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「カドマツ君!」
「あれ? 野々村さん、どうして?」
翌日、家政学部棟の調理実習室でセミナーの準備を手伝っていると、意外な人物が現れた。美希である。
「私は経済学部だけど、先生の助手扱いで参加させてもらうことにしたの。このゼミの教授、チア部の顧問なんだ」
「そうだったんですか」
「ほら、最近プロテインダイエットとかも流行ってるでしょう。何か参考になるかなと思って」
「ああ、なるほど」
ジーンズにエプロンという、すでにやる気満々の姿で美希は微笑んでいる。そこへGBも寄ってきた。
「ナイストゥーミーチュー。チアリーディング部のミキティさんですね。Nutrition SpecialistのGBです。よろしくオミシリオキを」
「あ、初めましてまして。野々村です。部外者なのに押しかけちゃってごめんなさい。こちらこそよろしくお願いします」
「ノー・プロブレムです。センセイからも伺ってますし、ハカナさんからもオウワサやタレコミはカネガネです。Charmingな方だと聞いてましたから、私もチョーお会いしたかったですよ」
「ありがとうございます!」
二人は和やかに挨拶を交わしている。
松の個人的な感想では、じつはGBこそ、スポイカ内でもっとも如才なく指導相手に対応できる人だと思う。儚那とチャーミーさんはあの通りだし、ミッチーもアスレティックトレーナーという立場上とはいえ、女バスで見たように意識的に一線引いたポジションを取らざるを得ない。
その点、彼は普段と指導中の差が少ないし、面白外国人というキャラクターも合わさって、相手側からしてもとっつきやすいのかもしれない。実際に人気もかなりのもので、チャーミーさん同様、どこか特定の部を定期的にサポートするわけではないが、こうして学内外のいたるところから呼ばれて、栄養摂取に関するレクチャーを行っている。
「バイ・ザ・ウェイ、ミキティさん」
にこやかな顔のまま、GBが太い首を少し傾けた。
「はい?」
「コンディションはどうですか? アーユーOK?」
「え? は、はい」
松と同じ質問だった。だが自分とは違い、間が持たないからとりあえず訊いてみたというわけでもなさそうだ。案の定、
「リアリー? ゴハン、おいしいですか? オハダ、プリプリのツルツルですか? ヘアーはキューティクル、サラサラですか?」
などと、さらに問いが重ねられる。
「はあ」
美希が不思議そうに返すと、真っ白い歯を覗かせてGBの笑みが深くなった。
「OK! ノー・プロブレムならいいのです。グッド・コンディションが何よりですから。エクキューズ・ミーでした」
なんだろう?
気になった松だが、分厚い手で背中を叩かれたので確認する暇がなくなった。
「ではカドマツさん、サポート・ミー・プリーズ! ミキティさん、トゥデイはニュートリション・セミナーのあと、私のスペシャリテ、プロテイン・マフィンとプロテイン・ティラミスをレクチャーします。You, つくっちゃいなyo !」
プロテイン。日本語にするとタンパク質。筋肉はもちろん、骨や髪、皮膚など身体のあらゆる組織のもととなる大切な栄養素で、語源も「もっとも大切なもの」を意味するギリシア語、プロテイオスである。
「つまりこれらの食材からタンパク質を摂取しきれない、もしくは摂取できたとしても余計な脂質まで摂ってしまう怖れがある場合、プロテインというサプリメントは有効なのです。例えば、タンパク質なら肉! とばかりにロースカツばかり食べていたら、当然太ってしまいますよね」
ああ、とか、なるほど、というつぶやきが方々から聞こえる。
「逆に言えば、通常の食事で必要十分なタンパク質とその他の栄養素もバランスよく摂れれば、サプリメントに頼らなくても済むのです。supplementは文字通り、〝補う〟という意味ですから」
初めて会った時もだったが、GBは真面目に説明したり発表するときだけは、なぜかやたらとしっかりした日本語で、しかも学者めいた喋り方に変貌する。普段からそうならないのは、本人いわく「キンチョー感のモンダイです」とのことらしい。
だが、それにしても見事な解説だ。アシスタント役の松が操作するスライドも、綺麗にまとまっていてわかりやすい。
「ただ、成長期のお子さんやアスリートの方々は、タンパク質をはじめとする栄養素が、どうしても食事だけだと不足がちになってしまいます。ですから、プロテインなどを目的に応じて効果的に使いましょうというわけです。とはいえ、基本は普段の食事。サプリメントがメインという形では本末転倒ですから、まずは食事内容こそ整えて、足りない部分だけをサプリメントで補うようにしましょう」
ああ、そうかと松も納得できる話だった。毎朝、彼と一緒に儚那からウエイトリフティングを教わっているが、GBは必ず「カドマツさん、ブレックファーストは食べてきましたか?」と訊いてくる。あれはつまり、こういうところを確認してくれていたのだ。
大きな拍手とともに栄養セミナーの時間が終わり、いよいよお待ちかねの調理実習が始まった。
「ではエヴリワン、まずはプロテイン・マフィンからです! アレ・キュイジーヌ!」
なんでそこだけフランス語なんだ、と苦笑しながら、松もアシスタントとして各テーブルを回り始めた。とはいっても調理の指示などできないので、記録用の写真を撮ったりゴミを片付けたり、と例によって雑用をこまめにこなしていく。
何番目かのテーブルには美希もいたので、笑顔で声をかけた。
「野々村さんはお菓子作りとか、得意なんですか?」
だがなぜか、美希の反応が鈍かった。ようやく目線が合ったのは、二秒ほど間が空いてからである。
「え? あっ、カドマツ君。ごめんね、何?」
「い、いえ」
逆に松の方が驚いたほどだ。大丈夫だろうか。
と、次の瞬間。
「野々村さん!?」
彼女の身体が、ふらりともたれかかってきた。
「ご、ごめんね!」
なんとかもとの体勢に戻ったが、自分を押し返した力はあまりに弱々しく、顔や手も青白い。
「貧血ですか? 隣の準備室で少し休みましょうか?」
「ううん、平気。本当にごめんね」
首を振ってはいるが、どう見ても平気ではない。まわりも心配そうだし、ここは言って聞かせるべきだろうと意を決したとき。
「いえいえ、ノーダイジョーブですね。ミキティさん、マコトにイカンですがしばらくレストしていてください。これはトゥデイズ・ティーチャーとしての命令です」
いつの間にか、GBもそばに来ていた。
「GBさん。でも――」
「申し訳ありませんが、何か事故が起きてからでは遅いですし。それに単なるスウィーツ講座ですから、命をかけて参加するほどのものではありませんよ。レジュメやレシピもあとで差し上げますので、落ち着くまで準備室でお休みください。カドマツさん、お願いできますか」
口調こそ穏やかだが、スイッチが入ったときのきりっとした日本語と表情が続く。美希もさすがに理解したようで、「ご迷惑おかけしてすみません。じゃあ……」と従ってくれた。
「野々村さん、こっちへ」
名前を呼ばれた時点で一歩進み出ていた松は、直通の扉で繋がる準備室へと彼女を連れ出した。
「ごめんね、カドマツ君」
「いえ。無理しないでくださいね。横になりますか?」
幸い準備室には大きな長椅子もある。勧めると今度は最初から、「ええ。ありがとう」と頷いてくれた。
良かった、と思ったのも束の間。
「あ……」
「野々村さん!」
か細い声とともに、ふたたび美希が倒れ込んできた。しかもさっきと違って、完全にこちらへ全体重を預けるような格好だ。顔色もますます青白くなっている。
「と、とりあえず横になりましょう。ああ、その前にエプロンを」
華奢な身体を支えながら、松は必死に冷静さを保とうとした。美希がフラフラなこともそうだが、儚那やチャーミーさんとはまた違うほのかな香りと、何よりも胸に当たる弾力が嫌でも気になってしまう。
これはまずい。いろいろな意味で非常にまずい。
「え、ええっと、エプロン外しますね」
自分を落ち着かせるためにも、と美希の背中に手を回したタイミングで廊下側のドアが開いた。
GBかとも一瞬思ったが、違った。別の耳慣れた声が耳に飛び込んでくる。
「いい度胸だな、カドマツ」
「儚那さん!?」
「講義中にミキティさんを連れ出して、密室でエロ行為か? 変態め、今日からはさらに進化してドーエンソー・ヘンタイ、略してドーエンタイと呼んでやる」
「違いますってば!」
「ふん。貧乳マニアのくせして、ミキティさんの巨乳に目がくらんだか。この裏切者」
意味不明の台詞とともに冷たい視線を投げつつも、部屋に入ってきた儚那は妙に落ち着いている。
「ミキティさん、大丈夫ですか? ああ、力抜いて。エプロン外しますね。うん、そうしたらまずは横になりましょう。頭の下にはこいつを」
美希に近寄った儚那は、肩にかけたリュックから、なんと小型の旅行用枕を取り出してみせた。
「ありがとう、儚那ちゃん……。でも、どうしてここに?」
「なんとなく予想できてましたから。不肖の弟子がセクハラかましてないかも心配だったし。そんなことより、これもゆっくり口に入れてください」
さらにはゼリー飲料まで取り出している。松はポカンとするしかなかった。なんなんだ、この用意のよさは? しかも「予想できてました」?
「こら弟子、ぼけっと見てないで手伝えっつーの。ちょっとおっぱいが触れただけで、夢の世界に行っちまいやがって。だからドーエンタイなんだ」
「す、すいません!」
アシスタントですらなくなったうえ、美希の眼前でとんでもないセクハラ発言だが、それどころではない。
「なんか飲み物買ってこい。甘くてカロリー補給できそうなやつ」
「はい!」
指示を受けて松は駆け出した。たしか棟の入り口に、自販機があったはずだ。
「ついでにGBにも、あたしが来たからとりあえずこっちは大丈夫って伝えとけ」
背中から追いかける声にも、「はいっ!」と返事をしたところで、松は気がついた。
さっきとは比べ物にならないくらい、自分が落ち着いていることに。




