何年経っても分からない事。
三回に渡って連載します。
冷房で冷えたガラス窓に、虫が何度も何度も体当たりしている。
部屋の明かりに近づきたいのだろう。
羽音の気味が悪いと思うだけで。
なんの虫かは知らない。
秋という文字が、ようやく暦に現れた頃、早苗は彼に電話をかけた。
電話をかけるまでスマートフォンの彼のアドレスをじっと見ていた。
そんな事をしている間にスマートフォンの電源は、自動的に三回落ちて真っ暗な画面になった。
もういっそ電話をかけるのをやめてしまおうかと、早苗は思ったが、どうせ電話をするには非常識な時間帯になってから、後悔してベッドで悶絶するだろう。
そして、夕暮れの自分自身を呪い、責め立てるだろうことが目に見えている。
四回目の電源が落ちる前に、彼の電話番号をタップした。
繋がらないでくれ、繋がれ、と、ぐるぐるしながらコール音を七回聞いた後、慌てて電話を切った。
「出られなかったのか、出なかったのか」と考えて「出たくなかった」という早苗は早苗なりの結論を出して、ベッドの上で丸くなった。
三十分後、彼のツイッターが何か呟いた。
七十年前の今日、長崎に落とされた原爆についての、祈りと追悼を記したBBCの記事のリツイートだった。
早苗は写真の教会で祈る女性と、女性が頭にふわりとのせている真っ白なレースを素直に「美しい」と思った後、彼に「こんな日によこしまな電話をするなんて」と責められているような気持ちがして、心が縮んだ。
確かに、よこしまだ。
石だから、自分の思うように動けない。
この間、誰かが蹴って五十メートルくらい移動した。
期待して周りを見回したけれど。
前と全く同じ風景。
物だから、壊れることはあっても、死なないしね。
退屈も難儀だよ。
早苗は空腹になって冷蔵庫を開けたが、豆腐しかなかった。
お味噌汁でも、と思ったが、今日はチートデーだったことに気付いて、せっかくのチートデーなのだから一週間ガマンしていた分、食べてやろう、と外へ出た。
料理する気持ちは起きず、スーパーでお惣菜でも買って、と思ったが、近所のスーパーは野菜売り場から始まって、お惣菜売り場までショートカット出来ずに、強制的に店内をぐるりと歩かされるのが億劫でうざったかった。
100円ローソンもいいな、と思いつつ、トボトボ歩いて、結局家から一番近いファミマに入ってしまった。
チートデーとは早苗の現在の彼氏の悟が教えてくれた言葉と方法で、元プロボクサーの悟流の痩せ方なのだ。
平日は節制し、土日は好きに食べ飲みする。それだけ。
好きに食べ飲みする日をチートデーと言う。
ファミマに入ると日曜日の夕方、コンビニ弁当を買い求める寂しい独りの人々で、レジに列が出来ていた。
勿論、早苗も寂しいので、その光景にホッとした。
お弁当の棚を見て一番量が多くて安いミートソーススパゲティーを選んだ。
レジに並んでいる時にバニラアイスクリームをビスケットで挟んだものもカゴに入れた。
彼氏の悟は友人の試合観戦に行ってしまっている。
先ほどラインで「友人が勝った」と連絡が入ったので、今頃飲んでいるんだろう。
「高いんだーチケットがさぁ。B席で七千円するんだよ。」
と言っていた。
「一緒に観たいけど、チケットが高くて」でも
「チケットが高いけど一緒に観たい?」でもなく、一人で勝手にチケットを買って、一人で勝手に試合観戦に行く。
そういうところが、早苗には寂しく、悟のマイペースさについていけないと思わせるのだ。
習わしになっているのだが、悟は昨日の土曜日、夜にやってきて、実家住まいの辛さを語り、自分観たい猟奇もののDVDを借りてきて、自分の食べたい肉を買い、早苗に料理させて、セックスをして。
酒を飲みながらDVDを観る。
悟の一番楽しい過ごし方だ。
早苗に一話観たから十五分寝る。続きが見たいから時間が来たら起こしてくれと言って、悟はベッドで寝息を立てている
その寝顔を早苗がどう思うかによって、恋は決まる。
早苗は、愛しいとも、苛立つとも思わず、ただただ困ったなぁ。と思うばかりだ。
早苗の悟に恋する気持ちはとうになくなっていて、実家住まいで、その実家がこじれている悟を哀れんでいる。
一方でリラックスしきった悟にとって、早苗が何らかの価値があることに安心してもいる。
悟が来ただけで何となく乱雑になった部屋を見渡しながら「困ったなぁ。」とまた思う。
早苗は血しぶきを上げたところで一時停止をしている画面を見て、そのまま十五分が経つのを待った。
怒ってはダメだろうか。
好きにするのはいいけど。
理由も何度も聞いたけど。
発作的に怒っては、いけないのだろうか。
「味噌汁はー?」という悟の声で早苗は目覚めた。
昨日、遅くまで猟奇もののDVDを観ている悟に付き合いきれなくて、早苗は寝落ちしてしまっていた。
夜中、目覚めて中身がカラになっている麦茶の容器を見つけ、寝ぼけ眼で作り直して冷蔵庫に入れておいた。
それを見て、悟は味噌汁もどこかにあるのかと思ったのか、それとも、言えば早苗が作ると思ったのか。
半年前なら、早苗はいそいそと味噌汁を作ったかもしれない。
でも、今となってはゴメンだ。
悟は自分で炊いたご飯と、昨日肉と一緒に買ってきた納豆を食べていた。
無邪気に食べるその姿を見て。「夏休みの子どもみたい」と思いながら。
起き抜けの早苗は今イライラしてしまう。
自分が食べた分のお皿だけ綺麗に洗って、悟は髪をセットし、「じゃ、行ってくるわ」と出て行った。
夕刻になって早苗は炊飯器に半分残ったご飯を見る。
早苗は「こうやって気を使ってくれるのだから」と念仏のように心で唱えた。
「あ・・・・」この感覚は何かに似ている。
離婚前の自分と全く同じではないか。
「夫にもこういう良いところもある。」
結婚生活の最後の十年間、念仏のように唱え続けた結果、人生のリスタートが遅れた早苗である。
挙げ句の果てに、不倫相手の女と共謀した元夫に家を追い出された。
そこから学ばずしてどうする。
早苗はさくっとライン電話で悟を呼び出した。
ライン電話で早苗は頑張った。
自分の部屋を守りたい、私のパソコンで私の寝ている間にAV女優のページを見るな。
マイペースすぎる。試合観戦に誘って欲しかった。
外堀からじわりじわりと埋めて悟の口から「別れる」の一言をおびき出そうとしていた。
早苗から「別れる」と言うのは怖かった。
電話口の悟は謝りっぱなしで、早苗と早苗の部屋を手放したくない気持ちが伝わってきた。
やっぱり一年も付き合うと情が移ってかなわない。
結局、悟は早苗の部屋にしばらくは来訪せず、週末外で会うことで話は付いた。
その週末も早苗は会わない気持ちで居る。




