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サイドボードを眺めていたミッチーの前に、すっとティーカップが置かれた。
「いかがですか、路広さん?」
「ありがとう、トマソン。ちょうど紅茶が飲みたいなって思ってたんだ。さすがだね」
「いえいえ。路広さんが奥様のお腹にいらっしゃるときから、存じ上げてますから」
穏やかに微笑む友岡部家の執事、トマソン時田の見た目は、ミッチーが子供の頃からまるで変わっていない。デンマークとのハーフだという彫りの深い顔に、整った口ひげ。自分の知らないアンチエイジング用のドーピングでもしてるんじゃないだろうか、と思うほどだ。
「あちらは、路広さんが東日本ジュニアで準優勝された際のトロフィーですね」
「うん。たしか小六だったから、まだトマソンが練習相手になってくれてたよね」
「十二歳にして私と互角に打ち合っていましたから、やはり路広さんは大したものです。あのトップスピンロブなんて、大人顔負けの技術でした」
「何言ってるの、元国体選手が」
笑いながらミッチーは、元テニス選手の執事が淹れてくれたアールグレイを味わった。
何を隠そう、ミッチーはかつてテニス選手としての英才教育を受ける子どもだった。
自分で言うのもなんだが、少しばかりの才能もあったとは思う。その証拠が、今も残るトロフィーや賞状の数々だ。
「でも、あの頃の僕に会ったら、思いっきり説教してやりたいよ」
「なぜです?」
恥ずかしそうに伝えると、トマソンは変わらぬ微笑で尋ねてきた。答えを知っているけれど、あえて喋らせてくれるのだとわかる。
「まわりからプロ顔負けのサポートをしてもらってるのに、ウォームアップもクールダウンも適当で、好きな物を食べて好きなように暮らしてっていう、典型的な才能だけで戦ってる選手だったから。ううん、あんなの選手とすら呼べない。ただの生意気なガキだ」
トマソンは何も口を挟まず、優しい瞳で見守ってくれている。
「成長期に入って肩や肘を壊したのも自業自得だよ。テニスがどれだけハードな競技かも自覚せず、コンディションづくりなんて考えもしてなかったんだから」
「セルフ・コンディショニング、というやつですね」
「うん。トマソンからも、何度も注意してもらってたのにね」
「でもあの頃を境に、路広さんは変わられました。ドクターや栄養士さんはもちろん、私ごときの言葉まで、熱心にノートに取って勉強してくださって」
「だってトマソンは、僕にとって最初のトレーナーみたいなものだから」
――ドクターやトレーナーさんはいざというときの〝お助けマン〟です。その「いざというとき」を大安売りして甘えてばかりでは、選手としても人間としても成長できません。ましてやテニスは、たった一人でツアーを転戦する競技です。路広さんもご自分のことは、ご自分でできるようにならなければ――
もっとも身近にいる彼が常々そう教えてくれたお陰で、「生意気なガキ」だったミッチーは変わることができた。指導者の指示を忠実に守り、難しい栄養学の本などとも格闘しながら、自分で自分のコンディションづくりに取り組むように、スポーツ医科学で言うところの「セルフ・コンディショニング」を実践するようになったのだ。
「結局、コンディションづくりにのめり込みすぎて、そっちの道へ方向転換までしちゃったけど」
「いいえ。本当にやりたいことを見つけて、真っ直ぐに成長されていく路広さんの姿は、テニスをしているとき以上に素敵だと思います」
「ありがとう。でも、いまさらあらたまってそんなこと言われても何も出ないよ? お給料を上げる権利は、残念ながら父さんしか持ってないしね」
冗談めかして笑うと、「はは」と明るく返したトマソンはさらに優しい目になった。
「そのお父様に関して、路広さんはお気づきですか?」
「え?」
父がどうしたのだろう? まさか身体を壊しているとか? いや、それはないだろう。アンダーウェポンの会社らしく社内にジムとプロテインバーまで造ってしまい、多忙な身にも関わらず、社長みずからトレーニングしまくっているという話だし。
「プロテインですよ」
「えっ!?」
またしても心の中を読まれたのかと思った。トマソンだから不思議ではない。だが、今度はたまたまだったようだ。
「先日も路広さんは、抹茶味のサンプルを持っていかれましたよね?」
「ああ、うん。いつもみたいに、自由に使えってメモと一緒に置いてあったから。ダメだった?」
「いえ、もちろん大丈夫です。ちなみにプロテインの他にテーピングなども、路広さんはドゥオーモ社にご注文されてますよね?」
「うん。定価の半額以下だから助かってるよ。社割に加えて家族割引も適用されて」
「それについて、私も最近知ったのですが」
「?」
「ドゥオーモには定価の半額となる社員割引きはございますが、家族割引などという、さらなる割引制度はないそうです」
「えっ!?」
ということは、つまり……。
「まさか、その差額分は父さんが?」
「おそらくは。でも、旦那様は仰っていました」
そうしてトマソンは、声真似までしながら父の台詞を再現してくれた。
――トマソンのお陰で路広がすっかり自立しちまったから、親父としては逆に面白くねえんだよなあ。知ってたか? あいつ、ウェアまでわざわざ他社のものを自分の小遣いで買ってるんだぞ? ちったあアンダーメイルの売り上げに貢献しろってんだ。まあ甘えぐせが抜けたせがれへの、ささやかな足長おじさんだ。わははは!――
自分で足長おじさんと言っていれば世話はないが、父はそういう人である。豪放磊落で決断力や行動力に優れる、典型的な親分肌。儚那と知り合ったばかりのとき、女版の父さんみたい、とも思ったものだ。
でも、ミッチーはそんな父が好きだった。有名ブランドのCEOなのに、《路広、たまには飲みにいこうぜ》というメッセージを、プロテインバーの写真とともに息子宛に送ってきたりするふざけた中年が。テニスを辞めてトレーナーの勉強をしたい、と意を決して伝えたときも、「お前が本気になれるものなら、それが一番だ。さっさと一人前になって、うちの商品アドバイザーをやってくれよ」とあっさり認め、応援してくれるような彼が。
「敵わないなあ」
自分がピューマばかり身に着ける姿も、最初から気づいていたのだろう。
これはミッチーにとって、ささやかな戒めだった。もう二度と周囲に甘えたりしないための。少年の頃の過ちを、繰り返さないようにするための。
自分はまだ学生だけど、スポーツに携わる人間として自立していたい。大げさだけど、人生そのものに対しても「セルフ・コンディショニング」の意識を持っていたい。それを忘れないためにも、ウェアや道具だけはアンダーメイルに頼らないと決めているのだった。ピューマを選んだのはいつだったか父が、「うちと客層が一番かぶってないのは、ピューマだな」と言っていたからだ。
適度に温度が下がった紅茶を、ミッチーは美味しく飲み干した。
「僕自身、まだまだ実践できてないけど」
敬愛する執事の顔を楽しそうに見つめて、続ける。
「自立することの大切さに気づいて欲しい、それを選手に教えられるトレーナーになって欲しいって思える後輩が最近できたんだ、トマソン」




