がらせた。
本来であれば竜騎士は国王のための騎士団で、国王以外に膝をつく必要などない。竜騎士になった瞬間に特別階級となり、例えどんなに貧しい生まれの者だったとしても忠誠を誓った国王の前でしか膝をつく必要がないのだ。
その竜騎士が平民の格好をしたフェリンローネに跪いているのだ。村人達が不思議に思うのも無理はない。
「ロビリア、ここじゃまずいから……ちょっと向こうに」
「御意」
ロビリアが左手をすっと上げると黒竜が再び咆哮を上げ、大きく翼を動かし始める。上下する度に突風が起こり、辺りの雪が舞い上がった。
村人達は突然のことに驚き、四方に散る。ロビリアはフェリンローネの手を引いて黒竜の方に向かって歩き出した。
まさかの展開にフェリンローネは慌てる。
ちょっと村人の目の届かないところに移動してくれるだけで良かったのに、このまま黒竜に乗せられるのはあまり良い展開ではない。
「ロビリアっ、黒竜には乗れない」
「なぜです」
「それは、分かるでしょ」
フェリンローネの視線は四方に散りながら事の成り行きを見守っている村人達に向けられる。
背後に残されたリューイとキウもぽかんとしてフェリンローネとロビリアのやり取りを見ている。
このままフェリンローネが黒竜に乗ったら、村人達はフェリンローネが何者なのか興味を持つ可能性が高い。今でさえ十分興味を持っている可能性は高いが、乗ってしまえばもう何の言い訳もきかない気がする。
「それは聞けません」
「……ロビリアっ」
「私の気持ちも少しは汲んで頂けないでしょうか。ほんの少し王都を……フェリンローネ様の側を離れた間に、フェリンローネ様が不慮の事故で命を落とされたと聞かされた私の気持ちを」
「……ロビリア、お願いだから」
「私はフェリンローネ様に今さっき再び忠誠を誓いました。生涯続く誓いです」
「何で、私なんかにそこまでっ」
フェリンローネは震える声で自分からロビリアに詰め寄る。
「私はロビリアに幸せになってもらいたい。私のことなんて死んだものだと思い、さっさと忘れてしまいなさいっ!これからは自分のために生きて!」
黒竜の羽ばたこうとする翼の動きで巻き起こる風の音により、多少大きな声で話しても村人達には聞こえない。
フェリンローネは語気を強め、ロビリアに半年前に直接言えなかったことを面と向かってようやく言った。
フェリンローネは自分で言っておきながら、己の中で不可思議な矛盾が生じ始めて情けない気持ちにになる。ここまで探しに来てくれたことを嬉しく思い、忘れないでほしいと願ってしまう自分勝手さに。この気持ちだけは絶対に口に出していけないと、キュッと唇を引き結んだ。
「……失礼します」
自分自身に辟易しているフェリンローネをロビリアは突然抱き上げて肩に担ぐ。
まるで米俵でも担ぐような持ち方にフェリンローネは驚いてロビリアの肩にしがみついた。
「ちょっ!ロビリアっ」
「……貴方は酷い方だ。フェリンローネ様を死んだものと思え? 貴方が側に居ないならば私は死んだも同じですよ。例え死んだとしても貴方を忘れることなど絶対にない。フェリンローネ様、私の幸せは貴方と共に在ることです。貴方が側に居ないと私は息の仕方も忘れてしまう」
フェリンローネの命令ならどんなことだって是と言ってきたロビリアが、願いともとれる命令に初めて従わなかった。
呆然としているフェリンローネをそのまま黒竜に乗せる。初めからフェリンローネを連れ去るつもりで来たことは二人乗り用の鞍が黒竜の背に付けられていることで分かった。
フェリンローネを前に乗せ、後ろにロビリアが乗り手綱を握った瞬間に黒竜が飛翔する。力強い翼が空をきる度にスピードは上がり、フェリンローネの体は後ろに倒れそうになるのだが、背後にいるロビリアの逞しい胸板がフェリンローネの体を受け止めてくれるおかげで放り出されることはない。しかし風が強すぎて目を開けていることも出来ずにいた。
「フェリンローネ様、体を低くしていて下さい」
「ロビリア、恐いわっ」
「大丈夫ですから、ルノアは貴方を落としたりしません」
フェリンローネはロビリアの言うとおりに身体を小さく丸め込んで空気の抵抗を小さくする。その上に覆うようにロビリアが身体を重ねた。
すると待ってましたとばかりに黒竜がスピードを上げる。
「ルノア、駄目だ。これ以上スピードを上げるな」
手綱を引いてスピードを上げようとする黒竜をコントロールしている。
黒竜は不満そうに頭を左右に振ったが、ロビリアに従いスピードを落とした。フェリンローネがほんの少しだけ瞳を開いてみると景色が凄いスピードで通り過ぎていく。
いったいどこに連れて行かれるのか――不安になりながらフェリンローネは再び目蓋を閉じた。
フェリンローネとロビリアを乗せた竜が向かった先は、王都とフェリンローネが暮らしていた村の中間にある街で、そこにあるロビリアの別邸だった。
ロビリアが幼い頃に暮らしていた邸で思い入れがあり、今では年に数回しか来れないため、信頼のおける使用人に管理を任せている。好きなように使っていて構わないので、ロビリアがいつ行っても寛げるような空間を保ってていてほしいとお願いしてある。そのためこの別邸は掃除が行き届いており、とても綺麗な状態が保たれていた。
邸に着くなりロビリアはフェリンローネを浴室に連れて行った。空の移動はとても寒く、フェリンローネの身体は氷付けにでもされたみたいに冷たくなっている。
浴槽にはすでに温かい湯が張られていて、フェリンローネはそれに浸かって身体を温めるようロビリアに言われ、大人しく言われた通りに従う。
その間にロビリアは黒竜を休ませるため、敷地内にある大きな倉庫の中に竜を連れて行った。
最初から竜用に作られた倉庫は頑丈に出来ているし、人目も避けることが出来る。竜はとても凶暴ではあるが、一度主と認めると忠義立てる賢い生き物だ。ロビリアが黒竜の後ろ足を撫でて労ってやると黒竜は尻尾をブンと一回振ってロビリアの側を離れていった。
ロビリアが倉庫から邸に戻るとフェリンローネがすでに浴室を出ていて、準備しておいたローブに着替えて玄関先で待っていた。
「ロビリア」
「フェリンローネ様。身体は暖まりましたか?」
フェリンローネは邸に入ってきたロビリアに近寄った。
「ええ、ありがとう」
「食事の準備をすぐにさせますから」
側を離れようとするロビリアの服を掴み、フェリンローネは首を左右に振った。
フェリンローネはそんなことを望んでいない。
「食事はいらないわ。お願いだから私をあの村に帰らせて」
しかしロビリアは頷かない。
じっとフェリンローネを見つめ、ボロボロになっている手を取った。
「傷だらけですね。薬を準備しておきます」
「そうじゃなくて」
「駄目ですよ。フェリンローネ様をここから出すわけには行きません」
「な、なんで?」
「分かりませんか」
フェリンローネの手を握ったままロビリアは唇の端を持ち上げる。
美しい宝石に見えたはずの青い瞳が今は淀んで見えた。
「ずっとここで籠の鳥になってもらいます」
ロビリアはフェリンローネの頬を優しく撫でる。今まで一度だってロビリアにこんな風に触られたことはない。
ロビリアは国王であったフェリンローネの盾となるべくいつも背後に控え、降りかかる災厄から守るために存在している竜騎士の長。
しかし今はもうフェリンローネは王ではない。
「貴女がずっと女王として在れば良かった」
「……ロビリア」
「せめて王としてずっと側にいさせてさえくれれば、……そうすれば私はこんな歪んだ思いを貴女にぶつけずにすんだ」
「何をっ」
ふっと笑みを浮かべ、ロビリアはフェリンローネの髪を強く引っ張った。
痛いと顔を歪めたフェリンローネを見下ろすロビリアの口元は笑っているのに、とても冷めた目をしている。
「フェリンローネ様がいけないのですよ。貴女が亡くなったと聞いた時の私の絶望……レイニート様やガレッシュ様に言われたって私は貴女が死んだだなんて信じられなかった」
さっきは掴んで引っ張ったくせに、次はさも愛おしそうにフェリンローネの頭を撫でる。
一貫性のない扱いはロビリア自体が自分の気持ちをコントロール出来ていないからだろう。
「私はずっと貴女の行方を探していた。一年もの時間がかかってしまったがようやく見つけた」
フェリンローネの手をまるで宝物を扱うように持ち上げ、指先、手の甲、手の平の三カ所に唇を寄せた。
「……愛する人。貴方に永遠の誓いを、我が君」
瞠目するフェリンローネの唇にロビリアはゆっくり口付けをした。
一体どこで間違ってしまったのだろう。
フェリンローネは瞳を閉じてそれを甘受する。初めて触れるロビリアの唇の感触に、泣き叫びたくなった。
この邸は鳥籠。フェリンローネとロビリアの二人を隠す巨大な鳥籠だ。
瞳を閉じるフェリンローネには聞こえていた。巨大な鳥籠にかかる鍵の音が――