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好事魔多し。
そう言った際に同級生が、「コウジマオオシ? 誰? うちの学校?」と真顔で聞き返してきたのは、いつだったろう。高校のとき、いや、中学時代の稽古場だったか。
今の自分にぴったりの言葉とともに、必死で別のことを考えようと試みるが、足首のジンジンする感覚は一向に治まらない。
「門野。駄目っぽいし、早く医務室で診てもらうといい。一人で行けるか?」
「……はい」
部長のあくまでも冷静な声は、こうした事態も慣れっこだと言わんばかりである。だが松自身も、ぞんざいなくらいに扱ってくれた方がありがたかった。舞台の世界ではよくあることだ。
そう、よくあること。
事故が起きたのは、つい先ほどだった。
予定通り冒頭のダンスシーンから始まった通し稽古で、オーバーチュアと呼ばれる導入部分から、松たちダンサーはエネルギッシュに踊り出した。
調子は相変わらず良かった。身体が軽く、軸もまったくぶれなかった。あの日、一号館のガラス扉前で練習して以来、松は好調でむしろ本番が待ち遠しいほどだったのだ。
しかし。
「あっ!」
声を上げたのが自分だったのか、まわりで見ていた誰かだったのかはわからない。いずれにせよ次の瞬間、ぐにゃりと曲がった右足首の感触とともに世界が横転した。
激痛が襲ってきたのは数秒後。場ミリと呼ばれる舞台エリアを示すテープから、身体が完全にはみ出したことに気づき、
ああ、舞台から落ちちゃったんだ、俺。
と、意外に落ち着いて状況を把握したあとだった。
「大丈夫か、門野」
「は、はい……痛っ!!」
すぐに立ち上がろうとするも、まるで大丈夫ではなかった。右足に体重をかけられないどころか、床に着くことすらできない。
「おいっ! ここ、濡れてるじゃないか! 誰だ、最後に使ったの!」
演出助手の厳しい声が響くが、一人として返事はなかった。痛む足を押さえる松の脳裏に、数分前、ミスコン云々の話で寄ってきた同級生の誰かが、ペットボトルをそのあたりに置いていたような記憶がちらついた。けれども定かではないし、今さら犯人探しをしたところで始まらない。そもそも自分が動くエリアをチェックしておくのも、出演者の心得なのだ。
ざわめきも止み、しんとなった稽古場で部長が発したのが、さっきの「駄目っぽいし、早く医務室で――」というひとことだった。
「お大事にな。アンダーは……藤原か。じゃあ藤原、入ってくれ。本番一週間前だし、自分が出るつもりでしっかり頼む」
「はい!」
アンダースタディ、本来の出演者が怪我や病気で出演できなくなったときのバックアップメンバーは、こういった場合に備えていつでもスタンバイしてくれている。
松と似た背格好の藤原という二年生は、「大丈夫か、門野? お大事にな」とポンと肩を叩くと、颯爽と舞台エリアへ飛び出していった。
お大事に。この役は俺がもらうから。お前に代わって俺が本番の舞台に立つから。
かけられた言葉はつまり、そういう意味だ。決して心配していないわけではない。むしろ藤原さんは面倒見のいい先輩だ。だが、いい先輩であることと役者であることは立派に両立する。そして出番を、ポジションを争うのは何もスポーツの世界に限った話じゃない。松自身だってみずからが舞台に立つ結果、逆に立てない誰かを生み出してきた。
決して避けては通れない、これが舞台芸術の現実なのだ。
ああ……やだな、こういうの。
何かを競い合うことが苦手な青年が顔を上げたときには、稽古場はもういつもの空気に戻っていた。冒頭のダンスシーンも何事もなかったかのように進み始める。
片足を引きずりながら、松はそっと稽古場をあとにした。
十日後、テト祭での本番は無事成功した。
猫の世界に紛れ込んだ猿の三姉妹が泥棒として大活躍するという、どこかで聞いたような設定をミックスしたコメディミュージカル『キャッツ・アイアイ』は、客席のウケも良く、カーテンコールでは拍手が鳴り止まなかったほどだった。部長も「これで来年度の予算が確保できた」と安堵していた。
「お疲れ様でしたー!」
「ねえ、写真撮ろうよ!」
「打ち上げ、七時からだってよ!」
猫や猿の衣装を身に着けたままの出演者たちが、本番が終わったあとの高揚感とともに、楽屋やロビーをうろうろしている。
一方でジャージ姿の松は、誰もいない舞台に一人ひざまずいていた。手に雑巾とゴミ袋を持ち、次のイベントに向けてセットが撤去された空間を少しずつ移動していく。右足は依然として包帯を巻いた状態だが、幸い痛みはだいぶ治まってきた。
「あ」
暗闇でも光る蓄光テープが、数枚残っているのに松は気づいた。すぐに剥がして床の汚れも丁寧に拭う。よく見るとセットから落ちたらしい木屑や、小さなゴミもところどころにあるので、それらもこまめに拾っておく。
なかば覚悟していた通り、松は本番の舞台に立つことができなかった。
あのあと医務室へ行き、さらに病院でも診てもらったが医師の診断は、
「あー、捻挫だね。じゃ、湿布出しときますね。半月ぐらいはかかるかな」
という、なんともあっさりしたものだった。けれどもそれは、本番での出演は諦めろという通告でもある。かくして松の初めてのテト祭は、入場受付や衣装の早替え補助など、裏方としての雑務に追われて終わったのだった。
仕方ないよな。
濡れた床。しかし悪いのは、確認を怠った自分だ。出演者としての基本をおろそかにした、みずからが招いたミスだ。一年なのに出番をもらえて、身体の調子も良くて、無意識のうちにどこか浮かれていたのだろう。
けど――。
やっぱ、出たかったな。
小さな溜め息を吐きながら、目についた最後の汚れを拭き取ったときだった。
「お」
声が、聞こえた。




