ウォームアップ
スポーツトレーナー活動をする、大学同好会の物語です。
© Lamine Mukae
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ふと気づくと、ガラスに映るダンサーは自分だけになっていた。
「あ、やべ」
イヤフォンから繋がる液晶に視線を落とした門野松は、思わず声を漏らした。音楽プレイヤーの画面には、20:45という文字。明日は一限の授業こそないが、時間がある部員は朝稽古にも参加するよう言われている。
あらためてまわりを見ても、一緒に踊っていたダンサーたちは本当に誰もいない。だぼっとした格好のブレイクダンサーも、お揃いのジャージを着たチアリーディング部らしき女子たちも、いつの間にか皆帰ってしまったらしい。
でも良かった、踊れて。
動きを止めた松は、愛用のリュックから使い古した雑巾を取り出した。彫りの深い精悍な顔に自然と笑みが浮かぶ。
ここ、教養棟一号館の入り口は全面ガラス張りの扉が並んでおり、適度な照明も入るため、ダンスの練習をしたい学生たちには格好のスポットとなっている。その存在は演劇部の松も聞いたことがあり、今日初めてお邪魔してみたのだった。
こんななりでジャズを踊ってるのなんて、俺だけだったけど。
内心で苦笑しながら、鏡代わりに使わせてもらったガラス扉を拭き始める。自嘲してしまう通り、下は細身のジャージパンツ、上半身も身体にフィットするコンプレッション・ウェアという、いかにも舞台の人間ですという服装なのは自分だけだった。
まあ、誰も気にしてないか。
自意識過剰だな、と顔にも笑みを浮かべ、他のダンサーたちが向かい合っていた部分も上端までしっかりと磨いていく。自身では持て余し気味の百八十一センチの長身も、こういうときは非常に便利だ。
ガラスを拭き終わり、誰かが捨て忘れたペットボトルも扉脇のゴミ箱に入れたタイミングで、ちょうど照明が消えた。
さて、帰ろうかと思った瞬間。
「お」
声とともに、一条の光が飛び込んできた。
「おお」
何かに感心するような台詞とともに、飛んできた丸い光は手元から周囲へと移動していく。懐中電灯だとワンテンポ遅れて松が理解したところで、ふたたび声が響いた。
「おおー」
さっきから「お」しか言っていないし本人の姿も見えないが、耳に心地良い涼やかなトーンは、明らかに女性のものだとわかる。
「ほお」
「うわっ!」
やっと「お」以外の言葉が聞けたと思ったら、光が顔に直接向けられた。
「あ、悪い。まぶしかったか」
懐中電灯がすぐに下げられ、問いが続く。
「あんた、見かけない顔だな。初めてか?」
「え?」
初めて、というのはこの場所の使用についてだろうか。ひょっとして用務員さん? いや、でも女性の用務員さんなんて見たことがない。
「まあいいや、ありがとな。感心感心。これなら、あたしの仕事も減るってもんだ」
声色はとても綺麗なのに、やたらと蓮っ葉な口調だ。そのギャップもあって、松の脳内にはますますクエスチョンマークが浮かぶばかりだった。
すると。
ふわりといい香りがした。柑橘系の、香水というよりは制汗剤みたいな爽やかな匂い。同時に、「ほれ」と何かが手渡される。
「え?」
照らされた手元で受け取ったのは、スポーツドリンクのペットボトルだった。
「自分でここを掃除してから帰ろうとしたのは、あたしが見る限りあんたが初めてだ。ありがとう。ご褒美だけど、他の奴らには内緒な」
「え? はあ……って、ちょ!?」
よくわからないままに「ご褒美」をもらってしまった松だが、次の瞬間、ドキリと胸が跳ねた。顎先からすぐ近くで、黒縁眼鏡をかけた女性の顔が微笑んでいたからである。
いつの間にここまで接近されたのだろう。眼鏡の向こう側では、黒々とした瞳が間接的に届く光を反射している。真っ直ぐな視線はなんと言うか、いわゆる「目力」が非常に強い。暗いのではっきりとはわからないが、瞳と同じ黒色に見える髪は、ぼさぼさのショートカット。年齢は自分と同い年くらいか。いずれにせよ、用務員さんどころか全然若い相手だった。
「じゃあな。掃除も大事だけど、ちゃんとクールダウンもするんだぞ」
もう一度にっと笑いかけると、眼鏡の女性は小走りに離れていった。カチャカチャと音がして、さっきの懐中電灯とは別の光と、自転車のテールランプらしき赤い色が点滅し始める。
「…………」
ありがとうございます、のひとことすら言えなかったのを松が思い出したのは、柑橘系の残り香に包まれたまま、遠ざかるテールランプを見送ったあとだった。