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あ、今日はバイクにするんだ。
十二月になったある日。
トレ室内のカウンターから、松はさりげなく窓際を確認した。長い髪を後ろで束ねた女子が、まさにフィットネスバイクにまたがるところだった。
野々村さん、頑張るなあ。
普段から利用者が少ないうえ、そのほとんどをアメフトやサッカーなど競技スポーツ部員が占めるトレ室で、すらりとした細身の姿はやはり目立つ。そうでなくとも彼女――チアリーディング部の野々村美希は、
ほんと、可愛らしい人だなあ。
と、朴念仁の松ですら思う容姿をしている。
それも当然で、美希は松のボス(?)でありここの主である儚那と、昨年度のミス・テト大を争って、見事準ミスに輝いた人なのだという。当然二人は顔見知りで、さらに言えば妙なライバル心もなく、むしろ仲が良いようだ。ミスコンへのエントリー理由が、儚那は「スポイカの営業に繋げるため」、一学年上の美希も「後輩が勝手に応募しちゃったの」というまるで被らない理由だったこともあるのだろう。
「カドマツ。こちら、チア部三年のミキティさんだ。見ての通りめっちゃ可愛いけど、くれぐれも不埒なことは考えるなよ」
「初めまして、野々村美希です。お世辞でも嬉しいけど、儚那ちゃんに敵わないのは証明されてるから」
半月ほど前、同じカウンターのところで儚那に紹介された美希は、朗らかに笑って挨拶してくれた。
「儚那さんに敵わない、ですか?」
「去年のミスコン、私も出させてもらったんです。もちろんミス・テト大はこの人だったけど」
「ああ、なるほど」
「愚民どもが、あたしの営業スタイルに騙されたお陰だけどな。ヅラとカラコン禁止なら、ミキティさんが優勝してたに決まってんだろ」
「愚民って……」
呆れながらも、儚那らしい謙遜の仕方だと松は苦笑するしかなかった。
とはいえ、たしかに美希は魅力的だった。儚那やチャーミーさん(男だが)とはタイプの違う、親しみやすい可愛らしさに溢れている。
こういう人、なんて言うんだっけ。隣のお姉さんて感じの――
「ドーエンソーのお前が好きそうな、Girl next door なお姉さんだけど、セクハラなんぞやらかした日には、あたしがタダじゃおかねえぞ」
「しませんよ!」
そう、ガール・ネクスト・ドアだ。いつもの洞察力と見事な発音に内心で感心しながら、松は慌てて否定しておいた。
「あれ? でも私、門野君に会ったことあるかも」
「え?」
「マジですか? カドマツ、貴様あたしの知らないところで、すでにミキティさんをナンパしてやがったのか」
「そんなわけないじゃないですか!」
二人のやり取りを笑いながら、美希がフォローするように尋ねてくる。
「門野君、テト祭前に一号館の前で踊ってませんでした? たしか夜だったと思うけど」
「あ! はい!」
初めて儚那に出会った、あの日だ。そういえば周囲のダンサーには、チア部っぽい女子たちもいた。
「ぴったりしたシャツ着て、一人だけジャズっぽい振り付けで踊ってましたよね」
「はい」
松は大きく頷いてみせた。間違いなく自分だ。
「よく覚えてます。一緒に練習してた子と、あの背が高い男の子凄く上手だったね、って話しながら帰ったぐらいですから」
「ありがとうございます」
ちらりと儚那を見ると、面白くなさそうな顔でこちらを睨んでいる。別に悪いことをしたわけではないのだが……。
「てっきりダンス部か演劇部かと思ってたけど、スポイカの人だったんですね。しかも、儚那ちゃんのアシスタントだったなんて」
「ああ、いえ、その……」
どこから説明すればいいのだろう、と松は困ってしまった。というか自分は「スポイカの」アシスタントである。どうして皆、儚那の私設秘書みたいな扱いをするのだ。
すると儚那が不機嫌そうな顔のまま、しれっと割り込んできた。
「そんときはまだ演劇部だったんですよ。でもあたしに惚れてテト祭の日、スポイカに移籍してきたんです」
「わあ! 一途なんですね!」
「思いっきり違います!」
ここは厳密に否定しておかねば、と例によって松は素早く反応した。素直に信じている美希も美希である。
「なんだよ、似たようなもんだろうが。あたしがチャリの後ろに乗せたら抱きついてきて、匂いをクンカクンカしやがったくせに」
「あら、門野君って意外に大胆なんですか?」
「だから、違いますってば!」
クロスバイクで後ろからしがみついたのはたしかだが、あれは儚那の方から、遠慮せずに掴まれとかなんとか言ってきたからだ。そもそもが拉致まがいの連れ去り方だったし。
「ふーん。でも良かった、優しそうな人で」
「え?」
「儚那ちゃんにトレ室を使いたいって相談したら、自分が不在にしててもアシスタントがいるからいつでもどうぞ、って言ってくれたんです」
「はあ」
「だけどほら、儚那ちゃんの指導って結構ハードだって評判でしょう?」
「ああ、〝桜木墓場〟のこと――」
「なんだと、こら」
「いえ、なんでもありません」
そのやり取りを見て、美希はまたくすりと笑った。
「彼女のアシスタントでしかも男の人っていうから、やっぱりきりっとしてて厳しいトレーナーさんなのかなって、ちょっと心配で」
「いえ、僕はまだスポイカのアシスタントですから。厳しくしようにも、それだけの知識とか技術もないですし」
いつものように「スポイカの」という部分をわざとらしく強調しておくと、またしても儚那が不機嫌そうに頬をふくらませている。面と向かっては絶対に言えないが、相変わらず少しだけチャーミングな表情だ。
ともあれ様子に気づかないふりをして、松は続けた。
「野々村さんは、どんな目的でトレーニングされるんですか?」
チアリーダーだし大きな筋肉が欲しいわけではないだろう。見た感じどこか怪我しているようにも見えないので、ちょっとした補強運動がてらだろうか。
けれども美希の答えは、予想外の内容だった。
「私、ダイエットしたいんです」
「ダイエット?」
思わず彼女の全身を見つめ直してしまう。
「おい、目線がエロいぞ。このヘンタイが」
「す、すいません」
ますます不機嫌そうな儚那の声に、松はすぐ謝った。よこしまな気持ちはなかったが、たしかに失礼だったかもしれない。
「大丈夫よ、儚那ちゃん。カドマツ君――あ、ごめんね、私もカドマツ君でいいですか?」
「ええ、もちろん」
「カドマツ君は、そんな人じゃないだろうし」
「ありがとうございます」
素直に頭を下げながら、あらためて思う。別にダイエットなんて必要なさそうだけど。
「もちろん一般的な女子大生としてなら、ミキティさんは全然問題ない。あくまでもチアリーダーとして、ダイエットしたいってことだ」
例によって、胸の内を読み取った儚那が説明してくれた。黒い瞳が光を増して、表情も楽しそうなものに変わっている。トレーナーモードに入ったようだ。
「ですよね?」
「うん。冬は食べ物も美味しくて。汗もかかなくなったし」
美希は恥ずかしげに微笑んだ。だが、やはりダイエットが必要な体型にはまるで見えない。というか、その前に言っておかなければならないことがある。
自身も軽く微笑んで、松は伝えた。
「汗をかく、かかないに関してはそんなに気にしなくていいと思いますよ」
「え? そうなんですか?」
「はい。たしかに発汗によっても体重は減ります。けど、それはあくまでも水分を失っているだけですし、フィジカルコンディション的にはむしろ良くないことです」
隣で儚那が、ほう、と感心する様子で眉を上げたが、夢中になってきた松は気づかなかった。
「体重の三パーセントに当たる水分を失うだけで、スポーツパフォーマンスが低下する事実はよく知られています。いわゆる脱水の初期症状ですね。でもこれって、ちょっと油断すると頻繁に起こる数字なんです。体重四十キロの女性だったら一・二キロ。一・二リットルぶんの発汗なんて、真夏に運動したら平気で起きますよね」
「あ。たしかに」
「そもそも人間の身体は、七割近くが水分でできていますから。気温や湿度が高い環境では、逆にトレーニングの前後で体重が減らないよう、気をつけたほうがいいぐらいなんです」
「へえ」
「……って、偉そうにすみません。僕もスポイカで教わったばかりなんですけど」
素直に白状したが美希は、「ううん! ありがとう!」と胸の前で手を握り締めて感心してくれている。
「さすが儚那ちゃんのアシスタントさんね。とってもわかりやすいし、勉強になります」
「いえ、スポイカのアシスタントです」
すかさず訂正したが、儚那からふたたび睨まれてしまった。
仕返しとばかりに、彼女がしれっとのたまう。
「ま、そういうわけです、ミキティさん。ドーエンソーな不肖の弟子ですが、言ってることは間違ってませんから安心してください」
「ドーエン……何?」
「なんでもありません! 単なるセクハラでパワハラです! と、とにかくこまめに水分補給して頑張ってください!」
これ以上儚那が余計な台詞を吐かないうちにと、松は重ねて言い募ったのだった。




