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「じゃあ、このままの体勢で三十秒キープしましょう。ダンスのときにお腹を引き上げる、あの感覚です。よーい、スタート!」
「うわ! 意外にキツイじゃん、これ!」
「門野君てSだったの!?」
翌週からさっそく演劇部への指導が始まった。といっても筋肉を大きくしたりする必要はない人たちだし、本番も近いので、舞台上でのパフォーマンスに向けてのウォームアップとクールダウン、ダンスや殺陣で使う動きに繋がる簡単なエクササイズ指導などが中心である。もちろん松でも自信を持って教えられる内容で、儚那はこのあたりも踏まえて、自分をメイントレーナーとして派遣してくれたのだろう。
「へっぴり腰にならないで! 腕もしっかり伸ばしましょう!」
声をかける松の隣で、その儚那も同じ姿勢を取って見本を実演している。アメフト部でもやる二点支持の腕立て、『2ポイント・プローン・スタビリティ』だ。
「わ! 女の人も、めっちゃ綺麗なフォーム!」、「あれでもアシスタントさんなのか」という感想が耳に入り、松は苦笑するしかなかった。
彼女が前ミス・テト大の「ハカナ様」だと察した演劇部員は、まだいないようだった。営業用の格好でないことに加え、トレーナーという活動がイメージとまったく結びつかないのかもしれない。というか本人が、
「アシスタント・トレーナーの桂木悠郁です」
などと自己紹介の際にしれっと偽名を名乗ったため、松は目を丸くしてしまった。
「なんですか今の!? 聞いてませんよ!」
小声で抗議したものの、返ってきたのは、
「どうなさいました、門野チーフ? いつもみたいに遠慮なく、ハルカって呼んでくださいね」
などというわざとらしい笑顔である。困ったものだ。
ともあれ指導は初回から順調に進み、一段落ついたところで松は解説も付け加えた。
「役者さんもダンサーさんも、舞台に上がる前にいわゆる腹筋運動を沢山したがる人、いますよね。〝お腹を引き上げる〟とか〝胃を締める〟とか言って」
「ああ」とか「うん」という返事が聞こえる。
「僕もそうでしたけど、あれはつまり、今のエクササイズと同じ狙いなんです」
「ん? 腹筋と腕立てなのに、同じってこと?」
かつて松に儚那の写真を見せてくれた同級生、浅井から素朴な疑問の声が上がる。もちろん彼も、儚那本人が目の前にいるなどとはまったく気づいていない。
「はい。腕立て伏せは胸や腕のエクササイズであると同時に、体幹のエクササイズでもあるんです。身体を手足だけで支えるために、それを繋ぐお腹や背中、まさに体幹の部分をしっかり固定する必要がありますから」
自身の下腹部に松は手を添えてみせた。
「専門的には腹圧を上げるとか、英語だと、ええっと――」
「アブドミナル・ブレーシング」
すかさず儚那がフォローしてくれる。
「そう、アブドミナル・ブレーシングとかって言われるんですけど、要するにこういう身体の使い方と、そのためのシンプルなエクササイズを覚えておけば、わざわざ何十回もの腹筋運動をしなくても〝お腹を引き上げる〟感覚は得られるんです」
「たしかに」
「ほんとだ! 今もじゅうぶん引き上がってる感じする!」
「いちいち腹筋しなくてもよかったんだ?」
稽古場のそこかしこで、感心した声と笑顔が湧いている。わかってくれて良かった。
「門野、すげえなあ。すっかりスポイカのトレーナーさんだな」
「うん。それに、なんか楽しそう」
松に対しての温かい言葉も届き、さらにはあの部長からも、「門野が来てくれて助かったよ」と言ってもらえた。
「ありがとうございます。僕はまだ駆け出しですけど、まわりに凄いトレーナーさんが沢山いますから」
照れながら答えると、アシスタント・トレーナーの「ハルカ」だけは、素知らぬ顔でそっぽを向いていた。
毎年三月の最終週に開催される『東京都芸術フェスティバル』は、芸術界の一大登竜門として知られている。会場は池袋にある大型複合文化施設、『アーティスティック・ヴィレッジ』。会期中は大小様々なホールと展示室を存分に活用し、学生や若手アーティストを中心に各種美術作品の展示、ダンス、音学、演劇の公演が同時に行われる。メディアの取材も多く、テト大演劇部も例年、秋のテト祭と同じかそれ以上に力を入れてエントリーしているが、今年はさらにスポイカの助けも借りて万全の体制で臨みたいのだという。
「今日は振付師さんも見学に来られるそうですよ」
「そっか、ミュージカルだもんな」
本番まで一ヶ月。指導に行けるのも残り数回というこの日も、松と儚那は連れ立って稽古場に向かった。
防音扉を開け、演出席に座る部長に「今日もよろしくお願いします」と声をかける。出演者たちはまだ誰も来ていないようだ。
「こちらこそ。お陰さまで怪我人もゼロだし、いい状態で本番に臨めそうだよ。門野が移籍したと聞いて、スポイカさんに頼んで本当に良かった」
演劇部にいたときはとっつきづらい印象しかなかった部長も、こうして外部の人間として接すると、それほどではない気がする。名門と呼ばれる部を率いる身として、身内に対しては厳しい態度を心がけているのかもしれない。
「ああ、そうだ。紹介しておこう。こちら、今回の作品の振り付けをお願いした佐久間龍翔さん。バレエが専門だけど、ジャズもタップもできる人気の振付師さんでね。本来なら、学生劇団がお願いできるような人じゃないんだが――」
言いながら部長が、隣に座っていた長髪の男性に手を向ける。
が、それよりも先に当人が大きな声を出した。
「えっ!? 儚那?」
親しげな呼び方に松は目を丸くした。儚那?
いきなり名前を呼ばれた儚那自身はと言えば、自分以上に目を見開いて固まっている。
「……龍翔、さん」
「やっぱり儚那だ! 元気だった? あれ? てことは、儚那がトレーナーさん?」
「あ、ええ、まあ」
「そっか。でも良かった、元気そうで」
「…………」
「ずっと気になってたんだ。儚那ほどの才能を、俺がダメにしちゃったんじゃないかって」
「……いえ、そんなことは」
「足は? 大丈夫なの?」
「はい。もう踊りはやってませんけど」
丸くしたままの目を、松は白黒させるしかなかった。どうやら二人は知り合いで、しかも親しい間柄のようだ。それだけでも気になるが、加えて聞いたばかりの会話の内容が引っかかった。
足は大丈夫? もう踊りはやっていない?
儚那と彼、佐久間とかいう振付師の間に一体何があったのだろう。
いや、そんなことより――。
松の胸に、大きな違和感が生まれていた。
目の前では佐久間という振付師が、儚那を気遣うように見つめている。
「うん。ずいぶん前に聞いたよ。ごめんな、あのとき何もしてやれなくて」
「いえ。龍翔さんのせいじゃないです。ていうか……関係、ないです」
「儚那?」
「あたしは、自分の意志でトウシューズを脱いだんです。もっとやりたいことができたから。もっと、なんていうか、素直になれるものが見つかったから。だから」
「それが、トレーナー?」
「はい」
二人を見守るしかない状況で、松は違和感の正体を把握した。
――儚那さんじゃない。
言葉遣いが丁寧になっているだけではない。そんなのはむしろ些細なことだ。
はっきりとわかる決定的な違いがあった。今隣に立つ彼女は、何かに戸惑うように面を伏せ、か細い言葉を紡ぎだす女性は、松の知っているその人ではなかった。
生気に溢れる黒い瞳で、こちらの視線を真っ直ぐに捉えるフィジカルコーチ。「カドマツ!」と溌剌と呼びながら、傍若無人な要求をしてくる先輩。なんだかんだ言いながらも松が誰よりも信頼して、誰よりも一緒に時間を過ごす女性トレーナーではない。
「儚那さん」
無意識のうちに、松は彼女の背中をそっと支えていた。いつもなら「セクハラだぞ、このドーエンタイめ」などと睨まれるところだ。けれども案の定、そうはならなかった。
「悪い、カドマツ。今日は一人で頼む」
目を伏せたままの彼女は、「すいません、失礼します」と早口で言い残すと、身をひるがえして稽古場から出て行ってしまった。