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翌日。松はふたたびスポイカの部室を訪れた。
儚那に巻いてもらったバンデージを返す必要もあったし、《他のみんなにも紹介するから、動ける格好の準備もして明日からさっそく来るように》と、彼女から夜のうちに『キズナ』が届いたからだ。キズナというのは、今や老若男女が使うチャットや無料通話ができるスマホアプリで、あのあとすぐにID交換を要求された。
演劇部の方は朝一番で退部届けを出しにいったところ、ちょうど部長がいたが、「そうか。残念だ」と言われただけだった。
「短い間でしたが、ありがとうございました」
それが松の、演劇部員としての最後の言葉になった。
スポーツ棟の二階奥に着き、例によって《SM 同好会》と書かれたドアをノックする。
「はいよ、開いてるぜ」
「どうぞー」
儚那に続いて、優しげな男性の声が聞こえてきた。
「失礼します」
ドアを開けるとポロシャツ姿でプロテインシェーカーを持った儚那が、「おう、カドマツ。来たな」と反対の手を挙げる。
「こんにちは。門野君だね」
彼女の隣では、スポイカのユニフォームと思しきお揃いのポロシャツを着た小柄な男性が、大小様々なテープと向き合っていた。ふわっとした茶髪につぶらな目が印象的で、一部の女子から「可愛い!」と人気が出そうな感じの人だ。
「スポイカへようこそ。AT、アスレティックトレーナーの友岡部路広です。儚那ちゃんと同じ理学部二年だよ。よろしくね」
「あ、よろしくお願いします」
にこやかに伸ばされた手を、松も笑顔で握り返した。良かった。まともな人もいるようだ。
「こらカドマツ。お前今、ミッチーがまともなキャラで良かったって思っただろ」
「そ、そんなことは!」
「ミッチーはあたしより年上だからな。きちんと敬えよ」
「え? そうなんですか?」
「うん。大学の前に二年間、専門学校に通ったから。そこでATの資格を取ったんだ」
「合格率一割のAT試験に、若干二十歳で一発合格だからな。こう見えて凄いんだぞ」
儚那こそ全然敬っていない感じだが、ミッチーこと友岡部路広は楽しそうに笑うだけである。
「儚那ちゃん、こう見えては言いっこなしでしょ。でも門野君、知り合ったばっかりなのに、儚那ちゃんとコミュニケーション取れるんだ? 凄いなあ。さすが、みずからスカウトしてきたお気に入りだね」
コミュニケーションというより一方的に振り回されてるだけなんですが、とはさすがに訂正できない。いや、それ以前に――。
「お気に入りじゃありません」「お気に入りじゃねーよ」
抗議したつもりが、二人でハモってしまった。
「おいカドマツ、真似すんな!」
「た、たまたまじゃないですか!」
ミッチーは、ますますおかしそうな顔をしている。
「だってハカナちゃんが営業用の格好で誰かに声かけるなんて、珍しくない?」
「こいつの台詞じゃねえけど、たまたまだよ。ミスコン以前から、得意の掃除してたから目についたんだ」
「ああ、言ってたね。一号館のガラス扉を掃除してくれてたんでしょう? あそこ、ダンス部とかチア部の子がよく使うから、僕たちも見回ってるんだよ。なんにせよ門野君は、儚那ちゃんのお眼鏡に適ったってわけだね」
お気に入りとかお眼鏡に適ったとか、「営業用」の彼女しか知らなければ素直に喜べたのだが。記憶を二日前に戻したい、と松はなんとも複雑な表情をするしかなかった。
「カドマツ君」
「はい?」
ミッチーが、あらためてこちらに向き直った。にこにこと続ける。
「あ、ごめん。僕もカドマツ君って呼んでいいかな」
「はい、もちろんです」
「ありがとう。カドマツ君は文学部歴史学科の一年生。出身高校は埼玉栄光高校。昨日まで、いや今日までかな、演劇部所属。子どもの頃から演劇をやっていて、長身を活かした得意のダンスで、テト祭の公演にも新人ながらキャスティングされてた、と。ここまでは合ってる?」
「は、はい」
「でも本番直前の稽古で、右足首を捻挫しちゃったんだよね」
「はい」
「演劇部の稽古場はたしか、しっかりしたリノリウムの床だよね。長年舞台経験のある君が、そこで簡単に足を取られるとは思えない。ましてや本番前だから、気が抜けてるってこともなかっただろうし。何かで滑ったとか、アクシデントが発生したのかな?」
「は、はい! あの、ちょっと床が濡れてて」
思わず何度も頷いていた。なんなんだこの人。というか、なんなんだスポイカ。トレーナーという人種は、皆こんな風に情報収集能力や洞察力に優れているのだろうか。
「なるほど。災難だったね」
どうして床が濡れていたのか、ということまではつっこまれなかったが、ミッチーはそこまで見透かしたかのような穏やかな笑顔で、「ちょっと足、診せてもらっていい?」と訊いてきた。そういえばアスレティックトレーナーこそが傷病対応の専門家だと、儚那が言っていたのを思い出す。
「ここに座って。足首から先が出るような感じで、脚を伸ばして深く腰掛けてね」
「はい」
結果、松は昨日と同じベッドに、同じ格好で座ることとなった。
「あれ? 自分でバンデージ巻けるんだ?」
「あ、はい」
今日は自前のスポーツ用バンデージを、儚那に教わった通りに巻いてある。
「う~ん。でも、これ」
「え?」
そのままミッチーは、足を色々な角度から眺めていたが、
「あんまり綺麗な巻き方じゃないね」
と、ずばり指摘してきた。
「す、すいません……」
「巻き方自体は間違ってないけど、なんていうか、かなり大雑把だなあ。とにかく固定する、足首を守るっていう意識が強い感じだね」
「はあ」
そうは言っても、教わった通りにやったんですが。
「巻き方は知ってるものの上手くない、っていう典型的なパターンかな」
優しそうな笑顔ながら、ばっさりとミッチーは切り捨てる。
「ひょっとして誰かに教わったの? だとしたら、その人も相当――」
「しょーがねえなあ、カドマツ! バンデージも巻けねえのかあ!」
なんともわざとらしいタイミングで、儚那の声が割って入った。
「ちょ……!? そもそも俺に教えたのは、はか――」
「駄目だぞお、そんなんじゃ! これからはあたしのアシスタントなんだからな! 精進しろ、精進! はっはっは」
言いながら彼女は、「Go to the bathroom!」 となぜか見事な発音とともに、これまたわざとらしく部室を出ていってしまった。bathroom、すなわちトイレへと逃げたようだ。
「ああ、儚那ちゃんに教わったんだ」
「……はい」
「彼女、テーピングとかは本当に下手だからね。バーベルを担がせれば、おそらく大学一上手いんだけど」
苦笑したミッチーが、するするとバンデージをほどく。
「じゃ、ちょっと巻き直させて」
宣言した彼は昨日の儚那と同じように、「これは痛い? ここは?」と患部をチェックし始めた。
ただし、そこから先が違った。
「じゃあカドマツ君、あんまり力は入れないでいいから足首を曲げておいて。うん、そんな感じ。このあとのこともあるから、今日はテーピングにしようか」
話しながら、先ほど触っていたテープの群れから、一巻きの黄色いものを手に取ってみせる。
「これはアンダーラップテープ。テーピングの下に巻いて、皮膚のかぶれとかを予防するためのものなんだ。じゃ、やってくね」
あとは魔法を見ているようだった。
薄いスポンジ状のアンダーラップテープが、ミッチーの手によってまるで意志があるかのごとく、くるくると巻きついていく。あっという間に黄色く覆われた足に松が驚いていると、「では本番」と今度は普通の白いテープが現れた。
「痛かったら言ってね」
もちろん、痛いの「い」の字も松は発しなかった。スッというテープが伸ばされる音と、ビッという手だけで綺麗に切る音が交互に続く。スッ。ビッ。スッ。ビッ……。
「はい、完成。ちょっと立って確認してみて。きつかったら緩めるから」
「うわあ!」
立ち上がった松の口から、自然と歓声が上がった。それほどミッチーのテーピングは完璧だった。きつすぎず緩すぎず、さっきまでは少し怖かった右足に体重を乗せる動きも、なんの不安もなくできる。しかもテーピングに要した時間は三分もかかっていない。
「凄い! 凄いんですね、ミッチーさん!」
ついあだ名で呼んでしまったことにも気づかず、松は喜びの笑顔で何度も足を動かした。スペースさえあれば、このまま踊り出したいくらいだ。
「はは、ありがとう。これぐらい普通だけどね」
「お、〝巻師〟ミッチーのテクニックを早くも体験したか」
いつの間にか儚那も戻ってきている。
「わりいな、ミッチー。不肖のアシスタントが仕事増やしちまって」
あんたのせいだろ! とつっこむ気にもなれず、松はミッチーと顔を見合わせて苦笑するしかない。なんにせよ、こちらの先輩は儚那と違って頼りになりそうだ。
「ミッチーのテーピングや傷病対応は、いろんなとこから引っ張りだこなんだよ。テト祭んときは、どこにいたんだっけ?」
「運営本部の救護班つき。準備の段階で、AEDのレクチャーもしておいたよ」
「お、さすが。ああそうだ、カドマツにも教えとかねえとな。カドマツ、これ使えるか?」
くっきりした眉を上げた儚那は、ドア脇にぶら下がるオレンジ色のボックスを手に取った。まさにそのAEDだった。
「AEDですよね? なんとなくわかりますけど、正式には教わったことありません」
電気ショックで心臓の鼓動を正常に戻すAEDは、駅やコンビニなどでも数多く見かける。もちろん松も存在は知っているが、使用法のきちんとしたレクチャーは受けたことがなかった。
「そう、AED。自動式対外除細動器。車の免許取るときにも講習してくれるけど、いざというときにしっかり使えないと意味がねえからな。特にあたしたちトレーナーは」
「講習を受けた経験があっても、実際の現場ではパニクっちゃって、適切な処置ができなくなる人も多いんだよ。当然と言えば当然だけど」
ミッチーも頷く。
「だからスポイカでは月に一度くらいのペースでCPR、つまり心配蘇生法と合わせて、自分たちで自主訓練してるんだ。テーピングは巻き直しができるけど、救急救命処置はやり直しがきかないからね。カドマツ君も、まずはここから覚えよう」
「あ、はい!」
アスレティックトレーナーのミッチーが言うと、余計に説得力がある。
「そうですよね。バンデージとかなら、さっきみたいにやり直せますけど」
「なんでそこで、あたしの方を見るんだ。心臓マッサージで肋骨折るぞ、こら」
「……いえ、なんでもないです」
相変わらずとんでもないことを口にしつつ、儚那は「んじゃ、やるか」と近くの棚からもう一つAEDを取り出した。ただし最初のものと違って、ずいぶんと使い込んだ感がある。
「これは練習用のモデル。実際にスイッチを押しても電流は流れないから安心して。自動車学校とか日赤、消防署なんかでの講習も使ってるタイプだよ」
ミッチーがすぐに教えてくれた。この人も儚那に負けず劣らず、相手の考えを読み取る能力に長けている。
「どうせなら、みんなで一斉にやりてえな」
「チャーミーさんは無理じゃない? 今日も忙しいだろうし」
「ああ、まあそうだな。じゃ、残るは――」
すると先輩二人の会話を遮るように、突然元気のいい声が響いた。
「Hi, everyone! Good afternoon!」




