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スポイカ!  作者: 迎ラミン
第四話 ユー・アー・ワット・ユー・イート
23/31

4

「お、いい匂いだな」

「ですね」


 数分後。顔色が戻ってきた美希に温かいココアを飲ませていると、実習室から美味しそうな香りが漂ってきた。


「マフィンの匂いね。あ、これありがとうカドマツ君。私、ココア好きなの」

「いえ。気をつけて、ゆっくり飲んでください」


 そっと缶を掲げる美希の姿に、松は心底ほっとした。これなら大丈夫そうだ。


「今日はプロテイン・マフィンと、プロテイン・ティラミスでしたっけ」


 儚那も安心した顔と声で話に加わる。


「うん。材料見てるだけで、とっても美味しそうだった。プロテインって、普通にココアパウダーとか抹茶パウダーみたいに使えるのね」

「ええ。ついでに言うと、うちは品質保証付きの国内メーカーのを使ってるんで安心してください。トップアスリートも御用達のブランドです」

「そういえば儚那ちゃんも、プロテイン飲むんだっけ?」

「はい。自分もトレーニングするんで。やっぱ食事だけだと、タンパク質が足りなくなるんですよ」

「あ、GBさんも言ってた。それが本来の使い方だって」

「そうっすね」


 頷いた儚那の瞳が、黒縁眼鏡の向こう側で光を放ち始める。トレーナーモードだ。なぜかは自分でもわからないが、松は嬉しくなった。


「ミキティさん」

「はい」


 強い目力に晒された美希が、神妙な顔つきになって返事をする。


「飯、食ってください」

「!!」

「ダイエット中だからって、食事制限してますよね? おそらく炭水化物抜きとか」

「……うん」


 どうやら図星のようだった。


「それ、ダメです」

「でも――」

「大丈夫です。食ってもやせます。ていうか炭水化物を摂らないなんて、チアリーダーとして以前にヒトとして問題です」

「そうなんですか?」


 思わず松が先に尋ねてしまった。女性がダイエット目的で炭水化物を抜くというのはよく聞く話だし、そうした食事指導を堂々と売りにしているジムだってあったはずだ。


「カドマツ、お前まで素人みたいな発言してどうすんだ。大体ミキティさんと毎日のように顔合わせときながら、なんで気づかねえんだよ。どうせ、おっぱいばっかり見てたんだろ」

「そんなことありませんよ!」


 本人の前でなんてことを言い出すのだ。美希本人も、「儚那ちゃん!?」とココアの缶を置いて反射的に胸を手で隠している。いや、決して見ていません……。


「今月はあたし、トレ室に不在の日が多いですけど、たまに見かけるといつものミキティさんみたいな肌のつやとか張りがない感じだったんで。こないだキズナしたときも、半月で二キロも体重を落としたって報告してくれましたよね」

「ええ」


 あっ、と松は思った。トレ室で彼女を見るたびに覚えた違和感。はっきりとではないものの、知り合ったばかりの頃の方が魅力的に感じられたこと。女同士でしかも仲が良いからかもしれないが、儚那は松以上に美希の状態を察し、気にかけていたらしい。


「残念ながら、あたしもカドマツもチア部を担当してるわけじゃないですし、ただ単に疲れてるだけっていう可能性もあったんで、ちょっと様子見させてもらってたんですが」

「……うん。炭水化物、抜いてるの。朝もサラダだけとか」


 そういえば学食で会ったときも、美希はトレイを持ったままこちらに手を振ってきた。つまりは、片手で持ち運べるほど軽いものしか乗っていなかったということになる。

 納得した様子で儚那が頷いた。


「完全な低血糖ですね。最初の頃は、頭痛とかも出たんじゃないですか?」

「!? わかるの?」


 松も驚いた。ダイエットで頭痛まで?


「絶食すると起きる症状です。身体や脳のエネルギー源である糖質がなくなると、ヒトは筋肉のタンパク質、さらには脂肪を分解してエネルギーを作り出すんですけど、そのときの代わりのエネルギー、ケトン体ってやつが過剰になると血液が酸性に変化して、倦怠感や頭痛を引き起こすんです。専門的にはアシドーシス症状って呼ばれてます」


 美希は呆然となっている。倦怠感、というところも十二分に当てはまるのだろう。


「糖質って聞くと一般の人は単純に甘い物を想像しがちですけど、炭水化物イコール糖質なんです。ですから炭水化物をカットするってことは、生きていく上で必要なメインエネルギーを摂らない、いわば危険行為です」


 儚那の目力が、ますます強くなる。


「ついでに言えば今説明した通り、代わりのエネルギー源として筋肉も分解しちゃうわけですから、少なくともスポーツする人間にとってのメリットはほとんどありません」

「そうだったんだ……」


 だからこそ、松の目にすら美希の印象が違って見えたのだろう。それにしても、トレーナーとしての儚那はやはり凄い。栄養学の知識まで豊富だったとは。


「カドマツ」

「は、はい!」


 お前まで聞き手になってどうすんだ、とまた怒られることを予想したが、儚那は生徒を見る先生のような顔で、にっと微笑んだ。


「体脂肪を一キロ燃やすのには、何キロカロリー使う必要がある?」

「ええっと、七二〇〇キロカロリーでしたっけ」

「えっ! そんなに!?」


 美希が大きな声を上げた。松もまさに儚那から教わったのだが、たった一キロの脂肪を減らすのに、人間はこれほどまでのカロリー消費が必要なのだという。

 師匠からの質問は続く。


「んじゃ、純粋に体脂肪だけ減らせる量は、一週間あたりどれぐらいか知ってるか?」

「え」


 これはまだ教わっていない。でも、一キロで七二〇〇キロカロリーもかかるんだし……。


「二、三キロですか?」

「ブー、不正解。罰として、あたしにフラペチーノおごれ。もちろん無脂肪乳でだぞ」

「なんでそうなるんですか!」

「答えを聞きたくないのか?」

「そりゃ、聞きたいですけど」

「フラペチーノ」

「だからどうして――」

「ミキティさんのためにもなるんだぞ?」


 その美希はいつの間にか、二人のやり取りを見て苦笑、いや、失笑している。顔色もさらに落ち着いてきたようだ。とはいえ、松としては恥ずかしいことこのうえない。


「あー、もう! わかりましたよ! 教えてください!」

「教えてください儚那様、だ」

「それは嫌です」


 ついに耐えられなくなったのか、美希が笑い声とともに助け舟を出してくれた。


「儚那ちゃん、もう勘弁してあげて。あたしも早く答えを知りたいし」

「ミキティさんがそう仰るなら。カドマツ、ミキティさんに感謝しろよ」


 相変わらずの傍若無人っぷりだが、黒い瞳が楽しそうに輝いている。


「答えは、一週間当たり体重の一パーセント前後です。それ以上の体脂肪を一気に落とそうとすると、さっき言ったように筋肉や水分など、必要なものまで一緒に落ちちゃうと言われてます」

「一パーセント……」


 美希の視線が数秒間、宙に注がれる。自分の体重から計算しているのだろう。いずれにせよ半月で二キロ、つまり一週間で一キロもの減量は間違いなくオーバーペースだ。それだと、体重が百キロもある人になってしまう。


「さっきの話に戻りますけど、炭水化物をカットして一ヶ月で十キロもダイエットさせるジムとか、もう六月だっていうのに《来月までに五キロ減らして、夏に勝負水着を着ましょう!》みたいな広告は、トレーナーからすれば健康を害することを勧めてるようにしか見えません」


 楽しそうに輝いていた瞳に、ふたたび真剣な色が宿る。


「おそらく今のミキティさんも同じか、もしくはさらに進んだ軽い飢餓状態、栄養失調状態です。ぶっちゃけ、低血糖で倒れるのも当たり前です」

「だから、わざわざきてくれたの?」

「それだけじゃありませんけどね。さっきも言いましたけど、不肖の弟子がちゃんと役に立ってるかも気になったんで」

「すいませんね、ご心配をおかけして」


 憮然とした松は、無意識のうちに儚那のように頬をふくらませてしまっていた。


「なんだ、そのツラは。役に立ってるかどころか、参加者にセクハラかましてないかも気がかりだったんだぞ。ドーエンタイが女子に囲まれると、何しでかすかわかんねえからな」

「なんにもしてませんよ! ていうか、セクハラまがいの変な呼び方はやめてください!」

「ふふ、儚那ちゃんてば、カドマツ君のことをいつも想ってるのね」

「想ってません」「想われてません!」


 例によってハモってしまった二人を、美希は微笑ましげに見つめ続けている。頬や手にはかなり血色が戻り、再度持ったココア缶を口に運ぶ仕草もしっかりしたものだ。


 何はともあれ、もう大丈夫そうだった。

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