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「おお」
あっ。
「おおー」
この声。「お」しか言わない、でも綺麗な声。
「ほほお」
やっと含まれた子音に、松は顔を上げた。まるでデジャヴだ。だが。
あれ?
目線の先に立っていたのは彼女、ひそかに〝ペットボトルの人〟と命名した、あの眼鏡女子ではなかった。
「違う?」
つい口に出てしまった。若い女性なのはたしかだが、目の前の人物は眼鏡などかけておらず、黒髪のショートカットでもない。ぱっちりした目と茶色いロングヘアが印象的な別人、まったくタイプの違う美人だった。モデルばりに姿勢も良く、すっと背筋が伸びている。
「あ」
はっとした様子で口に手を当てた美人は、慌てたように続けた。
「あの、ありがとうございます」
「え?」
「舞台、お掃除してくださって」
「ああ、いえ」
綺麗な人だな、と率直な感想を抱きながら松は必死に記憶を探っていた。どこかで見た女性だ。茶色いサラサラヘアに小顔の、女優みたいな美人。ええっと……。
「ミスコン候補者の皆さんも、喜ぶと思います」
「あっ!」
彼女自身の言葉で思い出した。
「桜木――」
「ハカナさん!」
松が口にするより早く、ミス・テト大の名前が別の方向から呼ばれた。
「出番は多分一時間後ぐらいになっちゃうんで、ゆっくりしてていいですよ。逆にオープニングからハカナさんが出ると、他がかすんじゃいますし。ははは」
いかにもイベントプロデューサーといった雰囲気の、正直に言えばちょっとチャラい見た目をした男子生徒が、舞台袖から顔を出している。
「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて、それまで自由にさせてもらいますね」
「どうぞどうぞ。あ、外出ももちろんOKです。十分前までに戻っててくれれば」
「ありがとうございます」
にっこりと小首を傾げられたプロデューサー男子は、「いえいえ」となんとも締まりのない表情で手を振り去っていった。
「…………」
自分に向けられたわけではないが、彼女のチャーミングな笑顔には松も見とれてしまっていた。カットソーにキュロットパンツというシンプルな格好も似合っていて、すらりと伸びた生足は、色気というよりも溌剌とした生命力を感じさせる。
この人が桜木儚那。去年の、つまり今日までのミス・テト大。そういえば次のイベントはミスコンだったから、ここにいるのも当然か。いや、それにしても――。
「綺麗だな」
ふたたびの感想が、今度は口からこぼれ出る。
「うん?」
聞こえていたらしく、髪と同じ褐色の瞳がまたこちらに向けられた。
「す、すいません!」と赤面して頭を下げたタイミングで、だが予想外の台詞が飛んできた。
「見た感じ、Ⅰ度の足関節捻挫か」
「え?」
今度は松が首を傾げる番だった。
「松葉杖もないみたいだし、舞台の裏方はできるぐらいだから、大したことなさそうかな。うん、良かった」
「あの……」
「でも、だからこそちゃんとケアしないと」
「は、はあ」
どうやら、自分の足首のことを言ってくれているらしい。だが頭の中には、クエスチョンマークが浮かぶばかりである。
この人、ミス・テト大……だよな?
「演劇部からの依頼は、今までもないしなあ。相談してくれりゃいいのに」
「は?」
演劇部からの依頼?
「ま、いいや。自分たちが使った場所を掃除するってだけでも、気に入ったよ」
「へ?」
「合格!」
次の瞬間、松はミス・テト大に両手を握られていた。
「!?」
「ほら、立って」
「いや、あの……!?」
しかも彼女の顔が、いつの間にか眼前にある。息がかかるほどの距離で見つめてくる茶色い瞳。サラリと頬をくすぐる髪の感触。
なんだ、これ? 俺、何をして……いや、されてるんだ!?
ただでさえ混乱していた松の脳細胞は、そのままささやかれた言葉で完全にオーバーヒートする羽目になった。
「いいから立てっつってんだよ! ギャラリーが集まったらうるせえんだから! 怪我人だからって、あたしは優しくしねえぞ」
「はい!?」
い、今の台詞、この人が言ったんだよな?
思わず彼女の顔を二度見した刹那、今度は身体が浮き上がった。
「うわっ!」
「んだよ、かりーな。もっと筋トレしろよな。だから捻挫なんてすんだ。ほら、行くぞ」
どうやったのかはわからないが、両手を掴んだ彼女が自分を強制的に立ち上がらせたらしい。一体なんなんだ? それに「行く」ってどこに?
「あの……」
「やべえ、女子どもが来ちまった。急ぐぞ。ほら、キリキリ歩け!」
バシンとお尻を叩かれ、松はわけがわからないまま手を引かれて歩き出した。と、舞台から客席へと降りる階段に足をかけたあたりで、黄色い声が飛んでくる。
「あ、ハカナさんだ!」
「うそ!? あ、ほんとだ! ハカナせんぱーい!」
「ハカナ様~!」
まるで宝塚のスターである。というかこの人、本当に桜木儚那なのだろうか。双子の妹か何かじゃないのか。
だが、心配は杞憂に終わった。目の前の乱暴な美女は、やはり本物のミス・テト大だった。少なくとも表向きは。
「こんにちは、皆さん。ミスコンのご準備、お疲れ様です。ちょっとこちらの方が足を捻ってしまわれたらしいので、医務室へご案内してきますね」
「まあ、大変! でもさすがハカナ様、優しい!」
「ほんと! 痛そうだけど、羨ましい!」
「ハカナ先輩、お大事になさってくださいね!」
いや、大事にして欲しいのは俺なんですが。ていうか、羨ましいなら代わってくれ。
なんだか頭まで痛くなってきた松だが、「ありがとうございます。それじゃあ皆さん、またのちほど」と何事もなかったように返す桜木儚那によって、勢いのままに裏口から連れ出されてしまった。
「ふう、めんどくせえ。けど、外に出ちまえばこっちのもんだ」
「…………」
「よし、行くぞ。掃除男」
「掃除男?」
「今日も一所懸命、舞台の掃除してただろうが。いいことだけどな」
「はあ」
名前ぐらい聞いてくれても……としごくもっともな、だが優先順位としては微妙な感想を抱く自分をよそに、すぐそばに留めてあった自転車のワイヤーロックを彼女が手早く外していく。
「よし、乗んな」
ペパーミントグリーンのフレームが鮮やかなクロスバイクだった。丈夫そうな荷台と足をかけるステップが後部についている。つまり、ここに乗れというわけか。
「あの……」
「大丈夫だ。こう見えて、こいつで箱根往復とかもしたことあるし」
「は、箱根!?」
「ああ。気持ちいいぞ」
都心から外れたテト大キャンパスから箱根までは、百キロくらい離れているんじゃないだろうか。本当に何者なんだ、この人? いや、それ以前にそういう「大丈夫」じゃなくて、いったいどこへ連れていこうというのか。
「ほら、早く乗れって。ミスコンの出番までに、あたしは戻らなきゃなんねえんだから」
やはり彼女は、正真正銘の桜木儚那らしい。
呆気に取られたままでいると、整った顔がにっと笑いかけてきた。
「あんたの足首、一緒に治そうぜ」
一緒に治す?
けれどもその言葉はなぜか、松の胸にすとんと収まった。「治してやる」でも「治しにいく」でもなく、一緒に治す。
無意識のうちに「あ、はい」と頷いた松は、気づいたときにはクロスバイクの荷台にまたがっていた。
「よし、OKだ。遠慮しなくていいから、腹に手ぇ回して掴まってな」
「はい」
美女に後ろからしがみつくという行為も、なぜか全然気にならなかった。
「おし、行くぞー」
体重七十キロの自分を乗せていることなどまるで感じないように、謎のミス・テト大はスムーズにペダルを漕ぎ出す。文化祭ならではの露店や人混みが見えかけたが、クロスバイクは校舎裏の空いた道を選び、すぐに加速していく。頬を撫でる風が気持ちいい。
「あっ」
「んー? なんか言ったかあ?」
「あ、いえ! なんでもないです!」
背中と会話しながら、松は思い出していた。
夜中のガラス扉前を。制汗剤のような爽やかな香りを。
風に乗って鼻腔をくすぐるのは、いつかの晩、ペットボトルとともに残されたあの柑橘系の香りだった。