(12)
案内から戻ってきたヴェネディクトはさすがにシェリアが気の毒になって報告した。
「悔しかったのか存じませんが、部屋に入るなり叫んでおられました。『しばらく降りて来ないから!』とおっしゃってましたが……殿下はそれでよろしいのですか」
まさにヴェネディクトが恐れていた事だ。
だが、主人は魅惑的な笑顔で微笑んだ。
「待つのは辛いけれど、彼女がいつどんな風に折れるのか想像するとゾクゾクするんだよね」
(病気だ、この人)
ヴェネディクトは悩む。ここまでとなるとつける薬が思いつかない。
「折れなかったらどうされるのです?」
「折れるよ。すぐに禁断症状が出るに決まってる。あ、そうだ。僕がいないときはどうすればいいか教えてあげようかな」
新しい虐めを思いついたのか、ヨルゴスはくすりと笑う。ヴェネディクトは聞かなかった事にしたかった。酷い疲れを感じて、ぐったりと肩を落とす。
「――さすがに悪趣味すぎませんか。性の不一致で結婚を考え直される可能性もありますよ」
権力に差がある場合、一応そういった事にはならないとは思うが、別の不幸が待っている。一方だけが満足するような関係を主人も望んではいないだろう。
「心配しなくても相性は最高だよ」
主人は自信満々だが、それは男側の一方的な思い込みという事は十分あり得る。互いの感覚など分からない。男と女はその点に置いては絶対に分かり合えないのだ。
「ですが……特殊な趣味を理解されるとお思いですか」
「特殊? そうかな?」
「ええ」
ヴェネディクトは力一杯頷く。
ここ数日傍から見ているだけで、ひしひしと伝わるものがあった。初夜に出来た傷跡に始まり、様々な薬、大きな姿見に、破れと汚れで使えなくなった女官服、さらに設置中のジョイア風の風呂。次に何が来るのかと想像するだけで頭痛がした。
「第一、どうしてそう急がれます。ご結婚してから、ゆっくりと新婚生活をお楽しみになられれば良いではないですか」
「分からない?」
「ええ」
「結婚したらすぐに子供を作ろうと思ってるんだ。だから、子供が出来たら出来ない事を今全部やっておきたい。これから何十年分をだ。となると三ヶ月じゃ全然足りないだろう?」
子供はたくさん欲しいな、どうせなら僕に似た王子も彼女に似た姫もどちらも欲しい。暢気に微笑む主人にヴェネディクトは問う。彼が子供が好きなようにはとても見えなかったのだ。
「お子様? どうしてです」
主人はどうして分からない? と目を見開いた。
「シェリアと母のために決まっているだろう?」
長い間結婚を拒んで来たヨルゴスは次の春で二十七になろうとしていた。
そしてシェリアも二十だ。外見は幼かろうと、歳を取るに連れ次第に妊娠も難しくなる。今はいいが、何人もと考えると早めに考えないといけない。
何しろ彼女の体は華奢だ。体力もない。だからどうしても焦る。
子供がいなくても二人でのんびり過ごしていけるような身分であれば良かったが、子孫を残す事は王族の勤めの一つだ。側室を――など周囲に、特に母には絶対に言わせる気は無かった。
それに、以前はルティリクスの子がそのまま王位を継げばいいと思っていたが、政治に関わり出した辺りから少し考え方が変わった。
ルティリクスとシリウス皇太子の進める政策のためには、自分たち夫婦の役割は大きい。今後のジョイアとの関係を考えるのならば、シェリアの子が王位を継ぐ事に意義はあるだろう。
ルティリクスとメイサは理解があるだろうが、王妃の妨害も考えられる。
(あの人は……母のことをとことん嫌ってるからなあ)
その息子への評価が低いのも仕方がない。だが、ヨルゴスにも譲れないものはある。――というより、出来たのだ。
(王妃の座はメイサに譲るよ)
だが、その代わりにシェリアのために手に入れてやりたい物があった。
野望を抱くのならば、実現できる可能性は大きい方がいい。
だからこそ、子供は早く作る必要があったのだ。
「となると、今の状況はやはりまずいのでは……わざわざ別室もお与えになられましたし」
ヴェネディクトは深刻な顔で上を見上げた。
つられて見上げるが、そこには単なる灰色の無機質な天井があるだけ。
「降りて来るまで、持って三日だと思うけど――賭けるかい?」
そのくらいならちょうどいい休憩になる。実際少々無理をしていたので、ヨルゴスも疲れていたのだ。会議で居眠りをしてはルティリクスに文句を言われる。正直に言うと、あの若さと体力は羨ましい。あと五歳若ければもっと出来る事も増えた気がするのだ。
「大人しくお待ちになられるのですか?」
「うん。ねだるまでキスもしてあげないつもり」
口づけさえも封印するのは辛いけれど、空腹時の食事と同じ。ヨルゴスを求めて飛び込んできた彼女はどれだけ美味だろうと想像すると、待つこともだんだん楽しくなって来る。
(三日後には風呂も完成しているだろうし)
楽しい計画に思わずくすりと笑うと、ヴェネディクトは「どうなっても知りませんよ」と頭を抱えた。
*
シェリアは淡い空を行く薄い雲をぼんやりと数えていた。昼食後からずっと目で追っていたが、元々アウストラリスでは雲の数が少ない。五つ数えた頃には、西の空が赤く染まりかけていた。
(暇だわ)
あれから四日。自分で宣言した通りにシェリアは与えられた自室に立てこもっている。
部屋にある本は難し過ぎて暇つぶしにもならない。
だから『窈窕たる妻の心得』をこの際と読破したが、過激な内容に体がどうしても火照る。
書かれている行為を彼との行為に置き換えると、同時に彼の香りや、肌の熱さ、そして掠れた声などが蘇る。それだけならまだしも、彼がどんな風に彼女を愛したのかまでが再現される。
もう、丸三日彼と肌を合わせていない。悶々とするシェリアとは違って、彼は特に慌てずいつも通りに王子の仕事をこなしているようだった。
自分がいなくても彼の世界が回っている。その事実はシェリアに別の焦躁を抱かせる。
なにより、あれだけシェリアを激しく求めて来ていた彼が顔色一つ変えないというのが不安で仕方がない。
(……妃として失格だと思われたとか)
彼の夜の相手が重要な仕事であるという事は十分に分かっていた。だが、想像よりも激務だったのだ。普通の女性ならば耐えられるのかもしれない。――いや、彼の昔の女たちは耐えられていたのかもしれない。
(だから、愛想を尽かされた?)
(もしかしたら、もう別の女が私の代わりに呼ばれてるかもしれない)
そんな訳無いと彼の囁いた愛の言葉を思い出そうとするけれど、一日二日と経つうちに、沸き上がる不安がそれらの甘い記憶を掠れさせていく。
「だ、だいじょうぶよ」
気丈に呟くが、広い部屋でそれは心細く響いた。
どうしようもないもどかしさに身を焼きながら、シェリアはただ待ち続ける。会わないと言い出したのは自分。引き蘢るのを止めるには小さくともきっかけが必要だった。
「夕食の時間です」
扉の向こうでヴェネディクトの声が上がり、シェリアははっとした。うたた寝をしていたらしく、いつしか日は沈んでしまっていた。窓からの夕日の眺めは素晴らしいのに、すっかり見逃してしまった。
惜しがりながら「置いておいて」と声をかける。今日も何事も無く一日が終わることに憂鬱さの混じった溜息が出た。いつもならば「分かりました」とすぐに去る侍従なのだが、今日はなぜか小さな間があった。
ヴェネディクトは
「せめて夕食は殿下ととられてはいかがでしょう。給仕は女官の仕事の一つですし、殿下も喜ばれます」
と躊躇いがちに提案した。
「女官?」
とたんシェリアは自分の顔が輝くのが分かった。
(ああ、そうか。私、今はまだ女官なんだった)
それを理由に彼の顔を見れる――ただそれだけがこんなに嬉しいものなのかとびっくりしながら、胸の内を押し隠すように答える。
「――し、仕事なら、しょうがないわよね」
直後、扉の向こうで吹き出すような音、そして誤摩化すような咳払いが聞こえた気がした。
「そうです。お仕事ですから」
返って来た返事に、シェリアはベッドから飛び降りると姿見を覗き込んだ。
髪を結い、薄くではあるが化粧をして、念入りに準備を終えたシェリアが楚々とした様子で階段を降りて来る。
『案外降りて来ないな』
昨夜――予測した三日目の夜――の夕食で、不安そうに天井を見上げた主人にもひっそり笑わせてもらったが、ヴェネディクトの提案にすぐに飛びつくシェリアの様子にも笑みが抑えられなかった。
(意地っ張りなところは似ていらっしゃるから……)
譲らない二人に、ヴェネディクトは笑いを堪えつつも溜息が出そうになる。
最初はシェリアが逃げ、次は主人が逃げた。ようやく纏まったかと思うと今度はシェリアがまた逃げて。主人が追わないなら、こう着状態になる。
主人としてはまたこの間のように追って欲しいのだろう。俗な言い方をすれば味をしめたというところなのかもしれないが、ヴェネディクトの知る女性という生き物は基本的に追ってもらいたがるものである。
(これだから王子という人間は……)
言い寄られるのが常な立場の人間ならば、それが分からなくてもしょうがないと言えばしょうがないのだが。
やれやれとヴェネディクトは肩を落とす。
主人の我慢の限界とシェリアの我慢の限界はおそらく同じくらいだろう。だが、こういった場合衝動が強い方――つまりは男性の方が堪えるのが辛いものだ。分かって耐えている主人は、ある意味とてもいい趣味をしていると思うが、板挟みのヴェネディクトにしてみれば悪趣味にはとても付き合っていられない。
(さて……連れて来たはいいが)
階段を降り切ったヴェネディクトは目の前にある扉を見て、一度立ち止まった。後ろをちらりと見やると言いようもない不安がこみあげる。
(『ねだるまで』と言われていたけれど……)
(あの気位の高い娘が“ねだる”?)
シェリアは今までヨルゴスが相手をして来た女性とは全く違う。想像ができないヴェネディクトは、主人の計画はさすがに頓挫するだろうと頭を抱えたくなる。
(また変な風に拗れるに決まってる)
発生する痴話げんかが予想出来た。もし仲裁まで請け負わなければならないとなると給金を上げてもらわねばと、ヴェネディクトはぼんやり考えた。
給仕をすると言って降りて来たというのに、シェリアはヨルゴスの顔を見たとたんそんな建前など全て忘れてしまった。
ぼうっと見とれるシェリアを見て、ヴェネディクトが苦笑いをしながら、ヨルゴスの正面の席につかせる。三日ぶりに顔を合わせた恋人は、シェリアをじっと見つめ返し、子供のように嬉しそうに微笑む。どくんと胸が波打った。
(あぁ、今更なんなの)
シェリアは瞬く間に顔を赤らめるとそっぽを向く。
なんというか、笑顔の破壊力が増している気がするのは気のせいだろうか。あの子供のような無垢な笑顔の裏に、とんでもない裏の顔がある事を忘れそうになる。
会話はないものの穏やかな時間がすぎ、夕食はつつがなく終わる。しかし食後のお茶が運ばれたところで、シェリアは急に落ち着かなくなった。
これを飲み終われば、また寝室に誘われるかもしれない。そんな不安と期待が混じった感情がシェリアを支配したのだ。
幸い三日も休んだおかげで体調は万全だ。だが、どう応えていいものかに悩んでしまう。素直に従えば、また同じように足腰が立たなくなるくらいの目に遭ってしまうのは分かり切っている。
(ええと、なんとか軽く済ませるようにできないかしら)
シェリアは筋書きを考えて悶々としていたが、ヨルゴスは食後の茶を飲み干してもなかなかシェリアに誘いの声をかけなかった。
一人窓際のソファに移動して本を開くヨルゴスに、シェリアは冷えきったお茶を手に戸惑っていた。
(なんなの? 会話さえしないつもり?)
だが、似た者同士の二人だ。シェリアにはだんだん読めて来た。彼が企んでいる事を。
シェリアが折れる気がないのと同じで、彼もその気がないのだ。
きっとシェリアが妥協を迫ろうとしているのと同じく、彼も妥協させようとしている。――自分の望む形で事を運ぼうと。
(何? 私が泣いて縋るのを待ってるってわけ?)
カッとなったシェリアは、ヨルゴスではなくヴェネディクトに声をかける。
「女官の仕事はもうないのよね? じゃあ、そろそろ部屋に戻っても構わないかしら」
「――殿下。いかがされますか」
ヴェネディクトはげんなりした顔でヨルゴスに視線を移すが、彼は全くこちらに興味のなさそうな涼しい顔のまま、本に視線を落としている。
「どうぞ、ご自由に」
少しも引き止められず、あっさりした返答が返って来て、シェリアは愕然とした。
泣きそうになって俯くと、駆け出したいのを必死で堪えて扉へと向かう。
涙と共に三日間ずっと押さえ込んでいた嫌な想像が再びむくむくと沸き上がった。
(やっぱり、愛想を尽かされたんだ、私)
扉に手をかけたとたん、堪えきれず涙が溢れる。
それが悔しくて余計に込み上げるものがあった。のどの奥から嗚咽が漏れたとたん、
「――悪かった」
後ろから力強く抱きすくめられ、顔を覗き込まれる。涙は見せたくなくて、シェリアは必死で抵抗する。それでも力ではとても敵わず、終には扉に押し付けられ、顎を強引に持ち上げられた。
濡れた目で睨みつけると、ヨルゴスは苦しげに息をつく。
「君の泣き顔が見たくて」
あんまりな言い分に一気に頭に血が上った。
「あなたなんか――嫌い。大嫌い」
せっかくの化粧も取れてしまっただろう。ボロボロの顔でシェリアが叫ぶと、彼が頬を寄せる。視界いっぱいにヨルゴスの顔が広がる。
「僕は、好きだよ」
唇が触れるか触れないかのところで彼は囁く。
「好きで、好きで、好き過ぎて――狂いそうだ」
鼻先が触れる。吐息は既に混じり合っている。いつもならばもうキスをしているはずの距離だ。シェリアは目を伏せて誘うが、彼はなかなか口付けて来ない。
この期に及んで焦らすのかとシェリアはさらに腹を立てる。
「なんで、しないの」
文句を言うと、ヨルゴスはわざとらしく目を見開く。
「君が言ったんだよ。嫌だって。しないでって」
「言わないでも分かるでしょ――いつもは許可なくするくせに!」
「でも、君を怒らせたくないし」
「既に怒ってるわよ! これ以上ないくらいに!」
シェリアが激高すると、ヨルゴスは嬉しそうにする。
こうなると、嫌でも気が付いた。彼は口では『泣かせたくない』とか『怒らせたくない』とか言うけれど、実のところはシェリアの泣き顔や、怒った顔が好きなのだと。
「――この、鬼畜。ヘンタイ!」
思わずそう罵ると、彼はなぜか愛してると言われた時と同じくらい嬉しそうな顔をする。
「今更何を言ってるんだ? 最初から知ってるかと思ってた」
開き直る彼にシェリアは呆れ果てる。
「さすがにこんなに悪趣味と思わなかったわよ。――騙されたわ」
「それはお互い様。僕も最初は君がこんなに可愛いなんて知らなかった」
「な……――――!」
とどめのように砂糖菓子のような言葉をこぼすと、彼は真っ赤になったシェリアの鼻先にキスを落とす。とたんにシェリアの全身が悲鳴を上げた。
――そこじゃないの、と。
「キスして」
体の方が先に音を上げた。シェリアがはっとした時には、口から弱音が溢れていた。
聞いたヨルゴスは酷く愉しそうに問う。
「キスだけ?」
勝者の顔で微笑むヨルゴスに一瞬ムッとした。だが、我慢比べも限界だと、彼の掠れた声や、瞳の中の熱が訴えている事に気が付いたシェリアは、ようやく胸が空いたのだった。
「キスだけよ」
シェリアはにやりと笑うと、仕返しとばかりに釘を刺す。そして彼の首に抱きつくと唇に噛み付いた。




