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土曜日。いつも練習で使う球技場が、ちょっとしたスタジアムと化していた。
フィールド脇にあるささやかな客席には選手の家族やOBが集まり、前方のスペースにはイソッチの言葉通り、チアリーディング部が整列して華やかな空気を振りまいている。ビブスを着て、ごつい一眼レフカメラを持ち歩くのは写真部だろう。二部リーグ所属らしいが、なかなかどうして本格的な試合風景だ。
「あ、カドマツ君!」
「こんちはっす!」
客席とはいっても三段ほどのベンチ席なので、いち早く松の姿を見つけた選手たちが元気に挨拶してくれた。少し離れたところにいるイソッチも大きく手を振っている。
「あれ? 桜木さんと一緒に観ないんすか?」
「え?」
選手の一人が示す方向に目をやって、松は慌てた。サングラスにポロシャツ、手にはバインダーという、間違って客席に座ってしまったコーチのような女性が、こちらに顔を向けている。
「すみません、儚那さん。全然気づかなくて」
急いで駆け寄ると、鼻まで降ろしたサングラスの隙間から黒々とした瞳が睨んできた。
「プロテインバー。カフェオレ味」
「は?」
「タンパク質十五グラム以上のやつ」
「え?」
「休日に、しかも外であたしに会ったのに、七分間も気づかないとは何ごとだ。このフトドキ者」
「すいません。まさか儚那さんも来てるなんて思わなかったので。昨日、キズナしようかとも考えたんですけど、休日だし悪いかなって」
「なんだそりゃ。そもそも今はどこの部も秋季リーグの真っ最中なんだから、どっかしらの試合会場にいるに決まってんだろ」
「はあ」
傷病対応ができるミッチーやチャーミーさんならともかく、フィジカルコーチが試合現場に帯同することは、プロでもない限り珍しいのではないだろうか。だが儚那は、ベンチ入りこそしないものの、観客として各部のゲームを熱心に観戦しているようだ。このあたりはさすがである。
「そもそもアスリートを指導するのに、実際の試合観ないでどうすんだ」
「はい」
「ま、お前も慣れてきたし、来週あたりから連れてこようとは思ってたんだけど」
「はい」
「というわけで、プロテインバー奢れ」
「はい!?」
「言っただろ。日曜の昼下がりにこのあたしと一緒に過ごせるっつーのに、四百二十秒間もこっちの存在に気づかなかった罰だ。謝罪だ。誠意を見せろ。責任を取れ。認知しろ」
ぷくっと頬をふくらませた、黙ってさえいればチャーミングな表情が、こちらを見つめ続けている。
「なんでそうなるんですか。しかも責任とか認知とか、意味がわかんないです」
「相変わらず、つれないやつだなあ。だからドーエン――」
「!! わかった、わかりましたよ! 帰りにコンビニで買いますから!」
「うむ。わかればよろしい」
まるでジャイアンだ。しかしながら、前ミス・テト大の「ハカナ様」がこんなキャラだというのは、運動部の間でこそ有名なものの学内では意外に知られていないのだという。「俺たちがいくら言っても、ビジュアルに騙されて他の学生は信じてくれないんだよ」と、サッカー部員が苦笑していた。それはそうだろう。松自身、あのテト祭の日に拉致(?)されなかったらきっと同じだった。
「お、始まるぞ」
呆れていると、儚那の言葉とともに大きなかけ声が轟いた。両チームが円陣を組んで気合を入れている。
「よーし、いこう!」
「勝とうぜ!」
選手それぞれも声を掛け合いながら、美しい人工芝のピッチに散っていく。ラインのこちら側では朝倉ヘッドコーチが真剣な顔でフィールドを見つめ、さらにその先ではチアリーディング部が、黄金色のポンポンを振りながら一糸乱れぬダンスを披露する。
「へえ」
松もわくわくしてきた。規模こそ違うが、アメリカの大学スポーツっぽい華やかさだ。
「カドマツ」
「はい」
「よく見ておけよ。イソッチのパフォーマンスを」
「あ、はい!」
儚那が指摘したように、ピッチには背番号14をつけたイソッチが、他の選手とともに最前線で守備ラインを組んでいた。今日はスタメンのようだ。
「おおーっ!」
「ナイス、イソッチ!」
最終の第四クウォーター。歓声がまたしてもテト大側の応援席から上がった。これで今日、何度目だろう。そのほとんどにイソッチの名前が含まれている。アメフト観戦が初めての松でも、彼が相手の攻撃陣を何度もブロックして大活躍中だというのがはっきりとわかる。
「凄いですね、イソッチさん!」
つい興奮してしまったが、隣の儚那は冷静だった。
「ああ。コンディションもいいみたいだし、トレーニングの成果が出てる感じだな」
言葉の違和感に、松は反射的に尋ねていた。
「トレーニングって……イソッチさん、筋トレ禁止中ですよね?」
「ああ、悪い。純粋に練習って意味でのトレーニングな。さすが朝倉さんだよ」
「え?」
そうこうしているうちに、試合終了のホイッスルが鳴り響いた。ふたたび大きな拍手と、チアリーディング部のダンス。スコアボードには14対〇という数字。テト大アメフト部、ホームで快勝だ。
「ご声援、ありがとうございました!」
キャプテンの号令とともに、朝倉ヘッドコーチも含めたチーム全員が、客席に頭を下げてくれる。松も心からの拍手を送った。
「よし、もう下りても大丈夫だろ。行くぞ、カドマツ」
「あ、はい!」
いつの間にかサングラスを黒縁眼鏡に替えた儚那に連れられて、松もフィールドへと下りていった。
「やあ、桜木さん。今日はありがとう。門野君も」
真っ先に握手をしに来てくれたのは、朝倉ヘッドコーチである。儚那も笑顔で手を握る。
「いえ。他の部もあるんで、毎週来られなくてすみません。何はともあれ、おめでとうございます」
「ありがとう。桜木さんのお陰で、うちの〝筋トレ部員〟がやっと〝アメフト部員〟になってくれましたよ」
「とんでもないです。本人の努力ですよ。それにしても良かったですね、今日の14番」
「やっぱりアメフト選手ですからねえ」
笑い合う二人のもとに、その背番号14が駆け寄ってくる。
「桜木さん、朝倉さん、ありがとうございました!」
「お、来たな、元筋トレ部」
「磯川、練習通りのタックルができてたな。スターターで使って正解だったよ」
「はい、お二人のご指導のお陰です!」
微笑ましい光景を見ながら、松はなんとなくわかってきた。筋トレ部。練習通りのタックル。二人の指導のお陰。
「儚那さんと朝倉さんが筋トレ禁止にしてたのって、ひょっとして――」
「やっとわかったか。それでこそあたしのアシスタントだ」
にっという笑顔が振り返った。
「アメフト選手は、あくまでもアメフトのプレーが上手くなければいけません。磯川は高いフィジカル能力に対して、プレーそのものの技術が追いついていないタイプでした。それでも私は、彼のポテンシャルにはずっと期待してたんです」
朝倉コーチも笑顔で説明してくれる。
「だけど親の心子知らず、じゃねえけどイソッチはむしろ筋トレばっかやりたがるんだよ。フィジカルはもうじゅうぶんだから、あとはタックルとかステップワークの練習して欲しいのに。アメフト選手じゃなくてボディビル選手みたいにな。まあ、真面目な選手によくあるパターンだけど」
やはりそういうわけだった。本来の目的を履き違えないために、そして何よりイソッチ自身のプレイヤーとしての成長を促すために、儚那は朝倉とも話し合って筋トレを全面的に禁止としたのだという。真面目なイソッチのことだから、筋トレを削られたぶんアメフト選手としての技術練習に励むだろうと計算したうえで。
「俺、今日の自分のプレーでわかりました。ああ、これは今までの成果だって。桜木さんのトレーニングでつくった身体を土台に、朝倉さんの教えてくださるアメフト選手の技術が組み合わさってる。だからこれだけ動けるんだ、こんなに調子いいんだって。本当にありがとうございました!」
「というわけだ、カドマツ。どんな競技もだけど、〝トレセンレギュラー〟はいらないのさ。スポーツにおいて目指すべきは、フィールドやコートでのレギュラーだからな」
「トレセンレギュラー?」
「トレーニングセンター・レギュラー。筋トレやらせたらすげえ上手いし、筋力やパワーもあるけど、実際にプレーさせたら大したことない選手の通称だよ。要するにトレ室内だけのレギュラーってわけ」
いつものように、儚那の瞳が黒々と輝いている。
「フィジカルトレーニングに熱心に取り組んでくれるのは、トレーナーとしては嬉しい。教えがいもある。でも、あたしたちまで目的を見失っちゃだめだ。あくまでもチームのため、選手のために何が必要か、何ができるかを考えなきゃな」
「はい!」
松も素直に頷いた。やはり今日、観にきて良かった。
「で、カドマツ。お前が今、チームのためにできる行いはだな」
「え?」
にっという笑顔が、知らないうちにいたずらっぽい色を帯びている。
「あたしにプロテインバーをおごることだ。ほら、行くぞ」
「はいはい」
思わず苦笑した松に、選手たちから明るい声が飛んできた。
「お、カドマツ君、桜木さんとデート?」
「でも、プロテインバーおごれとか言ってたよ」
「デートっていうより連行だな。ていうか、拉致?」
「お前ら、全部聞こえてるぞ! 次のトレーニング日は、全員シャトラン! ゲロ吐くまでやらせるからな!」
いつものように厳しい、だがどこか楽しげな声が緑のフィールドに響き渡った。




