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「よし、着いた。足、気をつけて降りるんだぞ」
「ありがとうございます」
ミス・テト大に連行された場所は、運動部が部室を構える『スポーツ棟』と呼ばれる建物だった。
「うちの部室は二階だ。上りだし、階段も大丈夫だろ」
「はあ」
この人も捻挫した経験があるのだろうか。片足で全体重を受け止める動作になるので、たしかに階段や坂道は下りの方が怖い。
……って、そんなことより。
松は慌てて頭を振った。
「部室、ですか?」
「おう。スポーツ棟に来てもカフェテリアはねえからな」
それくらいはわかる。一年生とはいえ、入学してからもう半年経つのだ。
「あの、そうじゃなくて――」
一体なんの部ですか、と聞こうとしたときには二階の一番奥に到着していた。
「ん? 誰もいねえのか。ああ、そっか。テト祭だしな」
つぶやきながら鍵を取り出した彼女が、スチール製の扉を開く。
「ま、入んな。こう見えて、なかは意外に綺麗なんだ」
こう見えて、と言われても周囲は殺風景なものである。ダンボールが数箱と、廊下の奥にはなぜか、南京錠のかかった業務用冷凍庫らしき物体が置いてあるだけだ。
「ほら、早く入れって」
急かす声が聞こえるが、松は入り口で固まっていた。扉の上についている、部の名前を記したプレート。そこには――。
「SM 同好会?」
SM……エスエム……えすえむ……。いや、まさか。
脳裏に浮かんだのは、目の前の美女が女王様みたいな格好で鞭を持つ姿だった。
「ん? どうした?」
「い、いえ! なんでもありません!」
「誰もいねえんだし、遠慮すんなって。プロテインぐらいご馳走してやるから」
「ど、どうも」
曖昧に答えながら、「お邪魔します」と勇気を出して部屋に足を踏み入れる。自身が暮らすワンルームアパート二部屋分ぐらい、つまり十六畳程度の広さだろうか。
「チョコとバニラと、あとはあたしのスペシャルブレンドもあるけど、どれにする?」
薦められて気がついた。
「……え?」
「なんだ、嫌いか? プロテイン」
「あの……プロテイン、って言いました?」
「おう。日本語にするとタンパク質」
へえ、そうだったのか。タンパク質ってたしか、肉とか魚に含まれてる栄養素だよな。小学校でもらった給食の献立表にも、「筋肉や骨のもと」とか書いてあったっけ。ああ、だからマッチョな人たちはみんなプロテインを飲んで――じゃなくて!
「なんで来客に出すのが、プロテインなんですか!?」
言葉にして思いきりつっこんでしまった。だが目の前のミス・テト大は、逆にきょとんとしている。
「ん? なんかおかしいか?」
無邪気に小首を傾げる姿は、黙ってさえいれば写真で見る以上にチャーミングだ。コンマ数秒、またしても見とれそうになった松だが、気力を振り絞ってなんとか踏みとどまった。
「いやいや、おかしいでしょう! 大体ここ、なんの部室なんですか!? ていうかあなた、桜木儚那さんでしょう? ミス・テト大でしょう? いいんですか、こんなんで!」
後半部分は我ながら意味不明だったが、とにかく必死に言い募る。そうだ。よく考えたら(というかよく考えなくても)おかしい。なんで自分は、じつは男前な性格らしいミス・テト大とともに、活動内容すらわからない部室で二人きりになっているのだ。足を「一緒に治す」とかなんとか言ってくれてはいたが、SMプレイ(?)で足が治るなんて聞いたこともない。……いや、SMプレイに詳しいわけじゃないけど。
「意外と細かいとこにこだわるんだなあ、掃除男は。そんなんじゃもてねえぞ。せっかくタッパもあるんだし、もっとドーンと構えてろって。大丈夫だ、うちは怪しい部活じゃねえし、悪いようにはしないから」
むしろ怪しさ全開である。そして何より。
「掃除男じゃありません。門野松です」
「カドノショー?」
「いんちきくさい見世物みたいな発音しないでください。かどの、しょうです」
またしてもきょとんと可愛らしい顔をするものだから、つい口調が弱くなってしまった。
「ふーん。変わった名前だな」
いや、ハカナっていう名前も結構変わっていると思いますが。
「どんな字を書くんだ?」
「門構えの門に野原の野、しょうは松竹梅の松です」
「おお」
「え?」
「おおー」
またしても、どこかで聞いたような「お」だけの感想を口にしている。
「? なんです?」
「いい名前だなあ」
「ど、どうも」
「いいじゃんいいじゃん! 門松みたいな名前なんだな! めでたいじゃん! よし、今日からお前はカドマツだ! よろしくな、カドマツ!」
「…………」
本当になんなんだ、このがさつでマイペースな美女は。ミス・テト大の桜木儚那がこんなキャラだなんて、学内の人たちは知っているのだろうか。
呆れそうになる一方で、少しだけくすぐったいような気持ちも松は感じていた。
カドマツ。
こう呼ばれたのは久しぶりだ。高校までは仲のいい同級生や演劇部の仲間たちが同じ呼び方をしてくれたし、自身も別に嫌ではなかった。しかしテト大に入って以来、「カドマツ」な自分とはすっかり疎遠になっている。
ほぼ毎日顔を合わせるのは演劇部の人間たちだが、ともに稽古する同級生ですら、いまだに「門野」や「門野君」。かたや松自身も、ときにはプロの劇団のようにすら感じる厳しい部の雰囲気に、正直どこか馴染み切れていないのだった。
けれども目の前の残念美人は、特異なキャラクターで力任せに、かつごく自然に自分との距離を縮めてきた。あっさりと、そして無邪気に「カドマツ」と呼んでくれた。
「まあ、掃除男よりはいいですけど。桜木さん」
思わず苦笑すると、にっという笑顔とともに「おう」と答えが返ってくる。
「あ」
「ん? どした? ハカナ・ブレンドじゃ嫌か? 大丈夫だから飲んでみろって」
「いや、そこじゃないです」
さっそく怪しげなタッパーを手に取る姿に、すかさずつっこんでしまった。なんだか徐々にタイミングが良くなっている気がして、非常に不本意である。
ていうか――。
松が声を出したのは、プロテインのフレーバーではなく、彼女の笑顔に引っかかるものを感じたからだ。「にっ」と表現するしかないような無邪気な笑み。きらきらと輝く目力の強い瞳。
いや。でも、全然違うし……。
眉間にしわを寄せて考えている内容は、しかしすぐに本人が察したようだった。
「ああ、そっか。こないだは普通のあたしだったもんな。カドマツにとっての桜木さんは、この桜木さんか。悪い悪い」
「え?」
普通のあたし? この桜木さん?
「でもこれ、営業用の格好なんだよ。メイクもめんどくせえし」
言うや否や、桜木儚那はサラサラのロングヘアを――むしり取った。
「!?」
「ヅラだよ、ヅラ。暑いんだよなあ、これ」
「せめてウィッグって言ってください! って、そこじゃなくて!」
「おお、ナイスセルフつっこみ」
またしても「おお」を返しながらヅラ、もといウィッグを取り去った彼女は、続けて目のあたりをいじっている。
まさか目まで取れるとか言い出さないだろうな、と驚きのあまり想像力が飛躍する松をよそに、儚那はカラーコンタクトらしきものも外してみせた。代わりに慣れた手つきで、どこからか取り出した黒縁眼鏡をひょいとかける。
「あっ!」
今度こそ松は、大きな声を上げる羽目になった。
眼鏡の奥から放たれる力強い視線。ぼさぼさのショートカット。
「思い出したか、カドマツ? こっちの桜木さんを」
にっとした笑顔を浮かべる彼女は、まぎれもなくあの〝ペットボトルの人〟だった。
「ぺ、ペットボトルの人が桜木儚那さんでミス・テト大でSM同好会!?」
「おい、最後だけなんか間違ってるぞ」
「え?」
「なんだ、そのSM同好会ってのは。たしかにあたしは、ある意味人をいじめるのが専門だけど。だからって、鞭だのローソクだの三角木馬だのは使わないっつーの」
「え?」
「あ。若干一名、鍼を刺すのが好きな人間はうちにいるけどな」
「ええ!?」
「お前さっきから、え、しかリアクションしてねえじゃねーか」
指摘されて松も気づいたが、そもそも「お」しか出てこない人に言われたくない。
「だ、だって部室のプレートにSM同好会って」
「ああ、あれか。Sが一個消えちまったんだよ。本来はSMSだ」
「SMS?」
「言っとくけど、ショートメッセージサービスじゃねえからな。ケータイじゃあるまいし」
またしても考えが読まれてしまった。さっきも思ったが、がさつな残念美女のくせに洞察力のようなものがとても鋭い。
「スポーツ・メディカル・サイエンスだよ」
「スポーツ……なんです?」
英語は苦手ではないが、聞き慣れない単語だった。そしてそれ以上に、儚那の発音がネイティブばりに見事だった。
「スポーツ・メディカル・サイエンス。日本語にするとスポーツ医科学」
「スポーツ医科学……」
ということは、つまり。
「スポーツ関連の怪我を治したり、傷害予防や体力向上のための科学的なトレーニングをしたりっていう学問だ」
「その同好会?」
「そう、その同好会。正式名称はスポーツ医科学サポート同好会。ま、知ってる奴らはみんな略して呼ぶけどな」
本来の姿に戻ったミス・テト大は、そうしてもう一度、にっと笑った。
「スポイカって」




