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涸れ川に、流れる花  作者: 碧檎
後日談
36/39

(10)

 早朝。ヴェネディクトは中庭の見回りに出る。朝の清澄な空気を吸込みながら、塔の隙間から差し込む朝日に目を細めた。だがその爽やかさにも、酷い寝不足から来るあくびは堪えきれない。

 昨夜、悲鳴が響き渡った辺りで塔から退出することを考えた。だが、職務を放棄するわけに行かず、耳を塞いで一夜を過ごしたのだ。

 天に向かって伸びをすると主人の寝室の窓が目に入った。とたんヴェネディクトはぎょっとする。昨日彼が閉めたはずのカーテンがなぜか全開だったのだ。慌てて目を逸らしたが、ちらりと目に映ったのは、寝台の上、自らの腕を枕に眠る少女の髪を愛おしげに撫でている主人の姿だった。

 そそくさと室内に戻りながらヴェネディクトは思わず微笑む。


(どうやら、殿下は無事に想いを遂げられたらしいな)


 部屋に入ると同時に寝室から物音がする。起床するのかもしれないと、茶の用意をしていると、主人だけが扉から顔を出した。


「お目覚めですか? シェリア様は?」


 そう問うと、主人は「まだ寝ているよ」と僅かにはにかんだ。

 素肌の上にガウンをかけただけの恰好だ。寝起きでもきちんとしている事が多い彼にしては珍しい。どこか違和感を感じたヴェネディクトはさらに観察してぎょっと目を剥いた。

 首筋から胸にかけて、生々しい傷があったのだ。


「消毒用に酒を持って来てくれる?」


 慌てたヴェネディクトはすぐに薬箱を運んだ。椅子の上で上半身を露にした主人を見て、さらに驚く。傷は首と胸だけでなく、腕、それから背中にまであった。


「これは、ひどい。どうなさったのですか」


 思わず尋ねたが、黙って微笑み返されて愚問だったとすぐに気づいた。

 誰の仕業かはあからさまだし、なぜついたのかも大体想像はできる。だが――


(どうやったら、ここまで)


 傷はかなり深い。それほど盛り上がったというのだろうか。羨ましい――一瞬そう考えたものの、普通、初夜でここまでするだろうかと奇妙に思った。傷の場所にしても背中ならまだしも、胸というのが妙に気になる。

 消毒をして、主人の作った薬を傷に塗る。染みたのだろう。時折呻くものの、主人の微笑みから酷く機嫌がいい事はすぐに分かった。長く傍付きを務めているが、こんなに晴れ晴れとした顔を見るのは初めてだった。


(ようやく愛する女を手に入れられたのだから、それは嬉しいでしょう)


 原因を思い浮かべて微笑ましく思っていると、主人がぼそっと不穏な事を呟く。


「……ちょっと苛め過ぎたかなあ」


 そして「でも彼女が可愛いのが悪いんだ」とクスクス思い出し笑いをする主人を見て、ヴェネディクトは彼の少し特殊な性癖を思い出す。


(ああそうだ。そういえば、この人、天性のいじめっ子だった)


 ちょっとした劣等感を突いたり、プライドを傷つけたりして、反応を見て喜ぶ。泣き顔を見せればそれこそ大喜びする。普段の穏やかな人格に騙されそうになるが、そういった悪趣味とも言える部分が、この主人には確かにあるのだ。――時折見せる、目の笑っていない笑顔に代表される二面性が。


「殿下。シェリア様が可愛らしいのは分かりますが、程々にされないと、逃げられますよ?」


 あれほどの情熱を持って腕の中に飛び込んで来れば、それは可愛いに決まっているだろう。

 だからこそだ。楽しげな主人の未来を案じて諫言するが、


「これでも随分抑えた方なんだけど」


 朝までには眠らせたし――と彼は不満顔だ。だが一応思い当たることがあったのか、「まあ、ちょっと無理させたかもしれないか。じゃあ、色々薬を用意しておいた方がいいかな」といそいそと立ち上がり、中庭の小屋へと向かった。

 持ち帰ったのは筋肉痛に効く塗り薬、それから滋養強壮の薬に、見間違えでなければおそらくは精力剤。


(あなたそれを使うほど歳じゃないですよね? シェリア様が壊れますよ?)


 反省の色が見られない主人に、差し出がましいと思いつつも心の中で突っ込む。

 寝室で行われた行為と、シェリアが起きてからの騒動を予想して、ヴェネディクトは僅かな頭痛を感じた。



 ***



 その日シェリアが目覚めたのは、日が空高く昇ってからだった。


(…………全身が、怠い)


 寝返りを打つ事さえ億劫で、呆然と天井を見つめる。そして天井の高さにここが自分の部屋ではない事を思い出した。

 身震いすると周りを見回す。ヨルゴスの姿はなかった。昼間だからきっと会議でもあるのだろう。

 ほっとしたとたん思い出されるあれこれ。

 ヨルゴスから受けた数々の辱め・・とそれに対しての自分の反応が頭に蘇り、叫び出したい気分でシーツを頭から被る。

 初めて夜を共にした気恥ずかしさというような可愛らしい物ではない。

 なんと言ってもあれからおそらく二日は経っているのだから。


(あり得ない)


 シェリアが学んで来た『初級編』など全く役に立たなかったと言っていい。それほど特殊だったと思える。

 最初は痛くて死ぬかと思った。だけど、その後に行われた事を考えると、まだ優しかったのではと思えた。

 彼はあらゆる方法でシェリアを責めた。限界を感じたシェリアが泣いて止めてと懇願してもまるで無視。爪を立てて抵抗しても押さえ付けられ軽くいなされた。そしてそれはシェリアが気を失うまで行われたのだ。

 起きたら起きたでよく分からない薬を飲まされ(滋養強壮だと言っていたが)、体に油のようなものを塗られて(これも筋肉痛の薬だと言われた)いるうちに、なぜか夜の続きになっていた。そしてまたもや気を失っているうちに再び夜が明けてしまっていた。


(騙されてるわ、私。これが毎日だったら――)


 シェリアはベッドから飛び起きると辺りを見回す。


「あった」


 服と下着が椅子にかけられていた。だが、広げてみると双方とも無事ではない。彼が破ったのだ。

 幸いなんとか服の形は保てている。

 ため息をつくと、それらを身につける。彼がいないうちに行動しないとまた同じことになるのが分かり切っていたのだ。

 身支度を終えると、そっと寝室の扉を開く。ヨルゴスがいないかどうか確かめる。すると書棚の前で書類を整理していたヴェネディクトが気配に気が付いて振り向いた。


「どうされたのですか?」


 彼は怪訝そうに尋ねるが、シェリアは「なんでもないの」と誤摩化して開き直ると、堂々と部屋を突っ切ろうとする。扉から外に出ようとすると何か命じられているのか、止められた。


「お願いだから、見逃して」


 懇願すると、ヴェネディクトは気の毒そうに問うた。


「どこに行かれるのです」


 とにかくここではないところ。それが本音だったが、シェリアは一瞬考えて許されそうな答えを口にした。


「――メイサのところ。お風呂を借りたいのよ」


 ヨルゴスの部屋にも風呂はあるが、アウストラリス式の蒸し風呂で湯がないのだ。全身湯に浸かれるジョイア式の物は未だ王太子の塔にしか存在しない。


「……あぁ」 


 ヴェネディクトは何を想像したのか僅かに赤くなる。不思議に思ったシェリアだったが、彼が何を考えたかに思い当たり、頭に血が上った。

 ジョイア育ちのシェリアからすると、毎日の入浴は当たり前の事だが、こちらでは何か特別な事がない限り入らないのかもしれない。

 例えば――こうした行為の後とか。

 慌てたシェリアは失言を誤摩化そうとする。


「とにかく、メイサと話がしたいの。殿下が帰って来られる前に」


 言い訳のために口にしたのだが、すぐにでもそうしたくなっている自分に気づく。誰かに聞いて欲しい。彼の行動は普通なのかどうか。こんな内容を相談出来るのは今はメイサ以外に居ない。

 思わず涙がにじむ。困惑した様子のヴェネディクトは仕方ないと了承した。


「ではお送りいたします」

「いいの。すぐ隣だもの」


 シェリアは自分の姿が縒れている事を自覚していた。現に今も胸元の破れた部分を手で握って誤摩化している。しっかり見られたくないのだ。


「――お逃げになりませんよね?」


 見上げるとヴェネディクトはシェリアの不安を知っているような顔をしている。シェリアよりヨルゴスとの付き合いが長いのだ。彼の性格についてはよく知っているのだろう。

 シェリアは挑むように見つめるときっぱりと答えた。


「逃げないわ」


 今さらその選択は無い。そうしないための一時退避なのだ。



 *



 渋々出席した会議は酷く長く感じた。

 部屋に残して来たシェリアの事を想うと、仕事を終えるのがひたすら待ち遠しいのに、今日に限って長引くのは何の呪いだろうか。それが数日この場を欠席した自分のせいだとは分かっているので文句は言えないのだが。

 ようやく終わった会議の後、ヨルゴスは議場の片隅でルティリクスに相談を持ちかけた。

 今後の計画に変更が出たためだ。概要を簡単に説明するが、意外にも彼は全く驚かない。


「――それで? 話は分かったが、どんな風に手はずを整える?」


 ルティリクスが不敵な笑みを浮かべてヨルゴスを見つめている。


「ジョイアへも昨日のうちに使者を出している。急ぎであれ、あの国はご両親が何とかしてくれるはずだし、最悪でも占い師は既に買収してある。ジョイアの賓客の予定に全て合わせられる」


 とにかくあちらの両親は何かと乗り気なのだ。この申し出には何が何でも食いつくはずだと簡単に予想出来た。


「……分かった。さっさとそうしてれば良かったんだ。お前がやらないなら俺がやるところだった。アウストラリスにとっても、ジョイアにとってもお前たちの結婚が早いに越した事はないし、元々あちらの婚約期間はこちらより短いんだからな」


 いっそ俺はあちらの皇族を真似したいくらいだったが。とルティリクスは何かを思い出して羨ましげに言う。

 ジョイア皇族の結婚の儀は初夜が先だ。確かにそうであればヨルゴスもこれほど悩まなかった。ルティリクスに同意しつつ、


「それでも、例外になるのはそれなりの覚悟がいるんだよ」


 とヨルゴスは苦笑いをする。

 だが、何かとか型破りなシェリアを見ていると、多少妙な目で見られようがどうでも良くなって来た。


「お前のオヤジの偉業・・を考えれば、もっと早く踏み切っても良さそうだったが」


 反面教師ザウラクの事を持ち出されてヨルゴスがうんざりとすると、ルティリクスが問う。


「お前はあれを汚点だと思うか?」

「当たり前だ。あれ・・のおかげで僕は人生をねじ曲げた」


 ヨルゴスは即答した。

 彼の不幸の始まりは母であるが、彼女がああなったのも父の浮気のせいなのだ。母が幸せな結婚生活を送れていればヨルゴスがこんなに苦労する事もなかっただろう。


「確かにそう見る者も多いかもしれないが――俺は伯父には感謝してる。国内の男は心の中では彼を英雄扱いしているんだ」


 意外な言葉に目を見開くと、ルティリクスは珍しくくすくすと笑う。


「結婚が決まって半年手を出すなって方が無理だろう? 昔と今は違う。伝統が出来たのにもそれなりの理由はある」

「理由?」

「王族の場合、儀式までの半年という期間は準備に必要な期間。昔はそのくらいないと間に合わなかった。だが、今は三月みつきもあれば十分だ」


 俺たちはそれで間に合ったとルティリクスは補足するとにやりと笑って続けた。


「そして、妃は儀式の当日誰よりも美しくなければならない。――要は妃の腹に子がいなければいいんだ」


 これ以上説明は要らないだろう? そう言われて、ヨルゴスは「まあね」と微笑む。


「ところで――なんだ、その傷は」

「ああ、これ?」


 ルティリクスの視線はヨルゴスの首筋にあった。傷がついた経緯を思い出してくすりと笑う。


「子猫に引っ掻かれただけだよ」

「あんまり鳴かせるな。うるさくて敵わない。メイサの気が散る」

「ああ、いいよね。仕事から戻ったら部屋に待ってる子がいるって言うのは」


 ヨルゴスが苦情を取り合わないと、ルティリクスはやれやれと溜息をついた。


「お前の気持ちは分からないでもないが、加減をしないと逃げられるぞ」

「ヴェネディクトと同じようなことを言うんだなあ。加減はしてる。初めてで戸惑ってるだけですぐに慣れるし、心配要らないよ」


 くすくす笑うとルティリクスは「お前にメイサを渡さなくて良かった」と気味悪そうに顔をしかめた。



 *



 出されたお茶を飲み干すと、シェリアは大きく息をついた。用意された食事を見たとたん空腹を感じ、あの夜から食事をしていない事を思い出す。何か食べさせてもらったような気もするけれど、とにかくまともに・・・・食べていない事は確かだ。

 その割に体の調子がいいということは、彼に飲まされたり塗られたりした薬は一応本物だったという事だろうか。


「服、あなたに合うものがなかなか見つからなくて、ごめんなさいね」


 風呂を借りた後、ガウンを羽織っただけのシェリアに、メイサが申し訳なさそうに言う。メイサの体が規格外なら、シェリアも別の意味で規格外なのだ。小柄で痩せているため、大抵布が余ってしまってだぼだぼでみっともない事になる。先ほどまで着ていた女官服も一日かけて丈や幅を直してもらった物だった。


「私の荷物は?」


 不思議に思って問うと、メイサは困った顔になる。


「あなたの荷物は昨日ヨルゴス殿下が引き取られてしまったの。しょうがないからさっきの服を修繕させてるけれど、ちょっと時間をちょうだいね」

「…………ありがとう」


 ということは、ヴェネディクトに服の在処を問えば良かったのか。思わず肩を落とすと、メイサは気の毒そうにシェリアを見つめた。


「……殿下ってお優しい方だと思っていたのだけれど」


 どことなくメイサの頬が赤いのは気のせいだろうか。まだ何も語っていないというのに、なぜか彼女は全てを知ったような顔をしている。破れた服一つで物語るものがあるのだろう。

 シェリアは小さくため息をつく。

 確かにヨルゴスは優しい。だが、それだけではないから厄介なのだ。


(よく考えると、傾向は……あったのよね)


 視線だけが鋭い、柔らかい笑顔に代表される二面性。腹が読めないと思う事もよくあったが、読めなかった部分があんな風に明らかになるとさすがに戸惑うのだ。


(でも、メイサでさえ知らない顔を独占していると思うとちょっと嬉しいかも。だって、あの顔を知ってるのは私だけってことよね――)


 ヨルゴスが言った『君が初めて』という言葉が思い出され、ぼうっとなりかけたシェリアは慌てた。


(って――ちがうわよ!)


 妙な方向に思考が傾くのをシェリアは建て直した。


「王太子殿下は……お優しいのよね?」


 話題が話題だけに気まずく思いながらも問う。

 メイサは眉間に皺を寄せ、困ったように天井を見つめた。

 こういう話題にメイサが乗って来た事はない。婚前交渉について尋ねた時も諭されたくらいだ。

 やはり答えてもらえないのだろうかと不安に思ったとき、彼女は小さく息をついてぼそっとこぼした。


「…………あの人はね、体力の続く限りって感じだから」

「そ、そうなの?」


 答えてもらった事にもだが、内容にも目を丸くすると、メイサは困った顔で頷いた。


「今は新婚だから。どこの夫婦もそんなものだと思って諦めてるわ。でも、そのうち落ち着くと思う。さすがに飽きると思うし、いつまでも若いわけじゃないし」


 スピカと皇子様を見てるとちょっと不安になったりするけれどねと言いつつも、メイサはのほほんとした様子でお茶をすする。


(さすが王太子妃となると、心構えも度胸も違うのね)


 自分じゃとても無理だったと変な風に感心しながら、シェリアは自分のところもそうだろうかと考えた。


「その、どうしても辛い時ってどうするの?」

「遠慮なく辛いって言えばいいのよ。殿下だって、あなたに我慢して欲しいなんて思っていらっしゃらないわ」


 メイサはそう言うが、シェリアはどことなく腑に落ちなくて首を傾げる。


(そうかしら)


 嫌と言えば余計に激しくなったような気もするし、涙を見せれば笑みさえ見せた気がするのだ。


「……それでも駄目だったら?」

「寝込んじゃえばいいのよ。仮病を使うの」


 どうしてもわがままを言う時の最後の手段よ、とメイサはいたずらっ子みたいに笑う。

 なるほど、とシェリアが頷いたとき、女官が破れを縫い合わせたシェリアの服と伝言を持って入室して来た。


「ヨルゴス殿下がお探しです」


 シェリアは僅かに怯んだが、メイサに「まずは二人で話し合って。――もし駄目だったらまた相談して」と姉のような顔で励まされて、立ち上がった。

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