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「なんだと、こら!?」
「いたたたた!」
今度ばかりは実際に、軽く足首を捻られる。
「誰がツンデレだって? この童貞演劇青年が! ラノベの読みすぎか!? エロゲのやりすぎか!?」
「す、すいません! もう言いません! ツンデレなんて言いません!」
「言ってんじゃねーか!」
「ぎゃー!」
勢いよくモーラステープを剥がされ、断末魔めいた悲鳴まで上げる事態になった。かぶれるどころじゃない気がする。
「まったく、これだから童貞演劇掃除男は……」
ぶつぶつ言いながらも、儚那は松の足首をウェットティッシュで素早く拭い、「ちょっと待ってろ」と何かを手にして部屋から出ていった。といっても、一分も経たないうちに戻ってきたのだが。
「軽くアイシングするぞ。自分でもできるように覚えとけ」
「あ、はい」
彼女が持ってきたのは小型の氷嚢だった。廊下の奥にあった大きな冷凍庫は、そのためのものらしい。
「あう」
ひんやりとした感触が心地良く、つい声が出た。
「気持ちいいだろ? どうせドーエンソーは、女に気持ち良くしてもらったことなんてないだろうから、せいぜい味わっとけ」
「どーえんそー?」
「童・演・掃。童貞演劇掃除男の略だ」
「勝手に略さないでください! ていうかその恥ずかしすぎる呼び方、絶対にやめてください!」
外で会ってこんな呼ばれ方をした日には、二度とキャンパス内を歩けなくなってしまうではないか。そもそもなんだ、童貞演劇掃除男って。意味がわからない。
必死に不満の意志を示したが、儚那はそんなもの軽く流して、近くの棚から取り出したバンデージをさっさと巻きつけていく。
「こうして8の字に巻いて、足首ごとしっかり固定するのがポイントだ。フィギュアエイトっていう基本の巻き方で、もちろんテーピングでも使える。よし、こっから先は自分で何回かやってみな」
いつの間にか、さっきと同じように黒い瞳が輝いている。性格的にかなり問題ありの人だが、トレーナー活動が本当に好きなのだという気持ちは物凄く伝わってくる。
「はい」
苦笑とともに頷いた松は、見様見真似でバンデージを重ねていった。
「お、なかなか上手いじゃん。まあスポイカん中じゃ、あたしが一番下手なんだけどな。固定したら十五分ぐらい冷やしとくんだぞ」
コメントを聞いて、さっき彼女が口にしたことを思い出した。
「儚那さんは、本当はトレーニングを教える人なんですよね?」
「ああ。世間じゃトレーナーってひとことで括っちまうけど、それぞれ専門があるんだよ。あたしみたいなフィジカルコーチや、こういう傷病の対応からコンディショニング全般を指導するアスレティックトレーナー、痛めたところを治す鍼灸師や柔道整復師なんかも、日本じゃトレーナーって呼ばれるよな」
「そっか。言われてみれば、そうですね」
「医者が整形外科や内科、小児科みたいに分かれてるようなもんだ」
「へえ」
「ちなみにマッサージ行為をやっていいのは、法律上は医師か、あん摩マッサージ指圧師だけだからな」
「え? そうなんですか?」
トレーナーって聞くとそういう人、つまりマッサージをしたり鍼を打ってくれる人、というイメージを抱く場合の方が多いくらいではないだろうか。
「まあ、どこからどこまでがマッサージかっていう定義自体が曖昧だから、結構問題にもなってるんだけど。ほら、無資格マッサージ師に怪我させられたとかって、裁判が起きたニュースとかあっただろ?」
「ああ、はい」
「ああいうことが起こっちまうんだよ。だからまともなトレーナーほど、自分の専門領域を大切にするんだ。ま、この程度の傷病対応はどんな人間もできて当然だけどな」
「なるほど」
「というわけで、あたしにエロマッサージとか期待しても無駄だぞ、ドーエンソー」
「そんな期待しませんよ!」
最後はしっかりオチをつけてくれたが、儚那の説明はわかりやすかった。それにトレーナーと一口に言っても、様々なスペシャリストが存在するというのは面白い話だ。
「スポイカにも、いろんなトレーナーさんがいるんですか?」
いつしか松は、自分から質問していた。それだけ彼女の説明、そしてスポイカというちょっと変わった部活に、興味を惹かれ始めていたのかもしれない。
「もちろん。フィジカルコーチのあたしと、さっき言ったAT――アスレティックトレーナーな、他には鍼灸師と管理栄養士の四人で活動してる。みんな学生だけど、資格も取得済みだから安心しな。あ、アシスタントを入れると全部で五人か。ちなみに顧問のカンザブローはメンタルトレーナーだ」
「凄いんですね」
素直に感心させられた。名前の通り、スポーツ医科学に関わる多彩なスペシャリストが揃っているようだ。看板に偽りなしといったところか。
「でもって学内の部活や、たまに地域の中学・高校なんかの要望を受けてサポート活動してるってわけだ。残念ながら、演劇部からの依頼は今のところないけど」
だから講堂で「演劇部の依頼はないけど」とか言っていたのか。それにしても本格的な活動っぷりだ。なんだかプロのトレーナー集団みたいで格好いい。
「当たり前だけど、テーピングはATのミッチーが一番上手いんだよ」
「アスレティックトレーナーさん、でしたっけ」
「そう。あたしと同じ二年。で、鍼灸師のチャーミーさんは院生で、管理栄養士のGBはドバイからの留学生だ。日本語ペラペラだけどな」
「へえ」
専門分野だけでなく、学生としてのバックグラウンドもなんとも多彩な面々のようだ。それと顧問のカンザブロー先生とかいう人を含めて、スポーツ医科学サポート活動を――。
「あれ?」
「どした?」
もう一人、言及されていたのを松は思い出した。
「アシスタントの方もいるって、言いませんでした?」
「おう」
「その人は?」
「ん?」
「その人は何年生なんですか? あ、ひょっとして学外の人とかですか?」
「いや、うちの一年だ」
「へえ」
同学年にスポイカのメンバーがいるのか。
「でかい男子でな」
「へえ」
「今は右足首を絶賛捻挫中だから、使い物にならないんだが」
「へえ」
「これをきっかけに、演劇部から移籍させようと思ってる」
「……へえ」
「まだ素人だけど、自分が使った場所を掃除するってとこが気に入ってな」
「……」
「ついでに言えば、童貞だ」
「…………」
「ミスコンのついでに、営業用の格好でたぶらかそうとしたんだけど」
「ちょっと待ってくださいっ!」
両手を突き出した松は、慌てて叫ぶ羽目になった。
「それって、俺じゃないですか!」
「おお、よくわかったな」
しれっと答えながら、儚那はさっきのプロテインのタッパーを取り出している。
「誰でもわかりますよ! ていうか、全然聞いてません、そんなこと!」
「今言ったじゃねえか。ミスコンのついでにスカウトしようとしたって」
「だから今じゃないですか! しかもスカウトじゃなくて、たぶらかそうとした、って言いました!」
「相変わらず細けえことを気にする奴だなあ。だからドーエンソーなんだ。あ、でもこれからは童トレ掃か。いや、掃除はそもそもトレーナーにとって当たり前の仕事だから、ドートレ? なんか脳トレみたいで馬鹿っぽいな。ま、いいか」
「よくありません! それ以前に、なんで俺がスポイカに移籍することが前提になってんですか!」
「なんだ、嫌なのか?」
「え」
嫌っていうわけじゃない……かもしれない。少なくとも、さっき儚那が話してくれたトレーナーの世界の話は興味深かった。いや、この人が目を輝かせて語る内容は正直、凄く楽しそうだった。でも、急にそんなこと言われても。
面を伏せた瞬間、鼻先に柑橘系の香りが飛び込んできた。
「!?」
いつの間にか、タッパーを置いた儚那が間近で顔を覗き込んでいる。
「あ、えっと……」
得意のたぶらかし、もとい営業テクニックかと一瞬思った。しかし彼女の目は真剣だった。黒々とした瞳が、例の強い目力を発している。
「カドマツ」
にっという笑顔が浮かぶ。
ああ、と感じた。
あのときと同じだ。あの、ペットボトルをくれた夜と。
「演劇部、本当に楽しんでるか?」
こちらをいたわるような、弟を心配する姉のような笑みでミス・テト大が訊いてくる。
「自分の居場所だって感じるぐらい、他の何よりもこっちばっかりやってたいって思えるぐらい、演劇部が大好きか?」
「…………」
舞台もダンスも好きだ。何かに一所懸命になることが好きだ。それはやっぱり楽しい。 でも。だけど。けれど。俺は――。
「演劇部は、お前のチームか?」
「俺の……」
自分のチーム。自分の仲間。心からそう言えるだろうか。
カドマツじゃなくて、門野。門野君。足を捻ったとき、「ごめん! あたしのせいかも!」と一人として口にしない集団。
「誰かがお前に、ありがとうってすぐに言ってくれるか? お前が誰かに、ありがとうってすぐ言ってるか?」
誰もいなくなった舞台。一人テープを剥がしてゴミを拾う松に、「ありがとう」と誰かが言ってくれただろうか。そもそも、その姿に誰か気づいていただろうか。自分だってそうだ。みずからに代わってステージに立つ先輩に、「ありがとうございます。頼みます」と言えただろうか。痛くても悔しくても、部の、チームの成功を真っ先に考えていただろうか。
「俺……」
「お前はきっと、いいトレーナーになる」
もう一度、にっという笑みを儚那は浮かべた。真っ黒な瞳に自分が映っている。やっぱり綺麗だ、と場違いな感想が脳裏をよぎる。
「少なくとも、あたしは見てる。見る。お前が掃除してくれた舞台を。お前が大切にしてくれる場所を」
「ありがとうございます」
その言葉が、自然にこぼれた。
そうだった。この人だけだった。ガラス扉の前も、本番後の舞台も。自分に「ありがとう」と言ってくれたのは。何気ないいつも通りの行動を、この人だけは見ていてくれた。見つけてくれた。
「もちろんお前が本当に演劇部を続けたいのなら、あたしは引き下がる。むしろそっちを応援する。スポイカとして、フィジカルコーチとして」
眼鏡の奥で輝く瞳。
「でもさ」
にっとした、黙っていればチャーミングな笑顔。
「一緒にやろうぜ、スポイカ」
ああ。俺の本当のチームは、ここかもしれない。
真っ直ぐな視線を受け止めて、松もまた真っ直ぐに頷いてみせた。
「はい」
「ありがとう!」
三度目の「ありがとう」は今までで一番ストレートな、でもちょっとくすぐったいひとことだった。




