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スポイカ!  作者: 迎ラミン
第一話 スポイカ
4/31

3

「おお」


 あっ。


「おおー」


 この声。「お」しか言わない、でも綺麗な声。


「ほほお」


 やっと含まれた子音に、松は顔を上げた。まるでデジャヴだ。だが。


 あれ?


 目線の先に立っていたのは彼女、ひそかに〝ペットボトルの人〟と命名した、あの眼鏡女子ではなかった。


「違う?」


 つい口に出てしまった。若い女性なのはたしかだが、目の前の人物は眼鏡などかけておらず、黒髪のショートカットでもない。ぱっちりした目と茶色いロングヘアが印象的な別人、まったくタイプの違う美人だった。モデルばりに姿勢も良く、すっと背筋が伸びている。


「あ」


 はっとした様子で口に手を当てた美人は、慌てたように続けた。


「あの、ありがとうございます」

「え?」

「舞台、お掃除してくださって」

「ああ、いえ」


 綺麗な人だな、と率直な感想を抱きながら松は必死に記憶を探っていた。どこかで見た女性だ。茶色いサラサラヘアに小顔の、女優みたいな美人。ええっと……。


「ミスコン候補者の皆さんも、喜ぶと思います」

「あっ!」


 彼女自身の言葉で思い出した。


「桜木――」

「ハカナさん!」


 松が口にするより早く、ミス・テト大の名前が別の方向から呼ばれた。


「出番は多分一時間後ぐらいになっちゃうんで、ゆっくりしてていいですよ。逆にオープニングからハカナさんが出ると、他がかすんじゃいますし。ははは」


 いかにもイベントプロデューサーといった雰囲気の、正直に言えばちょっとチャラい見た目をした男子生徒が、舞台袖から顔を出している。


「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて、それまで自由にさせてもらいますね」

「どうぞどうぞ。あ、外出ももちろんOKです。十分前までに戻っててくれれば」

「ありがとうございます」


 にっこりと小首を傾げられたプロデューサー男子は、「いえいえ」となんとも締まりのない表情で手を振り去っていった。


「…………」


 自分に向けられたわけではないが、彼女のチャーミングな笑顔には松も見とれてしまっていた。カットソーにキュロットパンツというシンプルな格好も似合っていて、すらりと伸びた生足は、色気というよりも溌剌とした生命力を感じさせる。

 この人が桜木儚那。去年の、つまり今日までのミス・テト大。そういえば次のイベントはミスコンだったから、ここにいるのも当然か。いや、それにしても――。


「綺麗だな」


 ふたたびの感想が、今度は口からこぼれ出る。

「うん?」


 聞こえていたらしく、髪と同じ褐色の瞳がまたこちらに向けられた。


「す、すいません!」と赤面して頭を下げたタイミングで、だが予想外の台詞が飛んできた。

「見た感じ、Ⅰ度の足関節捻挫か」

「え?」


 今度は松が首を傾げる番だった。


「松葉杖もないみたいだし、舞台の裏方はできるぐらいだから、大したことなさそうかな。うん、良かった」

「あの……」

「でも、だからこそちゃんとケアしないと」

「は、はあ」


 どうやら、自分の足首のことを言ってくれているらしい。だが頭の中には、クエスチョンマークが浮かぶばかりである。


 この人、ミス・テト大……だよな?


「演劇部からの依頼は、今までもないしなあ。相談してくれりゃいいのに」

「は?」


 演劇部からの依頼?


「ま、いいや。自分たちが使った場所を掃除するってだけでも、気に入ったよ」

「へ?」

「合格!」


 次の瞬間、松はミス・テト大に両手を握られていた。


「!?」

「ほら、立って」

「いや、あの……!?」


 しかも彼女の顔が、いつの間にか眼前にある。息がかかるほどの距離で見つめてくる茶色い瞳。サラリと頬をくすぐる髪の感触。


 なんだ、これ? 俺、何をして……いや、されてるんだ!?


 ただでさえ混乱していた松の脳細胞は、そのままささやかれた言葉で完全にオーバーヒートする羽目になった。


「いいから立てっつってんだよ! ギャラリーが集まったらうるせえんだから! 怪我人だからって、あたしは優しくしねえぞ」

「はい!?」


 い、今の台詞、この人が言ったんだよな? 


 思わず彼女の顔を二度見した刹那、今度は身体が浮き上がった。


「うわっ!」

「んだよ、かりーな。もっと筋トレしろよな。だから捻挫なんてすんだ。ほら、行くぞ」

 どうやったのかはわからないが、両手を掴んだ彼女が自分を強制的に立ち上がらせたらしい。一体なんなんだ? それに「行く」ってどこに?

「あの……」

「やべえ、女子どもが来ちまった。急ぐぞ。ほら、キリキリ歩け!」


 バシンとお尻を叩かれ、松はわけがわからないまま手を引かれて歩き出した。と、舞台から客席へと降りる階段に足をかけたあたりで、黄色い声が飛んでくる。


「あ、ハカナさんだ!」

「うそ!? あ、ほんとだ! ハカナせんぱーい!」

「ハカナ様~!」


 まるで宝塚のスターである。というかこの人、本当に桜木儚那なのだろうか。双子の妹か何かじゃないのか。

 だが、心配は杞憂に終わった。目の前の乱暴な美女は、やはり本物のミス・テト大だった。少なくとも表向きは。


「こんにちは、皆さん。ミスコンのご準備、お疲れ様です。ちょっとこちらの方が足を捻ってしまわれたらしいので、医務室へご案内してきますね」

「まあ、大変! でもさすがハカナ様、優しい!」

「ほんと! 痛そうだけど、羨ましい!」

「ハカナ先輩、お大事になさってくださいね!」


 いや、大事にして欲しいのは俺なんですが。ていうか、羨ましいなら代わってくれ。


 なんだか頭まで痛くなってきた松だが、「ありがとうございます。それじゃあ皆さん、またのちほど」と何事もなかったように返す桜木儚那によって、勢いのままに裏口から連れ出されてしまった。


「ふう、めんどくせえ。けど、外に出ちまえばこっちのもんだ」

「…………」

「よし、行くぞ。掃除男」

「掃除男?」

「今日も一所懸命、舞台の掃除してただろうが。いいことだけどな」

「はあ」


 名前ぐらい聞いてくれても……としごくもっともな、だが優先順位としては微妙な感想を抱く自分をよそに、すぐそばに留めてあった自転車のワイヤーロックを彼女が手早く外していく。


「よし、乗んな」


 ペパーミントグリーンのフレームが鮮やかなクロスバイクだった。丈夫そうな荷台と足をかけるステップが後部についている。つまり、ここに乗れというわけか。


「あの……」

「大丈夫だ。こう見えて、こいつで箱根(はこね)往復とかもしたことあるし」

「は、箱根!?」

「ああ。気持ちいいぞ」


 都心から外れたテト大キャンパスから箱根までは、百キロくらい離れているんじゃないだろうか。本当に何者なんだ、この人? いや、それ以前にそういう「大丈夫」じゃなくて、いったいどこへ連れていこうというのか。


「ほら、早く乗れって。ミスコンの出番までに、あたしは戻らなきゃなんねえんだから」


 やはり彼女は、正真正銘の桜木儚那らしい。

 呆気に取られたままでいると、整った顔がにっと笑いかけてきた。


「あんたの足首、一緒に治そうぜ」


 一緒に治す?


 けれどもその言葉はなぜか、松の胸にすとんと収まった。「治してやる」でも「治しにいく」でもなく、()()()()()

 無意識のうちに「あ、はい」と頷いた松は、気づいたときにはクロスバイクの荷台にまたがっていた。


「よし、OKだ。遠慮しなくていいから、腹に手ぇ回して掴まってな」

「はい」


 美女に後ろからしがみつくという行為も、なぜか全然気にならなかった。


「おし、行くぞー」


 体重七十キロの自分を乗せていることなどまるで感じないように、謎のミス・テト大はスムーズにペダルを漕ぎ出す。文化祭ならではの露店や人混みが見えかけたが、クロスバイクは校舎裏の空いた道を選び、すぐに加速していく。頬を撫でる風が気持ちいい。


「あっ」

「んー? なんか言ったかあ?」

「あ、いえ! なんでもないです!」


 背中と会話しながら、松は思い出していた。

 夜中のガラス扉前を。制汗剤のような爽やかな香りを。


 風に乗って鼻腔をくすぐるのは、いつかの晩、ペットボトルとともに残されたあの柑橘系の香りだった。

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