王太子妃の座は一つ
その後の数週間は慌ただしく過ぎた。
あの茶会をきっかけに、メイサがシェリアを訪ねて来るだけでなく、逆に色々なところへ連れ出すようになったからだ。
結婚の準備で忙しいだろうに、合間を縫うようにしてシェリアの元へ現れ、そして彼女をあの箱庭から連れ出すのだ。
確かにシェリアは部屋に籠りがちではあった。ジョイア出身というだけで扱い辛いのに、さらに元妃候補となれば、皆が皆腫れ物に触るような対応だった。当然王宮に友人などできるわけもなく、昼間ヨルゴスがいない間、シェリアはいつも一人だった。
外に出るのを億劫に思いながらも、広い王宮を案内されるのはいい気分転換にはなった。
そして、メイサを苦手だと決めつけていたけれど、時が経つにつれて徐々に楽になった。
多少話が噛み合ないけれど、二人は価値観がとても似ているのだ。
例えばメイサがよく口にする「勿体ない」という言葉。あれはシェリアの生き方の底辺に根付いているようなものだった。ジョイアは国としてはとても豊かだけれど、本当に豊かなのは南部と中央だけだ。北部は貧しい。格差が大きな国なのだ。北部にある土地、ケーンやオリオーヌは冬は雪で閉ざされて、作物も実らない。短い夏に育てた米で冬を食いつないで、春を待ち望む。そんな土地で育てば、野菜の切れ端一つでも大事にするし、同じ感覚で物を大事にする。
メイサには、シェリアと同じような生活をしてきた雰囲気があった。きらびやかな王宮で疎外感を感じていたシェリアが、メイサとの時間に安らぎを感じていたのも確か。――しかし一方で、シェリアの中には大きな葛藤が生まれていた。
昼の鐘が鳴り、朝議が終わったヨルゴスが昼食を食べに戻ってきた。
「あれ、良い匂いがするな。なんだろ?」
彼は部屋に入るなり言った。そしてシェリアをじっと見てポンと手を打った。
「ああ、そうか。――なるほど、例のあれか。ルティリクスが作ったって言う」
シェリアは昨晩久々に髪を洗った。というのも、風呂を用意してもらったからだった。
もちろん毎日入浴はしていたけれど、水の無いアウストラリスの浴室はジョイアの風呂とは構造が違う。湯船に浸からないで、少量の水を使って体を拭くだけだ。
湿度がないからさほど不快ではないが、たまにジョイアの風呂が懐かしくなるのは当然だった。なにより長い髪をなかなか洗えないのが嫌だった。洗髪に使える水は小さなたらいに一杯だけ。頭皮をすすぐだけで終わってしまう。
一介の女官の身で髪を毎日洗うなどという贅沢が叶うはずもない。ここはアウストラリスという水の貴重な国なのだから。
オアシスに建てられた王宮には温泉もあるらしいが、入浴に使うという事はないらしい。水量がないからかもしれないが、大きくは文化の違いだろう。そんな利用方法を考えもしないのだ。
ジョイアの女性は皆髪が長く、美しさの基準ともなっているが、それはあの国の風土があってこそのもの。手入れに使う水が豊富だから髪も伸ばせたのだろう。
シェリアは自分の長い髪を鬱陶しく思い始めていた。いつも編み込んであるシェリアの髪は全て解いてしまえば足首ほどまである。細いが傷みもない髪は、ジョイアでは随分ともてはやされたが、この国ではどうせ誰も誉めてくれない。いっそ腰下までくらいの長さ――ジョイアで最低限許されるくらいの長さだ――に切ってしまおうかとも考えはじめていた。
ところが、昨日の夕方の事だ。
ヨルゴスの塔から帰る途中だったシェリアはメイサに捕まった。そして王太子の塔に連れ込まれ、風呂に入らせてもらった。――あくまで評価のためだそうだが。
『ぜひ感想を聞かせて。改善点とか教えて貰えるととてもありがたいの』と真剣な目で訴えられ、シェリアは内心大喜びで風呂を使わせてもらったのだ。
掛け流しのぬるい湯で埃をすすぐと、長い銀髪は元の艶を取り戻した。輝く髪はどんな宝石よりもシェリアを美しく見せ、薄れかけていた自信も同時に回復する気がした。
しかもメイサは風呂の改善をしたあとにまた試して欲しいと言ってきた。お礼に、風呂が空いている時はいつでも使っていいとも。シェリアは入浴の予定を立てるだけで心が浮き立つのがわかった。
「――良かったね」
どこか面白そうなヨルゴスの声ではっとする。頬が緩んでいたのだろうか。慌てて弄っていた髪を手放すと作業に戻る。
「きっと無意識なんだろうけれどすごいね。――やっぱりメイサはメイサだ」
ヨルゴスは何か思い出すように天井を見つめた後、くすりと笑った。
意味がわからず首を傾げたとき、ヴェネディクトが声を上げ、話題の人物の名を呼んだ。
「メイサ様がいらっしゃいました」
二人は連れ添って昼食へと向かった。ここのところ昼はずっと一緒だ。昼の鐘が鳴ると迎えに来るのだ。それはいつの間にか習慣づいていた。
食堂に着くと中央の円卓の食べ物を取りに行く。そしてシェリアはいつもナンが置いてある一画を目にして呆然とした。
「うそ……ご飯がある」
驚き過ぎて固まったシェリアの後ろからメイサが「ほら、後ろが詰まってるわよ?」とからかうように促した。
「これ、どういうこと?」
結局シェリアはご飯だけ二膳も取ってきてしまった。あまりのことに副菜は目に入らなかった。メイサはくすくすと笑いながら、多めに取った野菜や肉をシェリアにも分けてくれる。
「王太子殿下に提案してみたのよ。ほら、アウストラリスの人ってどうしてもジョイアの人に苦手意識があるじゃない? 異文化の交流を増やせば確執が少しずつでも消えるかもしれないわねって。特に食べ物って気軽な割に印象に残りやすいし……あら、美味しい」
メイサは美味しそうにご飯を頬張った。
シェリアは呆然と湯気を立てる米飯を見つめていたけれど、釣られて一口頬張る。
久々の味。噛み締めると甘く、懐かしさにじわりとこみ上げるものがあった。
「……おいしい……」
「よかった。いっぱい食べてね」
ほっとしたようにメイサが呟いて、シェリアは夢中で動かしていた手を一瞬止める。
「え?」
「いえ、なんでもないわ。ほら、あなたがこの間言っていたでしょう? 米は穫れないのかって」
「ええ」
そういえば言った気がする。ちょっとした愚痴だった。でもなんだか泣き言みたいになって、言った後で後悔したのだけれど、覚えられていたようだ。僅かな気まずさを感じながらも、シェリアは目の前の米に集中する。
「調べてみたら西部の涸れ川周辺で、麦以外に少し穫れるらしいの。まだ治水が済んでいない土地だから多くは作れないのだけれど。今後ジョイアから技術者を呼べば、田の開拓が進むかもしれないわ。そうなったらこの国の食料事情もまた少し良くなるわよね」
小難しい話はもう聞いてられなかった。
メイサがひどく嬉しそうにこちらを見ているのを不審に思ったが、それより今は米だった。シェリアは無我夢中で二膳目を平らげ、さらに三膳目のおかわりをした。
*
数刻後。メイサの周りに溢れる深紅の絹の布を眺めながら、シェリアは内心来るんじゃなかったと毒づいていた。
アウストラリスでは赤は禁色だ。その色を使う衣装と言えば、王族の衣装でしかない。つまりこれはきっと花嫁衣装なのだろう。シェリアが予想した通り、王妃のお下がりは有り得なかったらしい。
薬液の調合に使う計算がどうしてもわからなかったので、食後に教えて貰っていたら、そのまま仮縫いに同席することになってしまっていた。
メイサが衣装の感想を聞きたいと頼んだのだ。自分でヨルゴスを狙っていると言った手前断れず留まったが、シェリアはこれが手の込んだ嫌がらせなのではないかと穿ってしまう。
そして、こんな風にシェリアが見ていないところで着々と準備が進んでいるのを知ると焦りも生じてしまうのだ。
目の前では上質な肌着に身を包んだメイサが、惜しげも無く見事な体を晒している。絹の肌着は針金などでの締め付けもないし、詰め物などでの底上げもない。おそらく肌着を脱いでしまっても同じ形を保つことが楽に想像できた。何も矯正されていないことに愕然とする。あの体型ならば、多少は補正があるだろうと期待していたのだ。
あれが全て天然なのか――考えるとなんだか諦めに近い気分が沸き上がるが、シェリアは必死で追い払った。張り合っても無駄な部分で落ち込んでもしょうがない。
部屋は熱気に満ちていた。五名ほどの若い侍女達が一様にどぎまぎしているのがわかる。ただ一人冷静なのは端で監督を行っているベテランの風格を持つ女官だけ。年齢はシェリアの侍女のマルガリタと同じくらいに見えた。
「王妃様は、とにかく華やかにとおっしゃいましたので。この形で進めさせて頂こうかと」
ベテラン女官は、図案通りに裁断された布で裾の広がった形を作る。肩を出し、腰を絞って、裾に襞をたくさん作って広げた、ジョイアでも見かけた大陸の流行最前線を行く型。胸元や膨らんだ裾には細かいレースが仰々しい形を描きながらピンで留められて行く。
アウストラリスでも、ジョイアでも、大抵の娘――シェリアももちろん含まれる――が憧れる花嫁衣装の代表だ。案外王妃は新し物好きなのかもしれない。
メイサは戸惑った顔で足元に広がる大量の布を見つめ、そして大きな姿見を見つめた。
「ええと、これ、私には似合わない気がするの……シェリアには似合いそうなのに」
まず、自信のなさそうな顔が駄目なのだと言ってやりたい気分で、シェリアは溜息をついた。
だが、シェリアもメイサにはこの国の伝統的な衣装である体の線を強調する衣装の方がきっと似合うと思った。逆に今メイサが身に付けているような装飾がついたものは、シェリアのように貧相な体を見栄えよく飾るためのものだ。――悔しいから言うつもりもないが。
せいぜい似合わない衣装で儀式に臨むがいいと妬んでいると、扉が叩かれる。
入り口に待機していた侍女が慌てている気配がした。
「殿下、あの、今は仮縫い中で――」
「だから来たんだ。母上の趣味に合わせていたら台無しになるだろう」
「ちょ、ちょっとルティ!?」
メイサが扉をあらためて悲鳴のような声を上げた。服になる前の布は針で留められてはいるが、つまり針一つ抜けば解けてしまうほど脆いものだ。シェリアは自分の事でもないのに落ち着かない気分になった。
「――なんでまたいるんだ」
王太子はシェリアを見ずに言い捨てるが、誰のことを言っているかは刺々しい雰囲気から察せた。
「だって引継ぎがまだ途中だったから」
メイサは言い訳したが、王太子は怒りを治めない。
「ここに同席させる意味がわからない。この間だって、勝手に風呂を使わせて――あれは俺がお前のために」
「ルティ!」
立腹する王太子をメイサが慌てたように遮る。
「いいじゃない。減るものじゃないのだし……意見が聞きたかったのよ。今日だって、ジョイアの女性からどう見えるのかって。だって、ジョイアからもたくさんお客様を招くのよ。少しでも似合うものを着たいけれど、場に合わないもので恥をかきたくないのだもの。それより、似合うかしら?」
自信なさげな顔に王太子が容赦なく追い討ちをかけた。
「似合わない」
きっぱりと断言されて、シェリアはぎょっとする。世辞の一つも言えないのかこの朴念仁――思わず口に出そうになって、慌てて口を押さえた。さすがにそこまでの暴言はまずい。王太子妃の座の前では、まだ多少の猫を被っておくべきだった。
「やっぱり?」
メイサは傷ついた様子も無く、却って嬉しそうな顔をする。
「実は、私もそう思っていて――でもシャウラ様が言われるのなら、間違いはないと思うし。言う通りにした方がいいかと思ったの」
「ごたごたしたものはお前には似合わない。おい、裾は細くしろ。全体的に体に沿わせればいい。あとは装飾は極力省け」
「しかし――地味になり過ぎます。ご婚礼のご衣装ですよ? あまり地味ですと、諸外国の皆々様に見劣りしてしまいます。特にジョイアのスピカ様やシリウス皇太子殿下はお顔立ちも立ち振る舞いも華やかであらせられるとか」
ベテラン女官が渋ると、メイサが不安そうに項垂れる。しかし王太子は鼻で笑った。
「こいつが見劣り?」
女官は眉を寄せて、メイサをじっと見つめる。そして言い回しを変えた。
「メイサ様はどんなご衣装でもお似合いですけれども、やはり力の入れ具合というのは目に見えますので」
王太子は満足そうに頷いて、そしてメイサをじっと観察したあとにぽつりと呟く。
「――もし装飾を入れるなら、生地に地模様があるものを使えばいい。模様はそうだな、薔薇の花がいいだろう。それから宝飾類はすべて金を元にしたものを使え」
シェリアは聞きながら感心する。王太子にはメイサに一番似合う服がわかっている。この持って生まれた女性らしい線を襞などの余計な装飾で隠すのが勿体ないのだ。
女官はなるほどと納得した顔をしたが、すぐに首を横に振った。
「地模様ですか――でしたら、また生地を取り寄せということになりますが。生地から作るとなると、あまりお時間がありません」
「急がせろ。織り子、針子を総動員して、最上級のものを作れ」
「そ、そんな贅沢しなくていいわよ。普通でいいわ。どうせそんなに変わらないもの」
メイサが慌てると、王太子はひどく甘い笑顔を彼女に向けた。
「俺の結婚は伯父上とは違って一度しかないんだ。今回だけは絶対遠慮するな」
(ねぇ。周り、見えてる?)
二人のいる中央だけ空気が濃い。シェリアは自分の存在がここに無くて、魂だけが抜けてここを浮遊しているのではないかと想像する。それほどに二人の世界は熱烈で、部屋の中の誰もが割り込めない雰囲気だった。
(いいえ……ちがう。王太子は、わざとね)
ここにシェリアがいるから敢えてそうしているのだ。気がつくと、胸に重しが乗せられたように息苦しくなった。
(もう、駄目なのかも)
今までめげないように必死で上を見つめていた。迷わないように目標を掲げ続けた。だけど、やっぱりメイサはひどく魅力的で、シェリアは彼女にどうしても敵わない。
薔薇のように美しく、賢く、優しく。どんな男も魅了するだけの魅力を持っていて。それなのに、驕らず控えめで……王太子が夢中になる理由もわかりすぎるくらいにわかる。
ここ数週間でメイサにしてもらった事は数えきれない。
最初は勘違いかと思っていた。実験用の前掛けに始まった、数々の“親切”。
気が付いていないふりをした。だけど、そろそろ誤摩化すのも限界だった。さっき王太子が言った事ではっきりしてしまったのだ。
メイサは評価のためにと風呂を使わせてくれたけれど、ならばなぜ作った王太子の許可を得ていないのか。――つまり本当はメイサがシェリアを風呂に入れたかっただけだ。評価というのは口実だったのだ。米の事だって、別に催促したわけでもないし、するつもりもなかった。だが、問いの裏側にある願いをメイサはしっかり汲み取ったのだ。
一つ繋がると、メイサの数々の不思議な行動は全てシェリアのためにやってくれているようにしか思えなかった。
(どういうつもりなの。どうして良くしてくれてるの?)
問いたいけれど、問えない。それはシェリアが抱えている後ろ暗さのせいだけではない。メイサは問わせないのだ。善意の押し売りをせず、あくまで『ついでだから』と押し付けない。まるでシェリアがそれを憎んでいるのを知っているかのよう。
嫌えない。近づけば近づくほど、メイサの事を嫌えない。いくら粗探しをしても、嫌なところより好きなところが多すぎて、どうやって嫌えばいいかわからない。
(スピカみたいに悪女であれば、どんなに汚い手で追い落としてやるのに)
シェリアは柄にも無く泣きたくなる。王太子妃の座は一つしかないのだ。彼女を追い出さなければ手に入れられないのに。
(私、どうしたらいいの)
追いつめられたシェリアが一つの策を実行するのは、王太子とメイサの婚約の儀の日取りが決まった日のことだった。