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スポイカ!  作者: 迎ラミン
第五話 カドマツ
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4

 三月の最終土曜日。池袋のアーティスティック・ヴィレッジは、広い館内全域が多くの来場客で賑わっていた。

 ホワイエではパンフレットやオリジナルグッズの販売も行われ、テレビカメラを初めとしたマスコミ関係者の姿も見える。芸術や芸能に興味のある人が、世の中にこれほどいたのかと思わせるほどの混雑ぶりだ。


「ごめん門野、念のためテーピング頼んでいい?」

「OK。浅井の衣装、黒だよね? 同じ色のテープにしておくよ」


 喧騒から離れた地下二階。楽屋として確保されたリハーサルルームで、松はテト大演劇部のトレーナーとして、開演前の慌ただしい時間を過ごしていた。


「門野君、三十分前だけどなんか食べても平気かな?」

「吸収の早いエナジーゼリーとかなら、大丈夫だと思います」

「ごめん門野君! 背中のチャック上げてくれる? ブラがひっかかっちゃったみたい!」

「ちょ、ちょっと待ってください!」


 もはやトレーナーというより保護者みたいになっているが、出演者たちの昂ぶる気持ちは松にもよくわかるし、自身もこの雰囲気が嫌いではなかった。なにしろ半年前までは同じ側にいたのだ。


「三十分切りましたから、身体のウォームアップも入念にやっておいてください!」


 全体に声をかけると、「はーい!」という素直な返事とともに、そこかしこで二点支持の腕立てがはじまった。自分の教えを素直に守ってくれている姿に感謝しつつ、大きな責任も松は感じていた。全員が良いコンディションで、このままカーテンコールまで駆け抜けて欲しい。

 しばらくすると、階段の方が少し騒がしくなってきた。ワンフロア上に位置する自分たちの公演会場、小ホールがいよいよ開場したようだ。


「上に行ってます! 何かあったら呼んでください!」


 ここのメンバーは大丈夫そうだと判断した松は、もう一度大きな声を出してから、舞台裏へと向かった。一足先に移動して、あちらで最後の準備をする役者やダンサーもいるはずだ。

 舞台裏へと直接繋がる階段を駆け上がりながら、首にかけたIDカードを握り締める。部長からは二枚支給してもらったが、もう一枚は部室に置いてきた。今日も一人。

 それでも。


 やるんだ。俺が演劇部のトレーナーなんだから。スポイカから派遣されてるんだから。


 自分に強く言い聞かせて、松は防音扉をそっと開けた。




 予想通り扉の向こうには、オープニングから登場する出演者を中心に、何人もの部員たちが既にスタンバイしていた。上手側の舞台袖に当たるこのエリアだけで六人。やはり全員が、これまで教えてきたエクササイズやストレッチを入念に繰り返してくれている。

 先ほどと同じく感謝するとともに、松は別のことも感じた。


 思ったより多いな……。


 (かみ)(しも)の舞台袖には「役者溜まり」と呼ばれるスペースが設けられてはいるが、周辺には大道具や小道具、照明装置なども置いてあるため、人が三人も並べばかなり窮屈になってしまう。動線や混雑具合を取り仕切る舞台監督さんも、今はいないようだ。

 そんななか上手袖の出演者たちは、道具や照明の間、人によっては作業用の平台と平台の隙間なども利用して、器用にウォームアップを行っている。


「門野君、ありがとう」

「え?」


 引き続き視線を走らせていた松は、すぐそばから名前を呼ばれた。


「門野君に来てもらえて良かった。みんな凄く調子がいいの」


 お礼を言いながら艶やかな笑みを向けてくるのは、主演女優の三年生だった。


「なんでかわかんないけど本番前ってほぼ必ず、誰かが怪我したり風邪ひいたりとかで、何かハプニングが起きちゃうでしょう? でも今回は、そういうの何もないもの。私も知らなかったんだけど、ベストメンバーで芸術フェスティバルに臨めるのって、うちの演劇部にとって数年ぶりなんだって。本当にありがとう」


 タカラジェンヌのような金の羽飾りを背負ったまま、彼女はぺこりと頭まで下げてくれる。


「いえ、皆さん自身の努力の成果です。僕たちはエクササイズやスポーツ科学の知識を教えるだけで、それを活かせるかどうかは結局、本人次第ですから」


 そういえば自分も文化祭直前に怪我をしたんだっけ、と内心で苦笑を浮かべてから、松も明るく返した。この一ヶ月ちょっと、彼女たちに伝えてきた言葉が脳裏に思い起こされる。


――新しいエクササイズや知識を使うのは楽しいかもしれませんけど、自分が舞台に立つ人間だという点だけは忘れないでください。本来の目的を見失うと、演劇部じゃなくて筋トレ部になっちゃいますよ――

――こうやってコンディショニングのテクニックを覚えたら、あとは自分で考えて、自分でできるようにしていきましょう。ちょっと動きが固いからウォームアップを一セット増やしてみようとか、ダンスシーンで激しく動いたからアイシングしておこうとか――

――稽古も佳境だからこそ、食事はしっかり摂ってくださいね。自分の身体は、自分が食べたものでつくられますから――


 言わずもがな、どれもがスポイカで身をもって教わってきたことだ。


 最初に習ったのは、心配蘇生法だったな。


 記憶がさらに以前へと飛ぶ。なんだか、ずいぶん昔のような気がする。

 それらを教えてくれた人が、「あたしのアシスタント」呼ばわりしながら沢山のものをくれるフィジカルコーチが、今は隣にいないからだろうか。


「どうしたの?」


 すっかり遠い目になっていたらしく、主演女優の彼女が不思議そうに首を傾ける。


「ああ、すみません。なんでもないです。じゃあ本番、頑張ってください」


 笑顔を作り直して彼女から離れたとき。

 ゴトン、という音が聞こえた。


「え?」


 それが自分の声だったのか、視界から外れたばかりの先輩の声だったのか、もしくは別の誰かのものだったのかはわからない。

 いずれにせよ次の瞬間、松は轟音と悲鳴に包まれた。


「きゃあああっ!」

「うわあっ!」


 静かな舞台袖に相応しくない、地響きのような連続音。周囲を照らしていた照明が明滅し、メリッとかバキッという何かが折れる感じの嫌な響きも続く。

 頭をかばうような格好で咄嗟にしゃがみ込んだ松だが、音がやむ前から何が起きたかを推測してはいた。立ち上がると案の定、壁際に積んであった何枚もの平台が崩れ、ちょうど壁のように目の前をふさいでしまっている。


「皆さん!」


 自身は無事だったこともあり、反射的に身体が動き出した。


「大丈夫ですか!」


 この平台をまずはなんとかしなければ、とかなり重い九十センチ×百八十センチの大型平台を、全身に力を込めて必死にずらしていく。


「大丈夫ですか! ……あっ!!」


 素早く通路を確保し、もう一度同じ言葉を叫んだ先は惨事と呼ぶべき光景だった。

 身の丈ほどもある照明器具が足に乗ったまま、倒れ込んでいる人。額から血を流してうずくまる人。何かに挟まれたのだろう、指先を抱えた人が苦痛に顔を歪める姿も見える。この場にいた出演者のいずれもが、大なり小なりの怪我を負ってしまったのは一目瞭然だった。


「なんだよ、これ!?」


 音が聞こえたらしく、浅井たちもリハーサルルームから上がってきた。状況を一目見ただけで愕然としている。


「浅井、劇場事務所と部長に緊急連絡! 多分、衣装か何かが引っかかって平台が崩れたんだ! 他のみんなは、まず怪我人を助けてください!」


 大声で指示を出すことで、逆に松自身が少し落ち着けた。とはいえ一大事には変わりない。それに怪我人を助けてとは言ったものの、応急処置などができる人間がどれほどいるだろうか。幸い事故に巻き込まれた面々も、意識はある様子だが……。


 くそっ、どうする?


 唇を噛んだところで、明滅を繰り返していた照明が安定を取り戻した。あらためて周囲を見渡すと、平台だけでなく背の高い道具類もすべて崩れている。そのぶんこれ以上の大事故は起きなさそうだし、やはりあとは応急処置か。

 と、巡らせた視界の片隅に光るものが映った。はっと息を呑む。


「先輩!!」


 ほぼ完全に倒れた平台と床の隙間から覗く、ひしゃげた金色の羽。間違いない。あの主演女優の三年生が、下敷きになっている。

「手伝います!」といち早く進み出た男子部員とともに、松は慎重に、だが可能な限り急いで平台をどけた。


「先輩! 大丈夫ですか!」


 現われた彼女は、仰向けの状態で気を失っていた。見たところ大きな外傷はないし、顔のメイクも崩れていないほどだが、とにかく眠ったように動かない。


「先輩! 聞こえますか!」


 肩を叩きながら耳元で必死に呼びかける。しかし返事はないままだ。

 頭に最悪の想像が一瞬だけよぎったが、それを打ち消すように、また自分を鼓舞するように、松は相手を指差しながらさらなる大声で叫んでいた。


「意識なし! 浅井、一一九番に通報! 隣の(やなぎ)()さんはAEDを持ってきて!」


 口に出して確認したあと、先輩の鼻先に頬を近づける。


「呼吸……なし!」


 次は頚動脈に指先。


「脈……なし!」


 自然と身体が動く一方で、心が焦る。まずい。外傷こそ見られないものの、意識も呼吸も脈拍もない。ならば、やるべきは――。


「心肺蘇生を行います!」


 はっきりと松は宣言した。

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