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「じゃあ、ちょっと休憩! 十分後に頭から通しでやるよ!」
「はいっ!」という元気のいい声とともに、出演者たちが稽古場の隅へと散らばってゆく。松も額の汗を拭いながら、ほっとした顔で自分のペットボトルを手に取った。九月も終わろうかという時期だし空調も効いているが、やはり動いたあとは身体が熱い。
都立・東京帝都大学、通称「テト大」の演劇部は芸術フェスティバルでの受賞歴も多く、学生演劇の世界ではそれなりに名の知られた団体だ。小劇場演劇ではなく本格的なミュージカルを中心に上演するのが特徴で、豊富な実績から、強豪部活動の一つとして学内でも一目置かれている。
文学部一年の松も、他の部員と同様に入学してすぐその一員となった。
性格的に何かを競い合うことがどうにも苦手な松は、周囲と比べて身長こそ高いものの、かなり大人しい子どもだったらしい。そんな一人息子を両親はやや心配したのだろう。六歳のとき、タイミング良く近所の児童劇団で体験レッスンがあったので、「ちょっとは活発になるかと思って」と連れていってくれた。すると自身は覚えていないが、
「喋るのは嫌いだけど、踊るのは楽しい」
と笑顔でのたまったのだとか。以来、実際に楽しさを感じながら中学・高校とずっと演劇を続け、第一志望のテト大でも合格できたら是非演劇部の門を叩いてみようと、受験前から決めていたのである。
ただし。三つ子の魂なんとやらではないが、喋る方、つまり演技に関しては、松は自他ともに認める大根役者だったりする。
そんなわけで台詞はいつも少なめ、代わりに長身を活かしたダンスシーンやアクションシーンなどで出番が回ってくるタイプの役者が、門野松という表現者なのだった。
頭からだし、いきなりか。
十分後にスタートする通し稽古に備えて、松はもう一度ペットボトルに口をつけた。
アンサンブル、すなわちその他大勢の役柄とはいえ、一年生ながらダンサーの一人として抜擢された自分は冒頭から出演シーンがある。演出を担当する部長の目も厳しい場面だ。
十日後に迫った文化祭、通称「テト祭」でのミュージカル上演は例年、部にとってもっとも大切な公演の一つとされている。講堂が満員になるほどの集客で、テト大演劇部の健在ぶりを学内外にアピールすることが、次年度の予算確保にも繋がるからだ。毎年秋のテト祭と、春の『東京都芸術フェスティバル』。この両公演を例年の二大目標として、テト大演劇部は活動している。
「あ」
手のなかのボトルを何気なく見直した松は、思わず声を漏らした。
単なる偶然だろうが、何日か前の夜、見知らぬ人物からもらったものと同じスポーツドリンクを買っていた。
やたらと目力があって、柑橘系の香りがする眼鏡の女性。彼女は、なんだったのだろう。あれ以来一号館には行っていないし、キャンパス内でそれっぽい人を見かけたこともない。
まさか幻だったわけでもあるまいし、と軽く首を傾けたとき。
目の前にスマートフォンが、ぬっと突き出された。
「門野は誰に投票すんの?」
「え?」
同じ一年生部員の浅井だった。
「なんだかんだ言って、今年もやるんだってさ」
「は?」
大きめの液晶を、松は見せられるままに覗き込んだ。スマートフォンに表示されているのは――。
「ミス・テト大コンテスト?」
「ああ。俺ら一年からも、何人か出るらしいよ」
「ふーん」
テト祭で行われるミスコンのホームページで、ネットからも投票可能らしい。昨今はこの手のイベントに対する風当たりも強いが、地味な大学だし、やはりそれなりに盛り上がるということで開催するようだ。
会話が聞こえたのか、近くの女子部員たちも集まってきた。みんな松や浅井と同様、アンサンブルに抜擢された一年生である。
「でも、去年のハカナさんには絶対敵わないよね」
「あたし昨日、体育館で見かけたよ! 超綺麗だった!」
「あたしなんて理学部だから、おんなじゼミになれる可能性だってあるもん! ていうかハカナ様ならあたし、抱かれてもいい!」
話を持ち出した浅井以上に盛り上がっている。ぽかんとするしかない松に、その浅井がスマホを素早く操作してみせる。
「去年のミス・テト大が、すげえ美人なんだよ。一年で出たのに、ぶっちぎりで優勝したんだって」
「ふーん」
ふたたび気のない返事をした松だが、画面を見て「なるほど」とつぶやくことになった。
《プレゼンター:昨年度グランプリ 桜木儚那さん(理学部二年)》
と記された上に、チャーミングな女子の写真がでかでかと表示されたからだ。ほんの一回り程度だが、今年度の候補者たちよりも扱いが大きいほどである。
「これで、ハカナって読むんだ」
めずらしい名前を読み上げつつ、胸の内でもう一度納得する。昨年度の、つまり今現在のミス・テト大、桜木儚那という女子生徒はたしかに魅力的だった。茶色いロングヘアに囲まれた顔は小さく、たたえた笑みには知的な印象も漂っている。「美人」と「可愛い」両方の要素をバランス良く兼ね備えたルックス、とでも言えばいいだろうか。
「うちの学校、こんな人もいるんだな」
「何、門野君? ハカナ様のこと知らなかったの?」
「うん」
「マジで!? だってハカナ先輩だよ?」
「いや、俺、あんまりこういうのは……」
「うっそー! 信じらんない!」
「ああ、えっと、ごめん」
なぜか責められている気がして、松は苦笑とともに頭を下げた。大人しい性格ならではのくせみたいなものだ。
そもそも松は、同級生と話が合わないことの方が多い。特に女子たちのかしましいノリに対しては、相手をしているだけで疲れてしまう。じつは落語や時代劇が好きという趣味のせいかもしれないが、いずれにせよ彼女たちからは、「門野君って仙人みたい」などと評されたりもする。
「ま、しょーがねえか。門野だもんな」
「そうよね。門野君だもんね」
浅井たちからのよくわからない、だが的を射ていると自分でも思ってしまう感想に、松はふたたび苦笑するしかなかった。