(11)
「おいで」
ヨルゴスの元に戻ると、彼は初夜以前の顔でシェリアを散歩に連れ出した。
すぐにでも寝室に連れ込まれるかもしれないと身構えていたシェリアは拍子抜けする。
「どこへ行くの?」
問うと、ヨルゴスはにこりと笑う。
「塔を案内するよ」
いつもの穏やかな笑顔と僅かな興味に釣られたシェリアは手を引かれて螺旋状の階段を登る。
ヨルゴスの生活は一階の居室と中庭の小屋で事足りている。塔の上部に上がった事は無く、何があるのだろうと思っていたのだ。
いくつか見せてもらった部屋はほとんどの部屋が書物で埋め尽くされている。
大抵は医学薬学の書物が多く、錬金術も一部混じっている。階ごとに一応分類されているらしく、一つの学問に付き一部屋が割り当てられていた。
全て読んだのかと問うと、ほとんどはと頷かれて、シェリアは彼の頭の中を覗きたくなった。
階段を上り詰め最上階に辿り着くと、木製の扉が待ち構えていた。
「ここが君の部屋になる予定」
「私の部屋?」
「この国では王子の妃は、各々の塔に住むことになっている。王妃になれば、塔が与えられるけれどね」
狭いかもしれないけれど、と断られたあと、扉が開く。やはり本の山があったが、本がなければ十分な広さだと思った。
部屋には家具がいくつか運び込まれている。その中でも目を引くのは真新しい寝台だ。窓際に置かれたそれはヨルゴスの使っているものと同じくらいに広く、上質だった。
「三ヶ月で使えるように片付けないといけないから、大変だ」
「三ヶ月?」
半年ではなくて? と不思議に思うと、ヨルゴスは嬉しそうに微笑んだ。
「婚姻の儀は三月後になる。本当は一月後――明日にでも行いたいくらいくらいだけど、さすがに準備が間に合わなかった」
子供のような笑顔で無邪気に言われる。少し前ならば自分も確かにそう望んでいたはずなのに、今のシェリアは素直に喜んでいいのか分からなかった。
その後はヨルゴスの部屋で二人で食事を取った。ヴェネディクトや侍女たちが見守る中の穏やかな時間。そうしているとヨルゴスは今までと変わらぬヨルゴスで、シェリアは夜の事が幻にも思えて来る。
だが食事が終わり、食後のお茶を飲み干す頃、侍女が一度に退出し始める。最後にヴェネディクトが就寝前の挨拶をして部屋を出ると、居室には二人だけが残された。
会話が途切れ、訪れた静寂。シェリアは戸惑う。
「……私も、部屋に戻るわ」
と言っても先ほどの部屋は使えないから、女官部屋に移動することになる。名目上はシェリアはヨルゴスの女官である。まだ部屋は残されているはずだった。
立ち上がろうとすると、ヨルゴスは静かに「駄目だよ」と拒否した。
「君と僕にはデザートが残っている」
どこに? と思わず探しかけたが、彼の言うデザートにすぐに思い当たって顔が赤くなった。
「行こうか」
言うと同時にヨルゴスはにこりと笑って、当然のようにシェリアを寝室に誘う。シェリアは僅かに躊躇ったあと、小さく首を横に振る。
「どうして?」
ヨルゴスはきょとんとした顔をした。
「だって、……そこに入ったら二度と出て来れなくなりそう」
「そんな事はないよ」
「でも、服を破ったのはわざとでしょう? 私の服は? 隠してあるの?」
そう問うと、ヨルゴスは心外だとでも言うように肩をすくめた。
「破ったのはわざとじゃない。それから、君の服は採寸のために借りてる。君の家から荷物が届くのは少し先だろうし、新しいものを何着か作らせてるんだ。明日には返すよ」
「そう」
それでもシェリアが椅子から動かないのを知ると、ヨルゴスは彼女の方へと歩み寄った。
傍に立った彼が頬を寄せるのが分かり、思わず顔を背けると、彼は困惑顔で問うた。
「僕を知って――嫌いになった?」
嫌い? 自分の心に問うが、その答えには辿り着かない。
「違うわ。ただ、怖いの。いつもと違いすぎるから」
「そんなに違う?」
自分で気づいていないのかとシェリアは驚く。
「だって――嫌だと言っても、止めてくれない」
「君から誘ったんだよ。僕が欲しいって」
「……分かってる、分かってるけれど、でも」
激しくしないで。
聞こえるか聞こえないかの声で絞り出すと、恥ずかしくて死にそうだった。
とたん、ヨルゴスはシェリアの唇を強引に奪う。
そうして散々貪ったあと、
「いつもと違うというなら、君も同じだ。仔猫のように無邪気で無垢かと思えば、突然成熟した雌猫のように淫靡に僕を誘う。止めてあげたいけれど――可愛過ぎて、一旦始めるとなかなか止められない。こうなるのが分かっていたから、あんな風に離れていようと思ったのに。もう手遅れだよ」
知ってる? 今、君がどんな顔をしているのか。とヨルゴスはシェリアに向かって極上の笑みを向けた。
その日もシェリアは気を失うようにして眠りに落ちた。
そして翌朝になると軋む体に辛さを訴えられて、再び悩みはじめた。
今までの事を思い出しても、一度目は――といっても本当の一度目は別だが――辛さをほとんど感じない。だが問題はその後だ。
まず、『窈窕たる妻の心得/上級編』にも載っていない事をされるのはどうかと思った。一度として同じ事をしないヨルゴスに、シェリアはまるで自分が実験材料になったかのような錯覚に陥るのだ。
また、夜の勤めが大変過ぎて、昼間何も出来ていない状況に困惑した。
何よりも一番シェリアが恐れているのは――状況にだんだん自分が慣れてきているという事だった。
(これはもう……メイサの助言を活用するべきよね?)
寝込んでしまって、体が持たないと訴えるのだ。
というより、もう、今朝のシェリアは既に寝込む寸前だった。起き上がれないし、目が開けていられないのだから。
ひとまずの解決策を思いつくと、ほっとして、二度寝しようと微睡み始める。
だがシェリアは忘れていた。彼の副業が何かという事を。
*
鐘が鳴り浅い眠りが破られる。シェリアは寝台から頭を起こした。
窓から差し込む朝日を浴びて目覚めようとしたシェリアは、違和感に目を見開いた。
(……うそ……)
光は西から射していた。つまり朝日ではない。夕日だ。
寝て一日を過ごした事に気が付いて愕然とした。昼夜が逆転している。
枕元にあったのは下着と新しい服が一枚ずつ。昨日着ていた女官服はさすがに洗濯に出されてしまったらしい。
どちらもシェリアが持ってきたものだ。戻ってきた事にほっとしつつそれらを身につけるが、
(あれ? 痩せちゃったかも?)
腰回りが緩い。肉が落ちている気がした。どう考えても連日の行為のせいだろう。
(これ以上痩せたら目も当てられないじゃない――)
文句を言おうとシェリアは寝室から抜け出した。
部屋ではヴェネディクトが慣れた手つきで食事をテーブルに並べている。前菜のサラダと柔らかそうなパンは、既に大皿に盛りつけられ、ワゴンの上で待機中。深い鍋の中では豆と野菜のスープがで注ぎ分けられるのを待っている。メインは何だろうか。何ともいえない美味しそうな匂いが鼻をくすぐり、シェリアのお腹が気味の悪い音を立てると、ヴェネディクトが気づいて気の毒そうな顔をする。
「殿下は?」
「先ほど鐘が鳴りましたので、そろそろお戻りのはずです」
「お腹が空いたわ。軽いものでいいから何か欲しいのだけど」
昨日の二の舞を避けるためにもさっさと逃げようかと企むが、さすがヨルゴスの側近である。ヴェネディクトはまるで読んでいるかのように首を横に振る。
「もうすぐお食事の準備が整います。殿下が戻られるまでもう少しお待ちください」
やがて会議から戻ってきたヨルゴスはにこやかに切り出した。
「昼のうちに、上の部屋を簡単に片付けさせた。本はまだ残っているけれど、一応使えるようにしているから、自由に使ってくれて構わないよ」
「……ありがとう」
「それから、ルティリクスに協力してもらって、ここにもジョイア式の風呂を作る事にしたから、もうわざわざ隣まで出向かなくてもいい」
「そう」
シェリアが顔を曇らせると、ヨルゴスは残念そうにする。
「喜ぶかと思ったんだけど」
「嬉しいけれど、あなたが何を企んでいるのか何となく分かる気がして」
「そう?」
連日の彼の行動を見ていると、だんだん次の手が読めてきた。
じっと睨んでも、ヨルゴスはさすがシェリアだとくすくす笑う。
「部屋を用意して、お風呂を用意して……私をこの塔に閉じ込めて、メイサに会わせないようにするつもりでしょう?」
シェリアが決めつけると、ヨルゴスは吹き出す。
「ああ、そっち? いや、好きなだけ会ってもらって構わないよ」
(え? ちがうの? じゃあなに?)
読みが外れて動揺しながらも、それを隠してシェリアはつんと顔を背けた。
「とにかく、今日は、しないから! 今みたいに日常生活に支障があるっていうのは問題過ぎるもの」
「……じゃあ、今日はお休み?」
しゅんとした顔にもシェリアは騙されるつもりはない。ここで少しでも同情すれば、彼の思うがままだ。シェリアはそうはさせるものかと強気に出る。
「いえ、今日だけじゃないわ。私の体調が回復するまではお休みよ」
「あれ? 体調悪いの?」
ヨルゴスはきょとんとする。
「ええ」
シェリアはわざとらしくごほごほと咳をする。
「怠いし、熱もあるかも」
するとヨルゴスは心配そうに眉をひそめる。わずかな罪悪感にちくりと胸が痛んだとたん、彼が言う。
「じゃあ、食後にちょっと診せて」
「え?」
シェリアは目をしばたたかせる。
真剣な顔のヨルゴスがこちらをじっと見つめている。
重大な過失に気づいたシェリアが目を見開くのと、彼が口を開くのは同時だった。
「僕は医者だよ? 忘れたの?」
*
おそらくは普通の診察なのだと思う。手首を掴まれて脈を取られ、のどの奥を見られ、額の熱を計られ、服の上から胸の音を聞かれた。
ただそれだけ。ただそれだけなのに、彼に触れられる事で昨晩までの記憶が蘇って、シェリアの体は何かを期待して勝手に熱くなった。
「……うん、仮病だね」
ヨルゴスは最終的にそう診断を下した。
仮病と診断されたけれど、熱だけは出ているに違いないとシェリアは思う。
火照った顔で睨みつけるシェリアに向かって、ヨルゴスはくすりと笑った。
「嘘つきな子にはお仕置きが必要かな?」
そのまま彼はシェリアを膝の上に抱きかかえる。シェリアは腕の中から逃れようともがくが、腰を固められて逃げられない。
「必要ないわよっ。け、仮病を使ったのは悪かったと思うけど、でも疲れてるのは本当で――……あ」
威勢良く文句を言っていたシェリアは、ヨルゴスの手が突如身体をなで上げたことで言葉を飲み込んだ。
「じっとして。これも診察だよ」
「どこが――」
シェリアの抵抗も無駄に終わる。彼の右手は瞬く間に彼女の衣服の中に潜り込む。
「お仕置き、本当に必要ないの?」
指先でいたずらを繰り返しながらクスクスと楽しげにヨルゴスが子供のように笑う。シェリアは躊躇する。体は既に彼を求めている。だけど、残る理性が彼女に警告する。ここで負けては、また昨日と同じだと。
「ひ、必要ないっていったら、必要ないの!」
裏返った声で否定すると、乱れた服の裾を直し、緩んだ腕を押しやる。
「意地っ張りだな」
「さすがにあれだけ無理させられれば意地にもなるわよ」
「分かったよ。辛いけれど、君の言い分を聞く。僕は別に無理強いしたいわけじゃない」
苦しげに彼はため息をつくと、シェリアを解放した。
案外あっけなく身を引かれて、焦る。
(え、本当に、終わり?)
ヨルゴスは戯れはおしまいと立ち上がるが、それでも今の今までシェリアに触れていた指を惜しそうに舐めた。
(な、な、なにを――)
見ていると連日の色々な事を思い出し、かあっと頬が熱くなる。
彼のあの唇は、昨日は直接彼女に触れたのだ。
彼が指を舐める度に感覚が直に蘇る気がして、思わず生唾を飲み込むと、
「本当に、要らない?」
ちらりと横目で見られてもう一度意志確認され、シェリアは飛び上がった。
「い、要らないわよ――!」
脱兎のごとく部屋を抜け出すと、ヴェネディクトの案内する新しい部屋へと階段を駆け上がった。




