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「カドマツ」
「はい」
「疲れたな」
「はい」
「そこにカフェがあるな」
「はい」
「いつぞや約束したよな」
「は……え?」
「フラペチーノ。プロテイン入りを無脂肪乳で」
「なんで!? しかも約束したときと微妙に違うし!」
思わずタメ口になってしまった松だが、なんだかほっとしてもいた。完全にいつもの儚那だ。ヅラ……もとい、ウィッグを外して黒縁眼鏡もかけて、見た目も通常通りに戻っている。というかプロテイン入りのフラペチーノなんて、そんじょそこらのカフェにあるわけがない。
幸いなことに主演女優の先輩はAEDで息を吹き返し、ほどなく到着した救急車によって無事病院へと運ばれていった。公演の方は劇場側から事情が説明され中止となったが、チケットの払い戻しなども大きな混乱なく済んだようだ。そのあたりは、あのやり手の部長がてきぱきと切り盛りしてくれたのだろう。
何はともあれ良かったが、頬をふくらませた儚那はまだ絡んでくる。
「フラペチーノであることに変わりはねえだろ。大体お前、このあたしにピンチを救ってもらっときながら、ただで済ませようってのか。ついでに言うと、プールでおっぱいまで見たくせに」
「え?」
「リアリーですか?」
「まあ! やるわね、カドマツ君!」
一緒に歩く仲間たちが、目を丸くしている。
「嘘です! 大嘘です! 儚那さんも誤解を招くような言い方、やめてください!」
「それが嫌ならカフェいくぞ、カフェ」
やれやれ、と松は観念した。要するに、自分がフラペチーノを飲みたいだけじゃないのか。
「まあでも、たしかに一服したいよね」
「ミートゥーです。サプライズなワークで、ガンバリましたし」
「そうね。あたしも喉、渇いちゃった」
劇場からの帰路、かくしてスポイカ全員で駅前のカフェに入ることとなった。
「カンザブローからもキズナが届いたんだよ。不肖の弟子が、寂しさのあまり泣いて寂しがってるって」
「泣いてませんよ!」
「ふ~ん」
「な、なんですか、その顔は」
誰もいないテーブル席を二つ並べた端、いわゆる「お誕生日席」で、儚那はフラペチーノのカップを握ったままにやにやしている。注文の際、「プロテインの追加とかないっすよね?」と本当に訊き、支払う松が恥ずかしい思いをさせられた代物だ。
「でも実際、儚那ちゃんがいない間のカドマツ君は元気なかったよね」
「イエス。ちょっと、イライラカリカリもしてました」
「あたしたちまで、厳しく質問されちゃったし」
「あれは、その……すいません」
素直に頭を下げるしかなかった。悔しいが、今日までずっと気持ちが穏やかじゃなかったのはたしかだ。それは自覚している。
「で、カンザブローからあたしの過去についていろいろ聞いた、と」
「はい。すいません」
「べつに謝ることじゃねえよ。お前が本気で知りたがったら教えてもかまわないって、あたし本人が伝えといたんだし」
そうだった。結果、何をもって「本気」と判断したのかはわからないが、カンザブロー先生は教えてくれたのだ。
儚那ががトレーナーになったきっかけを。
「桜木さんは高校一年までバレリーナだったんです。それもコンクールで何度も入賞し、将来を嘱望されるほどの。英会話を習っていたのも、いつか海外のコンクールに出るためだったみたいですね」
そしてあの佐久間龍翔は、儚那と同じスタジオ出身のプロダンサーだった。「あと数年経てば、俺のダンスパートナーは儚那で決まりだな」と、妹分の彼女を大層可愛がってもいたという。
「当時の桜木さんは大人しくて控えめな、まさにバレエ教室にいそうなタイプの女の子だったらしいですよ」
「え」
もっとも似つかわしくない形容詞に、松はそのときぽかんとしてしまった。普段通りの本人がいれば、「なんか文句あんのか、こら」とすかさず鋭い声が飛んできただろう。
「ただ、怪我の多いダンサーだったそうです。特に足首が弱かったと言っていました」
あ、と松は思わず自分の右足首を見た。初めて会ったとき、さらにはついこの間も、彼女が気にかけ触れてくれた箇所を。
「トウシューズを履くバレリーナにとって、足首の故障は致命的です。ましてやそれが慢性化して、靭帯の緩んだ捻挫ぐせのある足になってしまっては」
「だからか……」
だから儚那は、松の足首の状態についてやたらと見抜くのが早かったのだ。初めて会ったときから、怪我の程度はもちろんどんな動きで痛むのか、どれくらい治癒しているのかといった点への指摘がことごとく当たっていた。トレーナーだからと思ったが、あの正確さは自身の経験も加味したからこそなのだろう。
そして何度目かの大きな捻挫に見舞われた十六歳のとき、とうとう儚那はトウシューズを脱ぐと決めた。
「ずっと大人しかった女の子が、初めてはっきりと意志表示できた瞬間だった、と本人は言っていました」
「もともとは母親に連れてってもらった教室で、なんとなく始めたものだったんだよ。そしたらたまたま、人よりちょっとできて、褒められることもちょっと多かったから続けてたんだ。家族や龍翔さんも喜んでくれるし。あの頃のあたしは、今以上に純情な乙女だったからな」
ズズズ、とカップの底に残ったフラペチーノをすすりながら、儚那はしれっとのたまった。つっこんだ方がいいだろうか、と思った松だが、三人の先輩たちが目だけで苦笑しているので、とりあえず先を話してもらうことを優先した。といっても、ほぼカンザブロー先生から聞いたままの内容ではあるが。
「でも当時はスポーツ医科学の知識なんてこれっぽっちもないし、ましてやか弱い乙女だろ。なんも考えないでハードなレッスンを重ねるから、怪我しまくっちまった。四回も五回も同じ箇所を捻挫したら、そりゃ靭帯もガタガタのユルユルになるってもんだ。まあダンス業界自体、いまだにそういう面では遅れてるんだが」
またしてもの捻挫をしてしまった高校一年のとき、ついに儚那は医師から最後通告をつきつけられたのだという。「これ以上捻挫を繰り返すと、手術が必要になります。装具の離せない足になってしまう可能性だって出てきますよ」と。
「で、ちょうどいい機会だし、バレエからはきっぱり足を洗ったってわけ」
ヤクザの足抜けか何かのように冗談めかしてはいるが、相当の葛藤や悩みもあっただろうことは想像に難くない。ミッチー、GB、チャーミーさんもそこは承知済みのようで、優しい笑みを浮かべるだけだ。
「バレエを辞めると宣言した桜木さんを、当然ながら周囲は止めたそうです。彼女に目をかけていた佐久間さんは特に熱心で、手術しても元気に踊れてるバレリーナだって沢山いる、自分もいいドクターを紹介するから、とまで言って必死に説得したんだとか」
違う。
カンザブロー先生から聞いた松は、即座に思った。バレリーナとして生きていくのならば、たしかにありかもしれない。手術に見合うだけの類い稀な才能も、儚那にはあったのだろう。でも。
「儚那さんの意志とか、気持ちは?」
それだけじゃない。少女時代の儚那についてはよくわからないし、うまく言葉にすらできない。けれども、もっと根本的なところで違っている気がする。儚那のための、儚那に相応しいアドバイスじゃない。
少なくとも松の知る桜木儚那という女性は、誰かが敷いたレールの上を歩いたり、他人が選んだ選択肢に身を委ねてしまうような姿勢とは、正反対の側を生きる人だ。
「さすがですね、カドマツ君。やはり桜木さんをよくわかっている」
「え」
「何よりも、桜木さん自身が手術のリスクまで取る気はなかった。端的に言えば、足一本賭けるほどバレエがすべて、というわけでもなかったんです。十六歳までずっと自分を抑えて、周囲の期待に応えることを優先してきた女の子はそこで初めて、泣きながら本当の気持ちを両親に伝えたそうです。もう踊りたくない、本当の私はこんな女の子じゃない、本当はスポーツだってやってみたいし、いろんな世界も見てみたい。バレエじゃなくたって、人前に立つようなものじゃなくたって、父さんや母さんが笑って褒めてくれるならなんでも良かったの、と」
「…………」
「彼女の本質がとても優しくて、感受性の鋭い女性だというのも知っているでしょう?」
「はい」
迷わず松は頷いた。にっと笑ってストレートに「ありがとう」と伝えてくれるくせに、こちらが同じようにすると、照れたようにそっぽを向いてしまう人。何も言わないうちから胸の内を読み取って、常に先回りしてくれる人。儚那は、そういう人だ。
「バレエを引退した桜木さんは、あらためて足のリハビリをしようと、スポーツ医科学の勉強を独学で始めたんだそうです。彼女自身が語った通り、スポーツを楽しんで、いろいろな世界を見て、ご両親と素直に笑い合うためにもと」
「それでトレーナーに?」
「はい。身体を動かすこと自体は好きで好奇心旺盛という性格も、ぴったりはまったんでしょうね。私の主催するメンタルトレーニングの勉強会にも、高校時代から参加してくれてました」
「へえ」
「テト大への赴任が決まって『スポーツ医科学サポート同好会』を創るつもりだって私が言ったら、そのために入学してきたほどですし」
なんと。つまりそれだけ儚那は、トレーナー活動に本気だということだ。きっと、バレエとは比べ物にならないほどに。
「もっとも、そうやってみずから枷を外せた副作用として、本来の快活で元気なキャラクターを取り戻し過ぎたようですが。それまでの反動ですかねえ」
「…………」
快活で元気、というレベルではないんですが、とはあえて松はつっこまないでおいた。
「ただ、バレエを引退したあとも復帰を勧める声は根強くあったようです。各種のコンクールを席巻したあの桜木儚那を、辞めさせてしまうのはあまりにも惜しいと。なかでも熱心だったのが」
「佐久間さん、ですか」
これくらいは、儚那のように洞察力が鋭くなくてもわかる。
「はい。ストーカーというほどではありませんが、何度も説得されたみたいです。彼女の方も子どもの頃からお世話になっている先輩だけに、無下にもできず心苦しかったようで」
本物のストーカーではないものの、松は少し苛立ちを覚えた。儚那を困らせるなんて、許せない。
「なんにせよそういった声から逃れられるという意味でも、テト大という環境は良かったのかもしれませんね」
「なるほど」
儚那の地元は東京から離れた北関東の外れで、現在は一人暮らしだと聞いた覚えがある。
ともあれこうして、松は儚那がトレーナーの世界に入った経緯を知ったのだった。