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年が明け二月に入っても、松のスポイカでの立ち位置は変わっていない。相変わらず儚那の下、アシスタント活動をこなす毎日である。
ただ、さすがに仕事の手際は良くなってきたし、様々なエクササイズもかなり上達した。最近では新しいトレーニングを行う際、もっぱら松がモデル役を務め、儚那が脇からポイントを解説するという形が定着してきたほどだ。
「少なくとも、あたしのアシスタントとしてレベル1はクリアした感じだな」
「ありがとうございます」
「あたしのアシスタント」呼ばわりも相変わらずだが、松は笑顔で礼を言っておいた。半年も経たないうちにこれだけ馴染むことができたのは、間違いなく彼女の指導によるところが大きい。
二月十四日のバレンタインデー。その儚那が、みずから予告した通りプロテイン・マフィンをスポイカ全員に作ってきてくれた。なぜか松のものだけは、「お前はアシスタント用だ」というよくわからない理由で、特別にブレンドしたプロテインが使われていたが。
いずれにせよ、以前本人が「トレーナーの嗜み」などと豪語していた言葉は嘘ではなく、儚那は本当に菓子作りも上手だった。
「お世辞抜きに美味いです。ありがとうございます、儚那さん」
驚きとともにマフィンを頬張った松は、腰に手を当てた姿勢で堂々と返されてしまった。
「カドマツ、それを食ったからにはホワイトデー、期待していいんだろうな。なんなら食い物じゃなくてもオッケーだぞ。ちょうどスポーツブラが一枚、古くなってきたところでな」
「……考えときます」
ホワイトデーのお返しを露骨に、しかもスポーツブラで要求する女子などこの人くらいだろう。だが、それもありかもしれない。これだけ上手にお菓子を作れるのなら、そんじょそこらのスウィーツでは逆に申し訳ないし、何より儚那本人が喜んでくれる品が一番だ。
「頑張ってね、カドマツ君」
隣から、こちらは上品にマフィンを口に運びながら、チャーミーさんが意味ありげな視線を送ってくる。
じつは数時間前、同じように予告されたチア部の美希からも、松は手作りのチョコレートを渡されていた。たまたまそれが治療室の前だったため、目撃したチャーミーさんに「あらあら。やるわねえ、カドマツ君。儚那ちゃんには内緒にしといてあげるわね」と意味不明のウインクをされてしまったのである。とはいえチャーミーさん自身も、彼女らしい高級ブランドチョコの詰め合わせを皆に差し入れてくれている。
そんな普段通りの日々に、また少し変化が訪れた。
きっかけは、トレ室と同じ体育館内に設置された温水プールでの会話だった。
その日は週末ながら、珍しくアメフトも男女のサッカーも試合がなく、「たまには自分たちのトレーニングに専念すっか。カドマツ、付き合え」と儚那から事前にお達しが出ていた。
さらには前日に、
《体育で使った競泳用水着を持ってくるように。あと、ゴーグルとスイムキャップも》
というキズナも追加され、かくして松は水着の美女とプールで二人きりという、字面だけ見れば人が羨むひとときを過ごすことになったのだった。
「カドマツ、足、見せてみ」
「え」
「前に捻挫したとこ」
「ああ、はい」
プールサイドにまとめてあるストレッチ用マットを一枚取った儚那が、座るように促してきた。スポイカに移籍する直前、文化祭のときに捻挫していた足の状態を、再確認してくれるようだ。
「底屈、背屈、内反、外反、自分で全部動かして」
「はい」
指示通りあらゆる方向に足首を動かしてみせると、さらに儚那はみずから手で触れてから、にっと笑った。
「よしよし。靭帯も緩んでねえみたいだし、大丈夫だな」
実際、松の右足首は後遺症もなく完全に治っている。だが儚那やミッチーが教えてくれたところによれば、捻挫と簡単に言っても、いい加減な治療をしたり何度も同じ箇所で繰り返すと、骨と骨を繋ぐ靭帯が緩んでいわゆる「捻挫ぐせ」がついてしまうのだという。
そうならずに済んだのもこの人たちのお陰なのだと、松はあらためて感謝の念を抱いた。
「ありがとうございます」
素直に伝えるとともに、視線だけ関係ない方向へとさり気なく外す。じつは少々目のやり場に困っていた。シンプルな競泳用とはいえ儚那も水着姿なので、スレンダーで健康的な身体のラインがはっきりとわかってしまう。眼鏡もかけていないため、黒い瞳はいつも以上に輝いて見えるし、小さな顔を縁取る濡れた髪も妙になまめかしい。
ウィッグとカラコンをつけた「営業用」とまではいかなくとも、今日の儚那は「半営業用」とでも呼ぶべき、ちょっとドキリとさせられる姿なのだった。
「悪かったな、BとCの間で」
「え?」
「ミキティさんと比べんな。あれはレベルが違いすぎる」
「は?」
「お前、今あたしのおっぱいガン見してただろ。金払え」
「そ、そんなことありませんよ!」
この鋭い観察力や洞察力を、自分もいつか身につけられるのだろうか。というか、BとCの間とか、訊いてもいないのにそういう情報をカミングアウトしないで欲しい。
「ドーエンタイめ。罰として来週から、お前は演劇部のトレーナーだ」
「はい?」
演劇部?
「春休みに芸術フェスティバルがあるんだろ? そこに向けてのコンディショニング指導を、演劇部から依頼されたんだよ」
「スポイカがですか?」
今さらなことを、思わず確認してしまった。
「舞台の現場がわかってるトレーナーがいいって、わざとらしい注文つきでな。まあそうじゃなくても、あたしはお前を行かせようとは思ったが」
「…………」
「嫌か?」
一瞬だけ複雑な顔になったのを見抜かれたらしい。本当によく観察している。
儚那の目に、少しだけ強い光が宿った。
「嫌なら断るから遠慮すんな。お前自身が躊躇するような現場なら、あたしは行かせたくない。というか、行かせない」
「いえ、行きます。演劇部のサポート、やります」
黒々とした瞳をしっかり見返して松は答えた。どんな顔をして古巣を訪ねればいいのか、という想いがよぎったのはたしかだが、それ以上に強い気持ちが湧き上がっていた。
指名がある以前に、儚那は自分を行かせようしてくれた。逆に松自身が嫌なら行かせたくないとも言ってくれた。演劇部がではなく彼女が信頼し、そして守ってくれようとしたのが何より嬉しく、心強かった。
応えてみせなきゃな。
誰かと競い合うことが苦手でも、誰かに応えることはできる。自然とそう思えた。
「よし。ならお前がメインで指導に伺うって返事しとく。一応アシスタントとして、あたしも同行するから心配すんな」
「はい。ありがとうございます」
「そりゃこっちの台詞だ。引き受けてくれて、ありがとう」
にっという笑顔で伝えられた言葉は、自分をスポイカに誘った際と変わらない、チャーミングな「ありがとう」だった。




