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勝手に想いをつのらせてます。

喉が渇いているけど、水が飲めない。

そこに蛇口があるのにだって?

水道が止められていたら、崩れ落ちてしまう気持ちが分からない?

コップだってこんなにヒビだらけで。

おまけに、蛇口を指さしたその手が、いつもコップを叩き落とす。

その度、破片が刺さってひどく血が流れるのに。



「同情で人と付き合うのは失礼にあたる」


「でも、悟さんは鬼のような母親にネチネチやられてる。」

「三十七歳にもなって、家を出ればいいじゃない。」

「出ようとすると鬼母がその度に包丁振り回して。」

「早苗、他に好きな人が、ずっと好きな人が居るでしょ?」

「私が居なくなったら悟さんが。」


「逃げ口上に人を利用するほど不躾なことはない。」



夕刻電話をかけた彼のツイッターをじっと見る。

どうやら、日曜日なのに仕事をしているらしく、それなら電話に「出なかった」のではなく、「出られなかった」のだ。


早苗は胸をなでおろした。

しかし、彼から電話はかかってこない。

気分を変えようと早苗はシャワーを浴びに行った。


お風呂場には沢山の思い出がある。

「だって誰も僕とお風呂なんて入ってくれないもの。」

と言ったのは、早苗が離婚して初めて出来た甘え上手な、当時学生だった元彼氏。


悟は甘え方を知らない。

甘えようとしても、甘えるのが下手で気を引くことも下手だ。

だけど、その不器用さが、早苗には可愛いのだ。


早苗は夏用のミントシャンプーを使いながら、悟が早苗の部屋で初めてミントシャンプーなるものの存在を知り。

ひどく気に入って、同じものを自家用にもう一つ買っておいてくれまいかと頼んだことを思い出した。


早苗はまた雑用が増えた、くらいにしか思っていなかったけれど、これが悟の精一杯の甘えだったかもしれない。


そう思うと早苗の胸は締め付けられる。


パンチドランカーの症状が少し出ているのか、悟は話すのが下手だ。


物の単語が素早く思い出せず「アレがどうなってるのかな」といった、聞く側にちょっと努力を要する言い回しをよくする。


付き合いの浅いうちから早苗はそういった悟の言葉がよくわかった。


早苗は電車の中で、意味不明の言葉をつぶやいている人の、言いたいことも解るのだった。

そんな悟が、この先他の女性と上手くやっていけるのかどうか。


早苗は心配になったが、早苗は悟の母親ではないのだ。


しかし悟の母親は、聞く限りにおいては「適切な」母親ではない。


しかし、と早苗は「ウチと私はシェルターではない。」ということを悟に突きつける時が来たんだからと、気持ちを引き締めた。



ぶつぶつつぶやいて、金切り声を上げて。

電車の中で独り話す、人の言葉のその意味が、伝わってくる。

「僕は、電車が好きで、なぜ好きかというと、こうやって僕の話を聴いてくれる人がいて。

それから、僕は明日が来るのが怖いけれど、心配しないで、やっぱり明日が怖いけれど・・・」

それだけのことを繰り返し、繰り返し話しかけている。


応える人は居ない。



早苗は悟がライン電話で言った「早苗は働いていないから、元旦那さんの仕送りで暮らしているから、高額なチケットの格闘技観戦に誘えなかったんだよ!」という言葉を思い出してひどく腹が立ってきた。


「じゃあ、今朝食べたお米は?ボディシャンプーや、鼻炎のあなたが頻繁に使うティッシュ、シャワーのガス代、水道代は?」と咄嗟に言い返しかけてやめた。


悟はそこそこ稼いでいるのにケチで、三十七年間実家で暮らしているせいか、日常の消耗品は自動的にそこらから湧いて出てきてくると思っているフシがある。


いつも割り勘で、その割り勘だって一円単位だ。


時折スーパーで「自分の買いたい物」「のついでに早苗の家で必要な物」を五百円くらい買ってくれる時もあるくらい。


早苗は悟より年上なので、何もかも全部ウマウマと奢って貰おうとは思わないが。

最初のデートで流れるように一円単位で割り勘になって一年。

どう考えても早苗の方が「負担」している。


それなのに、そんな悟に一番言われたくない言葉を投げつけられたのだ。


早苗には早苗の、働いていない事情がある。

それを知っていてそんな事を言うか。と悔しくて。

早苗は心の中でもう一度悟を突き飛ばした。


電車の中の独り言が早苗に分かるのは、不幸な結婚で傷ついて、発症した早苗の心のありようであり、早苗だって電車でいつか、つぶやき始めてもおかしくないのだ。


その狭間で服薬しながら生きる早苗にとって、ガヤガヤとした職場で働くのは不可能だ。


早苗は一気に気分が悪くなり、電話をかけたかった彼のツイッターを見てみた。

微動にだしていない。


何か気分の晴れることはないかと周りをぐるりと見回したが、何もない。


髪から香るミントシャンプーの香りもうざったく感じてきた。


その時、早苗のラインに通知が来た。

「おやすみなさい。早苗」


一年続いた悟からの年中行事のその言葉も、今日は何だか必死に思える。

「おやすみなさい。悟さん」

と返して早苗は服薬した。



眠らなくてもいいけれど、それだったら起きなくてもいいはずだ。

幸い眠って見る夢は何故か楽しくて仕方がない。

私は計算された眠りしか手にできない。

起きなければと、計算された眠り。

次まぶたが開いたら何が見えるのか。それよりも、次まぶたが閉じたら何が見られるのか。



薬が効いてくると、ゆったりと眠る前にまず、様々なイメージがキラキラとまばたく。

ある意味で興奮する。

慎重にかけられた、理性のガードが一つずつ外れていくのが分かる。

この手の薬が、意識変様の遊びに使われて居ることを知った時、早苗は納得した。

あと少しすれば、何も起きない安寧がやってくる。


翌朝目覚めた早苗は、午後から雨になるとネットの天気予報で調べたので、急いで買い物に行った。


雨は午後からのはずなのに、スーパーの地下から上がってきた早苗にザンザン降り募った。


雨のぬるさの中にも、ヒヤリとしたものを感じて早苗は秋の訪れを感じた。


昨夜見た夢はよく覚えてなかった。


びしょ濡れになって部屋に帰ると。

何かが足りない、と感じて。

悟からの「おはよう」ラインだと気づいた。


悟からは、毎日「おはよう」「今からお昼」「仕事終わった」「帰宅」と判で押したようなラインが届き、早苗はそれに応えて「おはよう」「おいしく食べてね」「お疲れ様」「おかえりなさい」と機械的にラインを返していた。

百回以上繰り返されてきたこのやりとりに、何か意味があっただろうか。


しかし、今まであったものが、いざ無くなってみると寂しい。


悟は昨日のライン電話の後でも「おやすみ」と送ってくれた。

今朝になって何か心に決めたものがあるのだろうか。


毎日アホみたいに同じやり取りをして、それに障りがないように外出時間を調整していたりした早苗は、どこか解放された気持ちになった。


いよいよ、独りで生きていくことになるな。

正直言って心細い。


自由とは寂しくて、心細いものなのかもしれない。



声が聞こえないと、独りぼっち。

声が聞こえると、独りにさせてくれない。

声に合わせてスケジュールを組むのは息苦しい。

独りはもう嫌なんだけど。

独りも好きなんだけど。



昼過ぎラインから通知音が流れた。

おや?と思って、早苗は内容を確認した。

「今からお昼。」

悟からの、いつもの定期便だ。


いぶかしく思って、さかのぼるとキッチリ今朝も

「おはよう、今から行ってきます」

とラインをくれている。


不具合が生じて、通知が来なかったのだ。

無視していたのは、早苗の方になってしまった。


「おそようございます。おいしく食べてね。」

寝ていたふりをして返すと、感涙にむせぶウサギのイラストのスタンプが送られてきた。


悟の体温を感じた。

悟の感情のゆらめきと、心細さが伝わってくる。

早苗は悟に対して、優しい気持ちになる。


早苗は昨日電話をかけた彼のツイッターを相変わらずチェックしてみる。

元気で忙しく働いているみたいだ。


早苗への着信はない、ツイッターもいつもの調子だ。


早苗が電話をかけた前も、後も、何ら変わりはない。

無視しているのは彼だ。


電話一本ぐらいかけてくれても、と早苗は考えるが、徹底的な無視っぷりに逆に意識しているのではないか、とも思わせる。


それともそれは、ただ早苗がそう思いたいからか。


彼の声が聞きたい。


悟の体温を、心細さを感じたばかりなのに、早苗は冷酷にもそう思った。



隠している所を想像する。

情報量が少なくて。

住む部屋さえ知らず。

ミルクチョコレートとコーヒー。

チャイ又はお酒とシーシャ。

そんな関係にはなれないのです。



早苗が電話を待っている彼と早苗は一度だけデートをしている。

去年の二月頭、まだ早苗と悟が出会う前、早苗が店を予約して、新宿で待ち合わせた。


時間になっても待ち合わせ場所に現れない彼に、携帯電話の時計を見ながら早苗は不安になり始めた。


その瞬間、駅とは逆方向から

「お待たせしました。」

彼の声がして、驚いた早苗は危うく声を上げかけた。


遅れた彼に抗議しようとしたとたん、

「さあさあ、はよ行きましょう。」

と言われ、出鼻をくじかれた早苗は怒る気も失せて目的の店へ向かった。


地鶏を食べさせる店だということで選んだのだけど、ありきたりの居酒屋風でボロが出ていて油っぽい店内に、早苗はしょんぼりとした。


だが、料理はことのほか美味しく、くたびれた店内は初対面に近い二人をリラックスさせてくれた。


「これ、まだ早いけど。」

早苗がデメルのチョコレートを手渡すと。

「わー、チョコレートなんて東京来てから初めてですわ。家でコーヒーとメッチャ食べます。」

彼は喜んでくれた。


料理が美味しいので二人は次々と頼み、テーブル一杯になったご馳走を会話しながら楽しんだ。

お酒も進む。


二人の会話がピタっと止まったのは、シメに頼んだ焼き飯がハート型に盛り付けられて出てきた時だ。

早苗はハートの半分からはみ出さないように、注意して自分の分を取り皿に取った。


手が震えて焼き飯がテーブルの上に少しこぼれた。

彼は自分側のハートをペロリと食べると。

「トイレ行ってきますー」

と言って、ついでに会計も済ませてきたようで、早苗が

「お勘定は?」

と聞いても

「いやいやいやいや」

と笑って

「次はバーへ行きましょう。」

と言うのであった。


二軒目のバーから三軒目のバーへ移動する頃、終電の時間が近づいてきていた。


彼は「もう一件行きましょう、でも僕はあなたも知っている通り、あなたの元旦那さんと知り合いですから、あなたとそういう関係にはなれないんです。」

息を吐き切るようにして彼は言った。


三軒目のバーを出ると丁度終電の時間だった。

二人は別々の駅から帰る。


早苗は地下鉄の入口を降りていく彼に、地上から手を振った。

彼は何回も何回も、早苗の方を振り向いて手を振り返した。


彼の姿が見えなくなってから、早苗は何か言うべきことがあったんじゃないか。あったんじゃないか。

そればかり心の中で繰り返して、満員の最終電車に乗り込んだ。



キッチンを飾るポトスはいつだって枯れてしまう。

今日だって黄色くなった病葉を取り除いたら元気な葉は一枚だけ。

一枚だけの君のために、いつもしているように、根こそぎ植え変えられないじゃないか。

一枚だけ残った君に水をあげるのも、バカバカしくも思える。



今年の春、早苗の元夫が絡んだイベント会場で彼を見かけた。

その後の花見の席で彼がブルーシートの上を歩いて早苗に近づいてきた。

足が靴下姿なのが、妙に無防備に見えて早苗は可愛いな、と感じる。


「今年は誰かにチョコレート、貰えましたか?」

早苗が冗談めかして言うと。

「一個も貰ってません。」

真面目くさって彼が言うので、早苗は笑ってしまった。


笑う早苗を見て彼は畳み掛けるように、また真面目くさって

「そんなもんですよ。」

と言うので早苗はますます笑ってしまった。


その時、早苗が閉めていた心の蓋がコトリと少し開いてしまった。

「飲みませんか?」

と早苗がメールを送ったのはその二週間後、返事がないので、日にちを指定してもう一回メールしたのは、その一週間後。


「お返事遅れて申し訳ないです。その日は差し支えていまして。でも、近々飲みたいですね。」

そんな返事がすぐに返ってきて、それ以来、音沙汰がない。



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